妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第三十七話:カニと桜と女の意地−アスカ玉砕(前) 
 
 
 
 
 
「で、どうだ?」
「申し訳ありません若様。それがまだ…」
「そうか」
 受話器を持ったまま、シンジは刹那宙を見上げたが、
「やむを得んな。いいよ、今回はこっちで全部やる。葉ちゃんいないと、いまいち締まらないからな」
「申し訳ありません」
「いいよ、気にするな」
 電話を切ったシンジに、
「あの娘、まだ戻れないの?」
「うん、無理だね」
 シンジは頷いて、
「医術を拒むご母堂−シビウ病院とて、治癒の手を拒む患者は治せんよ。絶対に」
 勝手に断言したが、横を歩くフェンリルの表情は肯定を示していた。
 癒す、その単語に必要なのは技術でもなく、愛情でもない。
 そう、患者の治癒を求める心なのだ。
 綾小路葉子が、倒れた母の看病に出雲へ発ってから、もう数ヶ月になる。
 だが依然として、葉子がこっちへ戻れる気配はないと言う。
「で、マスターどうする?」
「セリフコントロール」
「は?」
「いや違ったセルフコントロールでやってもらおう。ま、無礼講だから」
「器具の搬入はどうするの」
「ナースを使う。器具の運搬なら慣れてるだろ」
 ろくでもない事を言って、再度電話機を取った主の顔を、フェンリルは眺めていた。
「…セルフサービスだと思ったが」
 呟いたのは、熟練した看護婦に宴会の材料を運ばせるべく、シンジが院長と交渉を開始してからであった。
 
 
 
 
 
