妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百五十九話:三十分間で3キロ落ちる場所
 
 
 
 
 
 カンナの知る限り、マリアのペースはもっと遅かった筈だ。
 ハイペースでワイングラスを空けていくマリアを見ながら、自分だけでもセーブしないと帰り道が覚束ないと、カンナは普段より抑えていた。
 それは別に構わないのだが、マリアがここまで飛ばす原因が分からない。完敗にも近い今回の戦闘が原因だとは思うが、別にシンジは圧勝乃至は完勝を命じてはいなかった筈だ。
 それに、機体が完成しているのは分かったのだから、あとは操縦者が成長するのみだし、ここまで落ち込む事はない。
 船旅の途中だって、マリアがこんなに飲むのを見た事はなかったのだ。
「いったいどうしたってんだよ」
 呟いた時、マリアの口許が小さく動いた。
「たしの…方が…」
「ん?」
(たし…引き出しの事か?)
 首を傾げた直後、その顔色が変わった。
「私の方が…いいのに…どうして…」
(な!?)
 何がいいのかは分からないが、誰の事を言ってるのかは分かる。
 黒瓜堂の主人だろう。
 多分妬いているのだ、とカンナは直感した。
 普段は錆び付いているが、ごく稀に作動する女の勘である。確かにカンナが見ても、住人達はほぼ全員子供扱いしているシンジだが、黒瓜堂だけは妙に信頼している。
 しかも、機内で人質となったシンジをマリアが助けに行こうとした時、フユノは黒瓜堂達に任せたとまで言ったのだ。
 確かに、それだけ見ればマリアが妬いてもおかしくはない。
 がしかし。
 シンジに絡んだ事で、どうしてマリアが妬くのか。自分とは何の関係もない、とマリアはそう言い切ったではないか。
 それに、あの碇フユノが命よりも大切にしている孫の救出を任せたのだ。少なくともマリアでは到底太刀打ち出来ないレベルなのは確定済みである。
「マリア、おめえやっぱり…」
 呟きかけてから、カンナはぶるぶると首を振った。
「いや、あたいは聞かねえ。そう、あたいは何にも聞かなかったんだ」
 自分に言い聞かせてから、ぐいっとグラスを煽る。
 結局カンナもマリアと同じ所までペースアップし、最終的には変わらぬ量になったのだ。
 だが、カンナは無論マリアも知らない。
 シンジと黒瓜堂の付き合いは、個人の好き嫌いなど入っていないという事を。
 あるのはただ、自分と同じ領域の者かどうかと言う点のみであり、そこに唯一のぼやき相手という要素が付加されている事を。
 同じ領域とは無論、『悪』を指しているのは言うまでもないが、その筋に関してはまだまだ遠く及ばぬ事に、本人も気付いていない。
 そう、悪の道を邁進するのは並大抵の事ではないのだ。
 
 
 
 
 
 
「オーナー、遅くなりました」
「悪かったね、わざわざ来てもらって」
「いえ、あの子達の相手はレビアがしていますから」
 出雲空港へ車を向けた黒瓜堂が迎えに行ったのは、店員の祐子だが、いつもながら剣山のような髪型は人目を引く。
 青や紫、それにモヒカンなどは珍しくもないのだが、さすがにこれは珍しい。
 ただし、本人もそんな事は分かり切っているから、気にした様子もなく平然と歩いている。
 黒木がシンジを近づけたがらないのは、一説にはこれが原因とも言われている。
「何かあったの?」
「気のせいだと思うが、嫌な予感がする」
「嫌な予感?」
「破廉恥漢の烙印を押される予感だ」
(?)
 付き合いは長いのだが、時々分からなくなる。レニを乗せて飛び出した後、神奈川県に入ってから思い出し、携帯ですぐ来いと呼ばれたのだ。
「それで、すぐ病院へ?」
 いや、と黒瓜堂は首を振った。
「最近のんびりしてなかったし、たまには桜でも見に行きましょう。今、暇でしょ?」
 自分で呼び出しておいて暇も何もないものだが、祐子はうっすらと笑って頷いた。
 
