妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第九十話:初接吻物語
 
 
 
 
 
 洗い物と後かたづけはさくらとすみれに命じてきた。
「ど、どうしてわたくしが…」
 抗議したすみれだが、
「洗うなら早くしろ。でなければ帰れ」
「か、帰れ?」
「そうだ、洗い物も出来ぬ女に用はない」
「そ、その位やって見せますわよっ!さくらさん、さっさとなさいなっ」
「え?あ、は、はいっ」
 のんびり湯呑みを傾けていたさくらが、慌てて立ち上がった。
 シンジは芝居の事など知らないし、別に興味もない。ただ目下、すみれの技量がさくらのそれを大幅に上回っている事は知っている。だからと言って、シンジに言わせれば別に偉くもないし、むしろ対降魔と言う事を考えれば、シンジ的にはさくらの方が役に立つのである。
 とまれ、それを日常生活に持ち込ませる気はシンジにはなく、二人を指名したのもその為だ。仲良くとか言う気はないが、上下はないと言うことは知っておいてもらわないと困る。
 必要なのは舞台の演技力ではなく、いかにして脇侍を始めとする降魔どもと対峙出来るかなのだから。
「ん?」
 部屋に戻ったシンジは、フェンリルの姿がないのに気がついた。自分の中に戻ったわけではない。どこへ行ったかと辺りを見ると、机の上に羊皮紙が置いてあり、なにやら記されている。
 見る者を魅了するような美しい文字だが、これを解読出来るのはシンジを含めて、この世界に数名とはいない筈だ。
「夜の街か−俺を置いていくとはけしからん」
 けしからんのはマスターの方だろうがと、フェンリルが居たら言うに違いない。
 着替えぬまま、ベッドの上に身を投げ出した時、扉がノックされた。
「ふわーい」
 欠伸しながら起きあがり、ドアを開けると織姫が立っていた。
「どうしたの、織姫?」
「あのね…碇さん…」
「はいはい」
「きょ、今日はとても…嬉しかったです…。本当は私、ダメかと思ってましたです」
「駄目って…ああ、ここにいること?」
 小さく頷いた織姫に、
「でも、もし俺が駄目って言ったら、どうする気だったの?」
「……」
 少しの間沈黙が漂ったが、シンジはのんびり待っていた。羽の生えた睡魔が、目の前を乱舞していたせいもある。
「パパには…大丈夫って言うつもりでした…」
「…」
 例えシンジが断っても、星也には許可が出たと言う気だったらしい。無論、父親に余計な負担を掛けない為だろう。
 だがシンジが断っていれば、住む場所もない。織姫はどうする気だったのか。
 あっ、と小さく叫んだ時、織姫はシンジに引き寄せられていた。
「父親思いもいいが、織姫に何かあれば緒方は悲しむ。一時的な安堵の後に来る悲しみは、父親に取っては自分に迫った死よりもつらいモンだ」
 シンジの口調は穏やかだったが、織姫の目からはぽろぽろと涙が落ちた。アスカ達と張り合っていた織姫だが、ここへ来た決意は並々ならぬ物があったらしい。
 自分の居場所などよりも、画家として失った年数を父に取り戻してもらう、ただそれだけのために。
 自分にしがみついたまま、声を押し殺して泣く織姫を、シンジは引き離そうとはしなかった。
 ただ黙って泣くがままに任せていたが、やがてその手がゆっくりと離れた。
 すっと織姫の顔が上がり、
「碇さん」
 囁くように呼んだ。
「なに…あ」
 避ける間もあらばこそ、あっという間にシンジの唇は奪われており、織姫は口許をおさえてうっすらと笑った。
「やっぱり来て良かった。碇さん、大好きでー」
 大好きでーす、と言おうとしたが、最後までは言えなかった。
 ずもももも。
