三顧の礼
 
 
 
 
 
「碇君…碇君聞いてるの?」
「聞いてない」
 むうっと頬をふくらませたレイに、あなたの出番ではないのよとせいらが、
「ね、シンジ様」
「邪魔しないで」
 艶めかしく腕を巻き付けたが、あっさりと撃退された。
 海の一族と夜の一族、それぞれを代表する美少女二人に誘惑されながら、不死人の少年はまったく心を動かす気配がない。
 その熱い視線は、紙面へとひたすら注がれている。
 最初の女に、この十分の一位の強さがあれば、人類は不完全の烙印を押されなかったろうか。
 とまれ、只でさえお互いが恋敵の少女達に、また厄介な敵ができたらしい。
 しかも二人にしてみれば、相手に取られるならまだしも、敵は無機物である。
 これで、美幼女とか美熟女とか美少女とか、その手の物が被写体になった写真なら、悔しいけれどまだ諦めはつくかもしれない。
 しかし、ライバルの名前は三国志演義であって、女ではない。
 あっさり振られた二人の眉が、かちっと上がった。
 それでも口調は変わらぬまま、
「碇君、今日は…出かけない?」
「そっとしておいて」
「私たちが喧嘩もしないで誘いに来てるのに?」
「今、三顧の礼中なの。ごめん」
 三顧の礼とは、言わずと知れた名軍師諸葛亮を、うだつの上がらない君主劉備が三度に亘って訪れる場面である。
 あまりと言えばあまりの反応に、二人揃って背後に青白い炎を――珍しく互いには向いていない――立ち上らせた数分後。
 拗ねたような表情で夜道を歩く二人の姿があった。折角誘ったのに、あんな本などに負けた事が悔しくてたまらないのだ。
 殺気すら漂わせて歩く二人の後方では、
「三顧までいかなくても良かったんじゃないかな。でも自分のすべてを賭ける相手探しだしね。やっぱり、士は己を知る者の為に死す、かな」
 台詞の内容は一応文学的だが、声はどこかくぐもって聞こえる。
 そう、プライドを傷つけられた二人の美姫に、不死人は簀巻きにされたのだった。
「そんなに本が好きなら一緒にさせてあげる」
 本相手の嫉妬は珍しくもないが、目下シンジは辛うじて本が読める位の位置で、三国志演義と命運を共にしているのであった。
 
 
 
 
 
