妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第五十九話:シンジの秘かな楽しみ?
 
 
 
 
 
「……」
 帝劇の三人娘、現在入院中。
 劇場で倒れている所を通報され、そのまま救急車で運び込まれたのだが、吸血鬼の手による失神もここの院長に取っては初歩である。
 胸に軽く手を当てただけで、三人ともあっさりと息を吹き返したが、この辺りは神医とも言われる名に恥じぬ物であり、シンジの水治療も及ぶところではない。
 数時間の安静でいい、見立てはそう下ったが、彼女達にしては到底受け入れられる所ではない。
 無論診断にではなく、あっさりと不覚を取った自分達にだ。
 中でもかすみのショックは大きく、シビウが出て行った後はずっと唇を噛んだまま天井を見つめている。
「女であろうと、男にやわか引けなど取るものではないわ」
 三人を任じた時の、フユノの言葉がそれであった。
 碇財閥の総帥として、政財界にその名は押しも押されもせぬ位置にある。
 孫の出来を別にすれば、これほどの器量人は当代にまず見あたらない。
 そのフユノから直々に選ばれただけに、彼女達にもまた自負はある。
 実際、劇場へ来た者のなかで危険人物と化した連中は、いずれも彼女達の手によって排除されてきたのである。
 それが負けた。
 いや、負けたどころか、いとも簡単に失神させられたのだ。
 それも…三人とも揃っていながら。
「くっ…」
 もう一度ぎゅっと唇を噛んだとき、扉が音もなく開いて誰かを吸い込んだ。
「『?』」
 一陣の風かと思うほど、全く気配を感じさせなかったそいつが、するするとやってきた時かすみはその正体を知った。
「い、碇さんっ!?」
 三人が慌てて跳ね起きようとするのを、シンジはすっと手で制した。
「大丈夫、寝たままでいいから」
 そっと肩を押されて上衣の前がはだけているのに気が付いたが、それを直させなかったのはシンジの、
「ちょっと見せてくれる?」
 何でもない口調であった。
「え…あっ」
 思わず小さな声を上げた時、もうシンジの手は寝間着に掛かっていた。
 あっという間に前を押し広げられたが、更に奇妙なのは髪をかき上げられた事であった。
 何故か、射抜くような視線にかすみは身動きも出来ず、他の二人も声が出せない。胸と首筋を眺められているにもかかわらず、息詰まるような時が流れた。
 それが止まったのは、シンジがふっと息を吐き出した時である。
「良かった、無事で」
 シンジが何を探していたのか、無論かすみは知る由もない。
 だがその言葉で、シンジが事情を知っている事にぼんやりと気が付いた。
「も、申し訳ありません…」
 押し殺したような声に、シンジは軽く首を振った。
「あれで撃退出来るなら、うちのメンバーは全員首にして、三人だけで降魔がやっつけられるよ」
 静かな声だったが、それを聞いて急に悔しさが込み上げ来た。
 低い嗚咽は、そのすべての理由の説明は、おそらく自分でも出来なかったろう。
 まだ胸元を直さぬまま、自分に顔を押しつけて泣くかすみの頭を、シンジはよしよしと撫でた。
 シンジ自身はまだ敗戦を知らないし、敗戦も勝利も別段大した事ではないと思っている。
 一度敗れたら体勢を立て直せばいいと言う、ある意味単純な思考と言える。
 ただし、だからと言って敗戦で落ち込む者を理解出来ない訳ではない。
 アスカ、或いはすみれと、いずれもいたくプライドの高い娘達だし、自分の右腕にすべてを賭していた娘をシンジは知っている。
 性格もあるのだが、そうでなければ泣かれた時点で固まるか、或いは最悪後ずさりするという生ゴミクラスの反応しか出来まい。
 数分もせずにかすみの顔は上がった。
「泣くのはいつでも出来るし、泣いた方がいいこともある。ところで、泣いてすっきりしたらやってもらう事があるんだけど」
「ご、ごめんなさい…あの、やる事って…?」
「胸の前を合わせる事」
「ああっ」
 幾分冷やかすような口調で言ったシンジに、かすみが真っ赤になって前を合わせる。
 だがすぐ元の顔に戻り、
「あの…私の身体に何か探しておられたんですね」
 うん、とシンジは頷いた。
「あったら十字架だ」
「え?」
「いや、何でもないよ。ところで、侵入した相手の顔は見たの?」
「い、いえそれが全然…」
「そうか…で、椿達は大丈夫?」
 いきなり入ってきてかすみの胸など見てるから、一体どういう趣味のヒトかと一瞬驚いたが、
「『あ、はい大丈夫です』」
 揃って頷いた二人に、シンジが少しだけ口許を緩める。
「ドクトルシビウの治療なら大丈夫、今夜一晩寝てれば治るよ。そうそう、治療代は要らないと院長が言ってたから、朝の朝食はフルコースでも何でも頼むといい」
 別にそんな事は言ってないが勝手に請け合うと、
「じゃ、おやすみ」
 ちらっと片手を上げて出て行く。
「『お、おやすみなさい』」
 慌てて椿と由里が頭を下げたが、かすみはシンジの気が入ってきた時よりも緩んでいるのに気付いていた。
 それはきっと自分の胸を見た事、そしてそこに何かを見つけなかった事に関係あるのだろうとは思ったが、それが何なのかまでは分からなかった。
 それがある種の傷であることを、無論かすみは知らない。
 しかも、それは吸血鬼の呪痕だなどと知ったなら、おそらく卒倒してしまったに違いない。
 廊下に出たシンジは、天井を見上げてふうっと息を吐き出した。
「これで麗香を灰にしなくて済む」
 とんでもない事を口にしたシンジだが、シビウは吸血の痕など無いと言ったではないか。
 やれやれと安心して歩き出したシンジだが、
「私を信じていないとは−許せないわね」
 監視カメラの向こうで院長が、艶を含んだ危険な声で呟いたのは聞こえていない。
「ん?」
 ふとシンジが何かを感じたように立ち止まった。
 見ていたシビウが、
「レンズ越しでも気付くとはさすがね」
 感心したように言ったのだが、シンジが立ち止まった理由はそこには無かったのだ。
 
