妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第六十九話:シンジ、襲わる
 
 
 
 
 
「ところで若、よろしいのですか?」
「何が?」
「緒方星也より、まだ辞表の方は来ておりませんが」
「緒方って誰だっけ…ああ、ソレッタ織姫の関係者だな。そんな事より黒木」
 カップを持ったまま首を傾げたシンジの眉が少し寄った。
「はい?」
「まずい、淹れ直せ。他人の辞表の書き方より、ミルクの分量憶える方が優先だ」
「これは失礼致しました、すぐに淹れなおします」
「あ、いい」
「はい?」
「慣れない事するから間違える。普段から勉強してないからだ」
「恐れ入ります」
「恐れ入らなくていいから、その辺の巫女さん呼んで頼んで。彼女達の方が役に立たない上司より上手に出来るはずだ」
「はっ、ただいま」
 数分後、再度淹れ直されたコーヒーが運ばれ、一口飲んだシンジが、
「ほら、黒木なんかより数倍美味い。ありがと」
 運んできた娘に笑みを向けると、上司の手前もあって、
「いえ、そんな事は」
 謙遜したが、頬の方は内心を隠せずちゃんと色が変わっている。
 娘が下がり、黒木が部屋を出ようとした時シンジは呼び止めた。
「はっ?」
「ほっとけ」
「よろしいのですか」
「別に人畜有害な訳じゃない。何かは知らないが、何かの事情があるんだろう。本人が進路相談に来るまでそのままにしておくように」
「仰せの通りに」
 黒木が退出した後、
「すっかり忘れてた。それにしても…娘が駄々でもこねたのかな」
 はてと首を傾げてから、
「ミルクティーにすれば良かったな」
 
 
 
 
 
「申し訳ありません」
 第二外科の婦長以下、深々と頭を下げたナース達にシンジは一瞬だけ視線を向けた。
 すみれは精神安定剤を打たれ、今は眠りについている。狂奔した訳ではないが、魂すら抜けたような表情に婦長が断を下したのだ。
 それだけである。
 が、それだけではない。
 これがその辺の患者ならともかく、その知り合いは碇シンジであり、そして碇シンジとここの院長との関係を知らぬ者は誰もいない。すみれのそれが容態の急変ならともかく、神崎忠義の来室後に急変したのだ。
 たとえ肉親の見舞客とは言え入口で、或いは病室へ入る前にチェックできなかったのはやはり不手際であったろう。
「あーあ、もうもう」
 役立たず、とシンジは言わず、見据える事もしなかった。ただ、少し肩をすくめて溜息をついただけである。
 だが、
「病院間違ったかなあ」
 シンジの言葉が終わらぬ内に、顔を上げられぬままのナース達が、揃って壁に叩き付けられていた。
 シンジの仕業ではない、
「間抜けな社員を使っていた事へ、せめてものお詫びよ」
 内容はそうでもないが、口調には凄絶な物を含んでいたの繊手がしてのけた事だ。軽く腕が振られただけで、武闘派のやくざでさえも容易く返り討ちにするナース達が、まったく為すすべ無く壁に叩き付けられたのだ。
 だが雇用主に遠慮して抵抗しなかった訳ではない。僅かな気の流れを感知した瞬間、全員が来るべきショックに備えて本能的に身構えた。しかし、妖麗な院長のもたらした一撃は、それをまったく無効となさしめたのである。
「物事には失敗が付き物だよ」
 二撃目−死の一撃を加えんとしたシビウの白い手を、シンジはそっと押さえた。元々女は気まぐれな生き物であり、それを体現しているシビウとは言え、他の病院では垂涎物の能力を持つ看護婦達を叩き付けたのは理由がある。
 本来病院への見舞いというのは、患者を見舞うのが目的であり、そしてそれ以外にあってはならないものだ。
 しかし、実際の所はあらゆる思惑が絡み、恋人付きの男に横恋慕した女が、恋敵の心臓に一撃を加えるべく刃物を持って侵入したり、わずかな精神的ショックも厳禁な患者に度肝を抜くニュースを持って−無論心臓麻痺を狙ったものだ−訪れるなど、見舞いの名目を持って訪れた者もそう簡単に通す訳には行かなくなっている。
 そのため、このシビウ病院では入院患者に会いに来た者も厳しくチェックしており、入口のセンサーは人の波動を捉えるようにもなっている。機械の故障報告は受けていない、だとしたら受付の娘が見誤ったか、要するに見逃してしまったのだ。
 一つは職務への怠慢であり、もう一つには無論シンジの関係者と言う事が大きく影響している。
 病室内部の会話は記録されていなかったが、カメラには肩をいからせて歩く神崎忠義の姿が映っており、
「これは…通してもらいたくなかったけど…ま、いいや起こすよ」
「結構よ」
 シビウは頷くと、すっと片手を上げた。
 すぐにキャリーが運ばれてきて、失神している十数名が運ばれていく。それを見ながらふと、
「あれどうするの?」
 シンジはシビウに訊いた。
「あなたが屋敷に誰か病床にいる者を預かって、面会を許したせいで殺されたらどうするの」
 反対に聞き返されたシンジは、彼女達の命運を知った。
 それでも、
「上にいる人が調教しておかないと」
 言ってみたが、
「体内にガーゼを置き忘れて隠蔽したり、あるいは異型の血液を輸血してカルテを改竄するだけが医療のミスではなくてよ。それとも、子の死罪を親が引き受けると?」
「善後策は?」
「シンジに、全職員の再調教をお願いしようかしら」
「遠慮します、と言うよりやだよ」
 シンジはすぐに首を振った。
「ドクトルシビウの手に依るものにもう一回手を加えるなんて到底無理だ、謹んで辞退させて頂くぞ」
 と、美貌の院長は何を思ったかシンジの顔をちらりと見た。
「少し、性格が変わったのではなくて?」
「事情によっては利用できたんだし」
 シンジの言葉に、
「処分は一考しておくわ」
 殿、どうかお考え直しを、と言ったシンジの言葉に、無論気付かぬシビウではない。
 しかし、
「すみれ、すみ…れ?」
 揺り起こさんと肩に手を掛けたシンジだったが、その頬に残る涙の痕に気付き、
「やっぱり、撤回しようかな」
 小さな声で呟いた。
 