「幽霊?そんな単語を私に聞かせる為に呼んだの?」
 木に描いた相合い傘が現実となり、恨みを込めて石を蹴飛ばした数日後、相手が死亡する――自分にもきっちり返ってくるが。
 そんな事がごく普通に起きるこの凍夜町に於いて、どんな無機物にであれ、意志の存在を認めない者は生きる資格がない。
 まして、治安を守る警察関係者となれば当然のことだ。
 ただし、鑑識課随一の能力を誇る赤木リツコは、最近少しばかり機嫌が悪い。シンジをレイに持って行かれ気味の所に加えて、人魚の娘まで出てきて、また恋敵が増えたのだ。
 しかも、本人が色恋に関しては鈍いから、ある意味では幸いだがある意味では不幸でもある。
 とはいえそれは私生活だし、公務に持ち込むものではないと、その辺の区別は出来ている。
 閻魔の前で硬直しているような部下に、
「まあいいわ。それで、幽霊が何の事件を引き起こしているの?」
 幾分穏やかさを取り戻した声に、部下は生者の顔色を取り戻した。
 直立不動の姿勢は変わらぬまま、
「やくざの殲滅です」
 その言葉を聞いて、リツコの表情が少しだけ動いた。
「殴り込みでも暗殺でもなくて殲滅?近頃珍しい単語を聞くものね」
 元々知性と理性が人の形を取ったような女だから、雰囲気からして少し近寄り難い部分は持っている。
 その上この台詞だったから、また機嫌を損ねてしまったかと不安になったが、
「続けて」
 変わらぬ声で促されて、話し続ける意欲が湧いた。
「はっ、それが銃殺でも惨殺でもなく、文字通り引き裂かれているのです」
 部下の話によると、こういう事であった。
 広域指定暴力団にこそなっていないが、ある程度の年齢になれば誰でも知っているやくざの一家があった。
 二週間ほど前、そこの若頭補佐が夜道で暗殺されたのだ。よくある内部抗争かと思われたのだが、遺体の現状がそれを否定した。
 視力は合計で二.〇を上回り、180センチを超える身長と80キロ近い体重の持ち主は、柔剣道・空手を合わせて十二段を誇る武闘派でもあった。
 しかも素面である。その男が、手をもがれ、首をねじ切られて死んでいたという。
「奴がやった、なら誰しも納得するでしょうが、奴が殺られたんじゃ、誰も納得しません」
 無論、組にとっては大きな痛手であり、組への挑戦状だと、組長以下は血眼になって犯人を捜しているのだが、挑戦はそれだけに留まらなかった。
 以来、今日に至るまで既に二十人以上の組員を失い、組長は組員達によって頑丈な警備の施された屋敷に閉じこめられ、屈強な組員達が五十名以上張り付いている有様だ。
「それで、鬼の仕業みたいなそれと幽霊がどう関係あるの」
「一人だけ、瀕死で見つかった奴がいたんです。五人が一度に襲われたんですが、たまたまそいつが覚醒剤をやってまして、死に至らなかったんです」
「うちへ連れてきてくれれば良かったのに」
 リツコの声に危険なものが混ざった。
 この才女が、薬物の類をどれだけ忌み嫌っているか、署内で知らない者はない。
 その死に損ないが最後に残したのは、
「化け猫だ…」
 の一言であった。
「化け猫…」
 小さく呟いたリツコに、
「そいつの頭がいかれていたのかも知れません。ただ、これだけ連続して、しかも屈強な組員が殺られていながら、目撃者はまったく出ていないんです」
「目撃者も消された、という訳じゃなさそうね」
「ええ」
 