 何か物騒なオーラがシンジから立ち上り、ついでに右手がすっと挙がったのだ。
「犯されちゃった…父さん、犯されちゃったよ…」
 意味不明な呟きと共に、右手が炎を帯び、織姫は慌てて逃げ出した。
 大正解であったろう。後コンマ二秒遅かったら、深夜の乙女焼きができあがったに違いない。
「ちっきしょ〜」
 ぐいと唇を拭いかけて、寸前で止めた。
 本来ならばウェルダンの刑だが、拭うまではいいかと思い直したのである。無論、その顔にはキスされた事への喜びなど微塵も見られない。
 がしかし。
「ふうん」
 妙に冷たい声がして、シンジの身体がびくっと反応した。
「さ、さくら!?ど、どど、どうしてここにっ?」
 そこまで慌てる必要もないだろうが、
「今、織姫さんが目に涙を浮かべて、でもとっても嬉しそうな顔をして階段を走って行きました。何があったんですか?」
 北極海、それも真冬の海水みたいな温度だが、幸い、ちゅっとされたのは見られてなかったらしい。
 見られたらまた、破廉恥とか言って奥義が炸裂しかねない。シンジだってMじゃないし、そうそう痛い目に遭いたい訳でもないのだ。
「とっても?」
「そう、とーっても」
 わざわざそこだけ強調すると、
「まさか碇さん、押し倒したりしてませ…いたっ」
 スパン!
「何が押し倒すだ。子供が生意気言うんじゃありません」
「あ、あたし子供じゃありませんっ!子供扱いしないでくださいっ!」
「分かった分かった。それで、どうして刀持ってるの?」
「あのこれは…その、バランスの事で…」
「そう言えばそんな問題もあったね。じゃ、入って」
(よし、完璧)
 さくらがシンジに貰ったロケットを着けて、それが感度良好なのは分かっている。話題を有耶無耶に出来た事に、内心で小さくガッツポーズを取ってから−それほどの事にも見えないが−室内にさくらを招き入れた。
「あ、あの、御邪魔します」
 おずおずと入ってきたさくらを寝室に通した。
「あの碇さん、こ、ここじゃなくても…」
 寝室というのは、やはりその人の秘められた部分であり、年頃ともなればベッドの下に税関で引っかかる物やら引っかからぬ物やら、大量にしまってある事も多い。勿論さくらはそんな事まで知らないが、丁寧に布団が畳んであるとはいえ、ベッドの横に通されてなにやら落ち着かない風情に見える。
 しかし、シンジの方はそんな事など一向に気にする様子もなく、そこに座ってと座布団を指し、さくらが座るとおもむろに訊いた。
「で、着けたまま握るとかなり濡れるの?」
 
 
 
 
 
「ふーん。あんたもいい度胸してるじゃないの」
 眠っている梓と瑞樹を見下ろしながら、ミサトの口調は冷ややかそのものであった。
「あんたがこの子達に一発かましたなんて知れたら、今日限りで命終わるわよ」
 誇大妄想癖のある精神患者みたいな台詞だが、ミサトの台詞には微塵の誇大も含まれてはいない。
 ミサトの言うとおり、フユノに火傷を負わせた事で二人を一撃の下に沈めたとシンジが知ったら、おそらくは五体満足で済むだろう。
 ただ、命がなくなるだけだ。
 五体に傷一つ着けぬまま、魂だけ消し去るなどシンジにとっては造作もない。
 ましてその原因が、自分の口づけにあれば尚更である。
「お咎めは覚悟しておりま−ぐうっ」
 俯いてはいたが立っていた。しかも、この屋敷の者は千鶴を含めて、無論並の女ではない。いずれも、襲ってきた男などは居眠りしながら返り討ちに出来る者達ばかりであり、千鶴も決して凡庸ではなかった。
 だがその身体が、立ったまま吹っ飛んだのだ。水など使わず、単純な平手のそれだけで受け身を取る事も出来ず、千鶴は壁に肩口から激突した。
