妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第二十九話:寝てるヒト達と忙しい人
       
 
 
 
 
 カンカン、キンキン。
「もう、マスターうるさいよ」
「前から一度、やってみたかったんだ」
 別に金属を加工する作業を始めた、訳ではない。
 フェンリルを枕に…ただし女体のまま。
 結局フェンリルの胸を枕にすることで、深夜の騒ぎは一応の決着を見た。
 何度か胸の上で頭を弾ませて、
「ちょ、ちょっとマスターいたいって、あっ」
 奇妙な声も聞かれたが、数分もしない内に主従揃って眠りに就いていた。
 そして。
 現在時刻は午前九時を回っている。
 普段なら、三時間前にさくらやマユミが起きており、剣の修行を始めている筈だ。
 そしてこの時間はもう、とっくに全員が起きて食事は済ませ、学校へと着いている頃の筈なのだ。
 がしかし。
「ま、予想した通りだね」
「起きたら大したもんだよ」
 シンジが休校にする、と言ったせいもあったのか、誰一人起きてくる気配がない。
 原因は分かっている、疲れだ。
 もっと突っ込んで言えば、シンジのブレスレットが原因であり、住人はほとんどそれを身に着けたのだ。
 付けていないのはアイリスとすみれだが、すみれはまだ熱を出して寝込んでいるし、アイリスは年齢に不相応な疲労に襲われて、ダウンしているに違いない。
 他の面々はいずれも、ブレスレットを通して得た力に、身体の方がついていかなかったのだ。
 当然と言えば当然の結果だがその一方で、一人脇侍の残骸を山と築き、レニの実家を壊滅させたシンジはまったくピンピンしている。
 揃って食堂に降りてきた二人だが、当然のように何の用意もしていない。
「おなか空いた」
 とあまり、いや全然思っていなさそうな口調で言うと、食器棚から皿を取ってきて、スプーンとフォークで叩き始めたのだ。
 行儀悪いことこの上ないが、ここには誰もいない。
 ここで冒頭の台詞に戻るのだ。
 
 十回位も叩いただろうか、シンジは飽きたように放り出し、
「で、朝はどうする?」
「何か作りますわよ、マスター」
 が、こんな時フェンリルは本気で思っていない。
 シンジもそれは分かっているから、
「待つの面倒くさい。外に食べに行くぞ」
「わがままなんだから」
 そう言いながらも、立ち上がったシンジに腕を絡めて、フェンリルはぴたりと寄り添った。
 人目を勝手に引きつける美貌と肢体、それに加えてシンジとさして変わらぬ長身と来ており、絵にでも描いたような二人が寄り添ったまま、食堂から出ていった。
 だが、近所の喫茶店にでもと思った二人だが、結局行くことは叶わなかった。
 ちょうど門を出た所で、シンジの携帯が鳴ったのだ。
「俺様です」
「マヤです、お早うございます」
「あ、おはよう」
 と返したシンジだが、その声が緊迫しているのに気が付いていた。
「何かあったね」
「申し訳ありません、学園の理事長室までいらして頂けますか」
「すぐ行くよ」
 電話を切って、
「で、学園行きだ」
「予定ぐらい守れっての。まったくマスターは世話の焼けるやつなんだから」
 
 
 
 
 
 一方、高田の馬場にあるシビウ病院の院長室では、一般病院ではならば最重要扱いされるはずなのに、ここでは単なる個室に入れられた患者の容態が届いていた。
「二週間は絶対安静ですが、命には別状ありません」
 そう、碇フユノである。
 半分死にかかったような状態から、それを押して出かけたのだ。
 棺桶に入って戻ってきても、決しておかしくはない。
 いや、事実病院へ帰った途端、意識不明の昏睡状態に陥ったのだ。
 集中治療室への搬送は当然として、三途の川からこっちへ引き戻されたのは、ひとえにここの病院故だ。
 他の、と言うより普通の病院ならまちがいなく、今頃は遺族が呼ばれている事に違いない。
「これでもう、出歩こうとはしないだろうけれど、絶対に目は離さないようにね。もし動こうとしたら、最終条項の適用も許可するわ」
 魔力すら帯びた美貌の女医の口から出た言葉、それはこの病院に於ける患者の扱いや、或いは侵入者に対する規定の事であり、最終条項とは文字通り手段を問わない事を言う。
 一度漏れれば間違いなく区民が、いや全都民が発狂しそうな心霊兵器の使用は、最終防衛欄を突破した侵入者に向けられる物である。
 現在まで、セカンドラインを突破した者自体、一人もいないが。
 いずれも優秀な看護婦陣、及び護衛婦達の前に敗退を喫している。
 もしかしたら、警備にすべて女性を使っている事も、その一因としてあるのかもしれない。
 院長の厳命に、
「かしこまりました」
 総婦長は、深々と一礼した。
「よろしくね」
「はいっ」
 どこか、上司と部下らしからぬ応答だが、院長のこの言葉を聞きたいが為に、全職員が一命を賭しても厭わぬ事を、彼女は良く知っている。
 例えそれが、本当のそれはただ一人だけに向けられる物であることを、知っているとしても。
 そう、この院長が唯一、熱い吐息を吹きかける相手のためにしか、心からのそれは見せないのだとしても。
 