 
「と、言う訳なのよ」
「ふんふん」
 心霊課にでも任せれば済む話だが、リツコのアンテナがピンと立ったのだ。
 これは使えるネタだ、と。
 早速シンジの家へやってきたリツコが見たのは、簀巻きにされたまま読書にふけるシンジであり、一体どういうプレイかと慌ててほどいたら、レイとそのツレにやられたと告げたのだ。
 リツコのご機嫌が、すっと良くなったのは言うまでもない。
 こんなのじゃ甘いと、部下を急き立てて倍にさせた報告書を読むシンジの後ろから覗き込む体がぴったりくっついているのは、無論意図的である。
「見た市民が報告できなかった、というより見た市民がいなかったんだ」
「どうしてそう思うの?」
 訊ねる声をさっきの部下が聞けば、せめてこの五十分の一で良いから自分にもそれを使ってほしいと思うだろう。
 それほどに柔らかく、おまけに甘いのだ。
「やくざは滅んでもいい人種だけど、今回のは義賊を名乗った仕置き人じゃない。つまり、次は一般市民にも刃が向く可能性がある。だから、目撃者がいれば名乗り出るはずなんだ」
「じゃ、シンジ君の考えは」
 じっと覗き込んでくるリツコの視線を避けようとはしなかったが、
「三国志演義の知識は?」
 妙な事を言い出した。
「い、一応あるわよ」
「赤兎馬は」
「一日に千里を駆けると言われる馬でしょう。もっとも生物学的に正しいとは――」
 言いかけて口をつぐんだ。
 墓穴を掘ったと知ったのだ。
 反三国志の筆頭者ならともかく、正史とは違って判官贔屓の三国志演義に燃えている少年の前で、口にするべきではなかったろう。
「ご免なさい」
 自分の性格を呪ったのも久しぶりだったが、間に合うかは分からない。
「別に」
 別に、の後にどうでもいいが付いたのをリツコは知った。
 ただ、幸運な事に追い出される気配はなさそうだ。
「そ、それであの…」
 国賓をずらりと集めた前で死体を診る時だって、こんなに緊張はしないだろう。
 普段、滅多に動員のかからない勇気に総動員令を発し、何とか言葉を絞り出した。
「それで?」
「そ、その赤兎馬と今回の事件と…」
「ああ、それね」
 興味の“きの字”もない声だと、誰が聞いても分かる。
「赤兎馬のケースもあるし、と言おうとしたんだけど、リツコさんが現実主義者なのをころっと忘れてた。残念だけど、僕じゃ役に立てそうにない」
 これなら、最初から追放されていた方がまだましだ。
 きゅっと唇を噛んだリツコが、
「ご免なさい。今日はこれで帰るわ」
 俯き加減で立ち上がった。
 シンジが悪いわけではない。自分が余計な事さえ口走ったりしなければ、さっきまでは間違いなく良い雰囲気だったのだ。
 項垂れて歩き出したリツコだが、こんな姿を署内の者が見たら卒倒するに違いない。
 と、そのスカートが引っ張られ、後一歩進んだら前につんのめる所だった。
「シンジ君?」
 くいっと引っ張ったのは、間違いなくシンジである。
 くすっと笑ったシンジが、
「リツコさんのその顔見たから機嫌も直った」
 別に甘くもない声だったが、たちまちリツコは首筋まで真っ赤に染めた。
「ちょっ、な、そ、なっ!」
 言葉も支離滅裂になっている才女を楽しそうな視線で見たシンジが、
「赤兎馬の最期でなんとなく気になったんだ」
「え?」
 シンジの言葉に何とか理性を取り戻し、蹌踉めく足を踏みしめて席に戻った。
「赤兎馬は、五回主人を変えてる。最初が董卓で次が呂布、次が曹操で次が関羽。そして最期が呂蒙だ」
「関羽って、あの関帝廟に祀られている武将の事?」
「うん」
 微笑ったシンジに、リツコはほっとした。機嫌は直ってくれたらしい。
「結局、餌付けする飼い主が変わっただけなんだけどね」
「どういう事?」
「その度にまた活躍してたもの。でも、関羽が死んだ時は違った。一週間餌を食べなくなって、やがて死んでいったんだ。つまり」
 シンジが真顔になってリツコを見た。
「その死に損ないで発見されたやくざの言った事は、正しかったんだ。この事件の裏には妖しのものがいる」
 これが余人の言葉なら、リツコも笑い飛ばしたかもしれない。
 だが相手は碇シンジ――不死人の少年であった。
「シンジ君」
「なに?」
「正体が妖しの者であっても、動機が分からない以上一般市民に不安が広がるわ。お願い、協力してちょうだい」
 居住まいを正したリツコが、膝に手を置いてシンジを見つめた。
 シンジの表情は変わらない。
 いつも通り、目の前で浮き雲を眺めているような視線だ――飛蚊症ではない。
 十秒ほど経ってから頷いた。
「いいよ。別に興味はないけれど、嫌だと言ったら、頷くまで毎日リツコさんが家に来そうだから」
「そんな事はないわ。シンジ君が嫌なら無理強いなんてしないもの」
 即座に否定したリツコだが、その声はわずかに上ずっていた――リツコをよく知る間柄でなければ、分からない程ではあったが。
 