「さて、全員座ったね」
 桜の花びらがひらひらと散っている中、全員が席に着いたのを確認してから、シンジは口を開いた。
「先日の降魔撃退は、急な初陣にも関わらず、各人良くやってくれた。と言うわけで蟹を用意しました。以上」
 言われずとも、既にテーブルの上には笊に乗った蟹が、それがもまだゆであがっていないタラバガニや毛ガニが、所狭しと乗っているのだ。
 その横を見ると、これも平皿をずらりと埋めているのはホタテ貝。貝の大きさからして尋常ではない。
 更に奇妙なのは、その飲み物であった。
 各人の年齢を考えても、二十歳を超えているのはあやめとかえでのみ。
 椿達とて、シンジより一つ上だからまだ十九歳。
 アイリスに至っては、まだ十一歳である。
 それなのに。
 テーブルの上には、何処を見てもジュースの類、要するにノンアルコールの飲み物が見あたらないのだ。
「あ、あの碇さん…」
 さくらが遠慮がちに手を挙げた。
「何」
「あ、あのう、の、飲み物がその…」
 当然のセリフだが、
「この中に子供いるか?」
 奇妙な事を言いだした。
 手は上がらない−誰一人として。
「と言うことだ」
「はい?」
「お尻の青いお子様ならともかく、大人にそんな物を出すわけには行くまい。ね、アイリス?」
「ふえっ?う、うん、勿論だよっ」
 当然ながら、アイリスが子供扱いをもっとも嫌うと知っての上だ。
 相変わらず邪悪である。
「さて、そう言うわけだから、今日は無礼講でやっちゃうように。ただし、喧嘩だけはしないようにね」
 酔っぱらい防止、みたいな言い方だが、無論誰のことかは分かっている。
 シンジが言い終わらない内に、
「はーい」
 妙に甘い声と共に、アスカの手が上がった。
「何?惣流」
「ま、これはこれでいいけどさあ、一人この場には相応しく無い方がいるんじゃないかしら」
「ほう」
「あたし達が命がけで戦っていたのに、一人夢の世界におられた方が、なんでここにいるのかしらねえ」
「俺のこと?」
「ちがーう!そこの高飛車な女の事よっ」
 が、
「異議あり」
 これには言い返せず、俯きかけたすみれを視界に入れて、シンジが手を挙げた。
「高飛車、なら第一人者の称号は惣流に進呈しよう。ドクトルシビウ、その名を冠する医師がずっと一緒にいたら、間違いなく今頃は解体新書の材料になっているぞ」
 シンジは静かに告げた。
「くっ」
「それともう一つ、さくら」
「は、はいっ?」
「脇侍の片づけ数では、トップは真宮寺さくらだ。が、世話の焼かせ度もさくらがトップだ」
「は、はい…」
「惣流、言って置くが俺は別に、功が云々と言う事を言うつもりはない。純粋な功で言うならば、今頃俺はどこぞで飲んでいなけりゃならないからね」
 おかしな事を言うと、
「厳密な意味で言えば、敵の親玉が出た時点で起きていたのは山岸だけだ。起きていなければ、功も何もあるまい。とは言え、これは最初であって終わりではない。取りあえず敵のボスを十匹近くは倒す必要がある筈だ。惣流、その時単騎ですべて倒してのけるか?」
 怒った様子もなく、シンジは穏やかに訊いた。
 或いは、アスカのセリフなど最初から予想していたのかも知れない。
「……」
「確かに前線に出るなら、花組の力は群を抜いていよう。とは言え、この館が焼き討ちされても困る。その時には、惣流を始め…こらそこの目が赤い奴」 
 びくっ。 
「な、何っ」
「勝手につまみ食いするんじゃないっての」
「う、うん」
 我慢できなくなったのか、にゅっと指を伸ばしかけたのは無論レイである。
 そして、
「我慢しなさい」
 肘で一撃を入れたのは、マユミ。
 住人の中では、良心に近いかも知れない。
「話を戻す」
 軽く咳払いして、
「前衛は花組のメンバーとして、後衛は、つまりここの守りは惣流達の力が要る。それだけは忘れないように。いい、惣流?」
 シンジがいればいい、事実を言えばそれが正論である。
 シンジの名があれば、戸山住宅からも強力すぎる程の助っ人が、即座に駆けつけて来よう、シビウとて見物人に身をやつす事はあり得ない。
 が、あえてシンジはアスカ達の力が必要だ、と言った。
 無論、アスカのプライドも考慮に入れた上である。
 そこまでは通じなかったが、満座の中で恥をかく事にはならずに済んだアスカ。
「…わ、分かったわよもう。そ、そこまで言うなら協力してやるわよ」
「結構だ」
 頷いて、
「じゃ、後はそれなりにそれなりして好きに食べて」
 シンジの言葉が終わると同時に、レイが最初に手を伸ばした。
 たっぷりと身の詰まった脚を、釜の中に放り込む。
 続いてさくら達も。
 が、その一方で手が出ないのもいた。
 無論あやめであり、かえでであり、そしてかすみであった。
 仕方あるまいと、
「椿」
「はい?」
「かすみも甲殻類は得手じゃない筈だ。食べ過ぎで、膨れさせてから帰して。いいね」
「あ…は、はいっ」
 取りあえずそっちは良しと、
「こらそこの二人。何をしている?」
「…い、いえあのこれは…」
「指揮官が、空腹でぼんやりしていると良い案は浮かばない。ほら、さっさと食べる」
「え、ええ…」
「今日は、二十人分以上は用意してある。言っとくけど、残ったら二人にはお仕置きだからね」
「『お、お仕置き?』」
「そう、お仕置き」
 と、ぐつぐつ煮えたぎっている、一番大きな釜を指した。
「あの中でダイエットしてもらう」
「い、い、頂くわっ」
 慌てて手を伸ばしたのを見て、
「当然だ」
 ん、と頷いた。
 
 
 
 
 
「ただいま、戻りました」
「ご苦労様。それで、様子はどう?」
「蟹が大量に届いておりました」
「宴会、ね。さすがは私の想い人、人の好いこと」
 重労働に借り出されたナース達だが、音を上げるような者は一人もいない。
 皆、シビウ病院の選び抜かれた精鋭達なのだ。
 無論事情は伝えてあるが、シビウは呼ばれてない。
 呼んだら回りが卒倒するのは分かっているせいだが、
「そろそろつけもたまってきたようね。さて、何時返して貰おうかしら」
 どことなく冷たい声に、ナース達の背が一斉に固まった。
 これだけ、そうこれだけは駄目なのだ。
 恐喝目的のやくざが病院に訪れても、顔色一つ変えずに片づけを命じる院長だが、この碇シンジの名前だけは。
 しかも、これがまたシビウと並べても合うと知っているだけに、看護婦達は奇妙な恐怖に襲われるのだった。
 果たして…来た。
「冷たい想い人を振り向かせるには、どうしたらいいと思う?」
 精神科の婦長は、急速に体温が下がったような気がした。
 