 
 ぽい。
 最初に上着が出てきた。
 そして、その数十秒後に靴下が。
 服は脱がないでいい、と言われたレニだが、シンジに身を寄せているうちに妙な気分になってきた。
「黒瓜堂さん、見ていないよね…」
 むしろ自分に言い聞かせるような口調で言うと、勢いがついたのかブラとショーツもあっさりと放り出された。
 全裸のままシンジに抱き付いたレニだが、無論シンジは深く眠り込んだままで、今の状況など知る由もない。
(シンジだ…シンジが僕の隣にいる…)
 レニの目にじわっと涙が浮かび、その手が愛しそうに頬を撫でる。
 数分間、レニの手だけがシンジの頬を撫でていたが、やがてその唇が動いた。
「シンジ…愛してます…」
 自分の言葉を認識した瞬間、レニはハッと口許を抑えた。
 違う。
 自分はこんな事を言うつもりじゃなかった。
(どうして僕はこんな事を…)
 そう、愛だなどと口にする気はまったく無かったのだ。
 レニの表情が、幽霊でも見たような顔になった刹那、
 ぴくっ。
(え!?)
 いきなりシンジの身体が震えたのだ。
「お、起きてる…?」
 おそるおそる顔を覗き込むと、目を覚ました様子はない。
 やはり眠っている。
「ぼ、僕が変な事を言ったから…?」
(……)
 何やら考え込んだ後、
「シンジ…大好き…」
 びくっ!
 間違いなくさっきより震えは大きかった。
「ど、どうして…?」
(シンジは…僕じゃ嫌?)
 哀しげな口調で呟いたレニが、不意に胸元をおさえた。
 AカップからDカップまで成長した胸が、今までに体験した事のない動悸を伝えてきた。
「か、身体が熱い…そ、そんな…」
 シーツを掴んで起きあがろうにも、身体に力が入らない。
 苦悶に歪むその表情が絶望に彩られた直後、レニの意識は急激に遠のいていった。
 
 
 出雲の地に自分達の想い人がいるなどと、夢にも思っていない娘達が案内されたのは地下にある風呂であった。
「これ…硫黄の匂いがするんだけど」
 房総半島に温泉はあるが、火山など無い。
 どう考えても、硫黄の匂いがする温泉など天然であるはずはないのだ。
 湯加減はどうかしら、と顔を出したレビアに、
「レビアさんこれ、本物の硫黄ですの?」
 レビアは口許に手を当て、
「オーナーの前でそんな事言っちゃ駄目よ。偽物とか言われると怒るから」
「じゃあやっぱり――」
「本物よ」
「え?」
「魔界から引いているのよ。この辺りに硫黄なんてないし、だったら魔界から引っ張って来た方がいいて、直接引いているの。暖まるでしょ」
 ぴょん、と思わず器用に飛び上がった娘達だが、そう言えば入った瞬間から汗が噴き出すのを感じていたのだ。
 それを見たレビアはうっすらと笑って、
「今日は濃度を下げたから大丈夫よ。普段より多めに汗をかいて、少し体重が減る位だから。オーナーにばれたらマッサージ椅子なんだけど、連れてきたのはオーナーだから大丈夫でしょ」
「あの、レビアさんマッサージ椅子ってなんですか?」
「そのままよ。よく電器屋さんに売ってるマッサージ器の事よ」
「はあ」
 それだけなら、どうして罰になるのか分からない。
「ただし、十秒に一回電流が流れるの。大したことはないんだけどね」
「じゃあ――」
 大丈夫ですねと言おうとしたら、
「一般人なら間違いなく感電する電流だけど。何か言った?」
 娘達は、慌てて首を振った。
 一見すると普通だが、やはりこのレビアも黒瓜堂の一味に間違いない。
「オーナーからは、朝食が済んだら女神館まで送るように言われているの。五分経ったら上がっていらっしゃい。それ以上は必要ないわ」
 招かざる客と、遠回しに言われたのかと思ったが、
「十分ごとに体重が一キロ落ちるのよ。今のあなた達には必要ないでしょう?それに五分がちょうど良い時間なのよ」
 ダイエット中の者が聞いたら、垂涎しそうな事を告げて去っていったその三十分後。
「レビア、アンタわざと煽ったんじゃナイの?」
「ドゥーかしらねえ〜」
 きゅっきゅとバスタオルで拭いてやりながら、
「五分が丁度いいって言ったのに。それ以上は逆上せるって分かってるじゃない。まったくもう、お馬鹿ばっかりなんだから。ま、三十分入ってたのは少しだけ見直してあげるわ」
 無論、その前でマグロの様に転がっているのはさくら達だ。
 今ならば、多分解体されても気付くまい。
「アンタが見直すのは勝手だけど、黒ちゃんに黙って入れたってばれたら、ドゥーなっても知らないわよう」
「大丈夫よ一度位。呼んだのオーナーなんだし」
「馬鹿ねい。そう言う問題じゃないのよ。黒ちゃん今出雲にいるんだけど、祐子ちゃんも呼ばれていったの知らないの?」
「どういう事?」
「あの二人、最近は忙しくて全然デートもしてなかったし、向こうでは間違いなくデートよデート!で、帰って一緒に入ろうとしたら、小娘達が入った形跡があるってわけよねい。言っとくけど、黒ちゃんこんな子供には萌えないわよう」
「守備範囲はもっと下だったかしら」
 冗談めかして言ったが、これはまずい。
 普段ならどうという事もないのだが、そう言う事情なら話は別だ。ここのオーナーは時々、予定調和を乱されるのを極度に嫌がる事がある。
 何しろ、逆鱗の鱗が龍ではなくてメダカのそれだと言われるここのオーナーであり、起爆装置の在処がまったく分からないのだ。
 それだけにこれがばれたら、導火線に着火する事になりかねない。
「…入れたの早まったかしら?」
「ほぼ九割間違いないわよねーい。がーっはっはっは!」
 大笑いしているボン・クレーを見ると、急に腹が立ってきた。
「いいわよ、あんたが指図したって言ってやるから」
「あ、それは無理」
「無理?」
「さっき黒ちゃんから電話があってね、小娘達はどうしたって言うから、レビアがお風呂にいれてあげてるって言っといたのよ」
「あんたねえ…」
 かくなる上は、何としてもこのオカマも道連れにしてやると決意したレビアだが、
「レビアも随分とサービス精神が旺盛らしい」
「どうかしたの?」
「客人の娘を風呂に入れてさしあげたそうだ」
「うちの?」
「うちの」
 頷いた黒瓜堂が、
「レベルは下げて入れた筈だが、帰ったら何キロ体重が減ったか訊いてみるとしましょう」
 ウケケケと笑っただけで、気にする様子などまったく無かった事など、当人達は知る由もなかった。
 
