妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第二十四話:その娘キレると危険につき…もう遅い
   
 
 
 
 
「いやああっ」
 上がった声は、一つではなかった。
 流れるような足捌きと、凄まじいまでの殺気はあやめとかえでから、動く術を完全に奪っていた。
 間に合わない、と見たミサトが咄嗟に水を繰り出し、二人を吹っ飛ばしたのだ。
 かなり手荒いが、それでもなますにされるよりはましである。
「さ、さくら待ってっ」
 叫んだのはマユミであり、さくらの足元に穴を空けたのはミサトである。
 止めようとしたマユミに対し、弟の残した影響を知り尽くしているミサトは、説得など無駄だと分かり切っている。
 ひらり、と軽々宙に飛翔した友人を、マユミは呆然と眺めた。
(これがあのさくら?)
 あの肢体のどこに、そんな跳躍力があると言うのだ?
 もう数年来の付き合いだが、今までにマユミは、一度も見たことなど無かったのだ。
 しかも。
「う、浮かんでる…」
 レイの信じられないような声の通り、宙に静止したではないか。
 宙に浮かんだまま、霊刀を構え直したさくら。
 チン、と鳴らしたその音は…すなわち本気。
 無論、その殆どは自分の力ではない。
 さくらを含めて、女神館の住人に空中飛翔が出来るのは、一人もいないのだ。
 勿論、感情の制御レバーがバーストしたのは、さくら自身の問題だが。
(と、止めなきゃ…)
 理性はそう叫んでいるが、足が動かない。
 本能の方が悟っているのだ。
 いや、武人としての感と言っても良かったかも知れない。
 すなわち、今のさくらには敵わないのだと。
 普段なら腕はほぼ互角である。
 今までの対戦成績が五分なのが、それを証明している。
 しかも、鍛錬の時にはマユミは眼鏡を外しており、それを加味すればマユミの方が幾分は上かもしれない。
 だが今のさくらは、あまりにも危険な存在と言えた。
 シンジのブレスレット、と言う加算があるにせよ、同じ着けた自分の時とは、はっきりとその力が異なっていたのだ。
 羨ましいとか思うどころではなく、そこにあるのは恐怖。
 ただそれでも、
「覚悟っ」
 飛嚥のように飛来して、一刀両断せんと振り下ろした太刀の前に、一瞬早く身体が反応したのは、見殺しに出来ないと言う義理堅い性格故の物であったろうか。
「…邪魔するの?」
 真剣を持っての立ち会いは、今までに一度もない。
 しかも剣が激しくぶつかった瞬間、完全な力量の差をマユミは知った。
 いまのさくらは、切れた状態プラスシンジの能力の一部みたいな物であり、これをやっつける方法など、思いも寄らない。
「さ、さくら…お、お願い止めて」
 その声が震えていると、マユミは自分でも分かっていた。
「碇さんに怒られるなら止めるわ」
 斬り結んだまま、二人の視線がぶつかり合う。
「でもね、もう碇さんはいないの」
「あううっ」
 いとも簡単に、水月ごとマユミは飛ばされた。
「マユミとはお友達だから、見逃してあげるわ。だから、邪魔だけはしな…?」
 その視界に入ったのは、両手を広げて立ちふさがった少女。
「かすみさん、何の真似ですか」
「原因は私です。斬るなら私を斬って下さい」
「いや」
 さくらは冷たく嗤って首を振った。
 この少女のどこに、そんな表情が潜んでいた?
「死にたいなら斬ってあげます。後ろの二人の食前酒に」
 いや、と言ったのはかすみを斬りたくない、の意とは程遠かったらしい。
「あ、あの馬鹿娘…」
 舌打ちしたのは、無論ミサトである。
 こっちはもう、説得など無駄と端から諦めており、ここは一発かますしかないと決めていた。
 ただし。
「勝てない…けどね」
 普段のさくらならともかく、完全に理性喪失モードに加え、シンジの装身具付きと来た日には、自衛隊の一個師団でも出さないと、勝ち目はあるまい。
 いや、それだって勝てるかどうか。
 とにかく、疲れさせる事だと決意した矢先に、次々と邪魔が入ったのだ。
「か、かすみ、どきなさいっ」
 あやめとかえでも、腰を抜かしていた訳ではない。
 が、いかんせんダメージが大きすぎるのだ。
 フユノの一撃は、未だに身体全体を重く沈めていたし、ミサトの水矢が殆ど決定打になっていた。
 もっとも、ミサトのそれが無ければ、すでに一刀両断されていた筈だが。
「い、いやですどきませんっ」
 震える声で叫び返したかすみに、
「いい覚悟です」
 何のためらいもなく、と言うよりむしろ、溢れる力を試すように薙いだ刀が空中で止まった。
 その視線が、ゆっくりと刀を見た。
 すなわち、水を滴らせている自分の愛刀を。
「あなたも後で斬って…っ」
 言いかけた所に、強烈な水柱が飛んできたのを、軽く身体を捻ってかわした。
「後で?寝ぼけてるんじゃないわよ、この変態女」
「…変態?」
「シンちゃんのブレスレットなんかもらって、にやにやしてるんじゃないわよ。それがなかったら何も出来ないくせに」
 挑発に乗ってくれば、
「無くても出来ますっ」
 と、外したかも知れない。
 だがさくらは、
「これを碇さんは私にくれました。ブラコンで超が付く変態のあなたではなく」
「何ですってっ」
 これさえなければ、ミサトも名指揮官になれるのかも知れないが。
 ブラコンなど、自分でも自覚している所へ、逆に変態呼ばわりされたのだ。
 しかも、こっちの方が図星だっただけに、あっさりと理性リミッターが解除されてしまった。
「上等じゃない、叩き潰してあげるわよっ」
「望む所ですっ」
 連続して水矢がさくらを襲い、次々と霊刀で叩き落としていく。
 たちまち付近に、巨大な水柱が上がった。
 