 
 
 
 
「うーん」
 腕を組んだまま、シンジは首を傾げた。
「蟹にしたのは失敗だったかな」
 別に取り合っている訳ではないが、全員が無口なのだ。
 そう、ひたすら蟹と格闘する為に。
 鋏は良く切れているし、中身も楽に取り出せる。
 なので、消費される量は進むものの、口数は極端に少ない。
 既にアルコールは回っており、アイリスまで一杯空けたものの、またすぐ蟹に取りかかった。
 とまれ、全員が無心に取り組んでいるから、その意味では成功したと言えるのかも知れない。
 がしかし。
「はあい、優等生」
「こんどはなに」
 棒読みしたシンジに、
「天才の碇さんには、わたくしめがお注ぎ致しますわ。さ、どうぞ」
「うん?」
「確かにあんたは強い。でも、こっちはどうかしらねえ」
 絡むような口調に、一瞬視線が集まる。
 だが、シンジが、
「惣流に負けるほど弱くないよーだ」
 逆に挑発するように言ったものだから、アスカの眉がぴっと上がった。
「じょ、上等じゃない。じゃ、賭けなさいよ」
「賭け?」
「そう、あんたが勝ったら何でも言うこと聞くわ。今度は…」
 一瞬躊躇ったが、
「何されてもいいわっ」
 大胆に言い切った。
「ちょ、ちょっとアスカ…」
 レイが言いかけたが、シンジは視線で抑えた。
「いいよ、受けよう」
 あっさりと応じたが、その口許にはかすかな笑みがある。
 アスカが持っているのは、無論シンジが用意した物だが、ワインではなくコニャックである。
 それも、ナポレオン。
 元々、コニャックとアルマニャックは仏蘭西の二大ブランデーとして有名だが、付いている名称はよく寝た順である。
 短いのはV・S・O・Pがあるが、これはよく見かける物だ。
 ナポレオンは上級だが、実際にはこの更に上がある。
 とまれ、アスカが挑んだ代物は、グラン・フィーヌ・シャンパーニュ、名前通りその区域から摘まれた葡萄をフルに使った物であり、結構なお値段である。
 グラスから、芳醇な香りが付近にまで広がり、
「い、行くわよっ」
「どうぞ」
 二人同時にグラスを傾けた。
 
 
「ねえ、すみれちゃん」
「何ですの」
「あの二人、放って置いていいの」 
「アスカさんがどうなろうと、わたくしの知った事ではありませんわ」
「そうじゃなくてさあ」
「え?」
「シンちゃんよ、シンちゃん。もし負けたら、アスカの奴隷になっちゃうかも知れないよ」
 だが、
「ほーほっほっほ」
 口許に手を当てて笑い飛ばした。
「どうしたの?」
「碇さんが、あんな小娘に負ける訳無いでしょう。この、このわたくしでさえも…」
 最後の方は小さくなって聞こえなかったが、
「ふうん、随分とシンちゃんの肩持つん…いたっ」
 余計な事を言ったせいで、蟹の脚が勢いよく飛んできた。
 それも、身が詰まっている鋏の部分が。
 
