妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第十四話:間に合うか!?
 
 
 
 
 
 見せまいとしてか、レニの身体を自分に押しつけたままシンジは、もはや生者の色を喪っている男を、軽々と掴んだ。
 肩の付け根に触れる−ただ触れただけなのにいやな音がした。
 ごきり、とは言わなかった。
 その代わりに、そこはぐしゃりと音を立て、男の手がだらんと垂れ下がる。
 苦痛の悲鳴を上げないのは、訓練されているからではない。
 主家に媚びへつらい、その機嫌を取る事だけに汲々としてきた輩に、そんな心得などあろう筈もない。
 単に声を奪われていたのだ−シンジの放つ気に。
 いや、シンジの全身からは怒りのそれはない。
 そして、悲しみもまた。
 何もない、と言った方が正解であろう。
 闊達そのものだった従妹、その変わり果てた姿を見た時、シンジはその身に起きた事をほぼ直感していたのだ。
 反対の腕も同じように−まるで粘土細工でも壊すかのように潰した後、
「お前には声はいらんな」
 すっと男の喉に手を当てて横に動かす。
「が…へ…」
 それが、男の最後に発した音となった。
 文字通り最後の言葉。
 ぐらりとふらついたのを、シンジは許さなかった。
 180を越える長身のシンジが、その頭部を空き缶でも握るかのように持ったのだ。
 無表情なまま、シンジが後を振り向く。
 これも表情はさほど変えていないナオコがそこにいた。
 もっとも、この程度で騒いだり顔色を変えるなら、ここのオーナーなど務まりはすまい。
 何よりも、シンジの事をちゃん付けなど出来まい。
「やれ」
 当然のような命令口調に、ナオコの右手がすっと挙がるのと、シンジが男を放り捨てるのとが同時であった。
 床に叩き付けられた男の口から、血反吐と歯が吹き飛ぶ。
 そこへ文字通りの業火が放たれ、瞬時に男が火だるまと化した。
 だが、それが身動きもままならないのは、ナオコの掛けた結界に封じ込められたせいだ。
 それがいかなる温度を伴っていたかは、十秒と経たぬうちに、その全身が白骨と化していた事で分かるだろう。
 これこそが、リツコをして到底母には及ばぬと言わせるものであり、シンジの頬にこの歳で、ちゅうっと出来る理由でもある。
 文字通りの骨だけ、となった元男だったそいつは、生前の形見のように奇妙な物を身につけていた。
 ちょうど骨の下になったそれは、熱でひしゃげたスーツのボタンであった。
 それだけは、全身が骨化しても消滅しなかったらしい。
 再度シンジが向けた手のひらから、一陣の風が舞い、骨が一カ所にわだかまる。
 男であった物の結末は、実にきれいなものと言えた。
 文字通り、何にも残さずに消えたのだから。
 ナオコが何かを掴むような仕種を見せると、積もっていた骨がさらさらと崩れ落ちて行く。
 ナオコが結界を解いたのだ。
 後には何も残らず、ただ骨が埃のようになって、そこに散っただけである。
「あたしゃ、掃除婦かい」
「白衣とほうきがお似合いだ」
 冷ややかに言ったシンジからは、依然として感情の色が読みとれない。
 その顔に表情が戻ったのは、下を見た時であった。
 レニが、シンジを見上げていたのである。
「シンジ…やりすぎ」
 その言葉を聞いた時、初めてシンジの顔が崩れた。
「レニ…」
「あのままじゃ、シンジちゃんには会わせられないからね」
 横からナオコが口を挟む。
 シンジが黙ってレニを抱きしめる。
「レニ、ごめん…」
 囁くような声に、レニは黙って首を振った。
「来て…きっと帰って来てくれるって…信じてたから…」
 涙声になったそれが、シンジに声を上げて泣きつくまで、さして時間は掛からなかった。泣きじゃくるレニの頭を、シンジは黙って撫でている。
 だがその全身から、今度ははっきりとした感情が立ち上っているのに、ナオコは気が付いた。
