妖華−女神館の住人達
第八十二話:碇シンジ的白之日
「ニンプノミワケカタ…ナニソレ」
宇宙人みたいな口調で言うと、宇宙人を観察するような目でシンジは美貌の医者を眺めた。
「聞いた通りよ。とりあえず、ざっと千体から診ていってもらうわ」
「日本語は通じてる。うんとかいやじゃなくて、どうしてって訊いてるんだけど」
「分からないの」
「古代文書の解読の方がよっぽど楽」
「霊は身体に取り憑くことが多いのではなくて?」
「身体?」
聞き返してからシンジが、はてと言うように宙を見た。
これ以上訊いて、冗談ならいいが本気だと、まーたお馬鹿さんとか言われてとても癪にさわるので、ちょっと考えたのだ。
「あ」
「解答を」
促したシビウに、
「つまり本物と偽物を見分けるって事?」
「ご名答」
軽くシビウは頷き、
「買い物中に陣痛が始まって蹲った妊婦の腹から、触手を持った生き物が飛び出す事もあるでしょう。分かったらさっさと行くのよ」
「やだ」
「嫌、と?」
僅かにシビウの口許が歪んだが、この病院に勤める者なら誰でも、これを見た瞬間卒倒しかねない。
「産室に付き合った亭主が、妻の股間に二度と顔を埋められなくなるってのはよくある話だ。別にそこまでして付き合うモンじゃないし、遠慮しと…しとくっての」
人は見た目によらない、そんな事位はシンジだって知っている。
が、物には限度というものがある。横綱クラスの力士が軽自動車を持ち上げても驚かないだろうが、ちょっと触れただけで折れてしまいそうな少女が、同じ事をしたら回りが目を剥くだろう。
ごく普通に妊娠して子供を授かる事を望む夫婦でも、ある日突然夫の腹がぷっくり膨れてきたら、さて認知したものかいやそれより産むべきかどうするか、それはもうパニックを起こすに違いない。
しなやか或いは美しい。その他どんな賛辞を当てても決して見劣りしないシビウの手であり指であるが、このどこにこんな万力みたいな力が入っているのか、未だにシンジには分からない。
多分、一生分からないだろう。
力比べでは何故か、何故だかよく分からないが分が悪い、そう知ったシンジの脳裏に電球が灯った。いい案が浮かんだらしい。
「妊婦とは言え、要は女の膨らんだ腹だ」
「それで?」
「俺が興味ある、或いは触れてみたいのはどこにでもあるものじゃないんだけど」
ちらり、とかすかに送った流し目に、手に加わる力がふっと緩む。
(よし)
敵の総帥が考えている内に退却だと、そうっと後ろに下がった途端、前以上の力で掴まれた。
「この身体好きにさせてあげるわ−口直しに」
口直し、とこの女は言った。自分の肢体と美貌に、絶大の自信があるに違いない。
「さ、行くのよ」
碇シンジ、逃走失敗。
(?)
すみれの台詞に表情の動いたシンジだが、何か妙だと気付いた。重樹の、あるいはすみれの心変わりにせよ、シンジの帰りなど待たずさっさと出て行き、荷物は後から取りに来させるはずだ。
まして、ここまでの道中を覚えているなら尚更である。いや、シンジとまともに顔など合わせられまい。
神崎重樹抹殺の命令は電話一本で事足りるが、その前に一応訊いた。
「親父殿に言われたの?」
「お父様に?いいえ、お父様は葬儀の用意でそれどころではありませんから」
(??)
顔に?マークが二つ貼り付き、
「ここまで、どうやって帰ってきたか覚えてる?」
「邸の者が誰か運んできたのでしょう?多分碇さんのいらっしゃらない間ですわ」
(なんじゃこれは)
「そう。で、気を失う前はどこまで覚えてるの?ここに帰ってくる前は」
「それは…」
既にすみれの記憶が錯乱していることにシンジは気付いていた。正確には、シンジがやり過ぎたのである。
自慰ショーで快感の得すぎ、ではなくシンジが記憶を消しすぎたのだ。ホテルに入ると言い出した後から消したつもりだったが、どうやらその前から消えており、しかも妙な記憶が植わっているらしい。
「お祖父様がわたくしを庇って亡くなられたそこ迄しか…」
(やっぱり。と言うかやり過ぎ?)
