妖華−女神館の住人達
第二十一話:住人<美女二人<シンジ?
「たいしたものだな、それなりに」
転がっている銀角の残骸を見ながら、シンジが感心したような口調で言った。
だがその視線が、フェンリルと同様一瞥で銀角を、すなわちさくら達が大苦戦を強いられたそれを微動だにさせていない事には、フェンリルだけが気付いている。
抱き上げたあやめを席に横たえたシンジは、その太股にすっと手を当てた。
「これが水治療だ。綾波、よく見ておけ」
シンジが言うと同時に、フェンリルがその姿を変えた。
一輪の妖花にも似た肢体に、全員の動きが止まった。
「う、うそ…」
あやめも痛みを忘れて見入ったし、さくらを始めアスカやレイも、そしてアイリスもまた、まるで魂まで捕らえられたかのように、呆然とその視線を向けた。
「娘、来い」
フェンリルの言葉にレイが、ふらふらと近づいていく。
「マスターの治療術、間近で見られるなど滅多にない幸運だ。感謝するんだな」
真冬の闇のような声に、レイがロボットのようにこっくりと頷いた。
「い、碇君あなた…」
「いいから、じっとしてろ」
あやめの脚には、幾重にも包帯が巻かれている。
それに指を当ててすっと引くと、まるで柔紙のようにそれは裂け、朱に染まった肌が現れた。
「どうでもいいが」
「な、何」
「あと二十分放っておいたら、ばっさりだぞ」
「え?ばっさり?」
一瞬顔が青ざめたあやめに、
「そ、ばっさりだ」
すっと手を横に薙ぐ仕種をしてみせたシンジ。
そのまま手を傷口に当てると、
「んっ」
一瞬あやめが顔をしかめて声を上げたが、すぐに穏やかな表情へ戻った。
そして三分後、シンジが手を離した時、その肌は完全に元に戻っていた。
「あ、ありが…」
だが途中で止まったのは、ある視線にぶつかったからだ。
すなわち、フェンリルの羅刹のごとき視線に。
「一つ言っておくが、今度マスターに脇侍など向けてみろ。私がお前を滅ぼす。このフェンリルの名に賭けて」
静謐な声が、鋼のように響いた。
「う、あう……」
歴戦の、降魔大戦を生き抜いてきた精鋭が、言葉を紡ぐ事すら出来なかった。
アスカ達も、呪縛されたように硬直している。
が、唯一それに反応しなかったのは、無論決まっている。
あやめの脚を二、三度揉んだが、その手をゆっくりと伸ばしたのだ。
「フェンリル、構わん」
「…マスター」
「俺への敵意は、そのまま嫉妬だからな」
奇妙な事を言うと、ふふふと笑った。
「さて、治ったぞ」
ぽんぽん、と軽く脚をたたくと立ち上がった。
黒髪を妖しく揺らしながら、
「俺の祖母はお気に入りだからな」
「え、ええ」
と思わず返してしまったのは、本人も無意識だったろう。
フユノの事を婆さんと言おうが妖怪と言おうが、シンジであれば問題はない。
そして、あの世に送るのさえもまた。
それでも、
「そんな事言ってはいけません」
同じような口調でシンジに言ったのは、一人や二人ではなかったのだ。
「さて、そろそろ片づけ…ん?」
風が進んできた、と誰もがそう思った。
風が黒の色を取り、それが更に人の形を取ったのだと。
コートに身を包んだシビウが、静かに歩いてきたのだ。
「シビウ、遅かったじゃない」
フェンリルの声に、
「患者を診ながら来たのよ。とはいえ、これでも被害は少なかった方ね」
ワゴン車の所まで来ると、
「シンジが治したのはこの子?」
「応急だけどね」
後ろに下がったシンジの前に出ると、完治した傷口にそのしなやかな指を当てた。
「ド、ドクターシビウ…は、初めまして…」
シビウはそれには答えなかった。
ただ数度指を動かしてから、
「お見事よ、シンジ」
にこりと微笑んだが、次の瞬間一転して、
「もっとも、シンジが手ずから診る価値があるかは別だけれど」
磨き上げられた鋼のような声で言った。
「あーもう、どいつもこいつも」
シンジがやれやれと、
「シビウ、いいからそこで見物しててくれ」
