妖華−女神館の住人達
第三話:よう、遅かったじゃないか
「あ?」
マユミの悲鳴を聞いて、何故かシンジは首を傾げた。
しかも。
むにゅ。
一体全体、何を考えたのかは不明だが、隠すことも忘れて立っているマユミの、さくらが大きさを羨んだ胸をぐにゅっと掴んだのだ。
握る、と言うよりはなぜか、珍妙な物に触れる動きに近かったが、
「あ…な、なにをっ」
身をふりほどく事も出来ないマユミを見ながら、
「ここまで人間に近づけたか…大した使い手だな」
その時になってマユミは気づいた。
そう、目の前のこいつは自分が人間の、それもぴっちぴちの乙女だと言うことに気づいていないのだと。
「あ、あう…」
男に裸を見られるなど、まして生乳を触られるなど、マユミには無論初めての経験であった。
悪意がなかっただけ幾分ましかも知れない。
が、
「は、離してください…」
小さな声で言ったとき、その双眸からぽろりと涙が落ちた。
「…!?」
それを見た時、シンジの脳裏に嫌なものがよぎった。
まさかこれ…娘?
もしかして…式神じゃない!?
「い、一応聞いとくけども…」
すっと手を離しながらシンジが言った。
「も、もしかして…し、式神じゃない?」
マユミが小さく頷く。
(しまったー!)
無論暴行の意図など皆目なかったが、女の、それもどう見ても処女のなまちちを握ったなど、どう見てもキケンすぎる。
「あ、あのごめ…」
言いかけた瞬間、
「マユミっ、無事っ!?」
抜き身を手にして、蹴破るようにして扉が開いた。
いや、扉が吹っ飛んだ所を見ると、本当にけ飛ばしたのかも知れない。
駆けつけたのはさくらであり、そしてその目の前に広がる光景は−
マユミ…素っ裸。
変な男…手がマユミのすぐ前に。
結論−こいつは痴漢だ!
「斬っ!!」
いきなり斬りかかって来たのには、シンジの方が慌てた。
いや、斬りかかって来るのはいいが、この体勢だとマユミもろともである。
シンジだけなら簡単にかわせるが、知らない娘を斬らせる訳には行かない。
「御免」
「え?…きゃっ!?」
マユミが動く間もなく、シンジはその裸の体を横抱きにしていた。
ぷるんっ、と胸が空中で揺れたが、そんな事に気を取られている余裕もなく、シンジは湯壺の中に飛び込んでいた。
そして、シンジが地を蹴ったコンマ二秒後、さくらの一撃がそこを襲い、敷き詰められた床が数メートル縦に裂ける。
が、これはさくらのミスであった。
マユミが暴行された、と思いこんだ瞬間頭に血が上ってしまったのだ。
だからマユミが避けないかも知れない−初体験のショックで−と言うことが、念頭から消えてしまっていたのである。
シンジがマユミを抱かずに避けていたら、間違いなく渾身の一撃がマユミを襲っていたはずだ。
「ぷはっ」
湯から顔を出したシンジだが、妙に背中が痛いのに気が付いた。
見ると、全裸のままマユミが背中に手を回している。
どうやら、爪でも立てられたらしい。
「だいじょ…」
言いかけた途端、いきなり平手が飛んできた。
辛うじてかわしたものの、縁の石に後頭部が勝手にキスする羽目になり、
「OUCH!」
「変態さん!!」
「お、俺のこと?」
「他に誰がいるんですかっ!い、いきなり入ってきて私のむ、む、胸をっ」
訂正しておこう。
シンジは最初からいたのだ−それが適正かは別にして。
「べ、別に俺が侵入した訳じゃ…ん?」
仁王立ちになっているマユミの黒髪が、ほどけて腰に絡みついているのにシンジは気が付いた。
ちょうど、どこかの絵画のイブのように、とってもセクシーである。
「あの、ま、前は隠した方が…」
「いやああああっ」
げしっ!