 静かだが、触れるのを到底ためらうような怒気のそれが。
「報いは受けてもらう、必ずな」
 むしろ穏やかな声でシンジは言った。
 そっとレニの身体を離すと、
「少しだけ待ってるんだよ」
「いや…私も、私も行く…」
 レニが私、と言うのを聞いて、シンジの眉が悲しげに寄る。
 植え付けられた人形のそれに。
「来るな」
 短いが、有無を言わせぬ口調で言うと、
「いいね」
 軽くレニの頭に手を置いた。
 こくんと頷くのを見てから、
「覚悟はしてるだろ。お前が預かってろ」
 ナオコの所へレニを連れて行った。
「寂しがるから、さっさと帰ってくるんだよ」
 シンジは黙って背を向け、音もなく扉から出ていった。
 ナオコがレニを抱き寄せ、
「御前も、良かれと思ってした事なんだよ」
「なのにどうして…」
「あの子にはね、お前に女らしくとかそんなのは全然望んでいなかったんだよ。自分の事を僕と呼んで、いつもやんちゃにシンジに付きまとっていた、そのままのお前でいてもらいたかったのさ」
「でも…」
「分かっているよ」
 人生の賢者のように頷くと、
「どんなお転婆な小娘も、数年も会わなければがらっと変わるさ。あの子だってそれが分からない訳じゃない。でもね、お前を一目見て分かってしまったんだよ−それが植え付けられた物だって言うことがね。その辺の浪人生碇シンジならともかく、五精使いの碇シンジには、隠し通せることじゃあなかったんだよ。どんな隠し事も風が囁いちまうし、横になった大地から密かに耳打ちされる。隠し事はできないのさ」
「そうしたら御前様が…」
「死ぬだろうね」
 ナオコはこともなげに言った。
「なっ!?」
「内調の連中が50人いれば、全員が盾となって御前を逃がす事くらいは出来るかもしれない。でも、あれを喚び出したなら、例え千人いても、何の役にも立たないさ。余計な死人を出すだけだよ。後は、運に賭けるしかないね…御前の」
 シンジを止め得ないのは、ナオコも十分に分かっていた。
 だからこそ、あえてシンジに余計な事は言わなかったのだ。
 フユノではシンジに太刀打ち出来ない。
 いや、シンジが刃を向けた時、フユノは黙ってその身を差し出すだろう。
 それに、余計な人死にを好むフユノではない。
 今は、ただ一人座してシンジを待っている筈だ。
 その身に、死の気を帯びた孫がやってくるのを。
 例えそれが、死の刃以外持ち合わせていないとしても。
 室内を静寂が支配したが、ふとナオコが気づいたように机の上に手を伸ばした。
 ボタンに触れると、十秒もしないうちにスーツに身を包んだ女が三人現れた。
「表にゴミが転がっているから始末を。それと、この子に暖かい飲み物を」
 首と胴が離れたそれを見ても、あまり驚いた様子はない。
 よく出来た部下と言えよう。
 もっとも、志望校への合格率が文字通り全国一高いここでは、厳しい審査に落ちた者の親が嘆願したりあるいは恫喝にやって来る事すらある。そんな時に対応するのは、無論ナオコではないのだ。
「かしこまりました」
 美貌の女達が、一礼して去った後、レニがすっと立ち上がった。
「やっぱり…行きます」
「シンジは来るなと言った筈だよ」
「でも…」
 次の言葉を紡ぐのに、少し時間が掛かった。
 まるで、喪った言葉を取り戻すかのように。
「シンジを止められるのは…僕しかいないから」 
 それを聞いた時、一瞬驚いたような顔になり、徐々にその表情が緩み出したのは数秒後の事であった。
「僕、か…お前がそう言うのは何年ぶりだろうね」
 うっすらと笑ってから、
「いいよ、お行き。自分を僕と呼ぶシンジの従妹なら、きっと止められるさ」
「はいっ」 
 脱兎のように飛び出したレニに、女の一人がきゃっと、慌てて避けた。
「あの子を止められるのはおそらく二人。でももう一人は、当分帰ってきそうにないからねえ。レニ、済まなかったね」
 