 
 
 
 
 青→赤→紫。
 三色に変わったところで、やっとアスカは首を放した。
 正確には、身長差で絞めるのに疲れたと言った所が正解だろう。
 大体二人の差は二十センチほどもあるのだから。
「あー、死ぬかと思った」
 あっさり顔色を元に戻してから、
「何をそんなに怒ってるのさ」
「あんたねー!あたし達を心配させといて二人きりで楽しくお買い物?住人を何だと思ってるのよっ」
「別に」
 刹那アスカの表情に危険な物が浮かんだが、何とか意志の力で抑えた。
「本当はもっと早く帰る予定だったんだけど、お姫様に色々と用事が多くって、でも何で心配したの?」
「はあ?」
「シンジ付きだと、そんなに弱くはないと思うんだけど」
「そ、それはその…」
 まさかあんたが怪しいなどと言うわけにも行かず、
「だ、だって連絡もないしさ、も、もしかしたらすみれが足引っ張るかも知れないじゃない…」
 しかし、あまりにこれは苦しすぎた。
 ピン、とすみれのアンテナが立ち、
「ちょいとアスカ、今なんて言いましたの?」
 むくっと起きあがると、ギヌロとアスカを睨んだ。
「い、いやその…」
 詰まっているアスカを見かねたのかどうかは不明だが、
「碇さん、そこに積んである箱は何なんですか?」
 口調は穏やかだが目は笑っていないさくらが訊いた。
「何ってイロイロとお買い物を−」
「楽しかったみたいですねえ」
 すうっとさくらの眉が上がっていくが、シンジは黙ってそれを眺めてから、
「さくらも今度一緒に行くか?」
 どこか温度の下がった口調で訊いた。
「え?」
「すみれと全部同じコースなら構わないが、それで良ければ」
(あ…)
 その言葉と口調に、アスカとさくら、それにアイリスもすっと覚めていった。
 シンジの言葉が何を意味しているかに、朧気ながら気付いたのだ。
 しかし、それにしてはすみれが別段負傷している様子もない。
 どう言うことかと、全員が内心で首を捻った時、
「もう、その辺でいいでしょう」
 黙って見ていたマユミが初めて口を挟んだ。
「もう夜も遅いし、すみれさんも今日一晩は安静でしょう?」
「え、ええ」
「だったら尚更です。アイリスだって明日は学校あるんだから、もうそろそろ帰るようにしないと」
 てきぱきと、と言うか何となく強引にまとめると、
「碇さん、誰とお出かけになっても構いませんが、今度から女神館の方に連絡くらいは入れて下さい」
「あ、はい…あれ、携帯は?」
「電源が切ってありましたが」
「あ、そうでした」
 自分で切ったのを思い出したらしい。
「さてと、すみれさんも無事だったし、これで引き上げますよ」
 アスカ達も、シンジの誘いの言葉で何となく事情が読めたから、これ以上言う気は無くなっていた。
 何より、今回シンジの取った行動は裏があると、女神館で頭を付き合わせてあれこれ議論した結果結論が出ており、すみれの姿がそれを雄弁に物語っている。
 かと言って、外傷も無さそうだし単に寝ているだけにも見え、事情はさすがの彼女達にも皆目不明であった。
 ただ一人何か言いたげなのがレイだったが、これも何も言わずに黙って引き上げた。
 全員がぞろぞろ出て行きかけて、
「あれ、シンジはどうするの?」
「今夜は不寝番」
「…あ?」
「いえ、あのすぐ帰ります」
「さっさと帰ってくるのよっ」
