妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第六十四話:ご対面…一人娘?
 
 
 
 
 
「林原魁偉に繋いでくれる」
「あの、どちら様でしょうか」
 その辺の者などまず知らぬ筈のホットラインに掛けてきて、しかもいきなり馴れ馴れしく告げた相手に美人秘書の眉が寄った。
 都市銀行でもトップの地位をひた走る帝都光菱銀行、その経営を一手に仕切る会長の部屋などこんな若造が電話して良い場所ではないのだ。
「おっさんの知り合い」
 逆探知ボタンを押そうとした手が止まったのは、
「東京湾にきっちり沈みたくなかったら繋いだ方がいい。雇い主のもう一つの顔を知らない訳じゃないでしょ?」
 と言う脅迫めいてはいたが、妙に内情を知っている口調のせいであった。
「…分かりました、お待ち下さい」
 押すボタンを保留に変えようとした時、当の本人が戻ってきた。
「何事だ?」
 魁偉に仕えて数年、文字通り有能を絵に描いたような秘書の困惑を見て取り、極めて珍しいことだが声を掛けた。
「それが、お名前は言われないのですが…」
「ほう?」
「あの、申し訳ありませ…!?」
 女秘書−西原涼子の表情が凝固したのは、これも初めて見る顔−魁偉は笑ったのだ、それも嬉しそうに。
「私が出よう。お前は下がっていなさい」
「は、はい…」
 狐につままれたような顔のまま涼子が退出し、その足音が消えるのを待ってから魁偉は受話器を手にした。
「はい」
「出るのが遅いぞ、こら」
 大蔵省さえその意向を無視できぬ御大に対し、第一声のそれはあまりにも無礼な物であった。
 だが魁偉の表情は変わるどころか、その笑みは一層深くなった。
「私の娘の願い、叶えて下さる気になられたかな?」
「渚製薬に娘がいたな、あれを捕まえてくれ」
「それはそれは」
 笑みの消えた表情が見えた訳でもあるまいが、
「従妹が戻り次第エヴァを一機増やす。だが生憎いい整備士に心当たりがなくてね。この間会いに行ったらあっさりと追い返された」
「碇財閥の次期総帥として?」
「いや、たんなる変な奴として」
「相変わらずご冗談のお好きな方だ」
 魁偉は低い声で笑った。
「だがわざわざ連絡を頂いた以上、すぐに動かなければなりますまいな。よろしい、私が直に手はずを整えておきましょう」
「任せたよ」
 それだけ言うと切る時もまた、一方的に向こうから切られた。
 一定音を伝え始めた受話器を静かに置いてから、魁偉は机の上にある写真立てを手に取った。
 そこには若い娘が写っており、紺のスーツに身を包んだ姿からは、写真越しにすら知性と教養が伝わってくる。
 にもかかわらず嫌味がないのは、ひとえに本人の性格故に他ならない。
「我が娘ながら…もっとも伝わらぬ方に惚れ込んだものだ。とは言え、娘の願いを叶えてやるのは父親の務め、さて上手く行けば良いのだが」
 ベルを押して再度秘書を呼び入れた時、そこにはもう総会長としての老人しかいなかった。
 
 
 
 
 