「覚悟?あたしみたいな生温い女じゃなくて、シンちゃん相手にどう覚悟してるってのよ?大体あんた、何の権利があってこの二人を沈めたっての」
 葉子は現在実家に帰っており、葉子がいない今全員を束ねる者はいない。その点から言えばミサトの言葉は正論なのだが、いらだちの原因はやはり八つ当たりにも幾分似ていたかもしれない。
 二人がシンジに何かされて帰ってきた、そう聞かされたミサトは現在三日目より機嫌が悪い。
「言っとくけどあんた、今度そんな真似したらその場であたしが殺すわよ」
 凄まじい激痛を堪え、千鶴は肩に手をやった。
 折れてはいないが外れている。おそらく、骨にひび位は入ったに違いない。
 それにしても、予備動作一つない体勢からにもかかわらず、何という凄まじい破壊力なのか。
 普段のビア樽と言うか酒樽みたいな生活からは、それこそ想像すらつかない。
 気が遠くなるような痛みを堪えて、
「も、申し訳ありません…」
 千鶴は辛うじて頭を下げた。
 
 
 
 
 
「ぬ、濡れ…って…え?」
 一瞬言われた事が分からなかったらしく、さくらはぽかんと口を開けた。
 だが三秒後、その表情に見る見る憤怒の色が漲り、その肩が震え出す。
 しかし、それが爆発する事はついに無かった。
「そっか、濡れるか。健康で良かった」
 噴火の直前、シンジが口にした言葉に火がしゅうしゅうと消えてしまったのだ。
「い、今何と言ったんですか?」
「濡れて良かった、と言った。女の子の場合、濡れるというのは性的快感から来るものだが、刀を持ったら何故濡れるか、さくら分かる?」
「そっ、それはその…」
 とはいえ、具体的に言えと言われても分からない。だいたい、力が漲ってくる筈であり、快感が満ちてくる筈じゃないのだ。
「変換だよ」
「へ、変換?」
「コンセントに放電用のアースが付いてるのは、電気を逃がす為だがそれと似ている。霊刀に反応して凄まじい力は帯びたが、振り回さないからさて困った。だから身体がそれを持て余さないように快感に変換したんだ。これが違うもんに変換されたら困った事になる」
「違うもんって、なんなんですか?」
「さあ?」
 シンジは首を傾げてから、
「今までにそんなのは見たことないし、体験もしたこと無いから分からない。でも多分−人を殺す欲求や、何かを破壊したくなる衝動だ」
「ひっ、人殺しっ!?」
 思わず声が大きくなったさくらだが、何故かシンジの双眸は一瞬だけある種の色を帯びた。
 そう、どこか哀しみの色に近いそれを。
 ただそれも一瞬の事で、すぐ元に戻すと、
「だから仮定だよ。でもそれに比べれば、滴ってきて止まらない方がいいでしょ」
「よっ、良くありませんっ。感じ過ぎちゃって大変だったんですからっ!!」
 言ってから、あまりにはしたないと思ったのかさくらは俯いてしまった。放っておけば恥ずかしさで泣き出したかもしれない。
 だがそれを救ったのはシンジの、
「今、過ぎたと言ったな。じゃ、変えれば大したものになる」
 分析するような口調であった。
「…え?」
「それほど感じたと言う事は、裏を返せばそれだけのエネルギーを身体が感知したと言う事だ。これが一般人なら、おっぱいと脚の間が少しむずむずして終わりだ」
 俗っぽい言い方で助けられたか、
「い、碇さんのえっち…」
 幾分顔を赤くしたさくらに、
「はいはいと。さーて、どうするかねえ。キスするのがとりあえず手っ取り早いが…そんな事は出来ないし」
「…え?」
 さくらの顔がにょっと上がり、
「い、今あの、な、なんて言ったんですか?」
「え?いや、そんな事は出来ないしって−」
「そ、その前ですっ」
「その前…ああ、キスが手っ取り早いって」
「キ、キスって、あの、こ、恋人とかが抱き合って見つめ合って唇を重ねるあれですよねっ?」
