妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第四十五話:晴れ、所により一時アイリス(前)
 
 
 
 
 
「んー、いい天気」
 雲一つ無い快晴に、日光も燦々と降り注いでいる。
 無論、ここ女神館も例外ではないが、今日の日光はそこに奇妙なものを照らし出していた。
 死骸か何かのように、べしゃっと潰れている物体を。
 シンジだ。
 洗濯でもしようと思ったら、家の方からメイドさんが洗濯物を取りに来た。
「若君が家事など以ての外です」
 と有無を言わさず持って行かれてしまい、空いた手をわきわきさせていたのだが、ふと誰かの視線を感じて空を見たら、太陽がじっと見つめていた。
「俺に紫外線を当てる権利を与える」
 天をも恐れぬ台詞を吐くと、ふわふわと宙に浮き上がり、そのまま屋根の上で横になった。
 フェンリルを枕にしようと思ったが、
「直射日光は毛皮に悪い」
 と言ってさっさと引っ込んでしまった。
 仕方ないから、腕を枕代わりにして横になるとそのまま、すやすやと寝息を立て始めた。
 観光地から渡航自粛地帯まで、あらゆる所をうろうろしているだけあって、どこでも寝られるタイプらしい。
 その辺りは、すみれと根本的に違う所だ。
 漆黒の髪が、日光を浴びて更に艶めいて見えた。
 
 
 
 
 
「ただいま〜、あれ?」
 イリス・シャトーブリアン帰宅。
 が、誰もいないのに首を傾げた。
 無論シンジがいるとは言ってないが、確かに気配はあるのだ。
 でもいない。
「あれ〜おにいちゃん?」
 自分の帰宅を知り、さっと隠れた訳でもないはずと辺りを見回す。
「うふふっ」
 にっこりと笑った次の瞬間に、その姿がすっと宙に消えた。
 