いかんいかんと自分に一つ突っ込んでから、
「すみれは、記憶が少し混乱してるみたいだね」
「わたくしが?」
「神崎忠義が孫娘を庇って壮絶な討ち死にを遂げた後、すみれをここまで運んできたのは俺だよ。それから、神崎重工のボスからは、すみれに戻らなくてもいいとの話が出てる。覚えていない?」
「お、お父様がわたくしを要らないと?」
「そうじゃないよ」
軽く髪に触れ、
「すみれの居場所はここだから、戻らなくていいと言ったはずだ。すみれが直に電話で聞いたんだよ」
「そ、そうでしたの」
やはり記憶が錯乱しているらしく、シンジの言葉にも顔色は優れない。どうやら帰らなくていいのは本当だが、実際は父親が自分を要らないと言ったのではないかと思っているらしい。
シンジが自分を気遣って、事実を告げてないと思ってるようだ。
それぐらいはすぐシンジにも分かるから、
「以前ドイツの片田舎で老婆に会って、記憶を戻す方法を教わった事があるんだ。すみれ、そこへ横になってくれる」
「記憶をって、そんな事出来るんですの?」
「正確には記憶じゃなくて、気を落ち着ける事で脳の働きが正常に戻り、記憶と言うデータが正しく思考に反映される−って言ってた。いい?」
「え、ええ」
よく分かっていない顔つきながら、シンジの言うとおり豪奢を極めたベッドへ、すみれは横になった。
他人事ながら、こんな寝台は共同生活を送る娘が持つものではなく、神崎忠義の思考のネジはその辺からしてもう曲がっていたような気がした。
軽く両手を胸の上で組み、すっと目を閉じたすみれの横に立ち、シンジが顔に手を当てた。
がしかし。
シンジがもう少し思考時間を持っていれば、ある事に気付いた筈だ。
すなわち、記憶を戻すのと弄るのとは同じ方法であり、そして既にシンジはやりすぎており、その上同じ人物に同じ方法を施そうとしているのだ、と言う事に。
すみれのこめかみにシンジの指がすっと沈み、すぐに引き抜かれた。常人が見たら目を剥きそうな光景だが、幸運にもすみれは目を閉じている。
「もういいよ」
シンジの言葉にすみれがゆっくりと目を開けた。
「少し思いだした?」
「わ、わたくしは…」
次の瞬間、あっと叫んだすみれがくるりとむこうを向いた。
「すみれ?」
「さ、最後の光景を…思いだしてしまいましたの。ご、ごめんなさい、少し一人にしてくださいな」
最後の光景とは無論忠義の事だろうが、その時もすみれは失神しており、起きた時にはもう殆ど死にかけていた筈だ。
それでもシンジとは世界が違うすみれに取っては大ショックな話であり、多分ショックが甦ってきたのだろうと、
「分かった。皆は止めておくからゆっくりおやすみ」
軽くすみれの頭を撫でてから部屋を出た。
だがシンジは気付かなかった。
シンジが触れた瞬間、すみれの身体がぴくっと動いた事に。
そして、
「わたくしは何と言うことを…」
首まで赤くして呟いた事は無論知らない。
どうやら、と言うよりある意味必然とも言えるが、また失敗したらしい。美しい院長に聞かれたら、藪か役立たずの烙印をぺたっと押される事は、ほぼ間違いない。
しかし何よりも、きゅっと唇を噛んで宙を見つめていたすみれだが、やがてその頬に潤んだ色が混じり、布団を掴んでいた手がすっと中に入った事は知らないのだった。
その片手は胸の辺りで止まり、そしてもう片方は真っ直ぐに…下腹部へと伸びていた。
「どうかしら、航海の方は」
「順調です、お姉さま」
巨大パネルに映った世にも美しい美貌に、人形の娘はすっと一礼した。
この娘が未だに名前を持てないのは、その創造主すら付けなかった者をさすがにシビウも名付けかねたせいだが、世界を一またぎするようなシビウでも手を付けかねる事はあるらしい。