が、その言葉を何と取ったのか、
「ねえ、フェンリル」
奇妙な声で呼んだ。
「ん?」
「明日にでも、飲みに行かない?シンジと三人で」
強大な降魔を前にして、飲みに行く算段を持ちかけるとは、その発想は一体どうなっているのか。
しかも、
「ふむ、いいな」
にっと笑ったフェンリルとくれば、もう理解不能である。
ただし、ここに理解したのが一人いる。
「じゃ、二人が出るの?」
「髪が痛んでいるわ、ちゃんと手入れはしておいて」
「私達と飲みに出る以上当然だな」
さっきの事などまるで忘れたように、ぴたりと息の合った所を見せると、すっと横に並んだ。
刹那、シンジの目が細くなったがすぐに、
「分かった、じゃ任せるわ」
だが、誰も異議を唱えようとしないのは、もはや分かってしまったからだ。
シンジの能力が、自分達の理解外にあるという事を。
そのシンジが二人に任せると言ったのは、完全な信頼があっての事だということも。
ただし、一応シンジは、
「あやめ、いい?」
と訊いた。
小さく頷いて、
「…お願いするわ」
それを聞いたシンジは無線機を手に取り、
「アイリス機、それとさくら機は撤退しろ。さくら、アイリスを先に逃して殿を」
とんでもない命令を下したが、先にアイリスが動いた。
ただそれは到底勇んでいるようには見えず、悄然とした姿ではあったが。
アイリスの敏捷な反応に、一瞬呆気に取られたさくらだったが、すぐにアイリスの後ろに付いた。
殿、そのままの隊形であったが、実際にその必要はなかった。
そう、銀角はどれも一つとして動かなかったのだ。
二人の美女が、単に月下遊歩にでも出るかのようなそれだが、その気は完全に周囲を呪縛していた。
敵ならず、味方までもまた。
先にシビウが動いた。
その唇が動き、
「私は患者が好きよ。医者を求める患者とは、絶対の信頼関係が築けるわ。私が患者以上に愛情を注げるのはそう、シンジだけね」
月光が静かに注ぐ中、いきなりの台詞に周囲は、違う表情で凍りついた。
「で、俺は二番なの?一番なの?」
「一番よ、勿論」
はあう、と熱い吐息を伴ったような声。
だがその抜き出された手は、甘さとは無縁の物であった。
その手に握られたのは針金、そしてそれはそのまま孤を描いた。
「お行き」
その声と同時に、
「ひっ」
あちこちで声が上がったのは、その手から伸びた物体を見たからだ。
すなわち、ボアを思わせるようなその大蛇に。
針金細工のそれが、みるみる大蛇と化してとぐろを巻いた。
全長が五メートルを超えそうなそれを見ながら、
「おいで」
今度は逆の言葉を告げた。
動いた!
女医の言葉が何をもたらしたのか、銀角達が一斉に地を蹴ったのだ。
脇侍の大きさは三メートル前後だが、銀角はそれよりも更に大きい。エヴァの機体でなら遜色はないが、普通の人間なら到底追いつく大きさではない。
しゅん、と手に手に獲物を持ったそれが、誘われるかのように動いた。
いや。
彼らの総ボスが見たらこう言ったかも知れない。
「怯えていた」
と。
シビウの手から創り出された妖蛇は、合計七匹。
そのすべてが、次々と銀角達に絡みついて行ったのだ。
ある物は締め付け、またある物は凄まじい風圧と共にその尾を振り、一撃で銀角の巨体を吹っ飛ばしていく。
三体が片づいた時点で、
「シビウ、フライングだよ」
悠然と歩き出したフェンリルが、くすりと笑った。
その刹那、世界は様相を変えた。
「きれい…お花畑ね…」
うっとりしたような声が、涙声に変わるのに数秒と要さなかった。
さくらの物である。
「お父様…ほら、ご覧になって…お父様…」
何を見たのか、その手つきは間違いなく壊れ物を扱う時のそれであった。
「や、やだよ…お願い、お願いだからボクにそれを見せないでよう…」
膝を抱え、まるで幼児のような姿勢を取ったのはレイ。
下を向いてぶつぶつと呟くそこには、普段の明るさなど微塵も見られない。