おみ足の一撃に、シンジはそこだけ違う色が−なんかきれいな色の−見えたような気がしたが…いや、確かに見えたに違いないがそんな事はともかく。
「あっつう〜」
後頭部をおさえて起き上がろうとしたその視界に、きらきらと光る白刃が映った。
「お話、済んだみたいですね」
シンジの視界に入ってきたのは−まるで天女のような笑顔と、羅刹の殺意を帯びた刀であり。
「ちょ、ちょっと待ったこれはそのっ」
「問答無用」
さくらの視界には、無論胸を押さえて湯の中にうずくまった親友が映っている。
「真宮寺さくらの妖撃剣、教えてあげます」
音もなく振りかぶり、釣り竿でもキャストするかのように振り下ろそうとした刹那。
「『っ!?』」
シンジの指がちょっと上がり、さくらとマユミが一瞬愕然としたのは、
「風裂」
シンジの手から、小さな風が放たれたからだ。
そしてそれは、
「きゃあっ」
さくらの袴をちょっとだけ破いて、
「きれいなあし」
ぼっ
火を噴いたようにさくらの顔が赤くなり、
「なっ、なっ、何をっ!ん?」
思わず手が止まり、と言うより太股を押さえかけた時、
「総員退却」
シンジがぴゅうっと走りだした。
「あ、待ちなさいっ」
赤い顔のまま走り出しかけて、
「さ、さくら〜」
こっちは可哀相に、見知らぬ男に胸まで触られたマユミが、前を押さえてうずくまっている。
「なにかされたの!?」
状況からして咄嗟に訊いてしまったが、
「全身見られて、しかも生乳まで揉まれかけたの…」
とは死んでも言えない。
絶対純潔主義の家に育てられたマユミであり、ましてこれが姉さんにばれたら…ぶるぶると首を振ったマユミを、さくらは額面通りに受け取って、
「ああ、良かった」
ふーう、とため息をついた。
だが次の瞬間、その眉がつり上がると、
「あの男、一刀両断にして来るから待っていてね」
マユミの返事も聞かず、愛刀の荒鷹を掴んで駆けだしていく。
その後ろ姿を見ながらマユミは、
「あああ、見られちゃった…ううん、しかも触られちゃった…」
羞恥が怒りに変わるのには、そんなに時間はかからなかったらしい。これも、勢いよく湯船を出ると、変な男追撃隊に加わるべく、素裸のまま走り出していった。
「やっぱり、触ったのはまずかったな」
ずきずきする頭をおさえながら、シンジは呟いた。
式神にしては大したものだと、つい触ってしまったのだが、生身の娘に対しては最悪の初対面である。
「にしても」
シンジは辺りを見回した。
「何でここはこんなに広いんだ」
使えないばーさんだ、とぶつぶつ言いかけた時、
「お待ちなさいっ」
「ん?もう来た」
ほんのちょっと破れた袴はそのまま、白刃を引っ提げて追ってくるさくらに、シンジは慌てて辺りを見回した。
こうなると、フユノから見取り図をもらってこなかったのが痛い。
住所と温泉の場所、それだけしか見てこなかったのだ。
だがそんな事は言っていられない、さっさと走り出しながら後ろを見ると、袴の切れた所がひらひらしており、シンジの視線に気づくと慌ててさくらがおさえる。
白い脚を見られるのは恥ずかしいらしい。
よし今の内、と角を曲がった瞬間、
「いてっ」
「あいたっ」
シンジの胸元に、誰かの顔が強烈に当たった。
声で女だと知った瞬間、
「君誰?」
「い、碇シンジ」
蒼髪の少女が、珍しげに訊くものだからつい答えてしまったが、
「レイちゃん、捕まえてっ」
「え?」
「その人、痴漢なのよ痴漢っ」
「なっ、ち、違…」
シンジが慌てたのは痴漢扱いよりもむしろ、目の前の少女の変貌にあったろう。
綾波レイと、名前だけは知っていたがその能力は知らない。
そのレイが、
「ボクを見せてあげるね」
妙な台詞と共ににっこりと笑った瞬間、シンジは弾かれるように右へ飛んだ。
殆ど間を空けず、
「水盾」
八角形に変化した盾が、立て続けにシンジのいた場所を襲ったのだが、無邪気にも見える笑顔だけにたちが悪い。
連打を読み切れず、その内の一枚がシンジを直撃し、
「ウギャーッ」
廊下を反対側に吹っ飛んでいって…止まったが。
むぎゅうっ。
「むぎゅ?」
顔から何かに突っ込んだ時、咄嗟にシンジは前にあった布を掴んでいた。
ビリビリ。
「何だこれ」
「それはね」
降ってきた声にシンジが上を見ると、
「あ、赤鬼…」
「誰がじゃっ!!人のおきにのTシャツ破いておいて〜」
ブルネットの少女が、これは文字通り額から角を生やして怒っていて、
「アスカ奥義!烈火乱舞!!」
両手から飛び出した火球が、見る見るサッカーボール並になってシンジを襲う。
「あぢぢぢぢっ」
文字通り火だるまになったシンジだが、