 
「また明日来るから」
 病院へ入るのは拒むのだが、一応病気の部類だから、老人用の施設に入れてある。これだって結構苦労したのだが、さすがに自宅介護は葉子にも自信がなかった。
 寝付いた母の手をそっと握り、綾小路葉子は部屋を出た。
 母の介護を優先して帰省してから、もう長い事になる。最初の頃は、どうして病院へ入ってくれないのかと恨んだ事もあったが、今はもう慣れた。
 ただ、時々自分が妙に主婦っぽくなってしまったのではないかと、心配になる事はあるが。
「今日のご飯は何にしようかしら」
 僅かに首を傾げて呟いた時、歩いてくる女とすれ違った。自分同様、ここへ入っている老人の関係者だと思い、いつも通り頭を下げたのだが、すれ違う瞬間に女がぴくっと反応した事には気付かなかった。
 女がそのまま向かったのは、葉子の母親の部屋であり、すっと扉を開けると音もなく滑り込んだ。
「これが母親か。確かに頑固そうな顔はしているわね。さてと、今すぐいじってもいいけれど、万が一縁が切れていては無駄になってしまう。取りあえず、簡単に入れるのは分かったし、もう少し様子を見せてもらおうかしら。それにしても、随分と警備の甘い所だこと」
 老人用の施設だし、警備などある方が妙なのだが、女――水狐は冷ややかに葉子の母親を見下ろした。
 ふと、何かを思い出したかのように後ろを振り向いた、
「そう言えば、さっきすれ違った時僅かに妖気を感じたように思ったけれど――気のせいかしらね」
 
 
「石見銀山まで行かれればよかったのにね」
「今日はついでだし、又の機会にしよう。シンジが帝都に戻れば、とりあえずそっちの方は放っておいてよかろう。そうなれば、また時間も空くだろうし」
「そうね」
 黒瓜堂とその連れがドライブから戻ったのは、病院を出てから三時間後であった。
 入り口には結界を掛けてあるから、用があって来た者でも入る気を無くしてUターンする筈だ。
 病室の入り口に着いた黒瓜堂が、
「生憎、子供の裸には興味がない。レニ・ミルヒシュトラーセが普通に寝ていれば、そのまま揺り起こして下さい。もしも裸だったら、パンツを穿かせて連れてきて」
「了解」
 祐子が頷いて病室へ入っていく。
 帝都から呼び寄せたのは、どうやらこの為だったらしい。
 中に入った祐子は、すぐに放り出された下着に気付いた。状態を確認する迄もない。
「中から鍵は掛かっているけれど、結界が無かったらどうする気だったのかしら」
 不思議そうな口調で呟くと、下着を手に取った。
 起こそうとする様子はない。
 十五分後、レニが祐子の腕に抱かれて出てきた。他の店員なら、肩に担いで出て来かねないところだ。
「眠ってる?」
「二時間は起きないわ。正確に言えば失神だけど」
「分かってる」
 黒瓜堂は頷き、
「向こうに着くまで起きないはずだ。車まで運んで」
 そう言うと、先に立って歩き出した。
 自分が持つ気は無いと見える。
 端から見ると、殆ど誘拐犯とその相棒の図式であり、誰にも会わなかったのは幸いだったろう。
 これでボン・クレー辺りが一緒だった場合、発見次第通報されるに違いない。
 その三十分後、シンジの枕元に置かれた携帯が鳴った。
 