見せられたのは、自分の過去でもあったろうか。
「ほら言ったでしょ、あたしはちゃんとネルフ学院に受かってみせるって」
腰に手を当てているのはアスカだ。
「もう、パパもママも心配性なんだからあ」
こちらはレイとは対称的に、普段は決して見せぬような甘えた声。
心が紡ぐように聞こえるそれは、両親への物なのか。
「こ、これは一体…」
愕然として呟いたのはかえでであった。
さくらはハッチを開いていたが、アイリスは閉めきったまま出てきていない。
それが逆に幸いしたのだろうか。
しかし、同じ剣士でありながら、マユミは引っ掛かった気配がない。
これも唖然としてシンジを見た。
「催眠術だ」
シンジは静かに告げた。
「何の前触れも、何の脈絡もなく人を催眠術に掛けるフェンリルの術。だがそれが夢の中であろうとも、そこで殺されれば」
「『れ、れば?』」
声を重ならせて訊いたあやめとかえでに、
「死ぬ」
マユミには、その声がまるで死神の宣告にも聞こえた。
そしてそれを象徴するかのように、次々と銀角達が同士討ちを始めたのだ。
「い、碇さんあれは?」
「俺が、あるいはさくらや山岸が目の前にいるのさ。今の連中に取っては」
シンジの言葉を裏付けるかのごとく、互いに激しく切り結んでいく銀角達。
そしてその一方では、シビウの放った大蛇が次々と片づけていく。
既にあり得ぬ空間の中に、十体以上が呑み込まれているのだ。
「それにしても」
と、まるで人ごとのようにシンジがのんびりと言った。
「え?」
「フェンリルの催眠を受けないとは、山岸も大したものだ」
妙な褒められ方に、
「い、いえあの…あ」
「ん?」
「た、多分これのおかげだと思います」
差し出した腕には、シンジのブレスレットがはまっていた。
「あれ?」
「剣伎がいるかと思って、アスカから返してもらったんです」
「いや、じゃなくてさ、それは確か綾波に」
「あ、そうでした。あの、レイちゃんが力出るから、着けるようにって言ったからそのつい…」
叱られたと思ったらしいマユミに、
「ああ、別に構わないよ。で、効いた?」
「ええ、とっても」
勢いよく首を縦に振ってから、
「あのこれ、何のお呪いがしてあるんですか?」
「してないよ」
簡単にシンジは否定した。
「…え?」
「単に、少し前まで俺が着けてただけ。他に何にもない」
「着けてただけって…」
「一流ブランド専門のジュエリーショップが倒産閉店した時、セールで買ったやつだからね。ま、ブランド物と言えばブランド物だけど」
呑気な会話をしている二人だが、あやめとかえではそうも行かなかった。
頭をおさえ、立っていられなくなったのを見て、
「ま、これが限度だろ。あれ藤井は?」
ワゴン車がいないのに気が付いた。
「多分学園で後の二人が誘導しているから、それの手伝いに行ったのではないかと」
「ま、いなくて良かったかも知れないな」
「ええ、そうですね」
おかしな納得をしている間に、次々と銀角達はその数を討ち減らしていった。
まさに圧倒的な力だが、実の所シビウもフェンリルも、その位置を殆ど変えていないのだ。
シビウは針金を繰り出した位置から、そしてフェンリルに至っては、微塵も動いていない。
次々と討たれ、或いは仲間同士で滅ぼし合っていく銀角を見ながらマユミは、はっきりとその実力の差を痛感した。
勿論、アイリスやさくらが使えない訳ではない。
アイリスの超能力は、エヴァに乗らない場合なら十分通用するし、さくらの方はエヴァに乗ったとしても、その剣の腕はさほど落ちていない。
しかし、いくらアイリスが超能力を持つとは言え、生身で降魔に対するのはあまりに不安があるし、文字通り無防備になる。
それはさくらも同様であり、生身で剣を持つよりは、エヴァを操ってのそれの方が、力としては出るのだから。
だがそれでもマユミ達が着いた時の状況は、決して楽勝とは言えないそれであり、むしろ守勢に回っていたのをマユミは知っている。