 
 
 
 
 ぶつぶつ言っていたが、それ以上強要することもなく、シンジとフェンリルは理事長室に着いた。
 既に、マヤとリツコは出てきており、
「『おはようございます』」
「おはよう」
 軽く返したシンジと、
「フェンリルさん、あの、ごめんなさい」
 謝ったマヤに、
「別にいいさ。下らん用事で呼んだ訳じゃないだろ」
「は、はい…」
「じゃ、紅茶二つ。私とマスターの分だ」
「はいっ」
 奥へ急いだマヤを見ながら、
「で、何の用だ金髪」
 シンジでさえ、金髪とは呼ばないが、リツコは気を悪くした様子も見せず、
「昨夜の被害状況が出たわ」
 厚い書類をシンジに渡した。
「代わりに読んで」
 シンジは読まずにフェンリルに渡す。
 これも、シンジと変わらぬ程のスピードでめくっていくと、
「ふむ」
 二百枚を十五秒掛からなかったから、これはシンジより早いかも知れない。
「退魔師に死人が一人出た、とはどういうことだ」
「死人?」
 がらん、とした校庭を見ていたシンジが、ふと振り返った。
「パトロール隊が見つけたんだけど、公園に銀角が出た後なのよ」
「火事場泥棒でも出たかな」
 いいえ、とリツコは首を振って、
「頭部に穴を開けられているの。それも、触手のような物で」
 魔道省所属と言えば、その辺のレベルではない。
 退魔を生業とする者は全員所属とは言え、誰でも認定される訳ではないのだ。
 魔道省の所属として認定された者は、いずれもレベルは高く、日本のそれが世界を引っ張ると言われるのもそこに原因がある。
 更に、その大半がここ新宿区に住居を持っている、と言うこともまた。
 そのハイレベルな術師が、あっさり倒されるとは考えにくい。
 まして、昨夜は完全な非常時であり、気を抜く者などいなかったはずなのだ。
「抵抗は?」
 首を振ったリツコに、
「触手の心当たり、それも強い奴は今のところミクロだけだ。多分あいつだな」
「多分ね」
 フェンリルが頷いたが、
「マスターあれ」
 シンジを肘で突っついた。
「ん…あ」
 ちょうどテレビでは、成城で起きた奇怪な現象に付いて扱っている所であった。
 基礎ごと崩れ落ちたそれだが、まったく原因が分からないため、さし当たって手抜き工事の線から調べるという。
「近所でも、よほど評判が良くなかったらしいな」
 二人の反応を見て、
「シンジ君、心当たりあるみ…これ、レニの実家じゃないの」
「そうとも言う」
 ちょうどそこへ、
「あの、入りました」
 マヤが紅茶を運んできた。
 一つ受け取って、
「レモンちょうだい」
「はいはい」
 と、シンジがフェンリルのカップにレモンを数滴落とす。
 どっちが偉いのか分からない。
 一口飲んでから、
「いい感じだな」
「あ、ありがとうございます」
 嬉しそうに言ってから、
「あの、シンジさんもどうぞ」
「ん」
 受け取ったが、これはすぐには口を付けず、
「フェンリル、額はいくらだ?」
「ざっと、三千万だね」
 厚い書類には被害が正確に記されており、総額は二千九百八十七万円となっていた。
 ちゃんと、フェンリルは読みとっていたようだ。
「足りるかな」
 ポケットに手を入れて、
「マヤちゃん、はいこれ」
「え?あっ」
 マヤが思わず声を上げたのも当然で、そこにはダイヤが載せられていたのだ。
 ちょうど、特殊機動部隊の隊長に渡したのと、同じそれが。
 ただし。
「これ、欠けてますね」
「欠片の半分くらいかな、さくらが半分にしたパトカーの代金にしたからね」
 しかしそうなると、このもっとも硬い物質をシンジは割ったというのだろうか。
「長安の郊外で、フェンリルを戻した時踏んづけたんだよ」
「フェンリルさんが?」
「足の下にあるって知らなくてな、動いたら勝手に割れた」
「そうでしたか」
 自分への贈り物ではない、と知ったらしい。
 すなわち、出た損害の費用に充てる物なのだ、と。
 が、人間が足で踏んでも割れる代物ではない。
 それがどうして踏んだら割れる?
 いや、それよりも元に戻ったとはどういうことだ?
「ところでリっちゃん、エヴァの改造急いでくれる?とりあえず、大幅にレベル上げないと話にならない」
「分かったわ。マヤ、あれはいつから出来るの」
「冬月先生にお願いして、会議を外してもらえば一時間以内に始められます」
「警視総監なら、今頃病院だろ?多分枕元に付きっきりさ」
 見もせず、無論聞きもせずに言ったシンジだが、実はその通りであった。
 
