食人画(中)
 
 
 
 
 
「駄目だこりゃ」
 珍しいと言えば、これも凍夜町の降雪より珍しいかも知れない。
 黒らんぷ堂全焼の翌日、屍刑事は捜査員を全員引き上げさせたのである。
 天地が文字通りひっくり返りそうだが、理由はある――たった一つの、そして単純明快な理由が。消防隊員が簡単な現場検証を行った後、自らも陣頭指揮で焼け跡に赴いたのだが、そこであるものを見たのだ。
 知り合いの不死人が、黙然と立ちつくしていたのである。
 ただし、その背中には鬼気が漂っていた。
 部下達が、一般人は立ち入るなと自らの死刑執行令状にサインし出す前に、彼らの命を救ったのだ。
 正解だったろう。
 シンジ一人でさえ不死と来ている。その上シンジを敵に回した場合、人魚に加えて夜の一族が揃って牙を剥いてくるのだ。国家反逆罪ならいざ知らず、一店舗の全焼程度で部下を失う訳にはいかない。
 最近は警察官の志望者もぐっと減っているのだ。
 指一本で部下を下がらせてから、屍はシンジに近づいた。無論気付いてはいようが、振り返る気配は全くない。
 横に立った時、
「どうして部下を下げた?」
 先に口を開いたのはシンジであった。
「下がれと言われてとっとと下がる為に、こんな焼け跡に立っている訳じゃあるまい」
「一理ある」
 シンジにしては珍しい言い方であった。
「で、知り合いか?」
「これからなる予定だった」
「ほう」
「ところで焼け跡からは何人見つかった?」
「ゼロだ。ただし、一人足りない。この店を――」
「一人で切り盛りしていたお婆さんだ。それと店の中から無くなってるものは」
「調べる人間はもう下げてあるが」
 それを聞いたシンジが、やっと顔を横に向けた。
「寒くなってきたから帰る。お婆さんの行方は捜さなくて良いから、家族関係とそれからこの店に掛かった保険金を教えて。後は僕がやる」
(ん?)
 内心で首を傾げたのは、僅かな違和感を感じたからだ。言ってる事は分かるのだが、犯人を捕まえてどうこうとは少し違うらしい。
 仇討ちならいざ知らず、単なる好奇心で動く青年ではない。そして――正義感から動く事はもっとあり得ない。
 無論、屍は知らない。
 シンジが動いたのは、正義感でも仇討ちでもない事を。昨日、間違いなく何かが自分の琴線に触れたのだ。あそこで深く調べていれば、おそらく火事は防げたろう。
 他者ではなく、自分への感情からここに来ていた事など、いかに屍が優秀でも分かるまい。
「分かった。結果が出たら連絡する」
「ん」
 感情を見せぬままシンジが身を翻した時、屍は初めて気が付いた。
「あいつ…夏物のシャツ一枚で出歩いてやがる」
 温度計の付いた腕時計を見ると、気温は五度を示していた。
 
 
 
 
 