 
 リツコの頼みで動き出したシンジだが、それから数日間、杳として手がかりは掴めなかった。
 それどころか、連日のように出没していた犯人が、ぴたっと活動を止めてしまったのだ。まるで、シンジが出てくるのに合わせたかのように。
「困ったねえ」
 立ち寄った喫茶店で、ストローを使って抹茶を吸い上げるシンジの口調は、困っているとはほど遠いものに聞こえる。
「そうね。でも、目撃者が存在しないと確定しただけでも、収穫かもしれないわ。存在しないのと名乗り出られないのとでは、大変な違いだもの」
 愛用の手帳を広げてはいるが、リツコの視線は緑の液体を吸い上げるシンジの口元に注がれている。
「つまり、殺すのも苦労しそうな連中が次々と引き裂かれていながら、目撃者は一人もいないと決まった訳だ。屍さんが知ったら怒るだろうな」
 そこへ、
「どうして俺のいない所では、まともな呼称なんだ」
 柄の悪い花柄が入ってきた。
 ゆっくりとそっちを見たシンジが、
「やっぱり目撃はゼロ?」
「ああ。犯人は分からんが、とりあえず人外なのは間違いなそうだな。それで碇、もう見当はついているんだろう。勿体ぶらずに教えろ」
 屍の台詞に、リツコの眉は上がったがシンジはうっすらと笑った。
 こういう男は、嫌いじゃないらしい。
「赤兎馬を知ってる?」
「一日に千里を走ると言われた馬だろうが。どうして兎なのかは知らんがな」
 へえ、とシンジが感嘆したように、
「リツコさんよりいい人だと思う」
(余計な場面で出てくる男ね)
 突如株価が暴落してしまい、内心で呪詛の台詞を呟いたが、無論表情はまったく変わらない。
「それで、その伝説の名馬がどうかしたのか」
「日本にもそういう話はあるけどね。半年前くらいで、あの組のモンに殺されたり、犯されたりした人がいないか調べて。たぶん、僕の勘は外れていないと思う」
「怨念か?」
 さすがに屍はピンと来たらしいが、シンジは首を振った。
「違うってば。肝心な所でずれてるんだから。とにかく、さっさと探してきて」
 屍がコートを翻して出て行った後、
「シンジ君、本人の怨念じゃなくてペットのそれだと踏んでいるの?」
「本人なら簡単でしょ。でもね、多分猫だよ」
「猫…」
「猫は犬と違って忘れやすいし、一年飼ってもすぐ飼い主は忘れる。だけど、魔性の存在と言われる上に魂まで九個も持っていると言われてる。今回の件は、おそらく嬲りだと思う。最初に組随一の武闘派を始末したのは、そいつが主犯だったか、それとも自分は誰でも殺せるという事を見せつけるかのどちらかで、その後を見る限りは多分後者だよ」
「あまり言いたくはないけれど…集団で誰かをレイプするなら十分あり得る話よ」
「それも考えた。でも仇討ちなら、普通下っ端から段々上っていって、最後にボスキャラを倒すのがセオリーだ。少なくとも、あんな強そうな奴をいきなり狙うのはリスクが高すぎる。もしも敗れたら、その時点で仇討ちは出来なくなっちゃうんだから」
 確かにシンジの言うとおりだ。どんな動物であっても、獲物を狙う時にいきなり親から狙ったりはしない。
 子供や、あるいは卵があるならまずそっちからだ。
 しかも、組で最強の男を始末したくせに、次は下っ端ばかり狙っており、やり方がちぐはぐだ。
「ネズミを捕まえては逃がす…猫?」
 リツコの台詞に、シンジは軽く頷いた。
 
 
 
 
 