 
 
 
 
「気分はどうだね?」
「体中がぶつぶつ言ってるよ。まったく、儂も焼きが回ったね」
 ここが一般病院なら、そして患者が普通の人間なら、果物詰め合わせの代わりに香典を持って来なくてはならない所だ。
 わずかに内心で苦笑しながら、
「ところで、今朝方成城で妙な事件があったよ」
「妙な事件?」
「ミルヒシュトラーセ邸が、基礎ごと陥没したのさ。一応目撃者もない、と言うことで工事の手抜きの方から見ているが…心当たりは?」
「ないね」
 あっさりとフユノは言った。
 別に嘘ではない。
 犯人がいるとすれば、間違いなくシンジだろうが、何をしたのかはフユノにも分からない。
 事実、シンジ流にアレンジされた、そして大幅に威力を増した桜花放神だったのだから。
 さすがのフユノとて、そこまで想像するのは無理と言う物だろう。
「そうかね」
 とそれ以上冬月は咎めなかった。
 古い付き合いで、これ以上聞いても無駄だと分かり切っていたからだ。
「せっかく持ってきたんだから、一つくらい剥かせてもらうよ」
「ああ」
 林檎を手にして、妙に器用な手つきでむいていく。
 もう、二十年近くになる独身生活は、すっかり冬月を器用にしていた。
 無論再婚話は掃いて捨てるほどあったが、彼はそれを全部断ってきた。
 目の前で横になっている友人からは、さっさと受けるように言われて来たのだが。
「コウちゃん」
「ん?」
「年を取ると、ろくな事をしなくなる。やはり、若い者に任せてさっさと引退した方がいいのかも知れないねえ」
 冬月の手が止まり、
「私をこの年になっても、総監から下ろさないのはあなただよ。自分の発言には、もう少し責任を取ってもらわないと困る」
 幾分強い口調で言うと、
「…そうだねえ」
 気弱な返事がかえってきた。
 今回の一件が、相当堪えているらしい。
 シンジに忌まれるなど、フユノに取っては死ぬほどのショックなのだと言うことを、冬月はよく分かっている。
 それだけに、放っておいたら気死しかねないと踏んだのだ。
 皮を途切れる事無くむくと、今度は八つに切り下ろしていく。
「出来たよ」
 楊枝を刺して皿に載せ、フユノに声を掛けた時、予想通りフユノは既に小さな寝息を立てていた。
「……」
 冬月は何も言わず、掛かっていた毛布を肩の上までかけた。
 フユノの頬に残る、一筋の涙の痕を見ながら。
 自分が五体ばらばらにされても、決してフユノは苦痛の涙など見せはすまい。
 そのフユノが唯一感情を見せるのは孫の、それもシンジに関する事のみ。
 冬月には分かっていた。
 レニの事も、シンジの事を思う故の行動だという事を。
 確かに、任せた相手が悪かったし、本来口を挟む事ではない。
 とは言え、
「いささかやり過ぎではないのかね」
 おそらく、祖母の事など気にもしていないであろう不詳の孫を脳裏に浮かべると、少しだけその長い眉が寄った。
 