「シンジ様が」「私達を甘く見ているわ」
 顔を見合わせてうっすらと笑ったのは、無論せいらとレイである。二人は今、隣の市にある図書館に来ていた。
 近隣の街では最も規模が大きく、二人は既に巨大な書庫の中から目当ての物を見つけていた。
 実は、黒らんぷ堂消失の報を最初に知ったのはレイであった。無論、現場から連絡があったのだ。
 夜の一族の眷族である。
 紅茶を飲みながら、シンジに買ってもらったオルゴールをうっとりと見つめていたレイの元へ、コウモリ達が翼をはためかせて大挙し、上がった火の手を伝えたのだ。
「……」
 レイはすぐには動かなかった。
 人外の力を持っていても、水や火を使える訳ではないから、現場に行ったところで役には立たないし、その聴覚は既にサイレンを鳴らして現場に向かう消防車の音を捉えていた。
 何匹かを張り付けておいた結果、火の手が上がった時刻には店内に誰もおらず、しかも一人行方が分かっていないのに、遺体が見つかっていない事も掴んでいた。
 シンジより余程早い。
 朝になって陽光用の薬をいつもより余分に飲んだレイは、早速ミサトの店へ赴いてせいらを借り出した。
「レンタル期間は三日、休業補償は三倍お支払いします」
 昨夜と変わって妙に強気だが、三倍なら文句はないとあっさり貸し出した。
「何があったの?」
「昨日行ったお店が燃えたの」
 話を聞いたせいらは首を傾げて、
「それで?」
 と訊いた。
「分からないの」
「全然」
 使えない人ね、と言いたくなるのを堪えて、
「碇君は昨日、店内に反応があったと言っていたわ。その日の晩に店が全焼して、碇君が黙ってみていると思う?」
「思わないわ。だから分からないの」
「え?」
「レイの言いたい事は分かるわ。単なる偶然にしては出来すぎているし、そもそも店主が行方知れずなのはおかしすぎる。だから私達で調べ上げて、シンジ様に言えなかった事を叶えていただこうと、そう思っているんでしょう」
「分かっていたの?」
 せいらはほんの少し笑った。
「同じ血が流れているんですもの、それ位は分かるわ。ただシンジ様の性格からして、それを喜ばれるとは思えないんだけど…。万が一にも、余計な事をって言われたら」
「…それはないと思うわ」
 断言、と言うには少々力弱いレイの声であった。
「根拠はないけれど…碇君はそんなに狭量じゃないと思う。それに、碇君が動くとしたら正義感とかではないから。それに、自分にも怒っている気がするの」
「どういう意味?」
「昨日あそこで帰らないで、もう少し調べていれば防げたかも知れない。防げていればあの老婆が行方不明になる事もなかった――碇君なら多分こう考える。可能性は少ないけれど、まだ生きている可能性があるわ。もしも私達が見つけられたら――」
「たら?」
「そ、それ位言わなくても分かるでしょう」
「分からないわ。ちゃんとレイの口から言って欲ひい…」
「絶対に嫌」
 むにっと、レイがせいらの頬を引っ張ったのだ。
「ほんろうはいいらいくへに」
「うるひゃい」
 今度はせいらが引っ張り返す。
 二人とも元が美少女だから、頬を思い切り横に引っ張り合っている姿はかなり愉快な姿だが、現在この屋敷に二人を止められる者はいない。
 アスカは棺の中でぐっすり眠っており、当分起きないだろう。
 段々力が入ってきて、三十秒ほど思い切り引っ張り合ったのだが、やがてその手が止まった。同じ体勢だから、埒があかないと気付いたらしい。
(離すのは同時よ)
(分かっているわ…三・二・一)
 約束を破ってもエンドレスバトルになるから、とりあえず同時に離した。お互い赤くなった頬をさすりながら睨み合っていたが、ほぼ二人揃って息を吐き出した。
 とりあえず、こんな事で戦っている場合ではないのだ。
「私が悪かったわ」
「私も…ムキになりすぎた」
 とりあえず仲直りして、
「それで具体的にはどうするの」
「碇君が目を付けていた物は分かっている。あの変な絵よ。どう関係あるのか迄は分からないけれど、関わりがある事は間違いないと思う。とりあえず絵の事を調べてみるのよ」
「それはいいけど、詳細に覚えているの?」
「いいえ、でも必要ないわ。コウモリ達が現場から遺留品を持ってきたのよ。店の中にあった品物みたいだけど、ここに残った思念を読み取るの。店主が絵に触っていないという事は無いはずだから、これが絵を触るより後の品物なら記憶が読み取れるのよ」
「大したものね」
「そうでしょうそうでしょう」
 が…失敗。
 レイ達は聞いていなかったのだが、老婆はあの絵を嫁が数日前に持ってきた、と言ったのだ。つまり、店内を毎日掃除でもしていない限り、件の絵よりも後に触った物などかなり限定される事になる。
 結局、二人が顔を煤だらけにして何とか使えそうな物を手に入れたのは、三時間も経ってからであった。
 顔を真っ黒にした美少女二人が風呂に飛び込み、ごしごし洗って出てきてからこの図書館へ直行したのだ。
 その手の事典を見つけるまでに一時間要したが、該当項目は十分ほどで見つかった。
 顔を見合わせて笑ったのはこの時である。
 無論、シンジがこんな所へ決してたどり着くまいと、踏んだ上の事だ。
 が、すぐに首を傾げる事になった。
 一応、『食人図』と言う物はあった。だがそれは、古代中国に於いて、とある術士が人食い虎を絵に封じ込めたのだが、ボンクラな皇帝が偽物に違いないと封印を解いてしまい、側近達が十数名食われたという物であり、どう見ても昨日の物とは違う。
「つまり…」「あれとは違うという事ね…」
 非難したり逆ギレしたりはしない。二人とも大人の女なのだから。
 少なくとも、シンジとの初体験という目的がある。
 顔を見合わせて首を捻っていたが、
「レイ、もう少し遺留品を見つけられる?」
「どうするの」
「出火原因を調べるのよ。第三者の人為的な放火だと思ったけれど、もしかしたらそこから違っていたのかもしれない」
「あの店主の自作自演?」
「――の失敗」
「つまり本当は“遺体が見つかるように”しようとしたのが、何らかの理由で失敗したって言う事?」
「可能性はあるわ。人間は碇君が思うほど善人ばかりじゃないもの」
 シンジ様も?と訊こうとして止めた。わざわざ揉めネタを持ち出す事はない。
 意気揚々と入ってきた美少女二人が、ちょっと悄然として出て行くのを司書は黙って見送った。
 