 
 
 
 
 ふう、と緒方星也は、もう何度目か分からない溜息をついた。彼がまだ勤務先を変えられずにいたのは、未練からではない。
 今の仕事を辞めると言った日から、娘の様子が明らかに変わってしまったのだ。
 父娘の仲は良かったし、何があったこれがあったと、いつも帰ってきた星也にあった事を話す織姫だったのが、徐々に口数が少なくなりここ数日は学校へも行っていない。
 これがいじめられたとか、学校に問題があるならともかく、原因は自分にあると分かっているから、
「じゃ、行って来るよ」
「はい」
 出かける星也を見送るとき、
「パパ、お仕事辞めちゃ…いやデス…」
 潤んだ瞳で見上げるものだから、
「分かってる、分かってるよ織姫」
 そっと額にキスして出てくると、とっくに達筆で書ききった辞表がどうしても出せない。シンジの話は黒木には知られているはずだが、上司からまったく言われないのは幾分幸いであった。
 黒木以外にも知られていれば、間違いなく呼ばれて肩を叩かれている所だが、今の所それが来てないのはシンジが強制はしなかったからだろう。しかしその反面、真綿で首を絞められているような気もして、星也の溜息は止まらないのだ。
 
 
 
 
 
(帰ったら洗濯だな)
 涙があちこちに染みを作っている服を見ながら、無論シンジは口にはしなかった。自分にしがみついて泣いている娘だが、室内に二人きりなのと、
「大変だったねえ」
 すべてを見通すような口調が、少し間延びしていたためかも知れない。
 ただ、このストレートな反応に、幾分驚いたシンジではあった。ビンタが飛んでくるとは思わなかったが、泣き出すとは想定外だったのだ。
 会話は記録に残っていなかったが、シンジにはすみれの様子で想像はついていた。おそらく祖父忠義は、すみれに戻ってくる事を命じたのに違いなく、事によっては対降魔にすみれが不要だくらいは言った可能性がある。
 実際はそんな事は言わず、勝手に結婚相手を設定したから戻ってこいと宣言しただけだったが、すみれにはそれにしたって十分にショックである。
 ひとしきり泣いてから、
「少し落ち着いた?」
 と、これもやや間延びした口調で訊いたのは、せっぱ詰まった声が性に合っていないのと、いきなり根ほり葉ほり訊いても意味がないと知っているからだ。
「ごめんなさい…もう、大丈夫ですわ…」
「女の特権だからね」
「…え?」
「泣く、或いは走り出せば何とかなると思ってる、そして何とかなってしまうのが女という種族だ。ただ、感情を吐き出すことで自分をコントロールするのは、万物の霊長たる種族の特権だ」
 どっちだか分からない。
「会話は記録されていないが、戻ってこいと言われたね」
「はい…」
「どうして」
「それが…け、結婚相手をもう決めてあるからと…」
 言ってからちらっとシンジを見たのは、本能的なものであったろう。そして、当然のようにシンジからは無反応であった。
「…あ、あの…」
「困ったねえ」
 シンジはもう一度繰り返した。だが、その言葉の真意はすみれには分からず、また理解するのは不可能であったろう。
 すみれでなくとも、今の住人達であれば誰一人として、読み切れる者はいないに違いない。
「それですみれは何と?」
「わ、わたくしはまだ何も…」
 正確には、呆然としていたらさっさと出て行ってしまったのだが、そんな事は言える訳もない。
「実家に帰る?」
 瞬間的に激しく首を振ったが、振ってから後悔した。
 どうもおかしい。何かがずれてるような気がする。
 多分さっき泣いてからだ。自分は、この神崎すみれは人前で、それも男の胸で泣くような事は決してしなかったのに。
「俺のせいじゃないぞ」
 耳元で囁かれ、すみれはびくっと全身を震わせた。
 まさか、まさか思考が読まれている!?
「顔に出しすぎなんだってば。それよりも、だ」
「は、はい」
 女神館では決して見せなかった、あまりにも弱々しい程のそれだが、シンジはさして驚きもしなかった。と言うより、織り込み済みだったと言う方が正解だろう。