  
 そして二十分後。
 
 
「まあ、こんなものか」
 不気味な顔色になっているアスカを、シンジは変わらぬ表情で眺めた。
 ボトルはもう、既に三本空になっている。
 正確には、アスカがダウンしてからなお、シンジが空けたこの三杯目で空になったのだ。
 膝に乗っているアスカを見下ろして、
「すみれ」
「何ですの」
「俺が勝ったら、どうするって言った?」
「さあ?わたくしは興味ありませんわ」
「ふーん。じゃいいや、俺の愛人にでも」
 言いかけた途端、
「駄目ですっ!!」「何ですって!?」
「は?」
「さ、さくらさんあなたいきなり何を」
「す、すみれさんこそ、大きな声で…」
「さくらとすみれが、そこまで惣流を気にしてるとは思わなかったな。さて、と」
 シンジは立ち上がると、上着を脱いでアスカに掛けた。
「ま、寝かせておけば人間の顔色に戻るだろ。アイリス」
「なあに、おにいちゃん?」
 既に一匹平らげて、二匹目も半分位胃に消えているアイリスがこっちを向いた。
 あちこち、蟹の肉が飛んでいるのはご愛敬だろう。
「思い出したけど、俺はまだ食べていなかった。俺にもくれる?」
「うんっ」
 嬉々として放り込んだが、熱湯のしぶきが飛んだせいで、
「あっ、あっついようっ」
 慌てて手を振った。
 
 
「ちゃんと食べてる?」
 アイリスに貰った蟹をぶら下げて、シンジが来たのは藤枝姉妹の前であった。
「え、ええ頂いているわ」
「それは良かった」
「そ、それより碇君」
「ん?」
「あなた、あんなに飲んで大丈夫なの?コニャックは、普通よりもアルコール度が高いのよ」
「まあ、あれぐらいなら大丈夫。そんなに弱くはない」
「それならばいいけど…」
 かえでの、歯切れの悪い様子をシンジは見て取った。
「どうしたの?」
「あなたに…一つ訊きたい事があるの」
「俺に?」
「そう。姉さんとも話したんだけど…どうしてここまでできるの?」
「お前さん達の事?それとも、脇侍撃退能力のこと?」
 逆に聞き返したシンジだが、かえでの言葉は見抜いていたのかも知れない。
「その、私達のことよ」
 と、これはあやめ。
「普通なら…嫌いこそすれ、こんな事まではできない。それに、ここの住人にしたって、最初から受け入れたのはアイリスだけでしょう」
 どうやら、ここの事ももう知っているらしいあやめに、
「さて、ね」
 とシンジは言った。
「え?」
「ただ一つ言えるのは、俺は取りあえずある事を知っている、って事だ」
「『ある事?』」
「そう、碇フユノの人望みたいな物を、さ。帝劇の連中も基本的にはお婆のそれで集まったような物だし」
「え、ええ…」
「これが、碇フユノ抜きの話なら別だが、因がそれだ。それに何よりも、ここの住人達を使えば、俺が前線に出なくても良くなる」
 にやっと笑ったシンジだが、それが実状とは程遠い事を、二人とも良く知っている。
 何よりも、この場にはいないがマユミが聞けば、即座に首を振ったに違いない。
 ミクロを、敵のボスをその言だけで追い払うなど、シンジ以外に一体誰ができると言うのだ?
「俺も、あまり細かい事を気にしたがるタイプじゃない。取りあえず、俺の敵に回ると言うのでなければ」
 最後の語尾、そこだけ冷たい物が混ざったような気がして、二人の表情は刹那硬直した。
 が、
「取りあえず今日は暴飲暴食してもらう。さ、飲んで」
 手ずから二人のグラスに注ぐ。
「あ、ありがとう」
「一気」
「『え?ええ…』」
 甘露酒だけだったそこへ、辛口の白ワインが食堂を滑り落ち、二人の顔が急速に赤くなったのを見て、シンジはにっと笑った。
 あちこちで、もう食べ過ぎた姿を見て、シンジの表情が少し緩む。
 だがシンジの顔が緩むのと、耳に妙な痛みを感じるのとがほぼ同時であった。
「いたた…さくら?」
「ずいぶんと、こうゆうかんけいがひろくなったんですねえ」
 その左手に蟹のハサミ、右手に空になったグラスが握られているのを見て、シンジはちらっと天を仰いだ。
「さくら、酔ってるね?」
「酔ってません!」
 ぶん、とさくらが脚を振り回し、シンジは慌てて首を引っ込めた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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