 
 
 
 
「マユミ、今日は部活出ないの?」
「いつも私が出ると、後輩が育たないから」
「お姉さまだもんねえ」
 くすっと笑ったさくらに、
「止めてよ、困ってるんだから」
 やや憮然とした顔で言った瞬間、
「マユミせんぱーい」
「待ってくださーい」
 胴着の裾をひらひらさせながら、疾駆してくる娘達の姿が目に入り、
「撒いたと思ったのに」
 一瞬天を見上げたが、
「さくら、後はよろしく」
 すっと身をかがめると、矢のように走り出した。
「ちょ、ちょっとマユミっ!」
 二人とも袴姿だし、髪も同じくらい長い。
 木刀を担いでいるマユミに対し、こっちは日本刀を持っているさくら。
 あまりにもよく似すぎている。
 と言うより、しばしば身代わりにされた事のあるさくらなのだ。
 見ると、瞳に危険な色を蓄えた娘達が、猛獣のように走ってくる。
「マユミ待ってー!!」
 さくらが、これもマユミを追って慌てて走り出した。
 
 
 そして数分後。
 全力疾走した二人は、どうにか後輩達から逃げるのに成功していた。
「はあっ、はあっ、はあっ…ひ、ひどいじゃないマユミ」
「ふう…ふうー…し、獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす物なのよ」
「私はあなたの子じゃないでしょ!」
 数キロの荷物を担いで疾走したせいで、かなり息が上がっている二人。
「でもダイエットになったで…むー!」
 ぎうう、と頬を引っ張られた。
「一度、決着を付けないといけないようね」
「いつでも望むところよ」
 ぐりぐりと、額をくっつけあってにらみ合う二人。
 が、二人の日常会話みたいな物だからすぐに離れて、
「マユミ、何か食べていく?」
「太ってもいい…あっ」
「そう言うマユミこそここが…あんっ」
 きゅっとマユミの脇腹を引っ張ったさくらだが、すぐに引っ張り返されたのだ。
 往来の真ん中で、お互いの脇腹をつまみ合う二人。
 本来なら他愛もないじゃれ合いだが、いかんせん両方とも美少女同士なせいで、あっと言う間に人目を引く。
「おい、何してんだあれ」
「きっとレズカップルの痴話喧嘩よ」
「真っ昼間なのにやあねえ」
 そんな会話が耳に入り、顔を真っ赤にして二人とも走り出した。
「マユミー」
「ご、ごめんね」
 言い過ぎたと思ったか、あっさり謝ったマユミ。
 だが、
「許してあげない」
「え?」
「今日のおやつ、マユミのおごりだからね」
「私が〜?」
 ええ?と眉を寄せたが、
「仕方ないわね、おごってあげる」
「ほんとに?じゃ、何にしよ…ぶっ!?」
 三段重ねのパフェにでも、と思った途端何かにぶつかった。
「ちょっとマユミ、どこ見てある…」
「しっ」
 マユミの声に、さくらの顔も鋭い物に変わる。
「どうしたの?」
「殺気がする…」
「殺気?」
 たまにだが、他流試合を申し込んでくるやつがたまにいて、その度に返り討ちにしているのだが、そのたぐいでは無いらしい。
「こっち見てるの?」
「私達には関係ないわ」
 見ると、マユミの手が木刀を持ち直している。マユミがこんな事をするからには、よほどの事に違いない。
 と、次の瞬間、
「あ、あれは管理人氏?」
 驚いたような声に、さくらも覗いて見ると、間違いなくシンジである。
 しかし、そこにいるのはどう見ても別人であった。
 姿形は同じである。
 そして、その服装も。
 しかし、女神館の住人達に追い回されていたそれは、そこには微塵もなかったのだ。
 その長身から放たれる殺気は、さくら達の所まで届いていた。
 殺気のせいか、身長が更に大きく見え、何よりもその変貌ぶりに、ごくりとのどが鳴ったが、それがお互いの物だと二人とも気がついた。
 だがそんな事に突っ込む余裕など無く、
「ど、どこへ行くのかしら」
「この分だと御前様の本邸ね」
「じゃ、自分のお家?」
「ええ、でもとてもそんな風には見えないわ」
「後をつけてみましょう」
 穏やかならぬ物を感じた二人は、気配を殺してシンジをつけていった。
 
 
 