 
 
 
 
「さて、すっきりした」
 ふわあ、と伸びをしたその表情からは、降魔の事など微塵もうかがえない。
「でもマスター」
「ん?」
「できればあたしは、試食係は遠慮したいんだけど」
「何でさ」
「マスターがさせるのは、味見じゃなくて毒味だろうが」
「そうかな」
 会話はもう、すっかり麺の所に飛んでいる。
「じゃ、シビウに頼もう」
「私に?成分構成くらいなら構わないわよ」
「決まりだ」
 フェンリルが、どこかほっとしているように見えるのは、毒味役で酷使でもされたのだろうか。
「ところでフェンリル、俺の荷物はどうした?」
「マスターの?まだヒルトンに置きっぱなしだよ。三日間はいつも置いてるだろう」
 シンジが帰国したとき、それが短いときには本邸には帰らない。
 大体ヒルトン・ベイホテルの最上階に部屋を取り、そこに泊まっている。
 迂闊に家に帰ると、使用人達がなかなか離してくれないのだ。
 それをなかなか振り切れないのは、あるいはシンジらしいと言えるかも知れない。
 本来なら、主を捕まえるなどとんでもない無礼なのだから。
「そうだったな。じゃ、ちょっと寄って取って…ん?」
 シンジ達の前方に、数人の男達が現れた。
 いずれも黒服に身を包んでいるが、
「うー」
 シンジが洩らしたのはどうしてか。
 男達はそのまま歩いてくると、シンジ達の所で止まり、丁重に一礼した。
「碇様、お久しぶりでございます」
「ま、深夜だからな」
 奇妙な事を口にして、
「ドクターに用じゃないの?」
「長老様が、お会いしたいとお待ちになっておられます。少し、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「朝一番の便で日本を出るんだよ。少し仮眠したいんだから」
 言いかけた所へ、
「マスター、行ってやればいいじゃないの。老体が待ってるんだろ。な、シビウ」
「そうね、後事は託して置いた方がいいかも知れないし」
 二人に押されて、
「分かった分かった。じゃ、少しだけだぞ」
「お聞き入れ、ありがとうございます。きっと、お喜びになられる事でしょう」
 顔を上げた先頭の男が口元に、僅かな笑みを乗せた。
 笑みは人間の物だったが、ただ一点違う箇所があった。
 綾波レイもまた、双眸は真紅に彩られていたが、彼らはそれに加えてある物を持っていた。
 すなわち、突き出た乱杭歯を。
 彼らは吸血鬼であった。
 
 
 
 
 