「えーと…」
 一瞬ちらっと宙を見上げた視線がきつくなったのは、一瞬でゲットされたさっきの事を思い出したに違いない。
 忘れた、と言うように緩み、
「普通はそう定義される。だから出来ないんだ」
「……」
 ふと、下を向いてさくらはなにやら考え込んだ。シンジの方は脳内MCを作動させ、もっとも短期間で済む方法を諮った−キス以外で。
 三秒とかからずに答えは出た。
「じゃ、さくら、それを今夜−」
 言いかけたところへ、
「お、お願いしますっ」
「分かってる。今夜一晩で直すから」
「そ、そうじゃなくてっ!!」
「え?」
「だ、だからその…キ、キ、キスをっ!」
「さくら、自分で言ってること分かってるの?さくらの定義は、俺のそれとは違うんだよ?」
「…分かってます」
 なぜか、少しばかり怒ったような顔でシンジを眺め、
「分かってるんです、自分でも。でも多分…どこか違うような気がして…」
「何が?」
「別にあたしだってその、結婚まで処女のままでいなくちゃいけないとか、思ってるわけじゃないんです。でもあたし…どこかずれてるような気がして…」
「キスとかしてみたら、少し変わるような気がする、と?」
 こくんと頷いたさくらだったが、その本当の心は無論シンジには伝わっていない。アイリスじゃあるまいし、生来的に人の心を読めるわけではないし、その気になれば見る事も出来るが、シンジにとっては別段の興味はなかった。
「そう、分かった」
 あっさりとシンジは頷いた。
「一晩で出来るけど、波動を少し変えなくちゃならないから、応急のキスで済むならその方が手っ取り早い」
「はい…」
 あくまでも、調節の為の手段としてしか見ないシンジに、さくらは内心では幾分がっかりしたのだが、そんな事は無論口にはしない。
 少女に取っては、やはり最初のキスは程度の差こそあれ重要なものであり−無論さくらも−痴漢につけ回され、茂みに連れ込まれて有無を言わさずぶち込まれたいとしか見えない格好の娘が、最近はめっきり増えたとしてもそれは変わらない。
 しかしながらそれは、やはり単に唇と唇が触れた、と言う事ではあるまい。言うまでもなく、それを言うなら大半の子供は幼少時に親から口移しは多少なりとも受けているし、溺れて助けられた時点でキス完了という事になってしまう。
 だがそう考えた時、さっと唇を触れ合わせ、そのままぴゅーっと逃げた織姫の場合はどうなるのだろうか。
 さっと口づけ−無粋な男がやれば気障どころか醜態か痴漢もどきだが、逆の場合はそうでもない。
 とは言え、やはり織姫の場合は相手を間違えたと言える。少なくとも、この男相手にだけはするべきではなかったかもしれない。
 そう、感激どころか、唇を拭おうとするような相手では。
 とまれ、反応に幾分不満は残るものの、シンジが頷いたのを見たさくらは、きちんと座り直して膝に手を揃え、目を閉じたままわずかに上を見上げた。
「あ、あの…お、お願いします…」
「ん」
 頷いたシンジだが、さくらの様子を見て何となく気乗りしなくなってきた。最初の女に禁断の実を唆した蛇みたいな気分になったのである。
 無論、ちくちくする良心はプラスされているが。
 とは言え、アスカとすみれが掴み合いの大喧嘩をした時だって、原因も煽りも自分ではないと、止めようとしなかったシンジであり、躊躇したのもごく短い間であった。
 すすっと膝行すると、顔に手を掛けて軽く持ち上げた。
 そのまますっと唇を重ねた瞬間、さくらの身体がぴくんと揺れた。
 ドキドキ。
 今時珍しい音、それもシンジに取っては珍奇とも言えるが、舌すら入れてない口づけに心臓が高回転まで上がるなど、一体いつ以来の事だったろうか。