 そこだけは妙に語気強く出て行ったが、最後になったマユミが、
「と言うことで碇さん、例の件はよろしく」
「あ、はいはい」
 パタン、と病室の扉が閉められた。
 それを見送ってから、
「さてと、すみれちゃん」
「な、なんですの?」
「さっきフェンリルが戻ってきた」
「フェンリルさんが?」
「すみれの所の執事、あれを箱に詰めて送りつけてきたらしい」
「執事…宮田を!?」
 さすがにすみれも一瞬顔色が変わったが、
「そ、それで…」
「別に。ただそれだけ」
「い、碇…さん?」
「分からないかな」
 窓の外の月光に目を向けると、
「すみれには悪いけど、俺は格式とか財産とかどうでもいい。普通に生活するのに足りる金額、それを自分の手で稼げれば十分だ。俺から見れば神崎財閥は、そんな事に汲々としているように見える」
「……!」
 ここで黙っていたことはすみれの成長を示しているが、シンジが来てからの物だと知れば屋敷の者は驚愕するかも知れない。
「その財閥のトップ二人に取って俺がどう映るか、いやその前にすみれをどうしようと思うかって事だ」
「わ、わたくしを連れ戻す…とお考えですの?」
「想像は難しいがそれを無理して想像、つまり俺をトップの位置に置くと必然的にその答えが出てくる。すみれはその時どうするの?」
「わ、わたくしは…きゅ、急に言われても…」
 シンジの言葉は、実家が富豪なのは一応同じだとは言え、生活の大部分を実家に頼っているすみれには、到底重い物であった。
 自らの言葉を実践、すなわち必要経費は自分で生産できるシンジならではの言葉だったのだ。
 ただ、シンジの場合には能力的に、収入は普通の数倍から十倍を超える物になる。
 それだけに普通を当てはめるのは、やや無理があるかも知れないが。
 俯いたすみれだが、その視線が布団の上を彷徨っているのは、それだけショックが大きかったのだろう。
 二者択一で実家に戻ることを選べばここには居られない−それはすみれも分かっていたのだ。
 俯いたすみれには視線を向けず、シンジは黙って外を眺めていたが、ふっと視線を戻した。
「俺は管理人だし、住人に望まぬ災禍が及ぶなら食い止めなくちゃならない。でも、自ら世界を変えることを選ぶなら、それに口出しするほど俺は厚顔じゃない」
 止めて欲しい場合もある、それは無論シンジも分かっていたが、口にはしなかった。
 そう、例え自分の言葉がそれだけの影響力を持っていたとしても。
「い、碇さん…」
 数十秒経ってすみれが、か細い声でシンジを呼んだ。
「何?」
「わたくしは…わたくしは…」
 不意に、ぎゅっと袖が掴まれた。
 すみれが俯いたまま、シンジの袖を捉えているのだった。
 どこかさっきのかすみと似ているが、根本的に違うことがあった。
 すなわち、シンジの反応である。
 十秒も経たない内に、シンジはすっと袖を離させたのだ。
 黙って頭を撫でたさっきとは大違いだ。
「ここの病院の防衛は絶対だ。少なくともここに居れば絶対安心だし、いますぐにどうこうと言う事でもあるまい。今日は疲れたでしょう、ゆっくりやすむといい。じゃ、おやすみ」
 黒髪を翻して出て行くシンジの後を、
「い、碇さん…」
 思わず宙に手が伸びたが、それが力無く垂れる。
 弱々しく下を向いたまま、すみれは彫像のように硬直していた。
 