「さて、どこから斬ってみましょうか?」
 にっこりと笑ったさくらだが、既にその手は鯉口をわずかに切っている。
「だ、だからこれはその…」
「何ですか?」
 さくらの顔からは、あくまで笑みが消えない。
 笑みを消さぬまま、
「性癖を含めて色々と−」
 言いかけた時、
「朝っぱらから何やってるのよまったく」
 寝足りぬ顔のアスカが、幾分不機嫌なのはやむを得まい。せっかく安眠を貪っていたのに、ドタバタと物音がして強制的に叩き起こされたのだ。
 無論、シンジが追っかけ回された物音であるのは言う迄もない。
 そして不機嫌気味に起きて来たアスカが見たのは。
「あんた…縛られたい人だったの?」
 蓑虫状に吊されたシンジだったのだ−それも逆さ吊り。
「い、いえ決してそう言うわけでは…」
「それで何したのよ…まさか、あんたまた覗きを−」
 髪がまだ濡れているさくらを見れば当然だったが、さくらは静かに首を振った。
「碇さんはそんな紳士的な行動は取りませんよ」
「…え?」
「碇さんもお年頃ですし、女の裸を見たいと思うのはごく健全です−若い娘だったら、の話ですが」
(って事はさくらを見た訳じゃないわよね…)
 首を捻った時、そこに立っている妙に嬉しそうなアイリスに気が付いた。
「まっ、まさかあんたアイリスの風呂を覗いたんじゃっ…」
「何だと〜?」
「じゃ、じゃあなんでさくらが刀振り回してるのよ」
 逆さに吊られてなお、ギヌロと睨むシンジに一瞬アスカが引いたが、まさかご一緒にお風呂だなどとは思いも寄らなかった。
「いや、ちょっと添い寝を…」
「添い寝〜?あんたってやっぱり」「ロリコンだよねえ〜」
「お前ら絶対こんがり焼いてや…い、いえなんでもありません」
 切っ先をぴたりと首筋に当てられて、シンジの全身がびくっと硬直する。
「だから〜、別に変なコトしてた訳じゃないんだからさ」
「『当たり前です(よ)!』」
 二人がきれいに重なった所へ、
「碇さんにしては珍しいですね」
 口許を拭いながらマユミが入ってきた。
「山岸、お前昨晩ダウンしてなかった?」
「えー、色々とお世話になりました。が、鍛えてあるので大丈夫です」
 無論、風呂から上がったら急に胸焼けが戻って来たので、胃薬を飲んできた事は口にはしない。
「それはそれは丈夫な事で」
 マユミの眉がぴくっと上がったが何も言わず、アイリスの方を向き直った。
 当事者の片割れにもかかわらず傍観者と化している娘に、
「アイリス、昨日はいい夢見られた?」
「うん、おにいちゃんが優しかったから」
 かなり誤解を招きそうな発言ではあったが、
「さくら、もういいじゃないの」
「どうして?」
「アイリスには悪いけど、これもアイリスじゃなかったら碇さんはしてなかったわ。碇さん、そうでしょう?」
「山岸ってば時々やな事言うね。なんでわざわざ本人の前で子供だなんて…いたっ」
 スパン!
「あんたが言ってるじゃないのよ。アイリス、あんたこんな事言われていいの?」
 子供呼ばわりなど、アスカでさえアイリスにはしないと言うのに。
 が、予想に反して、
「別にいいんだよ」
 アイリスはくすっと笑った。
 だが次の瞬間その目から笑みが消え、
「でもね、アイリスの事を子供って言っていいのは一人しかいないんだからね」
 すっと危険な光の宿った双眸で見回すと、そのままシンジに近づいた。
「アイリスは子供だからおにいちゃんと寝てもいいんだし、こんな事してもいいんだよねえ」
「え゛!?」
 ちゅう。
「『あ…』」
「アイリスね、昨日はとってもよく眠れたの。おにいちゃん、また一緒に寝てもいいよね」
 そう言うとシンジの返事も待たず、蓑虫シンジの頬にキスを一つ残したまま、下手へと退場していく。
 辺りをしーんと静寂が包み、
「こ、子供ってかわいいよね…ほ、ほらアイリスもきっと…」 
「『問答無用』」
「ウギャーッ」  
 火のついたシンジが、そのまま窓の外へと吹っ飛んでいく。
「ふ、二人ともやり過ぎじゃないの?」
「まったくだよねえ。別に自分達が添い寝した訳でもなか…」
 びくっ。
 偉そうに講釈するレイの背後で、危険な殺気が二つ湧き上がった。
「レイちゃん」「言いたいことはそれだけかしら」
「ふ、二人とも落ち着い…いやああっ」
「待ちなさいっ」「待てーっ」
 アスカとさくらに追いかけられるレイを見送って、
「アスカがさくらが添い寝って言ったら…碇さんはどうしたのかしら」
 ふっと浮かんだ考えもすぐに結末が読めたのか、マユミはふるふると首を振った。
「想像するだけ…分かり切っていたことなのにね」
 賢明であったろう。
 
 
 
 
 
 ぽすっ。
 縄抜けと消火を片手でしてのけたシンジが落下してくるのを、上を見上げて待っていた妖狼が柔らかく受け止めた。
「いらっしゃい、マスター」
「はい、いらっしゃいました」
 すとんと降りた所でシンジの携帯が鳴った。
「はい、碇でございます」
 どこかのご夫人みたいな声を出してから、
「あー、なんだ林原のおっさんか。時間取れた?」
 うだつと風采の上がらない私服の刑事相手みたいな物言いが、最大手銀行のトップだと知ったら側近が度肝を抜かれるだろう。
「え?今から?まったく融通利かないんだから…まあいいや、じゃあちょっと行って来る。どーもね」
 携帯を切ると、
「渚カヲルと会えるらしい。ちょっと出かけて来るよ」
「私を?」
「いや、いい。今日はあちこちも休みだから、町中を彷徨も出来ないよ。ここは蛾眉山市じゃないんだから」
 それもそうね、とその姿が自分の影に消えてからシンジはゆっくりと歩き出した。
 