 猫の亡霊か怨念か、あるいは幽霊かは分からないが、その辺の物体だろうとシンジは見当をつけた。
 とはいえ、自分が出歩いた途端に殺戮はぴたりと止まってしまい、これでは無駄足だと、またシンジが家に籠もった翌日、まるで見計らったかのように二人が殺された。
 首をへし折られ、手足をもがれた殺され方と、目撃者ゼロの状況からまた犯人は同じだと思われたが、警察のメンツは丸つぶれである。
 署長から大号令が下り、他の事件は放り出して全署員が駆り出されているのだが、依然として手がかりはない。
 しかも、全員に抗った形跡が全くないのだ。つまり、文字通り大人が子供を殺すかのように、無抵抗のまま殺されたという事になる。
 やはりシンジの言うとおり、化け猫の仕業かと思ったリツコだが、再度の呼び出しは掛けにくい。もう一度無駄足を踏ませたら、二度と付き合ってくれなくなる可能性もあるからだ。
 そんな中、シンジの家を二人組が訪れた。先だって、シンジを簀巻きにした二人組だが、ちょっとやり過ぎたかしらと、ご機嫌伺いに訪れたのだ。
 ライバルはお互いだけではなく、他にもいるのだ。
 が、玄関先でその足が止まった。
「避客牌」
 と、墨痕鮮やかに記された木の札が掛かっていたのである。
「何これ」
「知らないわ」
 顔を見合わせたが、二人の脳内にその知識はない。防犯など最初から念頭にないようなドアだから、押し入るのは至極簡単だが、出てくる時には三行半を持って出てくる事になりかねないのでそれは止めて、代わりに知っていそうな妹を呼び出した。
「あたしまだ寝てたんだけど…」
 眠そうな顔でやってきたアスカだったが、札を見るなり、あーあと呟いた。
「どうしたの」
「これはねえ、客にさっさと帰れっていう意味なのよ。要するに、これが掛かってるって事は誰にも会いたくなっていう意味で、客もこれを見たら素直に帰るのが礼儀なの」
「どこの故事から持ってきたの」
 レイの声は、三度ほど温度が下がっている。
「三国時代からよ。魏の曹操が使った手ね」
「そう。でも今は剣戟の時代ではなく、木々に精霊が宿る時代よ。私には関係ないわ」
 あっさり押し入ろうとしたから、慌ててアスカが羽交い締めにした。
「お姉ちゃん、シンジに嫌われてもいいのっ」
「私は特別だから大丈夫」
「『……』」
 視線を見交わしたアスカとせいらがレイを見る。蒼い髪に電波を受信するアンテナは見られない。
 が、行かせるわけにはいかない。
(せいら、協力してっ)
(面倒だから嫌)
 さては自分だけ好感度をあげる作戦かと思った次の瞬間、せいらの手がすっとレイの首筋に吸い込まれ、レイの華奢な身体が倒れ込んだ。
「な、何をしたの」
「防腐剤」
「え!?」
「少し他の物も混ざっているけど、陽光を嫌う種族にはよく効くわ。さ、シンジ様に気付かれないうちに運び出すのよ」
「う、うん」
 どこか釈然としない物を感じながらも、言われるままレイを抱き上げて歩き出したアスカだが、二人がまだ角を曲がらないうちに、扉が少し開いた事には気付かなかった。
 そして、
「酒池肉林――綾波酒の材料にでもするか」
 ろくでもない呟きがあった事など、知りもしないのだった。
 