「ところで碇さまが帰ってこられたようですが。例の事はまだお耳には入っていませんか?」
「大丈夫よ。間抜けな連中が情報を漏らしたりしなければね。あの碇シンジがどんな顔をするか、こんな愉しいイベントを事前に洩らされたりしてなるものですか。例えどんな手を使っても情報公開はさせないわよ」
彼女の姉が心から楽しみにしているのを娘は知った。無論実姉ではないものの、神業と呼ぶに相応しい腕前と−やや性格に難はあるものの−シビウ病院に勤める者すべてからは尊敬される一面も持っており、シビウが命じた呼称に慣れるのにそれほど苦労はしなかった。
しかし、シビウがなぜこれほど愉しそうなのかは、彼女にも分からなかった。男など足元のそのまた遙か下方に踏んづけていそうなシビウでも、碇シンジに対してだけは遊びでないことを彼女は知っている。
そして同船している娘の一人が、シンジと深く関わっている事も娘は知っており、愉しんでいる状況ではないのではと思うのだ。
しかしそれもやはり、自分の想いなどよりも、自分の基準で愉しいことを優先するシビウ故であり、そんな所もシビウらしいとは言える。
「私の性格診断をしていたのかしら」
わずかに、いや殆ど分からぬほど傾いた首から、シビウはこの可憐な娘の思考を読みとったらしい。
「いえあの、そう言うわけでは−」
「何故私が会わせる事を愉しんでいるか、と思っているわね」
「いえそれは…はい」
誤魔化せぬ事を知り、人形娘は小さく頷いた。
「理由は簡単よ。シンジの想いが、本気で向くのは私以外に誰がいると思って?」
なんと言う自信であり、何という強さなのか。
化粧に服、詰め込みの痩身法等、外面を偽りの色で塗りつぶすしかない女とは明らかに違う、絶対の自信で形作られた表情に、娘は恭しく頭を下げた。
「それでこそお姉さまです。では朝食の用意がありますので、私はこれで」
一つ頷いてから、
「海に落ちたりしないように気を付けるのよ。壊れるのは、シンジにお土産を渡してからにしなさい」
真顔で告げている所を見ると、どうやら本気でそう思っているらしい。性格と性癖以外ほぼ完璧でも、こんな所はやや普通と異なっているらしい。
ましてこの相手の事を考えれば、それも当然であったろう。
「はい、ありがとうございます」
だが一礼したまま礼を言った娘の口調には、蔑みも侮りもなく、そこには真摯な物がこもっていた。
どうやらこの二人の間は、殺し合いでも平気でする人間の姉妹達と比べて、遙かに強い何かで繋がれているらしかった。
「お代わりちょうだい」
「あたしも」
「ボクも」
「あいよ〜」
江戸時代にあった夜店の蕎麦屋みたいだが、無論厨房にいるのはシンジであり、さっと麺を茹であげて具をのせ、煮込んだ汁を入れて出来上がる蕎麦に、次々とお代わりの手が伸びる。
レニとアイリスがぶっ壊した床は、午後からはすぐ専属の業者が入って修理に取りかかり、部屋を追い出されたシンジは一人では持てない、と言うより持ちたくないような巨大な鍋をよっこらせと火に掛け、ぐつぐつと何やら煮込み始めた。
帰ってきたメンバー達は、食堂から漂うとんでもなく香ばしい匂いに、ゴキブリホイホイに集まる成虫みたいに寄ってきたが、
「入っちゃだめ」
と、白抜きの丸文字で書かれたプレートに妙な迫力を感じて、何故か入ることを躊躇った。
正体不明でなおかつ限りなくいい匂いに、人参を目前にぶら下げられて身体を縛られた馬の気分を味わった娘達であり、シンジが用意した実に三十人分が早くも半分近く減っているのは当然だったろう。