「水槍っ」
咄嗟に自己消火に成功し、間をぬって辛うじて逃げ出した。
「待てー!!」
「待ちなさいっ!!」
いつの間にか着替えたマユミが合流し、四人の娘達が猛然と追撃を始めた。
「で、さくら、あいつ何なのよ」
走りながら訊いたアスカの手からは、まだ火球が消えていない。
「痴漢よ、痴漢」
「痴漢〜?」
「じゃなくてさあ、何で男がいるのお?」
どこか呑気に訊いたのはレイ、四人とも全力疾走だが、これだけは息も切らしておらず、平然と走っている。
「お、お、お風呂にいたの」
「『風呂ぉ!?』」
かーっと赤くなったマユミに、
「マユミ、大丈夫よ」
「え?」
「ぜーったい、ぶっ殺すから!」
「う、うん」
過激なアスカの発言に、少し引き気味のマユミを見て、
「どうしたのよ、マユミ」
「う、うん…あの男(ひと)、どこかで見たような…」
「見た?指名手配じゃないの?」
くすくす笑ったレイに、
「そうよ、レイ、いいこと言うじゃない」
「この荒鷹も、久しぶりに切れ味が試せるわね」
一番物騒なのは、さくらかもしれない。
「食堂?よし」
重そうな扉に食堂のプレートを見つけると、咄嗟にシンジは中に飛び込んだ。
「『!?』」
瞬間的にシンジの足が止まったのは、クマのぬいぐるみを抱いた少女を見つけたからだ。
(金髪の娘…アイリスか)
「あ、あなた誰なの」
怯えた顔のアイリスに、
「しーっ」
口に人差し指を当てて、にこっと笑ってみせる。
それ以上言わなかったのは、アイリスがテレパスだと知っていたからだ。
で、予想通り、
「そ、そんな事ないよぅ…」
透き通るような頬を、うっすらと赤らめたアイリスに、
「泡炎」
指の先から飛ばした炎で、空中に模様を描いて見せた。
その瞬間、食堂の外を姫達の騎馬隊が走り抜けていく。
だがアイリスは気づかぬ感じで、
「わあ…」
少女らしい笑みを見せ、
「ジャンポールだ、ね、そうでしょ?」
「うん、ご名答」
頭を撫でたが、無論名前など知らない。こう言う時は、頷いておくに限る。、
「ね、ね、またやって」
「そうしたいんだけど」
「え?」
「怖い人達に追われているからまたね」
「怖い人?」
瞬間的にシンジは精神を閉じ、
「今度会ったらやってあげる」
自分の所在を口外しないと、半ば確信しつつシンジは外に出た。
「よし…げ!?」
「いないわよ」
「おかしいわ、そんなに遠く行くはず無いもの」
「その辺にいるんじゃないの」
去っていった四人が、またこっちに戻ってきたのだ。
慌てて角に隠れるのと、食堂のドアが開くのとか同時であった。
「アイリス、ここに誰か来なかった?」
「誰かって?」
「髪の長い変質者よ、変質者」
「変質者ってなあに?」
「あのね、マユミがお風呂覗かれたの」
「べ、別に覗かれた訳じゃ…」
その声はかき消され、
「う、ううん、アイリス誰も見てないよ」
シンジに気を取られていたせいか、声の変化に誰も気づくことなくすぐにまた出ていく。
彼らが出ていった後、
「あのお兄ちゃんが…?そんなことないよね、ジャンポール」
腕に抱いたぬいぐるみに訊ねるように、アイリスは呟いた。
「御前様、どうしてこちらへ?」
その頃玄関前では、フユノがリムジンから降りた所であった。
権力など持つと、一人で出歩く自由は無くなる。
まだ夫が存命の頃は、結構フユノも一人で出かけたりしていたが、夫が三途の川へ出かけてからは、完全に歩く自由はなくなっていた。
監視、と言うわけではないが、どこに行くにも巨大なリムジンが送迎してくるのだ。
もっとも、フユノに何かあれば東京学園が傾く、と言われているためやむを得ない部分もあるのかも知れない。
そのフユノが、ちょうど帰ってきたばかりのすみれに会ったのだ。
「孫を探しにね」
「お孫さん?ミサトさんですの?」
「あれの万倍優秀な孫よ、見取り図も持たずにこっちに来おったわ」
「東京学園に転入を?」
ほっほっ、とフユノは笑った。
「あれはいずれ、儂の跡を継ぐ器量じゃ。転入などせんよ」
フユノが、孫娘のミサトに落第印を押したことを、すみれは知っている。
しかし、ミサト自身は決して凡庸ではない。つまり、普通より相当優秀という事になるのだが。
内心で首を傾げたとき、プールの横から誰かが飛び出してきた。
プールと言っても女神館専用であり、温水だから年中入れる。
だが、それが男と知った時、すみれは咄嗟にフユノを庇うようにして前に出た。
「すみれ、余計じゃ」
「え?」
と言ったときにはもう、そのなんか焦げた奴は目の前まで来ていた。
「おさがりなさいっ」
一喝するのと、