 シンジ自身も、はてと首を捻ったのだが、答えはすぐに出た。
(つられたんだ)
 どうやら、身体が密着していないにもかかわらず、伝わって来そうなさくらの鼓動がシンジにも伝染したらしい。
 しかし伝染など、これまたシンジにしては珍しい現象である。
 すぐに、にっと笑った。
 さくらの手はまだシンジの身体には回っていない。その手を取って自分の背中に回させ、少し力を入れて引き寄せると、おずおずと手に力を入れてきた。
 こうなればもう、後はいつものシンジであり、少し顔を傾けて舌で唇を割ると、さっきよりも激しく身体が揺れた。
 きゅ、と唇を合わせて抵抗したものの、それも一瞬の事で、舌先でなぞるような動きにわずかに肩先をふるわせたまま受け入れた。
 ただ、絡めた舌に自分から応じるまでには幾分かかり、室内に少女のくぐもったような声が聞こえる頃にはもう、さくらの顔は真っ赤に上気していた。
「ぷはあっ」
 先に離れたのはさくらの方であった。必死に呼吸を我慢していたが、身体が限界だと引き離し装置を作動させたらしい。
「いきなりで、少し熱かった?」
 そ、と細い指先で唇に触れ、つうと横に動かした手つきは、女のそれよりも妖しく色づいており、
「はあはあ…もう大丈夫です、碇さん続きっ」
 がば、と自分からしがみついて来たのは、色香すら漂うシンジの姿に欲情させられたのか、あるいは引き寄せられたものか。
 いきなり飛びつかれたシンジだが、こんな時すぐに応じると、カチンと言う音がする事を知っている。すなわち、歯と歯のぶつかる音が。
 だから対ショック防御していた身体で一旦受け止め、
「自分でしてみる?」
 囁くと、さっきの躊躇いや恥じらいがまるでゴミ収集車に回収されたかのように、勢いよく頷いて唇を重ねてきた。
 すぐに舌が入り込んできたが、シンジはあまり驚かなかった。
 
 
「もう一度」
「だから、本能から嫌がってたら、絶対にしないものなのよ。やれと言っても身体が抵抗するわ−たとえ筋肉が裂けてもね」
「ふうん」
 主治医と催眠術の話になり、それだったら、掛けてしまえば何でもやらせられるだろうとシンジが言ったら、おばかさんねとシビウは笑ったのだ。
「させられるのは本人に拒絶意識がない、あるいはそれを非と認定していないことだけよ。裏を返せば、全裸の食人族に人殺しをさせるのは簡単すぎても、正装させるのは至難の業だわ。ちょうど、文明の中で育った人間がその反対なのと同じようにね」
「ちょっと待った」
「何?」
「じゃ、催眠にかかって、人前で素っ裸になって自慰行為とか始めるのは、最初からその素質があったって言う事?」
「オナニー、でしょう。科学用語など要らなくてよ?」
 薄くルージュを引いた唇を赤い舌で舐めたシビウに、
「科学用語じゃないっての。それだけで聞いた人間がイキそうだし、その前に舌なめずりは止せ。見た人間が片っ端から、血を吸ってもらえると勘違いして血走った目で寄ってくるぞ」
「あなた以外はね」
「それで?」
 促した冷たい想い人にため息を一つ吐いてから、
「言うまでもない事よ。大観衆の目前でのオナニーでも、尊敬していると公言する人間への殺傷行為でも、本人が芯から嫌がってるのにさせられるものですか」
「そうだったんだ」
「もっとも、シンジなら例外はあるけど−特別よ」
 そう言ってシビウは、妖しく笑ってみせた。
 
 
 シンジは、医療面に関してはシビウを全面的に信用している。ただし、指示をすべて尊重するわけではないが。
 ただ、その腕前はまさしく神業と呼べるものであり、悪魔と契約したと囁かれるのも無理はない。
 その分析に因れば、人の行動はすべてその許容範囲の中にあるのだと言う。シンジがそれを信じていなければ、さくらの急変に慌てふためいたかもしれない。