その匂いは、彼女達をじりじりさせながらも、誰一人としておやつに手を出そうと言う気にはさせなかったのだ。
だが、猛然と食欲を発揮している娘達だが、食前には一悶着あったのだ。
原因はマユミに−正確に言えばシンジにある。
「山岸」
皿を出すよう告げたシンジが、ふとマユミを呼んだ。
「なんですか?」
「例の事、すみれに訊かなくていいの?はっきりしないとまた繰り返すよ」
シビウが、あるいはフェンリルがいれば、シンジの口許の僅かな歪みに気付いたかも知れない。
だがマユミは無論フェンリルではなく、シビウのような付き合いもシンジとはしていない。それにすみれが誘拐された原因は出て行った事にあり、その原因はシンジにあると思っているから、
「あの、すみれさん」
「何ですの」
祖父のことを思いだしたのではと、シンジも少し気になってはいたのだが、降りてきたすみれの顔にはもうそんな色はなく、いつもの表情に戻っていた。
「すみれさんが降魔に攫われる少し前、碇さんに何か言われませんでした?」
だがこれは訊き方も相手も悪かった。
これがさくらならいざ知らず、人一倍、いや四倍位プライドの高いすみれに対して、攫われたなどと口に出来るのはシンジくらいのものであろう。
自分とは明らかに世界も価値観も違う碇シンジ。だがそのシンジを中心にしてここが回りだしている、と言うよりシンジが荒らしているような感覚に、マユミはとらわれていたのかもしれない。
アスカやさくらと違い、自分なりに一歩違う所からシンジを見ているマユミだけに、その思いは余計に強かったのだろう。
だからすみれの表情が微妙に動いた事も、マユミは気が付かず、
「すみれさんがあんな夜に出て行ったのは、きっとまた碇さんが−」
マユミは最後まで続ける事は出来なかった。
文字通り空気を裂いてすみれの右手が閃き、マユミの頬を襲ったのである。マユミはまったく避ける事も出来ずあと一瞬遅かったら、と言うより放っておかれたら、マユミは壁まで吹っ飛んだ可能性が高かった。
しかし甲高い音も悲鳴もなく済んだのは、ひょいと伸びた火かき棒であった。どこにそんな物を持っていたのか、
「まあまあすみれちゃん」
ぴっと伸びたそれは、器用にすみれの掌を挟んでいた。
妙な格好で止めたまま、
「山岸。アイリスならいざ知らず、すみれに行動の因を一々問うのは、余計なお世話とは思わない?大体この神崎すみれが、碇シンジに何を吹き込まれたからって、進路を変える訳もないでしょうが。ねえ?」
「え?ええそうですわ。わたくしはただ、夜歩きに出ただけですわよ」
「まったくもう」
やれやれと言った口調と共に、抑えていたすみれの手をすっと抑えた。
思わずアッと言う顔になったメンバーだが、すみれの手がそのままマユミを襲う事はなかった。
その代わり、
「碇さんの顔に免じて今日は許してさしあげてよ。でも今度愚かな事を口にしたらその時は許しません。よく覚えておきなさい」
「ご、ごめんなさい」
「でもすみれ」
「はい?」
「顔に傷が付くと困るから、ビンタは止めようね」
「わ、分かってますわよ。それにどうせ碇さんが止められると思ってましたし」
「どうせ〜?」
「あ、そのそうじゃなくてえーと…」
キヌロ、と向いた視線に一瞬狼狽えたすみれだが、
「この話はこれで終わり。さて、食べた食べた」
あと数分遅かったら、間違いなく腹の虫が叫ぶという、恥ずかしい光景になっていたことは間違いなく、ある意味タイムリミットぎりぎりであった。
無論幾分かの澱んだ空気は残っていたものの、飢え気味の胃とそれを満たすシンジの料理であり、次々と差し出される椀に、いつしかその空気も和らいでいった。