「ひどい目に遭ったぞまったく」
そいつがぼやくのとが同時であった。
「目通りは済んだようじゃの。どうであった?」
「同じ目に遭わせてやる」
長髪の青年が、いきなり手から巨大な炎を出したのを見て、反射的にすみれが薙刀を構える。
「風裂」
反対の手から起こった風で、すみれのスカートがふわーっと巻き上がり、
「あ、水玉」
くっくっとフユノが笑うのと、すみれの顔が危険な色に紅潮するのとが、ほぼ同時であった。
慌ててスカートをおさえた瞬間、
「いたわ、あそこよ!」
「もう逃がさないわ」
ん?とすみれが目をやると、そこには獲物を捉えた猟犬よろしく、走ってくる住人達の姿があった。
「何ですの、あれは」
裾の乱れに眉をひそめた時、追撃隊が到着した。
「さーて、あんた捕まえたわよ」
ボキボキと指を鳴らしたアスカに、
「お待ちなさい」
「何よ」
両方とも挑戦的である。
「これはわたくしの獲物よ、余計な手出しはなさらないで下さるかしら」
「あんたの?誰が決めたのよ」
「わたくしです、大体このわたくしに…」
「何されたのよ」
一瞬すみれがつまる。
それはそうだ、まさか、
「スカートを風でめくられて、下着を見られた」
などと言える訳がない。
「とっ、とにかくここはわたくしの−」
「却下よ」
あっさり却下して、
「こっちはマユミが風呂を覗かれてんのよ。覗きよ、覗き」
反射的に、
「そ、それならわたくしだって下着を見られ…あっ」
慌てて口を押さえたがもう遅い、
「ふーん、パンツ見られちゃったんだ」
レイにつづいてアスカなどは、
「ね、あの高慢ちき、何穿いてたの?もしかして、穿いてなかっ−」
言い終わらぬ内に、すみれの薙刀がアスカを襲う。
「そ、それ以上は許しませんわっ」
「何よっ、やる気っ」
相当仲が悪いらしいが、何故かフユノは止めようとはしない。
それどころか、
「そんな場合でもなかろう」
老婆の一言に、ぴたっと二人の動きが止まる。
「共通の敵なら取り合う前に、団結して始末するがいい」
フユノの言葉は絶対なのか、一斉にその牙がシンジの方を向いた。
そして、
「あ、あのちょ、ちょっと待っ」
「『問答無用!!』」
薙刀が、そして白刃が、そして水と火が一斉にシンジを襲い、シンジは声もなくプールの中へ吹っ飛んでいった。
完敗である。
だが、フユノがにっと笑ったのはどうしてか。
「ふん、他愛もない。あんなのに手こずっていましたの?」
見下すような言い方に、アスカの眉が跳ね上がる。
「はんっ、そのあんなのにパンツ見られた女に言われたくないわねっ」
「何ですって!」
「何よっ」
また繰り返し、と思われたとき、
「お前達、良いのか?」
「『え?』」
一瞬の沈黙の後、
「ちょ、ちょっと火がっ」
「も、燃えているじゃありませんのこれっ」
「やだっ、ボクの服が焦げちゃう」
「御前様、これはっ」
「さすがはシンジじゃな、それよりほれ」
フユノが指さした先は、シンジが吹っ飛んでいった温水プール。
次の瞬間、一斉にプールに向かって走り出した四人。
シンジと言う名前は知らないが、ともかくこの火が消えないと知ったのだ。
走っていく後ろ姿を見ながら、
「時間差の劫火を放ったか、さすがは我が孫よのう」
フユノが目を細めたとき、ちょっとレアに焼けちゃいながら、乙女達がプールの入り口に着いた所であった。
で、彼らが見たものはと言うと。
プールの中に黒髪を揺らして浮かんでいるシンジであり、
「よう、遅かったじゃないか」
と言うわけで次の瞬間。
「ウギャーッ!!」
シンジの身体が再度舞い上がり、も一回フユノの所へ戻ってきた。
「お帰り、シンジ」
「ぜ、絶対…全員ウェルダンにしてこんがりの刑…だ…」
それだけ言うと、ぱたっとその場に倒れた。
「いい管理人になれそうじゃのう」
ぶっ倒れたシンジを見ながら、フユノが目を細める。
吹っ飛びざまに放った劫火は、これも数秒開けての攻撃だったのだ。
シンジがその気なら、今頃四人ともウェルダンになって、どっかの国に珍味として輸出されていただろう。
にこりと笑ったフユノの耳に、プール内から甲高い声が聞こえてきた。
どうやらまた、アスカとすみれが言い合いしているらしい。
そして、他の者達が止めているのも普段の光景だ。
やれやれとため息をついた時、
「あ、あのおばあちゃん…」
ぬいぐるみを抱いたアイリスが出てきた。
「こ、この人悪い人なの?」
ちょっと首を傾げて訊いたアイリスに、
「儂の大切な孫じゃよ」
それを聞いてアイリスが、
「ああ、良かったあ」
にっこりと笑い、フユノの手がその頭をよしよしと撫でた。