「何だって?どういう事だい」
 病院へ着いた途端、フユノの耳に凶報が飛び込んできた。
 さくらが霊刀を持ってキレているという。
 しかも、
「もう帝都に用はないと仰せになって…」
 本邸の留守居の一人が震えながらもたらした報告は、事もあろうにシンジの戦線離脱であった。
「なんてことを…」
 愕然として、思わずフユノは天を仰いだ。
 シンジには告げていなかったが、現時点で花組のメンバーに、リーダーは置いていなかった。
 対降魔の訓練に際しては、あやめが指揮を執り、かえでがその補佐と言う形にしていたのだ。
 そして、劇団の時にはミサトが。
 ミサトは芝居など素人だが、メンバーもよくその言葉には従っており、対降魔戦の時にも実際にはミサトが総指揮のような形にしていた。
 今回、ミサトの指示であやめとかえでが動いたのも、その為である。
 フユノがそこへシンジを呼んだのは、無論管理人などではない。
 ただの管理人なら、ミサトでも十分足りる。
 エヴァのパイロットとそれ以外の者達の不仲、事実上はアスカとすみれの対立は、ミサトでも手は打てていなかったが。
 シンジに期したのはそれもあるが、実際には対降魔戦の指揮官としての役割だったのだ。
 歌劇団も華撃団のそれも、いずれも公立の物ではない。
 つまり、公の軍人としての彼らではなく、だからこそフユノも自由に手を加えられるのだ。
 女性ばかりなのはいいが、個性が強すぎる。
 特にアスカとすみれは、文字通りの犬猿の仲であり、喧嘩するほど仲がいいのとは、ほど遠い位置にある。
 やがて来る降魔との戦いに於いて、シンジの戦力は外せない。
 そう、絶対に。
 特に将来は魔道省のエリートコースが決まっているだけに、そこにもシンジの知り合いは多く、私兵とも言える者達が百人は下らないのだ。
 加えて、五精を自由に操るシンジとその従魔フェンリル。
 シンジとフェンリルだけで、その実力は測定不能であり、これが対降魔の最前線にいるとなれば、その影響力は計り知れない。
 さっきはシンジの言葉で外したが、これならあやめとかえでを殺すべきであったと、フユノは痛烈に後悔していた。
 まさか、まさかシンジが去ってしまうとは。
 あやめかかえで、どっちかがシンジに手を出した訳ではあるまい。
 いくら何でも、そこまで愚かではないはずだ。
 だが、そこに納得していない物を見抜いたシンジは、あっさりと見捨てたに違いあるまい。
「い、いかがなさいますか」
「いかが?あやめとかえでが斬られようと、儂の知ったことではない。さくらはおそらく、シンジの力を何らかの形でもらったのであろうが」
「仰せの通りです」
 直々に全員を人選しただけあって、その能力把握は徹底しているらしい。
「シンジの力が入ったとなれば、もはや誰も止めることなどは出来ぬ。余計な手出しをせぬよう、伝えておおき。それと、去ったのはシンジだけかえ」
「そ、それが…」
「他に誰じゃ」
「ド、ドクターシビウがご同行を…」
 それを聞いた時今度こそ、その顔から血の気は喪われていった。
 シンジに加え、シビウまでも去ったとなれば、もはやこの新宿を、いや帝都を守りうる術はない。
 帝都が炎上し、降魔が我が物顔で支配する光景が、一瞬フユノの脳裏に浮かんだ。
 が、すぐに首を振り、
「さくらは捨て置き、全員を館にお戻し。エヴァ両機は、絶対に傷を付けないように戻すんだよ。いいね」
「は、はいっ」
 慌てて飛び出した行った所へ、別れた筈のリツコが戻ってきた。
「どうしたんだい?」
「シンジ君が去ったと聞きましたが」
「さすが情報が早いね」
 自嘲気味に笑って、
「帝都がいつ炎上するか、期間でも儂と賭けてみるかえ?」
 だがリツコは、
「恐れながら、まだ早いようですわ」
 首を振った。
「何だって?」
「シンジ君達は今、戸山住宅の長老の所に向かったようです」
「はて?」
 フユノは首を傾げて、
「後数年は起きない筈だよ。それがどうして起きたのじゃ?」
「内密の情報ですが、シンジ君の帰国と同時に起きられたようです」
 だが、それを聞いてもフユノの顔は晴れなかった。
「長老が、思いとどまるよう説得すると思うのかい」
「そ、それは…」
 絶対にあり得ないと、二人とも分かっている。
 離れる、とシンジが言った場合、それが何を意味するか分からぬ二人でもないし、それは幾星霜を生きた大長老にもまた、同じである。
 知るが故にその答えは、はっきりと否をはじき出していた。
 シンジがいないこの帝都防衛、そしてさくらの力に任せた暴走。
 刹那闇が二人の脳裏を過ぎった時、フユノの携帯が鳴った。
 