そして二十分後。
レニが今日は検査入院で泊まりになるから、メンバーは六人しかおらず、アイリスの食はいつものように細い。
と言っても拒食とか言うのではなく、レイみたいなのがいるから目立つだけで、量自体は普通である。
その六人で、たっぷり三十人分用意した夕食は、きれいさっぱり片づけられた。
さすがにシンジも、ここで賄いと化してから育ち盛りの−色々な箇所が−娘達の食欲には慣れたし、これも大体計算の内であった。
ただし、シンジは長身の割に大して食べずに来たから、最初はかなり戸惑いと違和感を感じてはいたのだが。
「ふー、食った食った」
ぽんぽんと腹を叩いているアスカは、かなり行儀が悪く、デート中にこんな事をしたら男はすっ飛んで帰りかねない。
「ちょっとアスカ、行儀悪いですわよ。太鼓みたいにたたくのはお止めなさいな」
が、別にアスカは反論もせず、
「で、何であんたはしないわけ?シンジの前だから?」
とんでもないことを言い出したが、
「まあそれもありますわね。もっとも、碇さんでなくとも殿方の前でそんな格好をするなど、品のない証拠ですわよ」
別にシンジでなくてもいいらしい。
「なんですって!ふん、シンジはお高く止まったお嬢様なんか、好きじゃないのよ。大草原で星を眺める男が、そんな女に興味なんか持つわけないじゃない。ねえ、シンジ」
「でもさ、すみれは別に俺じゃなくてもって言ってたし、アスカいくら何でも腹太鼓は新春のイベントじゃないんだから」
「何よそれ」
「あ、いやこっちの話。ま、アスカも外行ったらする訳じゃないんだし」
「当たり前じゃん。外でこんな事する女は単なるバカよ、バカ」
「化粧したり脇の下が黄ばんだりしてる下着を、取り替えたりする女はいるけどね」
さして感慨もなさそうに言ってから、
「ところで先般、義理が溢れたチョコレートをもらいました。でっかく義理と書いてあったりして義理が沢山です」
「碇君、一応突っ込んどいたげる。その心は」
自分の分だけじゃ足りず、アイリスのまで手を伸ばしていたレイが訊いた。
「おまえなんか死んじゃえ」
図星だったらしい。
ただし、自分はいらない子なんだと拗ねる事も暴れる事もなく、
「初めてでよく分からないけど、取りあえずここにお礼を−」
がさがさと袋を取りだしたシンジに、
「ねえシンジ。あんた、ミサトに嘘教えられてたってほんと?」
「うん」
袋を取り出しながら、シンジはあっさりと肯定した。
「お礼はしたからもういいんだ」
あっさりしてるのね、と言いかけたら、
「後は復讐するだけだから」
言わなくて正解だと、そっと口をおさえた。
「うちの家庭の事情は放っといて、取りあえずアスカから。はいこれ」
渡された小さな包みを振ると、わずかに音がする。
「義理なんだから気使わなくていいのにまったく」
余計な事を、みたいな口調ながらもその頬は緩んでおり、それがくしゃっと緩んだのは中の箱を開けた時であった。
「腕時計…ってこれブルガリの新作!?う、嘘なんでこんなのを…」
「カタログが放り出してあったから参考に。はいこれはさくらに」
よく聞くと、いやよく聞かなくてもろくでもない台詞を口走っているシンジだが、嬉々としているアスカは気付かなかった。
さくらに渡したのは、こっちは非常にシンプルな、と言うより小さな紙袋に入れただけの物だったが、銀色のロケットであった。
「使用済みであんまりよろしくないけど」
「使用済み?」
「俺が二週間ほど。暴走するんじゃないよ」
一瞬分からなかったらしいが、シンジの言葉にぱっと表情が輝き、
「はいっ」