 
 一方シンジの方はと言うと、リツコの元へ呼び出されていた。
「はいこれ」
「ん?」
「黒らんぷ堂に掛けられた火災保険は4500万、家財を合わせると六千万近くになるわ。一応受取人は店主になっているけど、彼女に万一の事があれば当然保険金は法定相続人に行く。もっとも、お金はすぐに要らないケースもあるけれど」
「どういう事?」
「あの店には、店主の観察眼が少し落ちたのを良い事に危険な物を持ち込む連中がたまにいるから、別の課で見張ってるのよ」
 そこまで言ってから、
「勿論、この街で売買される分にはいいんだけど、市外に出ると色々と、ね」
 と付け加えた。
 シンジが刹那反応したのに気付いたのだ。
 リツコがシンジを呼び出せたのは、全くの幸運であった。昨日寝過ごしたのである。
 彼女にしては極めて珍しいのだが…夢を見ていたのだ。
 何の夢かは無論言えない――特に目の前にいる青年には。
 とまれ、夢のせいで遅刻した彼女が車を飛ばして署に向かう途中で、戻ってきた刑事達に会ったのだ。
 事情を聞いたリツコは、にやあと笑った。一瞬正夢になったかと思ったほどだ。
 すぐに推理アンテナをピンと立てて資料を取り寄せ、お呼び出しの電話を掛けた。
 呼んでみたらお荷物(小娘達)もくっついていない。リツコが寝坊を良しと宗旨替えするのはこれ以降の事になる。
 ふうむ、と考えて込んでいたシンジの顔が上がった。
「ありがと」
「どういたしまして」
 婉然と微笑んでから、
「それでシンジ君、店の中で何を見たの?」
「絵を。若いねーちゃんが書いてある絵だった。格好は中世位で、身分は中の上ぐらいだと思う」
「変わった外見?」
「否」
 シンジは首を振り、
「外見で引っかかっていれば僕が買い受けている。ただそれが逆に…失敗だったけど」
 言った途端、不意に身体が引き寄せられた。
(ん?)
 胸の感触と、甘い香水の匂いがうっすらと漂ってくる。
 胸の中にシンジの頭を抱きしめ、
「ああしていればこう出来た――人間は決して過去へ戻る事が出来ない。だからこそ今を懸命に生きようとする。あなたが気に病む事ではないわ。例え事件性の物だったとしても、事態を未然に防げたとは限らないんだから」
 ややあってからシンジの顔が上がった。
「あの、リツコさん…」
「なあに?」
 ここまでのシナリオは完璧だ。一点の狂いもない。
 後は最後の一押しをするだけだ。
 それが音を立てて崩れたのは、次の瞬間であった。
「そうじゃなくて、僕の勘も鈍ったなってそっちが気になってただけなんだけど」
 申し訳なさそうにシンジが言うのと同時に、シナリオがさらさらと流砂のように解けていく。
「え…」
 かーっと赤くなって何とか横を向こうとしたその顔が、そっとおさえられた。
「ありがとう」
「シンジく…あ」
 顔が近づいてくると分かった時、リツコは反射的に目を閉じた。
 それもぎゅっとではなく、恋人の甘い口づけを待つ乙女のようにそっと目を閉じて。
 頬に触れた感触がすぐに離れた時、何故か残念な気はしなかった。
「それで、絵の出自が知りたいのね」
 訊いた声は、もういつもの優秀な刑事の物に戻っている。
「うん」
「妖気を持つ絵の伝説なら、いくつか心当たりがあるから当たってみるわ。ただし、期待はしないでね」
「よろしく」
 いつもどおり霞のように出て行くシンジの後ろ姿を見送ったリツコは、しばらく彫像のように動かなかった。
  