 
 
 
 
 さくらとミサトの対決は、簡単に決着が付いていた。
 理性の糸が飛んだ場合、ある程度の能力増は見込める。
 だがそれも、本来の能力とかけ離れた物ではなく、まして持続となれば到底なし得る物ではない。
 ましてミサトには、シンジの霊力が付加された相手、との思いも強い。
 現在の能力比較では及ばないと、本能的に察していたのだ。
 文字通り、蜂のように軽々と飛来しながら、ミサトの水矢をある物は避け、ある物は撃ち落としながら、みるみるその眼前に迫っていく。
「たあっ!」
 ひときわ大きなそれを、簡単に打ち払った後、
「これまでですね」
 ミサトの喉元に、その刃を突きつけた。
「そのようね」
 ミサトは動じる事もなく、
「ひと思いに斬りなさい」
 さくらから視線を逸らさずに言った。
 アスカ、アイリスの両名は未だ起きず、マユミとレイは、完全に呪縛状態にある。
「では」
 ひゅん、と空を切ったそれだが、ミサトの首が落ちる事はなかった。
「碇さんのお姉さま、でした」
 これ以上ない冷たい口調で言うと、刀を下げた。
 これでもシンジの姉か、と言う意味を存分に乗せながら。
「さようなら」
 まったく痛んだ様子のない霊刀を引っ提げて、さくらもまた去っていった。
 一度も振り返ることなく。
「ミ、ミサトさんっ」
 先に呪縛の解けたマユミが、ミサトに走り寄った。
「大丈夫よ」
 軽く手を振ると、
「にしても、参ったわね…」
「え?」
「現時点で一番使えるのはあの子よ。もう、私達の指揮には絶対に従わないでしょうね…」
 軽く溜息をついた所へ、
「あの…ミサトさん…」
 俯き気味で歩み寄ってきたあやめとかえでに、
「気にすること無いわよ」
 幾分苦しげだが笑って告げた。
「で、でも…」
「確かにシンちゃんの言った通り、御前様はシンジの手に掛かるなら、喜んで果てて行くお方だし、それはあんた達には関係ないわ。だからと言って、黙って見ていられる程つながりも薄くないのよね」
 ぽん、と二人の肩を叩いた時、不意に嗚咽が漏れた。
「どしたの?」
「も、申し訳ありません…」「わ、私達のせいで…」
 刹那宙を見上げてから、二人を引き寄せると、ミサトの肩で堰を切ったように泣き出した。
 その背を撫でながらミサトは遙か上を見上げたが、その表情はひどく疲れて見えた。
 なお、アイリスとアスカは未だ目覚める気配がない。
 
 
 