勢いよく頷いた。シンジのブレスレットは、さくらには未だ早いと押収されたが、それに近い物をもらったのだ。さくらの性格からすればもっとも嬉しい物であったろう。
「じゃ、これは綾波に」
大きな缶を渡し、
「三色旗の国のクッキーを一年分。ただし、普通の人ならね」
言われずとも、何故か革命を扇動する乳丸出しの娘を見れば分かる。それとその量もまた。
山岸に渡したのは可愛いキャミソール…を一ダース。
「ちょ、ちょっとこれは襟ぐりが深いんじゃ…」
自分の身体に合わせると確かに深く、マユミの胸なら谷間はくっきり見える。
「そう。だからいいんだ」
ただし、シンジの境遇を考えると、本当にそんなまともな事を考えているかは分からない。
「碇君のエッチ」
冷やかすように言ったレイは、さっそくクッキーを囓っている。かなり実用的な娘だ。
「い、一応頂いておきます。ありがとうございました」
一応とか言いながらも、どれもファッション雑誌では、高値で紹介されている物であり、マユミも満更ではなさそうだ。
それにワンピースとキャミソール兼用の便利な物で、あと一ヶ月もすれば着たくなる代物だし、何より今年の流行と目されるデザインだから、押入で蜘蛛の巣が張る事はあるまい。
「それからすみれにはこれを」
こっちはちゃんと包装してあったが、出てきたのはシンプルなハートが中央にぶら下がっているペンダントで、さくらのとは違って特殊効果はない。
ただし、中央には妙に光る物が埋め込まれており、
「給料の三ヶ月分」
「ふーん、ダイヤモンドは永遠に輝くんだ」
「そんな事は知らないけど、一応本物」
ダイヤ自体はオプションだが、ちゃんとした代物だし、シンジの余計な台詞とレイの余計なツッコミで、手にしたすみれが赤くなり、
「あ、ありがとうございます碇さん…」
「いえいえどういたしまし…あ」
「どうしたの?」
「えーとそのあの…」
シンジの前には、一番最後になったが、何が来るのかと目をきらきらさせているアイリスがいる。
だが。
「忘れてたみたい…うん」
「え!?」
「『…え!?』」
待ちかねていたアイリスと、自分達はもう貰っていたメンバー達では、反応が一瞬遅れたが、すぐに空気が固まった。
「ア、アイリスのは…ないの?」
「その…ごめんね」
みるみるアイリスの顔色が変わり、あの惨事再びかと思わせる表情になったが、その寸前で抑えたのは立派であったろう。
「ア、アイリスはいいの。お、おにいちゃんが喜んでくれただけで…い、いいから…じゃ、じゃあねっ」
ぱたぱたと走り出していったアイリスだが、その目に涙があったのは間違いなく全員に見えた。
一瞬静寂が流れた後、
「あ、あんた何て事するのよっ!」
「そうですよ碇さん、いくら何でも忘れるだなんてそんなの−」
だが住人達は、今度は呆気に取られる事になった。
「それもそうだね」
うんうんと頷くと、
「ちょっとご機嫌取ってきます。じゃね」
紙袋を持って、ひょいと出て行ってしまったのだ。
「あいつ、ちゃんと考えてくれてたと思ったのに…」
「あんな事しなくたって…あれじゃアイリスがかわいそうですよ」
そこへ、
「本当にそう思う?」
「はあ?レイ、あんた何言ってるのよ。あんた何とも思わないのっ」
うん、とレイは頷き、
「包装を破らないでボク達に渡したから、紙袋の中は空っぽの筈だ。それに本当に忘れたなら、最初の段階で気付いている筈だし、袋を持ってしかもあんなすぐに出て行った事自体変だと思わないの?」
「じゃ、じゃあレイちゃん、碇さんはどうしてあんなことを?」
「答えは簡単、アイリスにはボク達の前で渡せない、いい物をこっそり渡す予定だったから」
「『…なんですって〜』」
それを聞いた途端、ぴきっと空気が固まった。