 確かに、見た目はどれもこれも強い。無力が時として、いや屡々罪にすら繋がるこの街では、大きな要素と言える。
 だがそれはあくまでも力の話であり、内面はほんの一点を突けば簡単に壊れるような乙女達だと、シンジはとっくに分かっていた。ただ、女同士の関係が幸か不幸なのか、本来の性そのもので付き合ってはいなかった、それだけの事である。
 しかし、それが吉と出るか凶と出るかは、シンジにも分からない。シビウや麗香であれば、いや葉子や屋敷の者達であれば眉一筋動かさぬ光景でも、彼女達が同様とは限らないのだから。今はシンジの持つ物に惹かれていたとしても、もう一つの、いや本来とも言える顔を見た時、彼女達がどう変化するかは見えてこない。
 とは言えそれはいずれ来る事であれ、目下のことではない。取りあえず今は、さらわれかけてる姫をどうするかであり、
「すみれが選ぶがいい」
 シンジは少し、優しげな口調で言った。無論ここですみれを帰さないのは簡単な事であり、神崎重工を潰す事など、碇財閥が動かなくてもシンジのお知り合いで十分だ。元より碇財閥、と言う存在を祖母と姉の物と言い切っているシンジだけに、それに頼るという発想はない。
 フユノは慨嘆するだろうが、仕事で繋がる線だけでも、融資の打ち切り或いは取引停止と、文字通りの経済封鎖を敷くことは困難ではないのだ。
 霊に絡んだ職業は、文字通り相手を選ばない訳であり、優秀な能力があれば広すぎる程の知り合いが出来てくる。あるいはそんな所も、シンジが気に入っている所かもしれない。
 そう、欲しい物は自分で手に入れる事を旨としているシンジにとっては。
「すみれが家に帰りたくない、と言うのであれば、管理下の住人を勝手に持っては行かせない。その気になればいくらでも手はあるんだから」
「い、碇さんそれでは−」
「ただし」
「た、ただし?」
 身を乗り出したすみれを抑えるように、
「碇シンジが管理人で、その祖母が碇財閥の総帥だと言う事を、知らないで来たわけでもあるまい。素直に引き下がらなかったら、どうするの?」
「それは…」
 シンジが言わんとする事は、すみれにもすぐ伝わった。かつての戦国武将、稲葉一鉄に語源のある性格ではないが、こうと決めたら変えぬ部分もある祖父であり、シンジが言う通り、シンジが管理人と言う事は分かり切っているはずだ。
 何よりも、あの様子ではフユノに話が付いている、と言うより保護者権限で来たような感が強い。
 しかし。
 今目の前にいる青年は、頼りになる一方でそんな事は眼中に入れないであろう事も、すみれには何となく分かっている。
 持って行かせない、と簡単に言ったシンジがそれを実行する事と、そしてそれが−或いは神崎重工の終焉をも意味しかねない事も、何となくすみれには分かってしまったのだ。
 すみれが揺れているのを見て取ったシンジは、
「すみれの家って座敷牢あるの?」
 奇妙な事を言いだした。
「ざ、座敷牢?なんですの、それ」
「呼んで字のごとくお座敷の牢屋。三角木馬とか…なんで赤くなるの」
「べっ、別に赤くなってなどいませんわっ」
 真っ赤な顔で言い張っても説得力ゼロだが、座敷牢とは本来は罪人、いやむしろ精神病の患者を押し込めておく座敷を牢へと改造したものだ。
 ただし、この場合のすみれが罪人に当たるのかはよく分からないが。
「ほんとに?」
 すうっと顔を寄せてきたシンジから慌てて逃れようとして…動けない。すみれの肩は、既にシンジの手が掴んでいたのだ。 
 はふう。 
 ふっと耳に吐息がかかった瞬間、
「あうんっ」
 何とも悩ましい声を上げて、そのままシンジに倒れ込んだ。
「あら?」
 シンジが手を離すと力無く布団に突っ伏す。どうやら、緊張の糸が一瞬で途切れたらしい。
「寝ちゃった、なんて失礼な」
 自分でやっときながら、本人にその気はまったくないらしい。静かに寝息を立てているすみれを見ていたが、
「取りあえず連れて帰って…他の住人にも訊いてみるかな」
 すみれの肩に軽く手をかけて起こすと、よいしょと持ち上げた。
 