  
 それから数日間、レイ達もリツコの方も進展は得られなかった。
 絵の方はどうしても正体が分からなかったし、焼け跡からも人為的な所は見つからなかった。
 シンジの方はと言うと、夕刻に絵留川を散策する程度であとは家に籠もっていた。
 天候がレイ達の意見を聞いたものか、夜になるとまた雪が降り出してくるから、積雪がなかなか姿を消さない。一時はとっとと雪解けかと思ったのだが、或いは雪夜の晩の願い事の情念が強すぎたせいかもしれない。
 そんな中、手がかりは意外なところから舞い込んできた。
 考え込んでぼんやりしていたせいらが、ステージの後片付けをしている時に、ざっくりと手を切ったのだ。幸い救急車を呼ぶほどではなかったが、ミサトはすぐに病院へ行かせた。
 治療が終わって待合室にいる時、せいらの耳に入ったのは先日行き倒れの所を発見された身元不明の患者の話であった。
 別に根拠はない。何となく感じた――女の勘とでもいうのかもしれない。
 その日の晩、レイと一緒に病室へ侵入したせいらが見たのは、行方不明になっていた老婦人であった。
「どういう事?」
「……」
 十秒ほど経ってから、レイは首を振った。
「火事の原因は、ストーブの上にあった鍋が乾燥して、中の残り物に火がついたという事だった。それに、出火当時店内には誰もいなかった筈…どうしてこの人がこんな場所にいるの…」
 さすがに無理矢理起こそうとは思わなかった。
 そうなると手段は一つしかない。
 吸血だ。
 あまり気乗りはしなかったが、ここまで来てこの老婦人をシンジに見せるだけでは、あまりにも芸が無さ過ぎる。
「やるの?」
「仕方ないでしょう」
 レイの双眸が夜の一族のそれへと変わり、危険な赤光を放つ。朱を掃いたような唇から乱杭歯がのぞき、レイが皺だらけの首筋へ顔を近づけようとした次の瞬間、
「そこまでよ」
 外の気温に勝るとも劣らない冷たい声がした。
 驚いた様子もなく、二人がゆっくりと振り向く。
「殺人罪、ではないわね。とはいえ病院内で、それも本人の意志を無視した吸血鬼化は立派な犯罪よ。二人とも署まで来てもらうわ」
 銃口を向けてはいないが、既に銃弾は詰め替えてある。呪文を刻んだ上で、直前まで聖水に浸してあった。
 普通の人間にとっては、痛いよりむしろイタイ弾だろうが、標的の二人は人外だ。かすっただけでも十分致命傷になる。二人がいるとは予想外だが、持ってきた物が役に立つ。
「わざわざ命を捨てに来なくてもよかったのに」
 レイがひっそりと笑った。
 飛んで火に入る夏の虫を見るような、そんな視線であった。
 私が?と視線で訊いたせいらを表情で制した。
「すぐに済むわ。一度は決着を付けなくてはならない相手だもの」
 吸血姫と美貌の女刑事が病室内で対峙する。元からシンジを巡って微妙な緊張関係にあった事に加えて双方とも同じ事を考えていた、と言うのが大きかった。
 普段なら、ここまでは至らなかったろう。
 が、二人から放たれる殺気がぶつかり合う事は遂になかった。
「ふわーあ」
 あまりにも間延びした声が、危険な静寂を破ったのだ。
「地下の倉庫で見つけたよ。まったく患者の持ち物を何だとお…ん?」
 ひょこっと顔を出したシンジの視線が、レイとリツコの間を行き来する。表情からして、どうやら場を和らげる演技ではなかったらしい。
「物騒な物は出さないでね」
 先にリツコに声を掛けてから、
「こんな所でOK牧場に出くわすとは思わなかった。綾波とせいら、こんな所で何をしている?」
 はた迷惑にも庭先に積もる雪を眺めながら、シンジもまた少し遅れてレイ達と似た結論に行き着いていたのだ。