 
「やっぱりいた」
 小さな声で呟いた先には、それはもう気持ちよさそうに寝ている、シンジの姿があった。
 日光を好きなだけ吸収しているその姿は、傍目にもとても快適に見える。
 そーっと、足音を消してゆっくりと近づいていく。
 が。
「何の用?」
 一メートルまで近づいた時、不意に声を掛けられて、身体がびくんと震えた。
 まさか、起きているとは思わなかったのだ。
「あ、あ、あの…」
「アイリスか。どうしたの?」
 怒っていない声にほっとして、
「お、おにいちゃんがこっちにいると思って…」
「何かあった?」
「ううん、そうじゃないの」
 シンジの姿勢は変わらないが、ふるると首を振って、
「ア、アイリスも、い、一緒にいていい?」
 ちょっと首を傾げて訊く。
 この、ほんの少し首を傾けた姿は、舞台挨拶ではいつも歓声の元になるのだが、あいにくと対象はまだ下を向いたままである。
「ぬいぐるみはどうした?」
「ジャンポールならお部屋だよ」
「そう。じゃ、いいよ」
 やっとこっちを見た。
「うんっ」
 嬉しそうに腰を降ろしたが、さすがにこんな場所でシンジに寄りかかるのは躊躇われて、膝を抱いて座っている。
 シンジはぼんやりと下界を眺めていたが、
「身体はもう治ったの?」
 と、思い出したように訊いた。
 フェンリルの出した脇侍の前に、アイリス達は完全な劣勢に立たされた。
 さくらは三体だが、アイリスは一体を浮かせて投げるのが精一杯だったのだ。
「もう大丈夫だよ、ほら」
 まくって見せた袖からは、真っ白な二の腕が見えているが、そこにも何カ所か痣はあったのだ。
 とは言え、フェンリルが無理にやれと言ったのではない事を、シンジは知っている。
「嫌ならやらずとも良い。力量を知っておきたいなら、お前達が自分で選ぶがいい」
 訓練だとは言え、まだまだ低レベルな彼らにはきつい。
「やらない、とは言わなかった筈だよ」
 選択肢を出したフェンリルだが、住人達の反応は読んだ上だったらしい。
「やっと綺麗になったか。良かったね、アイリス」
「うん…」
 頷いたが、どこか歯切れが悪い。
「なに?」
「あのね、アイリス何も出来なかったの。アイリス邪魔になってなかったかなあ」
「大丈夫だよ」
「え?」
「子供にしてはよくやった、フェンリルがそう言っていたから。それにアイリスは、搭乗戦闘専用でいいんだから」
「もうおにいちゃん、また子供ってゆった」
「俺じゃなくてフェンリル。フェンリルから見れば、ここの住人はどれも子供だよ。神々の末裔に、人間達など微々たるものさ」
「神様?」
「そう、神様」
 シンジは頷いて、
「目に見えない、不可視のものだけが神じゃない。人の形もまた、神のそれから取ったものなんだから」
「ふーん」
 分かったのか分からないのか、曖昧な顔をしていたが、
「じゃ、さくら達も子供なの?」
「子供に毛が生えた位かな」
「じゃあ、いいの」
 納得したらしい。
「でもおにいちゃんは大人なの?」
「今度訊いてごらん、おにいちゃんは子供ですかって」
 アイリスに言われて気付いたが、中身はともかく身体の古さ自体は、さくら達と変わらないシンジなのだ。
 とある単語が浮かんだが、口にするのは止めた。
「寝てみたら?」
 シンジの言葉に、アイリスがおそるおそる身体を横たえていく。
 普通よりも高い位置のここは、シンジの部屋よりも更に新宿の街を見渡せるのだ。
 都庁の方を眺めながら、
「ねえおにいちゃん」
 ふとアイリスが呼んだ。
「ん?」
「最初はおにいちゃん襲われてたのに、もうみんなしないんだね」
 なぜか、その顔はシンジの方を見ていないと、雰囲気で知った。
「何時までも襲われるのはやだよ」
 が。
「餌付けしたの?」
 その言葉に、シンジがにゅうと起きた。
「こら子供、今なんて…あれ?」
 こっちを見ているアイリスだが、どこか表情がおかしい。
「どうしたの?」
 そっと聞いてみると、ぷいっとそっぽを向いた。
(重症だ)
 と言っても、無理に聞き出す訳には行かない。
 しかも、自分が関心を無くしたら、反応はほぼ見えている。
 これは気の長い話だと思ったら、
「…アイリスだけなのに」
 ちょっと口をふくらませたまま言い出した。
「なにが?」
「おにいちゃんがマユミの胸触ったのは知ってるよ。だけど、人間じゃないと思ってたんでしょ?」