 やはり、持つべきは優秀な担当医だろう。
 と言っても、所詮はキスなど知らぬ乙女であり、シンジを驚かせたのも急変だけに過ぎず、それが行動予測範囲の範疇となれば、後はもうどこまでできるかとシンジは観察モードに入っている。
 吸って絡めて、ただそれだけだが、懸命な舌使いが幼稚さをややうち消しており、程なくして二人の影が離れた時、その間を透明な糸が繋いでいた。
「さくら、大丈夫?」
 訊ねたシンジの声はいつも通りだが、訊ねられた方は尋常ではなかった。目がとろんとしており、口元もだらしなく緩みきっている。
 仙台の母若菜が見たら、地獄の特訓に行かせると言い出すに違いない。
 と、やはり、
「あ、熱いれすう…もうぬいぢゃいます〜」
 舌の発声もままならないのか、シンジが何か言う前に勢いよく上着を脱ぎ捨てた。無論ちゃんとブラはしているが、
「やああ、これも熱いれすう」
 がば、と取っ払っても、なぜかシンジは動かなかった。
 その口元が動いたのは、
「後三秒」
 と言う奇妙な台詞であり、そしてきっちり三秒後、
「あーん、涼しいれすう」
 と奇妙な台詞を残して、さくらは大の字になってしまった。
「だめだこりゃ」
 呟いたものの、窓を開けて放り出す事もせず、ひょいとさくらを引き上げた。胸が左右に分かれないのは、ある意味発展中のおかげかもしれない。よほど胸襟が鍛えられているかあるいは素材の持ち主でない限り、どうしてもこの格好では胸が垂れる。しかしない袖は振れない−ない胸は揺れない訳で、一番簡単なのは控えめな胸である事だ。そしてさくらのは、ちょうどいい位のサイズであった。
 と、何を思ったかシンジは、ブラジャーを手に取ると胸に当てたのだ。
 躊躇いもなく乳房に触れると少し押して形を整え、パチンとホックを留めた手つきのなんと手慣れた事か。
 さらに上着を取って、これも器用に着せてしまい、あっという間に来た当初の真宮寺さくらが出来上がった。
「ちょっと噛まれるかと思ったけど」
 そう口にした時、初めて表情が緩み、立っていったシンジはやがてコーヒーのカップを手にして戻ってきた。
 少しミルクを多めにしたそれを一気に空けた時、
「あ、あら…?」
 ゆっくりとさくらが目を開けた。
「コーヒーでも飲む?」
 自分のカップを指さした途端、なぜか赤くなってきゃっと叫び、慌てて自分の服をまさぐった。
 とは言え、シンジが着せたのだからちゃんとなっており、
「別に服は脱がせてないよ」
 とシンジが言ったが、
「あ、あのっ、そ、そのあたし…ご、ごめんなさいっ」
 聞いちゃいない。
 記憶には触れてないから、当然乱れた事は覚えているはずだ。
 だからそのことだろうと、
「別に大したもんじゃないから」
 軽く首を振ってみせたが、その途端さくらの表情が変わった。
「…せ…うせ…しは…」
 下を向いてぶつぶつ言ってるから、
「ど、どうしたの?」
 聞いた途端、がたっと立ち上がった目には−驚いた事にと言ってもいいだろう−涙がたまっており、
「どうせあたしはマユミみたいにおっぱいだって大きくないし、可愛くなんてないですっ。碇さんなんてっ」
 意味不明な事を叫び、霊刀を掴んで走り出そうとしたが、相手が悪かった。何よりここは、その牙城なのだから。
「ちょっと待てこら」
 指がくいっと曲がった途端、さくらは強制的に元の位置へ戻されていた。
 進むどころか、強制的に押し戻す凄まじい風が叩きつけたのである。
「叫んで出ていくのは構わないが、胸が小さいとか可愛いげがないとか、何の話をしている」
 ぐしぐしと泣いていたが、シンジの妙な口調に嗚咽は強制的に止まった。