 ヒントは屍がくれた。
 元々家と店舗の土地をまとめて売りたがっていた嫁が、ツアー旅行の宿泊先で夜中に抜け出したまま、戻っていない事が分かったのだ。
 しかも火事の前日である。
 もしかしたら、と思いついたのだ。
 老婆が事件に巻き込まれたのではなく、逆だとしたら?
 あの絵の正体は分からなかったが、妖気を発する類の物である事に間違いはない。自分を追い出して店を乗っ取り、土地を売り飛ばそうと企む嫁を始末した老婆が姿を消した、となるとある意味では単純な話になってくる。
 すっきりしない部分もあったが、可能性は片っ端から潰した方が手っ取り早い。うろついていた老婆が保護された、と言う話は警察の方では見つからず、じゃあ病院だと単純に切り替えたところ網にかかったのだ。
 シンジは不死人ではあっても透明人間ではない。一般人がとっくに面会時間の終わった院内をうろつくのはよろしくないと、リツコを呼び出して先行してもらったのだが、まさかレイと決闘沙汰になっているとは思わなかった。
 リツコはリツコで、絵の正体が分からない上に老婆の所持品が分からない以上、妖かしのものが待ち受けている可能性があると、特製の銃弾に切り替えたに過ぎず、最初からせいらやレイがいるなどとは思っていない。
「何をしているの?」
 シンジがもう一度訊いた。
 声の調子は変わっていないが、せいらとレイがびくっと肩を震わせた。
「そ、その…も、もしかしたら今回の事は、この人が自分で作りだした状況じゃないかと思って…」
「それで?」
「お、起こすより、い、一時的に下僕にして…」
 レイの言葉を聞いたシンジは、軽く目を閉じた。
 ゆっくりと息を吸ってから吐き出す。
 こんな時は、深呼吸するに限るのだ。
「銃見せて」
 受け取ったシンジが弾倉を取り出す。
「これは?」
「行方不明になった店主が人間のまま、とは限らないでしょう?」
「ごもっともで」
 どうしてリツコとレイが睨み合っていたのかは知らないし、別段興味もない。
 ただ問題は――せいらとレイが自分の為に動いていたのは間違いない、と言う事なのだ。
 単なる不法侵入ならいざ知らず、司直の手に引き渡せる状況ではない。
「あまり引き渡したくはないんだけど」
 言葉の中に小さなため息があると、リツコだけは気付いていた。
「別に構わないわ」
「え?」
 せいらとレイでさえ思わず驚いた程、リツコはあっさりと頷いた。
「刑事はいつも何かを収穫して帰れる訳ではないし、そもそも私は鑑識だもの。ただ、急いできたから少しおなかがすいたわ」
「分かった。じゃ、何か食べに」
「そうね」
 リツコの反応を確認し、
「僕はこれで帰る。昏睡してるご老体には手を出さないように」
 それだけ言うと、さっさと背を向けてしまった。
 後に残されたのは、世にも落ち込んだ哀れな美少女二人であった。
「失敗、だったわね」「そうね…」
 それ以上言葉を繋ぐ気力もなく、悄然と引き上げていく。
 どこをどう歩いたかも分からぬ内に、ミサトの店に着いていた。シンジに嫌われてしまったと思い、時間の感覚すら失った二人をミサトが待っていた。
「あんた達に召喚状」
「召還…ですか」
「違うっつーの。召喚状よ、さっさと見なさい」
「『はい…』」
 夢遊病者みたいな手つきであけると、
「部屋(うち)へおいでヨ」
 とシンジの字で書いてあった。何故か、最後の文字だけカタカナになっている。
「『行ってきます』」
 閻魔の前に出る大罪人みたいな足取りで歩いていく二人を見送って、
「一体あの二人何やらかしたのよ」
 ミサトは首を傾げて呟いた。
 