「ああ、あれ?そうだよ」
 誰が教えたんだと思いながら頷くと、
「マユミが怒るのは分かるけど、みんなでおにいちゃんを追いかけて。それにアスカとすみれなんか、おにいちゃんに決闘だって言ったでしょ」
(?)
 内心ではてと首を傾げたが、三秒後にピンと来た。
 ただし、言わせた方がいいだろうと口にはせず、
「アイリスだけがかばってくれたね」
「そうだよ。それにさくらだっていきなり斬りかかったのに、おにいちゃんにべたべたしちゃ…あっ」
 半身を起こしたシンジが、膝の上にひょいとアイリスを乗せたのだ。
「アイリスはいい子だからね。さ、ここでいい?」
 他の者がしたら、結果の見えない所行だが、アイリスはにっこり笑って頷いた。
「うんっ」
 文字通り、天真爛漫な笑顔。
 だがシンジは、すでにアイリスの過去は知っている。
 そう、外聞を気にする愚かな両親達に、人形達と共に幽閉されていた事も。
 幼い娘が本来持っていたそれを、どうやって取り戻したのか。
 おそらくはフユノであり、ミサトであろう。
 ここのアイリスを見る限り、エヴァに乗る事を嫌がりもせず、他の住人達とも溶け込んでいる。
 しかし、本来なら無用の事であり、それをせねばならぬ環境に娘を追い込んだ、愚かな親の事が脳裏に浮かんだとき、シンジの眉は僅かに寄っていた。
 と、アイリスが気付いた。
「おにいちゃん、どうしたの?」
「なんでもないよ」
 軽く首を振って、
「ところでアイリス、さっきの話だけど」
「さっきの話?」
「そう、餌付けがどうのって。みんなの反応が、あっさりと変わったような気がしたんだけど」
「能力だよ」
「能力?」
「アイリス達はみんな、降魔退治で集められたけど、能力にはそんなに差がないの。アスカとすみれが、本気で喧嘩しても相打ちで終わっちゃったし。みんな、力の意味は分かっているし、それをおにいちゃんが持っているって分かったから」
「でもそれにしては、アスカとすみれももっと仲良くてもいいと思うけど」
「どう言うこと?」
「例えばアイリスが荷物を運ぶとき、一人より二人の方がいいでしょ?降魔との戦闘ならもっとだ…え?」
「わかってないのね、おにいちゃんは」
 ノンノン、と生意気に指を振って見せると、
「女同士ってむずかしいんだから。色々とたいへんなのよ、女は」
「はあ…いでで」
 妙に大人びた口調に、唖然としていたら、いきなり頬を引っ張られた。
「アイリスのこと、子供の癖にって思ったで…あう」
 今度はシンジが逆に、アイリスの頬をきゅうっと引っ張った。
「じゃ、どうして何もしなかった」
「え?」
「分かっているなら、さっさと手を打つべきだった筈だよ」
「そ、それはそうだけど…」
 確かに、シンジが来て一月もしていないのに、波乱があったとは言え、みるみる集束させ出している。
 だとしたら、その前にいた者達が何をしていたのか、と言う事になる。
「なんてね」
「えっ?」
「アイリスに言ってもしょうがないし。アイリスはお子さまなんだから」
「もー!」
 が、ぷーっとふくれるかと思ったら、きゅっと寄りかかってきた。
「おにいちゃんのお膝は、子供しか座れないんだよね?」
「いや、別にそんな事は…はい」
 何も考えずに言ったのだが、じーっと見上げてくる瞳に、何故か強迫観念を感じて思わず頷いた。
 意味が分かったのは、
「じゃ、ここはアイリスの指定席ねっ」
 その言葉を聞いた時であった。
 子供席を、それも自分専用の席を作りたかったらしい。
 うっすらと笑って、
「ところでアイリス」
「なあに?」
「どうしてそんなに、子供扱いされるの嫌がるの?精神年齢以前に、肉体年齢はまだまだ子供の領域だよ」
 とんでもない事を言いだしたが、アイリスは怒らなかった。
 むしろ真顔で、
「本当はね…よく分からないの」
「?」
「ここに来るまではね、大きくなったら自分で生きていけるんだって思ってたの。他の人に迷惑かけたりしないで、生きていけるんだって。でもね、ここに来たら分からなくなったの」
「馬鹿ばっかりって事?」
「そ、そんなんじゃないけど…でも、すみれとかすっごくお金持ちだけど、それはお家の事だし、お父さんの事を嫌がっていても、やっぱりそれを使ってるの」
「要するに、独力で生きている気がしない、そういうこと?」