 
 
 
 
「とりあえず、ここは武器の強化から始めないとね」
 シンジの言葉にマヤが電話すると、既に会議は中止になったと言う。
 やっぱり、と言いながらシンジは表に目を通していた。
「でもマスター」
「ん?」
「剣術使いの娘はともかく、他は素材が悪すぎるぞ。降魔相手は、ちょっと無理がないか?」
「無理は承知」
 一気飲みさせる時みたいな台詞を吐くと、
「エヴァは改造する。バックアップ組にも、何か武器を持たせておきたいんだけど」
 うーんと、
「でもいいの無いな」
 表に目を通すのはもう五回目だが、諦めたようにシンジは用紙を放り出した。
「どうもなんか、しっくり来ないな」
「いけませんか?」
「駄目だね。フェンリル、何か良い案無い?」
「マスターの装身具、それが一番だよ。が、最低でも数年は掛かりそうだがな」
 確かにフェンリルの言うとおり、シンジが付けていた装身具なら何でもいいかも知れない。
 普段はしていないブレスレットでさえ、乙女達に異常とも言える力を与えたのだ。
 例えそれが、シンジの力であったとしても。
 力の上乗せでも構わないが、せいぜい数十分の装着にもかかわらず、全員が寝込んでいる事を考えれば、まだまだ早いと言える。
「要するにどうするんだ?」
「シビウに預けるか」
 ふとフェンリルが言った時、シンジの表情が動いた。
「あそこの地下室なら、能力の強制開発もしてのける。どう?マスター」
「駄目」
 シンジはあっさりと否定した。
「悪くないけど、後遺症が心配だ」
 困ったね、とあまり困ってなさそうな口調で言うと、
「やっぱり少しずつ能力を」
 そこまで言いかけた時、ドアがノックされた。
「開いてるよ」
 勝手にシンジが言うと、ドアが開いた。
「あれ姉さん?」
「おはよう、ミサト」
「おはよ、リツコ。昨日は色々と迷惑掛けたわね」
「いいのよ、そんな事は。それよりどうしたの?」
「シンちゃんが多分、こっちじゃないかと思って来てみたのよ。シンちゃん、みんなの具合はどう?」
「全員ダウンしてる」
「やっぱり」
「で、お前はいいのか」
 口を挟んだフェンリルに、
「ええ、私は大丈夫ですから」
「それは良かった…あ、そうそう訊きたい事があるんだけど」
「何?」
「館の住人って、何をベースに選んだの?」
「霊力よ」
「綾波達は?」
「あの子達は自然属性、マユミは別だけど。さくらの練習相手って言うのが本当のところよ。他じゃもう、さくらの相手出来る子はいなかったし」
「咬ませ犬、じゃあるまいな」
 変わらぬ声でシンジが訊いたが、それの意味する物を従魔だけは知っている。
 まさか、とミサトは首を振り、
「最初から、ほとんど腕は同じだったのよ。さくらは仙台出身で、マユミは京都の生まれ。マユミにしたって、何とか言う流派の免許皆伝クラスよ」
「京都?訛りはなかったが」
「各人の詳細データ、婆様からもらわなかったの?」
「山岸のこと、聞く前に出ちゃったから知らないんだよ。それに、完全なデータはまだ見てない」
 ふーん、とリツコを見て、
「すぐに全データ出せる?」
「すぐに出るわね?マヤ」
「三分もあれば出ます」
 じゃ出してと言いかけたのを、
「いや、要らない」
 首を振って否定した。
「どうして?」
「身体に訊くからいい」
 本気とも冗談とも付かぬ口調で言うと、
「フェンリルちょっと」
 引き寄せて、耳元に何やら囁いた。
「ん…いいんじゃない。どのみち、個性化を出す意味でもその方が便利だろ」
「お前もそう思う?じゃ、決まりだな」
 軽く頷くとマヤを見た。
「何ですか?」
「エヴァの波長を、全面改造して」
「『え?』」
 重なった聞き返した声に、
「均一化は、それだけ各人の能力差を消すことにもなる。霊力波動を、個人別パーソナルデータに書き換えるんだ」
「『ええー!?』」
 とんでもない申し出に、全員が驚いた表情を見せたが、
「やるったらやる」
 どこか、玩具売り場で駄々をこねる子供みたいにシンジは言いきった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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