 
 
 
 
「母さん、どう言うこと?」
「リツコ、聞いてなかったのかい?五号機の建造に取りかかると言ったんだよ。シンジちゃんから連絡があってね、レニを戻したら即戦力にするとご機嫌だったよ」
「レニを?」
「シビウ病院からもう戻ってくるが、あそこの院長は身体しか治せぬ藪じゃない。レニが戻ってきたら、楽しみだねえ」
「でも建造費ってそう簡単には…」
「五号機の建造費用は概算で十七億さ。ただし、銀行はもう動いているよ。帝都光菱の林原魁偉、吾妻銀行の武田泰山、それに−」
 あれこれと指を折ってから、
「特に光菱の林原は娘と見合いしてもらうって張り切ってるからね」
「か、母さんっ」
「ならばあんたが何とかしてみるかい?ま、シンジちゃんが結婚とか言い出さないことを祈るんだね」
「ど、どう言う意味?」
「分からないのかい。まったく、困った娘だね」
 受話器を挟んで爪にきゅっきゅとマニキュアを塗っているナオコ。
 正確には紋様を描くネイルアートだが、楽しそうなその様子は二十代の小娘と変わらない。
 焦る娘の様子を楽しむかのように、
「あの子は自分の感性を子供に強いる性格じゃない。だったら、伴侶にするのは普通の娘だよ」
「…え?」
 分かっていないらしいリツコに、こんな所では勘も鈍るのかとやや呆れたように、
「あんたがシンジちゃんに口づけも出来ないのは、そんなことも分かっていないからだよ。もう一度人生の勉強を誰かに教えてもらうんだね」
 さっさと電話を切ってから、
「ある意味では特殊なのさね、シンジちゃんは」
 くっくと笑ってからクロアゲハを仕上げる。
 少し毒々しいそれを満足そうに眺めてから、机の上に置かれた分厚い書類に目を向けた。
「これじゃ金があっても動けやしない。まったく、あんたが羨ましいよ」
 無論その眼前には、浮き雲をモットーとしたような青年が浮かんでいるのは言う迄もない。
 
 
 
 
 
「くしゅっ」
 小さくくしゃみをしてから、
「誰か悪意ある誹謗中傷に励んでるな」
 とシンジはぼやいた。
 先般はあっさりと門前払いを食ったが、今日はそれこそ最高級の来賓扱いでこの特別室に通された。
 お嬢さんに面会を、と言ったら受付の娘が怪訝な顔をしたのが気になったが、それ以外はやはり企業の大きさがそのまま教育に表れている感じであり、どこにも隙は見られない。
「どうかなさいましたか?」
 コーヒーを運んできた娘に、
「ううん、何でもないです」
 にこっと笑って首を振ると、
「し、失礼致しますっ」
 頬を染めて慌てて下がっていった。この青年の相手は危険だと、本能が察知したのかも知れない。
 事実、ほぼ完全に訓練された秘書がシンジの表情一つで凡ミスを犯す事も珍しくはなく、しかもシンジ自身がそれを楽しんでいる所もある。美では及ばないが、美の極致にある知り合いの一部が自然に伝染ったのだ。
「じゃ、折角だし取りあえず頂きます」
 ミルクだけ入れてカップを手にしたその時、入口から妙な鼻歌が聞こえてきた。
 妙に器用なそれに、
「宮大工?」
 シンジは首を捻ったが振り向かない。
 すると、
「宮大工で第九。いいねえ、そのセンスは好意に値するよ」
「おかしな事を」
 音もなく気配が迫ろうとした時、すっとシンジの手が上がった。
「後ろに立たないで欲しいの。従って動くと燃やします」
「これは冷たいね。せっかく男同士の愛情を深めようと言うの…痛っ」
 ゴス!
「大切なお客人になーにやってるのよあんたは」
「い、いつもながらいい一撃だね、カヲル」
 この時点で何となく事態の想像は付いていたが、仮定を現実にするべくシンジはゆっくりと振り向いた。
 銀髪に赤瞳。
 双眸の色はレイと同じであり、どこか雰囲気も似たような男女がそこにいた。
 ただし、両方とも同じ容姿で。
「碇シンジさんですね。初めまして、渚カヲルです。それから、ここに転がっているのが−」
 ぐにゃっと踏んづけてから、
「兄の渚カオルです」
「よ、よろしく」
 潰れたような声で挨拶したのを見て、
「いい趣味の兄様だ。それにしても双子だったとはねえ。まったく情報担当官は左遷だな」
 やれやれと呟いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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