 
 直々に縁切りを言い渡す為に呼ばれたのだろうと、足取りも重くシンジの家を訪れた二人だが、待っていたのはお茶とケーキであった。
「まあお茶とマロンケーキでも」
「『え?』」
「甘い物断絶週間なの?」
「い、いえっそんな事は」
「じゃ、どうぞ」
 二人がもそもそと食べる間、シンジの視線はじっとその口元に注がれている。
 耐えきれなくなって、二人同時にスプーンを置いた。
「どうしたの?」
「い、碇君お願い…」
「ん?」
「こ、こんな事しないでちゃんと言って。も、もう嫌いになったんでしょう」
「誰が?」
「え…い、碇君が」
「誰を?」
「わ、私達を…」
 どうしてそんな意地悪な事を言わせるのかと、二人とも泣き出しそうな表情だったがシンジは首を真横に傾げた。
「何で?」
 世にも奇妙な物でも見たような表情で訊いた。
「い、碇…君?」「シンジ様?」
 三人が三人とも揃って首を傾げ、最初にシンジが回復した。
「ああ、さっきのあれで僕が怒ったと思ったの?」
「『ち、違うの?』」
 思わずせいらまで同じ口調で訊いた。
「怒ってないよ」
 シンジはうっすらと笑った。
「ちょっと呆れはしたけどね。僕の為に動いたのは分かってるし。でしょ?」
「『え、ええ…』」
「ただ、リツコさんと争うような事はもうしないで。リツコさんは少なくとも、僕にマイナスになる事はしないんだから。いいね?」
 ちょっと間が開いたが、はいとレイが頷きせいらも続いた。
 納得したと言えば嘘になる。それでも、シンジから直接言われた事に対して、抗う術は持っていなかった。
 結構、と頷いたシンジが、
「呼んだのは、二人に訊きたい事があったから。二人が僕の為に動いたのは分かったけど、僕は聞いていない。僕に秘して動いてまで何をおねだりしたかったの?」
「『な、何っていうかその…』」
「怒らないから言ってごらん」
 外に目を向け、
「まだ雪は止んでいない。或いは――珍しい事が起きるかも知れない」
 ほんの少し、笑みを含んだ口調で言われ、二人とも覚悟を決めた。温いお茶を一気に飲み干した二人の喉が同時に鳴った。
「あの、その…こ、この間の続きを…」
「この間?」
 この間、といきなり言われても分かるまい。まして、続きとくれば尚更である。
「お、お茶の道具で…お、お尻に栓をっ」
 既に顔を赤くしているレイに代わって、せいらが何とか引き取った。
「お尻?栓?えーと…」
 数秒考えてから、ぽんっと手を打った。
「この間のあれね。残念だけど無理」
 一瞬にして落胆が顔中を支配した二人に、
「もう茶筅が一本しかないから。二本無いと無理でしょ」
 言った途端、二人がすりすりと膝行してきた。
(碇君あのね…)
「なに?」
(シ、シンジ様の本物の方が…)
 かあっと首筋まで赤く染めた二人が、それでも左右から色っぽく囁いた。
「それってつまり、リアルに後ろの処女喪失ってこと?」
 せいらとレイが揃ってこくこくと頷く。
 シンジはもう一度外に目を向けた。窓の外には粉雪が舞っている。
「今日は特別な日。だから…きっと奇跡が起こる」
 歌うような口調で言ってから、
「凍夜町に雪が降る夜には奇跡が起きると誰かが言った。奇跡ってのは、要するに珍しい事って意味だ」
 せいらからレイへ、レイからせいらへと、シンジの視線が移動する。
「いいよ」
 頷くと、二人が反応する前に、
「シャワーはそっち。二人で浴びておいで」
 湯飲みを傾けてから、浴室を指差した。
 
 
 
 
 
(続)

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