「あ、あたしの…あたしの下着見れば分かります…あたし、こんな上手にいつも着けられません。そ、それに碇さん言ったじゃないですか…大したもんじゃないって…どうせ、どうせあたしは…あう」
 ぽかっ。
 ふう、と一つため息をついてから、
「あのね、さくら。俺が言ったのは胸の状態とかじゃなくて、そうなった原因の事を言ったの。タイプは違うけど、俺の力を二重に注いだようなものだから、乱れたとしてもそれは大した事じゃないって、そう言ったの」
「む…む、胸とかじゃなくて?」
 うるうるした目で見上げたさくらだが、舞台でこれをやった日には危ないファンが急増する事は確実である。
「胸とかじゃなくて」
 即座に頷いたシンジの顔には、偽りも気遣いもなく、それに気づいたさくらの顔が急に赤くなっていった。
「や、やだあたし、か、勘違いしちゃって…ご、ごめんなさいっ」
「別にいい」
「え?」
「さくらは俺の事なんてだいっきらいみたいだし、好きになってねってお願いなんてしないの」
 普段と比べて妙な台詞だが、口調もまた妙なものがある。
 が、さくらはそれには気づかず、
「ち、違うんです碇さんっ。あ、あのそれはそのっ、い、碇さんが胸の小さい女は嫌いって言われたみたいな気がしてそのっ」
 あたふたと弁明するさくらを、シンジは黙って眺めていたが、
「もういいよ。でもさくら、一つ言っておくけど、胸が大きければ大きいで面倒な事もあるし、いい事尽くめじゃない。それに、身体は人格や能力にさほど関係ないよ」
 言われてから、マユミもそんな事を言っていたのを思い出した。
 しかし、なぜシンジがそんな事を当たり前のように話す?
 浮かんだ疑問を、ぶるぶると首を振ってうち消し、
「そ、そうですよねっ。胸とか別に関係ないですよねっ」
「そうそう」
 この返答で良しとする事にした。
 がしかし。
「それはそうと碇さん」
「はい?」
「あたしのブラ…着けてくれたんですか?」
「脱いだのは覚えてる?」
「え、ええ…で、でもだからって…」
「さくらの生胸見てぼんやりしてるのって苦痛だし」
 両方の意味に取れそうだが、さくらの表情は自分の好都合な方に取ったらしい。
 だが緩んだ表情が叫んでいるさくらに、止せばいいのに、
「さくら、もう遅いからおやすみ。それから、ブラだけは付け方覚えようね」
 わざわざブラをさせたのは、普段と変わらなければ自分で着けたのだと言いくるめる気だったのだが、なぜかシンジの巧いと言う奇妙な結果でばれてしまった。
 そこから来た台詞だったのだが、その途端さくらの雰囲気が変わった。
「天が許し地が許しても、あたしだけは許しません。えっちな碇さんには天罰を」
 シンジが身構える寸前、
「桜花放神!」
 相変わらず物騒な娘だが、この部屋では本来の力が出るはずもなく、へろへろっと宙に浮いて、べしゃっと落ちてきた程度に終わった。
 その頬に、かがんだかと思うとちゅっと口づけし、
「これで刀が振れますありがとうございましたじゃおやすみなさいっ」
 やや早口で一気に言うと、ぱたぱたと出ていった。
「ぬうう」
 口にした次の瞬間鈍い音がして、
「あ、落ちた」
 どうやら、足が地に着いていない状態で急いだから、階段から落ちたらしい。
「いたたたた…もう、階段から落ちるなんて」
 太股をおさえながら部屋に戻ったさくらが、自分のしでかした事を思い出し、蒼白になったのはそれから五分ほどしてからの事であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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