 
 入ってきた三人を、長老は穏やかな顔で出迎えた。
「ミスターシンジ、お久しぶりですな」
「ご老人も元気そうで何より。でも起きるのはまだ先なのでは?」
 この物言いで無事に済むのは、世界を捜しても碇シンジと名を冠する者しかいない。
 皺の殆どない顔で笑いながら、
「ミスターシンジが帰国された途端、目が覚めてしまいましてな。覚めないと、まだすぐ出かけられてしまいますからな」
 ふふと笑ってから、
「それにしても、随分と霊体が大きくなられたようですな。のう、フェンリル殿」
「もう、完全に私のマスターですわ」
 一つ頷いて、
「ドクターシビウ、いつも仲間の者達がお世話になっております」
 軽く一礼したのへ、
「人を襲うこともなく、現在まで共存できているのは何よりです。想い人の知り合いとなれば、全力を尽くさざるを得ません」
「感謝しておりますぞ」
 シンジに視線を戻して、
「ご帰宅の途中でしたかな」
「いや、ホテルへ直行して、明日出国です。パスポートが出来るのを待ってから」
 平然と告げたが、目の前の老人が知っていて訊いたのではないと、知っての言葉だ。
「ほ?」
 表情は変わらず、
「やはり、ミスター碇が使い回すには力量不足でしたか」
 長老がそう言った時、ドアが控えめにノックされて、メイド服に身を包んだ女が入ってきた。
「碇様、お久しぶりでございます」
 彼女の名は麗香、祖父と兄がいない間、夜の一族を束ねている当主代理である。
 ほっそりとした体つきだが、その実力は折り紙付きだ。
「少し綺麗になったね」
 ある意味失礼な言葉にも、
「私では、まだまだ足元にも及びませんわ。さ、ドクターもフェンリル様もどうぞ」
 足元に及ばない、と言った。
 でも誰の?
 差し出されたカップには、薔薇の花びらが浮いた紅茶が入っていた。
 全員に置いてから、
「碇様、兄がもうじき帰って参ります。碇様にお会いできたら、きっと喜びますわ」
 シンジの返答は待たず、すっと一礼すると入室時同様、足音を立てずに出ていった。
「何で当主代理がメイドさんの格好してるの?」
「普段の無粋な格好では出られないと、あれなりに気を使ったのでしょう。まだ服に追いつきませんでしたか」
「いや、そんな事はなかった」
 左右からの視線を感じながら、シンジはカップを傾けた。
 ストレートだが、花びらに何が含まれていたのか、口の中に甘い匂いが漂った。
「兄が帰るって言ってたけどいつ頃?」
「夜香は、一週間ほど後に戻って来る予定です。お会いできれば喜びましょう」
「だからその前にさっさと出…?」
 言いかけた時、再度ドアがノックされた。
「入るがよい」
 低い声に、ドアがそっと開いた。
「失礼致します」
 黒いスーツに身を包んだ男が入ってきて、長老に何事か耳打ちした。
 それを見ながら、フェンリルがシビウを見た。
「何?」
「妖気を感じないか?」
「妖気?」
 一瞬首を傾げてから、
「これは…シンジの物ね」
「俺?」
 シビウの言葉に、シンジが奇妙な表情になった時、
「ミスターシンジ」
 長老が静かな声で呼んだ。
「はい?」
「先の降魔大戦の折、真宮寺一馬殿とは面識がありましてな」
「はあ?」
「その娘御が、異様な霊力を帯びた刀を持って、街を闊歩していると今、連絡が入りましたぞ」
「娘御ってさくらが?」
「そのようですな。ご存じか?」
「ちょっと身に覚えが。それで?」
 それだけなら、長老が話しもすまい。
「特殊機動部隊が二百五十名、現在取り囲んでいるようです」
「なっ!?」
 さすがにシンジの表情が、一瞬だが激しく揺れた。
 
 
 
 
 
「まったくいつも使えないね、何のために生きてるんだい」
 何事かとリツコがフユノを見たのは、冬月からの電話を取った時である。
 霊気の個人レベルとして、危険域に入ったとして、さくらが職質を受けたのだが、パトカーを二つにぶった斬って、そのまま歩み去ったという。
 現在、特殊機動隊が包囲に入ったというのだ。
 霊力と言うのは、無論個人差がある。
 しかしそれは、往々にして個人の感情に左右されたりして、特に激情の場合は厄介なのだ。
 なぜならば、負の霊気に反応して妖魔や下級霊が動き出したりする事もあるからだ。
 退魔儀式に際して、感情の動揺が絶対に禁止されるのは、その為である。
 それを考えれば、霊力は異様なまでに増大、おまけに感情は完全に負のレベルと来れば、さくらが危険視されるのもやむを得まい。
 霊能力者が集まるこの帝都は、魔道省がその霊気レベルは常に監視している。
 そのため、一定以上のレベルに達した場合は、すぐに警官が向けられる。
 無論、状況次第ではすぐに出動できるよう、体制は整えられているが。
 フユノの要請で、軍も魔道省も一切動かなかったが、それ以外は話が別になる。
 ここで、万が一にもさくらを喪うような事にでもなれば。
「場所は?わかった」
 さっさと切ると、
「さくらが危ない。すぐに行くよ」
 それを聞いて、リツコの顔に緊張が走る。
「何があったのです?」
「さくらの霊気レベルが職質に引っ掛かってね。それを、パトカーを二つにして行った物だから、特殊機動部隊が包囲に入ったそうだよ。まったく幾つになっても進歩しないね」
「な、何ですって…」
「あの子を喪うわけには行かないよ。さ、早くおし」
「はいっ」
 慌ててリツコが車の用意に走る。
 降魔が姿を消しても、この新宿の夜は静かにはなりそうもなかった。
  
 
 
 
 
(つづく)

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