そう、誰かの救援があるまで持ちこたえるような戦い方へと。
自分達が来たってさして変わらない、それも分かっていた。
一時的に力が増えたのは、実力ではなくシンジの腕輪のおかげであり、これがなかったら援軍に来るどころか、さっきの脇侍の群だけでも大ピンチになっていたのは間違いない。
だとすれば、結局自分達はエヴァチームを含めて、敵を倒すことが出来なかったと言う事になる。
エヴァは完全体ではないし、パイロットも足りない。
現に、すみれが熱を出して寝込んでいると言うのだから。
戦力はやや増強が見込めるが、
「それにしたって…」
つい呟いた声がシンジに届いたのか、
「どうした?」
訊いたシンジの視線は、抱き合ってシクシク泣いている、藤枝姉妹へと向けられていた。
「い、いえ何でも…」
「ところで山岸」
「はい?」
「姉妹レズって知ってる?」
「はあっ!?」
単語だけで顔を真っ赤に紅潮させたマユミに、
「実物が見られるとは思わなかった」
その視線を追って、
「あ、あのあれはそう言うのじゃないと思いますが…」
確かに抱き合ってはいるが、嬉しさとか快感とは無縁に見える二人であり、ましてレズなどはまったく遠い位置に見えた。
「公開プレイかと思ったのに」
本気らしいシンジに、マユミは宇宙人でも見るような視線を向けたが、ふと気になって訊いてみた。
「あの、碇さん」
「何?」
「さっき、あやめさんの怪我を治されたあれは、何かの術だったんですか?」
「そうだよ」
軽く頷いて、
「綾波が水の属性を持ってるのは知ってるな?」
「ええ」
「血液の大半は水だからな、その流れを調整して傷を治すくらい訳ないのさ」
「で、でもレイちゃんは出来ませんでした」
「女は全員胸がある、と行ってもみんなが大きい訳じゃない。違う?」
シンジの視線は違う方を見ていたが、何故か赤くなって胸を押さえたマユミ。
「そ、それはその…」
「ま、巨乳談義はともかく…ん?」
俯いてしまったマユミに気が付いた。
「どしたの?」
「私の胸…やっぱりみっともないですよね…こんなに大きくて…」
そうだった、とシンジは内心で呟いた。
本人も気にしていたらしい。
「いや、それはない」
否定したが、
「本当…ですか」
まだ顔は上がらない。
「ほら、えーと何だ、別に垂れてもいないし柔らかいし…あ」
一応フォローのつもりであった。
がしかし、無意識に生で見たのと触感とを口に出してしまい、マユミが首までを茹で蛸のように染めた。
「と、とにかく身長がもう少し伸びれば、いいパーツにな…いでっ」
観戦どころか、肢体話に興じていたシンジの所へ、一匹の大蛇が伸びて来たのだ。
尾の一撃がシンジを直撃した所で、
「お楽しみ中に悪いけれど、終わったわ」
「マスター、何をぼやぼやしている?」
揃っての声に、
「はいはい」
いたたた、と脚をさすってから、
「山岸、全員起こしてくれる」
「え…あっ」
何時の間にやら、全員が寝息を立てて寝入っている。
「頼んだよ」
歩き出しながら、
「残るはボスだけか?」
「一応ね」
妙な言い方に、シンジがフェンリルを見た。
「不死身?」
「あの女だよ」
シンジの視線が前を向くと、そこにはゆっくりと立ち上がった女が歩いてくる所であった。
妙に化粧が厚いのと、妙に首が長い。
が。
「見覚えないかい?」
百メートルの距離だが、フェンリルは真昼のように見透かしていた。
一瞬首を傾げてから、
「あの胸…見覚えあるぞ」
ぽん、と手を打った所へシビウが、
「また愛人を作ったのかしら?」
「お前と一緒にするなっての。成都の奥地で会ったんだよ」
「成都?ああ、あの時のね」
そう言うこと、とシンジが返した時、女の足が止まった。
こっちを認識したらしい。
「ふん、人間共のくせになかなか…?お、お、お前はっ!?」
「久しぶりだな」
シンジは静かに笑った。