 
 後をつけられているのは分かっていた。
 ただし、さくら達にではなく。
 物騒な雰囲気が、シンジの後方から見え隠れしていたのである。
 ふとシンジが立ち止まり、慌ててさくら達もぶつかった。
 その拍子に、今度はマユミがさくらの背に顔から突っ込んだが。
「来るがいい」
 冬の闇のような声に、マユミの背には寒い物が走ったが、
「ちょ、ちょっとさくら?」
 見ると、そこにはうっとりしている剣豪がいた。
「何してるのあなた」
「だ、だって…格好いい…」
 これは駄目だと諦め、すっと木刀を構え直した瞬間、
「『なっ!?』」
 シンジの後方に、わらわらと人影が現れたのである。
(まったく分からなかった?)
 いかにシンジに気を取られていたとは言え、まったくその存在に気がつかなかったのだ。少なくとも、武道の心得がある者としては屈辱と言える。
 だが。
「きええええいっ!」
 男達が懐から抜き出したのは、何故か出刃包丁であった。
 それを腰溜めにして一斉に突っ込んでいったのには、思わず二人とも目をつぶった。
 しかし、数秒経っておそるおそる目を開けると、そこには悠然と立っているシンジとぶっ倒れている男達の姿があった。
 斬り合う音はおろか、肉体への打撃音もしなかった。
 それなのに、シンジは悠然と立っているのである。
(今の技は…)
 マユミが内心で首を傾げた時、シンジは奇妙な行動を取った。
 軽く両手の指を打ち鳴らしたのである。
 しかも更に異常なことに、ぶっ倒れていた男達が一斉に、ふらふらと立ち上がったのだ。
 骸骨…と、思わずさくらが洩らした程、その顔はこけて見えた。
 栄養失調と言うより、ついさっき墓場から帰ってきたような顔で。
 しかしその正体は分からず、二人が血の気の引いた顔で見つめる中、
「行け」
 シンジは短く命じた。
 逃がしてやるのかと思ったが、出刃包丁を構えたまま、男達は歩き出したのである。
 少なくとも、無罪放免には見えない。
「餓鬼のなり損ない、俺には通じぬ」
 それだけ言うと、後はもう興味を喪ったようにまた歩き出した。
 さくらとマユミも、何とか我を取り戻して、慌てて後を付け始めた。
 そして十分後。
「ここは?」
「御前様のご自宅よ」
「こ、ここが…?」
 さくらは一度来たことがあるが、マユミはまだない。
 そしてさくらも、一度来たときにこの邸内で迷子になっている。
 それほどに、この邸はだだっ広いのである。
 暴徒の侵入を防ぐかのような、頑丈に造られた門構え。
 そこから玄関まで、直線で150メートルあることを、さくらはぼんやりと思い出した。
 普段シンジが帰って来たとき、玄関まではフェンリルの背に揺られているのだが、そんなことは二人は知らない。
 何にせよ、幾ら出せば造れるのか見当もつかない邸に、ただぼんやりと見とれかけたが、ふとさくらがマユミの脇腹をつついた。
「マユミ、あれ」
「え…御前様?」
 さくらが指差した先には、その通りフユノが立っていた−ただ一人で。
 いや、それだけならさして驚きもしなかったかも知れないが、フユノは全身を白で包んでいたのだ。
 死装束と、二人には一目で分かる衣服に。
 そしてそのフユノへ、強烈な死気を漂わせながら近づくシンジに。
 二人は知らなかったが、やはりナオコの指摘は当たっていた。
 一人座してシンジを待っているはず、まるでこの場を見たかのように、ナオコは指摘したのである。
「待っていたよ」
「用意のいいことだ」
 愕然と二人が飛び出そうとする前で、シンジの右手が上がった。
「望み通り、俺が送ってくれる」
「嬉しいよ」
 にこりと笑うと、フユノはすっと目を閉じた。
 迫り来る死の刃を、避けようともせずに。
 シンジの放つ気が二人を呪縛し、微動だに出来ぬ中で、シンジが宙に向けた手のひらからは、肉眼で分かる程の気の流れが渦巻きだした。
 シンジは寸分も動かぬまま、周囲の物に徐々にその影響は現れ始めたのだ。
 木々が揺れだし、段々とそれが強くなっていく。
 まるで暴風域に入ったかのような強風が吹きすさび、木々が悲鳴を上げて揺れ惑う。
 そして、シンジの気が一際強くなり、それと同時に地面にぴしりとひびが入った。
 アスファルトがゆっくりと口を開きだし、文字通り地が割れていく。
 局地的ながら、この世の終焉の光景にも似た中で、
「レニの周囲はすぐに送ってやる。寂しくはあるまい」
 その言葉は二人には聞こえず、ただ痛みを感じるほどの緊迫感と凄まじい風に、必死に互いを掴み合うのが精一杯であった。
 そうでもしなかったら、間違いなく吹っ飛んでいただろう。
「では」
 小型の台風にも似た気を帯びた手が、死の匂いを伴って振り下ろされようとした、まさに瞬間。
「シンジっ、駄目っ!!」 
 その声は、烈風が渦巻く中でもはっきりと、そこにいた者達全員の耳に届いた。
 だがそれをどう取ったのか、シンジはそのまま手を振り下ろした。
 次の刹那、フユノの小柄な身体が吹っ飛び、
「『いやああああっ!!』」
 二人の悲鳴が辺りを切り裂いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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