「うーん…ごめんね、よく分からない。だけど、アイリスが思っていたのとは、少し違うような気がするの」
 幼い少女の言わんとする事は、シンジにはそのまま伝わった。
 世間の目を気にし、力を持って生まれた娘を幽閉するような親の下で育ち、アイリスは自分の存在が迷惑だと思いこむようになったに違いない。
 そして早く大きくなることで、一人で生きていけるのだと、心に強く思っていたのだろう。
 だとしたら、ミサトが強権発動せずとも、ここへ連れてくるのは容易だったかもしれない。
 しかしここへ来てみれば、年齢は大人に近いメンバーがいたものの、自分の思っていた像とはやや異なっていた。
 特にすみれは父親を嫌っており、どこか自分に近い物を見いだしたのだが、これも生活はすべて家からの物に頼っている。
 無論他のメンバーも、一部を除いては実家から仕送りされたりしているのだが、すみれの場合は嫌っているのを知っているだけに、どこか理想と現実の差を見たような気がしていたのだ。
(この子は?)
 ふと気になったシンジは、
「アイリスは、生活費はどうしてるの?」
 訊くと、
「おばあちゃんがね、使いなさいってカードくれたの。本当はミサトお姉ちゃんが、あんな馬鹿親にって言ったんだけど、おばあちゃんにぽかって叩かれたの」
 それを訊いた時、思わずシンジの口許が緩んだ。
 碇ゲンドウ・ユイ。
 いずれも尋常ではない霊力を持っており、その間に獅子から鼠が生まれる事は無かった。
 シンジもミサトも、その能力を親やその辺から疎まれる等という経験は、一度もした事がない。
 勿論それは、彼らの他人を見る視点にも繋がっているのだが。
 ましてアイリスは養子ではない。
 自分達の分身である娘が、尋常ではない力を持った為に幽閉した事は、ミサトからすればおそらく許せなかったに違いない。
「そんな事するなら最初から産むべきじゃないわ。セックスを楽しんで置いて、結果が望ましくなければ排除する?ふざけるんじゃないわよ」
 ミサトのことだから、これくらいは十分言った可能性がある。
 しかもその口調が、シンジにはあまりにもリアルに想定出来た。
 無論碇フユノという、それをどこかで抑える存在がなければ、とっくにあちこち敵を作っていたに違いないのだが。
「姉さんも、たまに暴走するからな。ところで、アイリスは好き?」
「ミサトお姉ちゃん?大好きだよ」
「どの辺が?」
 繊細、とはあまり縁がないミサトと、押しただけで壊れそうな部分を持っているアイリス。
 接点が、と言うよりも恐らくは扱いの部分であったろう。
 予想通り、
「アイリスのこと、最初から子供扱いしなかったから。ちゃんと、おんなじ感じで見てくれたの」
 視線を対等に、とそれはそれで分かるのだが、
「じゃ、子供扱いしてる俺はいいの?」
 と膝上の姫に聞いた。
「いいの」
 あっさりと返ってきたのには、シンジも少し驚いたが、
「どうして?」
 重ねて聞くと、
「おにいちゃんから見れば…アイリスは子供なんだって分かるもの。だけどアイリスを子供って言っていいのは、おにいちゃんだけなんだからね!」
「分かってますよ、アイリス」
 分かってる、とも子供とも言わなかった。
「ところでアイリス、俺だけって言う事は」
「うん?」
「他の誰かが言ったらどうなるの」 
 うふふふ。
「その答え、知りたい?」
 見上げたその笑みに、シンジのどこかが触れた。
「えーと…」
 0.2秒考えて首を振った。
「遠慮しておきま…何?」
 ふと、アイリスがある一点をじっと見ているのに気が付いた。
 すなわち、自分の唇を。
 シンジの口許をじっと見つめていたアイリスが、
「あの、おにいちゃん…」
 遠慮がちに口を開いた。
「ん?」
「このあいだ…アイリスの頬にキスしてくれたでしょう。あれは…おにいちゃんだったの?」
 どきりとするような声でアイリスが聞いた。
「どうして?」
 と変わらぬ声で聞き返せたのは、フェンリルとの付き合いのおかげである。
「なにか…なにか違うような気がするの。あれは…本当におにいちゃんだったの?」
 真摯な口調に、シンジは一瞬だけ空を見上げた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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