 
「お世話になりました、帰ります」
「あ、あのっ」
「何か?」
 シビウから帰すなと言われていたのか、一瞬引き留める素振りを見せたが、
「な、何でもありません。その…お気を付けて」
 すぐに諦めたように一礼した。
「あ、はいはい」
 背中に佳人を乗せたまま病院を出ると、見慣れた髪が揺れている。
「もうお帰りかしら」
「善後策を練ってきます。いや…潰すかどうかなんだけどさ」
 すみれが起きていたら、目を剥きかねない台詞を口にしてから、よいしょと背負う手に力を入れた。
「それで」
「え?」
「彼女は寝間着だった筈よ。それがなぜ着替えているのかしら」
 その瞬間、なぜか二人の周囲にだけ冷気が立ちこめたような感じがして、患者達がそそくさと道を空けた。
「この子寝てるし、側にいたの俺だったから」
「ナースコールの設備が故障していたのかしら、変ね」
 まったく、と同意したシンジにシビウは、妖艶と冷徹が見事に織り込まれた視線を向けた。
 一般人なら、これだけで気死しかねない。
「じゃあ俺はこれで…いたっ」
 歩き出そうとした途端、ふくらはぎに激痛が走り一瞬シンジの足が止まった。
「ツチノコなる蛇もいるのだから、透明な蛇がいてもおかしくないわ。月のない夜と病院の敷地内は気を付ける事ね」
「……そうします」
 二度と来ないぞ、と言いたかったが、言った瞬間身体が石化しそうな気がして、シンジは早足でその場を後にした。
 ツチノコはともかく、透明な蛇がいてしかも毒を持っていれば、それを手にした者が世界制覇出来るのはほぼ間違いないだろう。
 もっとも、世界を手に入れた途端、自分が噛まれるというオチになる可能性も高そうではあるが。
 車も呼んでいないし、フェンリルもいない。
 たまにはいいね、そう呟いてすみれを背にしたままシンジが歩いていく。
 と、
「碇はん、おひさしぶりです」
 妙に浮き浮きした声にシンジが振り向くと、そこには紅蘭がいた。
 中国服でそれはいいのだが…良くない。
「こら、学校はどうした」
「そんな物よりもっと大事な事ですわ。ウチも忙しいんです」
「あっそ、じゃ…こら」
 じゃあねと立ち去り掛けたら、きゅっと服をつかまれた。
「伸びるってば、離してよ」
「何してたのか、訊くのが礼儀ちゃいますの?」
 そんな礼儀は絶対にないが、と言うより“聞いて聞いて光線”を出している娘に、何があったと訊きたい男はそうそういないだろう。
 が、このままでは解放されそうにないと、
「で、学校サボって何してた」
 シンジが訊いた瞬間、紅蘭の顔がにやあと緩んだ。
 更にだらしない顔になり、
「デートですわ、碇はん」
 それからはもう火が点いたように、聞きもしないのにケンスケから誘われただの、この服はデート中にケンスケに買ってもらって、きれいに写真を撮ってもらっただのと、たっぷり十五分間、呪いに近いのろけを聞かされたシンジは、解放された時ぐったりしていた。
 同じ女に付き合うのでも、これならシビウを後ろから責めていた方がましである。
 熟れた肢体が乱れる様をふと思いだした刹那、シンジのアンテナに何かが触れた。咄嗟にすみれを背にしたまま後ろへ跳ぶのと、何かがシンジのいた所を襲うのとがほぼ同時であった。
 コンマ一秒遅れていたら、直撃を食ったのは間違いない。
「まだ夕方、夜這いには早いぞ」
 危機感と警戒は皆無の声で言うと、
「碇シンジ…殺ス」
 前方から聞こえた声は女の物であり、それを聞いたシンジの表情が僅かに動く。
「ソレッタ織姫か−親父さんにアサシン教育でもされたか?」
「うるさいっ」
 次の瞬間織姫の肢体が跳躍した。す、と横に動いて避けたシンジの表情が僅かに歪んだ。
 避けきれない−肩に一撃くらった事を知ったのだ。
「そうか、猫だったな」
 少しだけ重い声でシンジは呟いた。
 背中のすみれは処置してあるから、起こすまでは直撃でもしない限り起きない。十メートルほどの距離を隔てて、シンジはすみれを背にしたまま織姫と対峙した。
 
 
 
 
 
(つづく)

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