 
「駄目って言われるとやるのって、女神館で流行ってるの?」
「い、いえそう言うわけでは…」
 俯いている小娘共だが、どうもその顔が所々緩んでいるのは、馬体重四キロ減を分かっているからだ。
 手軽と言って、これほど手軽な物はない。
 ただし、
「体重の急激な減少は、身体に取ってあまりいい物ではないわ。ダイエットとは違うから反動はないけれど、普通は褒められたものじゃないのよ――聞いてる?」
「『は、はいっ』」
 しかし、どう見ても半分も聞いていないのが明らかであり、こんな浮かれてる時に何を言っても無駄だと、レビアはさっさと帰す事にした。
 反動がないとは言ったが、だからと言って副作用がないとは明言していない。
 こっちが黒瓜堂の赫怒をどうやってかわすかと、懸命に算段中だと言うのに、言う事を聞かないで風呂に籠もり、体重を減らすような娘には、自分の身を以て体験させるに限る。
 レビアは、小さくため息をついたが、
「まあいいわ。今日の所は大目に見てあげる。送っていくから支度しなさい。ただし、今度から言われた事は聞かないと駄目よ」
「す、すみません。あの…」
「何?」
「その、碇さんがいなくなってからあたし達、食生活が乱れちゃってて…」
(あんな坊やに頼るからよ)
 と思ったが、勿論言わない。
 アイリスがこの場にいないのは、双方にとって幸いだったろう。
「スカートのサイズが変わったでしょう」
「いえ、そこまでは行かないんですけど、変な所にお肉がついちゃって…」
 シンジが発ってから、もう一ヶ月になる。
 食生活を全てシンジが仕切っていた事を考えれば、確かに脂肪が増えたとしてもおかしくはない。
 だからと言って、三キロ分は浸かりすぎだが、見たところ胸囲ではなさそうだ。
 第一、胸囲だったら減らす訳がない。
 とりあえず、オーナーには勝手に入られたという事にしておこうと決意し、レビアはすっと立ち上がった。
 
 
「ほげ…ご?」
 ぱちっと目を開いたシンジの嗅覚が捉えたのは、うっすらとではあるが香水の匂いであり、そしてそれは記憶の中にあるものであった。
 何かしらと首を傾げた途端、携帯が最大音量で鳴った。
「ったく看護婦が携帯を起きっぱなしに…俺のじゃないの」
 ぼやいた途端、黒瓜堂に預けたはずの自分の携帯だと気がついた。
 慌てて取ると、発信源が『ザ・黒瓜堂』となっており、自分が登録した名称と入れ替わっている。
「え?」
 さては羽とフォーク型の尻尾でも生えて、グレードアップしたのかと通話ボタンを押すと、
「起きましたか?」
 聞こえてきた声は、別にグレードが上がった感じではない。
「今起きた。この携帯は旦那が?」
「預かったのは私でしょうが。君が可愛い寝顔で寝ているので、あまり寝ているとナースに貞操を狙われそうだと思ってね」
「なっ!?」
 一瞬で眠気は吹き飛んだ。
「旦那…本気(マジ)?」
「冗談に決まってるでしょう。これだから、ネタをネタと分からない子は困るんです」
「……」
 キリキリと胃が絞まったが、生憎とここから居場所を探知して、対戦車ミサイルをぶち込む装置は持ってない。
 仕返しはまた今度する事にして、
「それより、妙な夢を見たんだけど」
「妙な夢?」
「うん」
 シンジは頷いて、
「なんかね、レニが俺の横にいるの。嫌な予感がするんだ」
「嫌な予感って?」
「だって夢枕だよ。この手の事って、予感が外れた事もないし。向こうで何かあったのかな」
「大丈夫ですよ。向こうは私が見ていますから。私では不安ですか?」
「いや、そんな事はないけど」
 夢枕の予感が的中するわけはないのだ。
 その原因はさっきまでシンジの横にいたし、今は助手席で静かに寝息を立てている。
「こっちの事は大丈夫ですから、ホウ…いや、綾小路葉子さんの所でゆっくりしていらっしゃい。君には少し休息が必要ですよ」
「分かった。旦那がそう言うならそうする。まだ、管理人復帰はしたくないんだ」
「分かってますよ。あ、それからシンジ君一つ訊いていいですか」
「何?」
「夢に出てきたレニは、君に何か言っていましたか?」
「んー…」
 首を傾げたシンジが、微妙な表情になった。筍ご飯を頼んだら、メンマの入ったご飯が出てきた時、こんな表情になるかも知れない。
「あの…」
「何です?別に怒ったり笑ったりしませんから」
「その…なんか告られたような気がするんだけど…気のせいだよね」
「でもないかも知れませんよ」
「え?」
「もしかしたら、君を想う従妹の一念が君に伝わったのかもしれん。だいたい、婚約はどうしたんですか」
「こ、蒟蒻っ?」
「上擦った声でネタをかまさなくてもいい。まあ、夢枕と言うより思念でしょう。何かあった訳じゃありませんから、大丈夫でしょ。では、これで」
「あ、うん」
 電話を切った後、黒瓜堂は横のレニに視線を向けた。
「君の精気を移すから、精神だけは安定させておくようにと言ったのに告白なんかするから。言わんこっちゃない、まったくもう」
 ぶつくさぼやいた後、
「まあそれはそれとして…どうして全裸で告白なんでしょうねえ」
 首を傾げて呟いた。
 