  
 シンジが廊下に出るのと、すっと影が寄り添うのとが同時であった。
「具合は」
「左右の肋骨が、それぞれ対象に折れています。間抜けな人間共が大騒ぎしていましたわ」
「そうか」
 軽く頷いた歩き出したシンジにフェンリルが続く。
「フェンリルならどうする?」
 数メートル行った所で、ふとシンジが訊いた。
 主語と述語が明確ではない問いだったが、
「男は父と母を離れて−確か聖書(バイブル)にそんな記述があった筈ですわ」
「…うん」
 何故か気乗りのしない返事の主に、
「後悔してるの?マスター」
 いつもの口調に戻って訊いた。
「そうじゃないよ。ただ、すみれはもしかしたら、住人達の中では一番弱いのかも知れないと、ふっと思ったんだ。だとしたら、まだ訊くのは無理があったかも知れないな」
「でも、いつかは必ず来る事だ。人間の基準で富豪とは言え、一代で創り出した物など刹那も同然よ、マスター」
「それともう一つある」
「なに?」
「すみれと食事していた時の会話だが、あれは家の敷いたレールで行く従順なお嬢様の物だ」
 と、すみれが聞いたら激怒しそうな事を言った。
「それでマスターはどうしたいの?」
 にゅう、と巻き付いて来た腕を避けようとはせず、
「考え中。結局、帝都は花組の乙女達が守った、そう言うことにしておきたい。無論館のメンバーも含めてね。だとしたら、やっぱりすみれは外せないだろうし」
 考え込んでいる主に、巻き付く腕の力が少し強くなった。
「相変わらず欲がないんだから。あたしとマスターだけで片が付く相手だってのに、まったくもう」
「帝都を救った、そんなプライド持ったマスターが欲しい?」
「要らない」
 これもあっさりと首を振ると腕を外した。
「でもマスター、おかしな逡巡は命取りになりかねないぞ。まして、あの小娘達には格上の相手なんだから」
「でもね、楽しみではあるのさ」
「楽しみ?」
「個体では敵わなくても軍隊にすれば無敵−そんな対降魔用の部隊を作れたら楽しいじゃない」
 自分は表舞台ではなく、あくまでも女神館のメンバーを立てると言う一方で、彼女達を対降魔用の部隊に仕上げるのは楽しみだと言うシンジ。
 その言葉を聞いて、美女の形を取った妖狼の口許にゆっくりと笑みが浮かんできたのは、十秒ほど経ってからの事であった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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