 
 一方、こちらは今一つすっきりしないシンジだが、とりあえず疲労は抜けた。
 体調は完全に戻っているから、入院しておく事もない。
 着替えて上着を羽織ってから、
「あれ?」
 財布がないのに気付いた。
 倒れる前は持っていたから、黒瓜堂に持って行かれたらしい。
「あんなフランばっかり入った財布なんてどうする…ん?」
 どっかに金だけ入れてなかったかとまさぐると、見慣れない財布が出てきた。
 中を見ると、手の切れるような新札で五十万円入っていた。
「むう」
 シンジが唸ったのは、札を束ねる帯封に印が押してあったからだ。
 碇シンジとなっており、しかも隷書体である。おまけに財布は蛇革と来た。
「明らかに旦那…ほぼ間違いなく旦那」
 本邸のメイドさん達なら絶対にやらないし、何よりもあえて悪趣味にしたような財布を選ぶ事などあり得ない。
 この辺りは、シンジの頭脳を以てしても分析しかねる所である。
「じゃ、ありがたく」
 使う事にして会計に行くと、もう払ってあると言う。自分の退院は、既に決定済みだったらしい。
「早っ」
 口にしてから、やはり何かしたに違いないと気付いた。
 治る確信がないなら、勝手に退院手続きなどする筈がないからだ。
 いくら黒瓜堂でも、そこまで無謀な事はしないだろう――多分。絶対か、と念を押されると少々自信がなくなってくるが。
 それから二時間後、シンジの姿はとあるスーパーにあった。
 髪はばっさり切ったが、それでも180を優に超える身長は目立つ。まして、周囲を気にするかのようにあちこち見回しているのだ。
 対万引きGメンがいれば、間違いなく付けられたに違いない。
 と、その視線がある一点で止まった。
 どうやら、目的の物を見つけたらしい。その先にあるのは、カートを押す娘であり、シンジはそこへ音もなくかさかさと近づいていく。
 そっと後ろへ立ったシンジが、カートの中を覗き込むと、
「葉ちゃん、栄養偏ってない?」
 耳元へ、吐息と共に囁いた。
 びくっと肩を震わせた葉子が振り向いた。
「わ…若様…?」
「葉ちゃん、久しぶりだね」
 穏やかに笑ったシンジを見て、葉子は一瞬分からなかったらしい。長髪をばっさり落とすと、人のイメージはがらっと変わるのだ。
 まして、今シンジの精神状態は底辺に近く、いつものシンジを見慣れている葉子にとっては別人にも見えたろう。
 シンジだと気付いた葉子の目に、じわっと涙が浮かんだ。
「わ、若様お久しぶりで――」
 が、それは最後まで続かなかった。
「アーウチ!?」
 素っ頓狂な声に、店内の視線が一斉に集まった。
「わ、若様?」
 顔を歪めたシンジに、怪訝な表情を向けた葉子の視線がゆっくりと下へ降りていく。
 その視線が見つけたのは、シンジの靴の上で潰れた卵であった。
 普通のパック入りならまだしも、それは特に栄養価の高いとされる烏骨鶏の卵で、ビニールに入っていた。
 十個入ったそれがシンジの足を直撃し、当然の結果としてそこで割れたのである。
「キャーッ!?」
 
 
 
 
 
(つづく)

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