 
 アスカとせいらの姿が消えるのを確認してから、シンジは扉を閉めて部屋に戻った。
「お客さん?」
 訊ねたのはリツコである。
 やはりお手上げだと、シンジを訪ねて来たのだ。
「いや、酔っぱらいが騒いでたの」
 レイに聞かれたら、干涸らびるまで吸血されるに違いない。
 腰を下ろしたシンジに、
「それでね、やっぱりシンジ君にどうしても協力してほしいの。このままでは、残業続きで過労死してしまうもの。ね、お願い」
 シンジを見つめる視線は、ぞくりと来るほど色っぽいが、ない物は使えないからいつもは封印しているのだろう。
「んー、じゃお礼は?」
 返したシンジの台詞も、滅多に聞けないものだ。
「私じゃ、駄目かしら?」
 言うなり、すっと距離を詰めたリツコが身を寄せてきた。
「少しだけなら、満足してもらえるかと思うの」
 シンジの返事は待たず、顔を両手で挟むとそのまま引き寄せた。薄く朱を掃いた唇が重ねられて、すぐに舌が入り込んできた。
「ん…」
 吸う、というより舐め回されている感じだが、それでも的確にポイントは押さえられており、腰をわずかに浮かせたのはシンジの方だ。
 息が苦しくなる頃、顔を離してはすぐに唇を押しつけてくる。文字通り楽しむ事だけを優先したある意味リツコらしい愛撫に、シンジの方は段々意識がぼんやりしてきた。
 空気が足りないのではなく、リツコの舌の使い方が的確なのだ。
 漸く解放されたシンジの表情に、少し生気が戻った。
「そんなに悪くないでしょう?」
 妖艶な視線で覗き込んでくるリツコを、横になった状態で引き寄せる。
「今度は僕が」
 開いた胸元から手を差し込むと、すぐ乳房に触れた。ブラジャーはしていない。
 弾力のある乳房を揉みしだきながら、もう片方の手を乳首に伸ばす。硬く尖った乳首を挟んだ指に少し力を入れると、リツコは小さくあえいだ。
「もうこんなになってる」
 耳元に囁くと、リツコはいやいやをするように首を振った。普段、署内でもきっての頭脳派として知られるリツコの姿はどこにもなく、そこには少年の愛撫に身悶えする女がいるだけであった。
 片手は脇腹の辺りでウロウロしたまま、胸だけを丹念に、そして執拗に攻めていくシンジ。それでもリツコには十分らしく、耳朶を真っ赤にしたまま辛うじて自分を押さえている。
 柔らかい餅のような感触と対照的にまだ熟れきっていない果実のような乳首、左右を交互に攻めるだけで十分楽しませる物をリツコは持っていた。
「シ、シンジ君もう…」
 二人の姿勢はまったく変わっていないが、精神的な立場は完全に逆転していた。
 もう、の後に何が続くのかは分からない。
 シンジには通じたようで、頷くと、かぷりとリツコの耳朶に歯を立てた。
「ひうっ!?ち、違…っ」
「もう、立っちゃってるものね――尻尾が」
 愕然として、次の瞬間奇妙な声を上げて四肢を突っ張らせた。
 達したのだが、原因は胸ではなかった。
 人には有らざる物――伸びた尻尾をきゅっと掴まれたのである。
 五分後、シンジはリツコの姿をした猫娘と向かい合っていた。まだ余韻が残っているらしく、リツコに猫耳と尻尾が生えた状態から変化できないようだ。
「い、何時から…」
 辛うじて言葉をはき出した猫娘に、シンジは指を一本あげた。
「最初から」
「え!?」
 では、最初から人外と知っていて身体を重ねたというのか?
「まず一つ。リツコさんにしては色っぽすぎる。二つ目、リツコさんはあんな妖艶な視線で僕を眺めたりしない。そして三つ目」
 三本の指をあげたシンジが、
「リツコさんはあんなキスは出来ない。理性が邪魔するからね」
 リツコが聞いたら、即日シンジは幽閉されて調教される事請け合いである。
「舌を舐め回されるまでは、リツコさんが取り憑かれたのかと思ってたんだけど、一度君が顔を離した時、猫耳が見えた」
「ね、猫耳って…」
「で、どうして僕のところへ?」
「一ヶ月前、私を飼っていた一家が自殺したわ。大波組の取り立てに遭ったのよ。借りた十万円が一ヶ月で二倍になって、それが雪達磨になるまで時間は掛からなかった。一家は自殺したと言われたけれど、本当は嘘。私の飼い主だった小学生の女の子は奴らに犯されたのよ」
「借金苦で両親が首を吊り、家に放火した事件では、確か子供を苦しめるにしのびない親が一突きで殺したと書いてあったな」
 シンジの表情と口調に変化はない。
「最初の男を殺した後、あなたを見たわ。その時にすぐ分かったのよ、この人は必ず私を追いつめるって」
 そう言われても、シンジに心当たりはない。多分、せいらの時と同じケースなのだろう。この手のものを引きつけ易い性格らしい。
「あなたの事は見張っていたわ。そうしたら、案の定私の正体を直感だけで気付いた。恐ろしい人…」
「で、探りに来たわけだな。最初から僕を性奴にしようとは思ってなかったはずだ。ひょっとして発情期?」
 飼い主の末路を話した時か全身に漂っていた鬼気のような物がすっと消え、うっすらと顔を染めた猫娘は横を向いた。
 図星のようだ。
「一つだけ言っておくけどね。僕は正義感じゃないし、警察の手先でもない。飼い主を殺された猫が魔力を持って殺戮の刃を帯びたとしても、口を出す所じゃないよ」
「多分、あなたならそう言うんじゃないかって思ってたわ。邪魔したわね」
 猫娘が立ち上がった時、ベルの音がした。
 ちょっと待って、と制して立ち上がる。
「どちらさん?」
「私よ、赤木リツコ」
 偽物と本物を鉢合わせさせるのも楽しそうだが、
「本物が来た。押入に隠れて」
 小声で告げると、きゃっと叫んだ途端猫に戻り、押入に飛び込んだ。
 真っ白なその後ろ姿を見たシンジが、感嘆したように呟いた。
「九尾の尻尾を持つ猫って本当にいるんだ」
 
 
 
 
 
 もう我慢ならん、と大波泰三の堪忍袋が切れたのも、ある意味では仕方なかったかも知れない。
 元々違法な高金利貸し商売だから、恨みなど散々買っている。
 だが今回は恨みが形を帯びた。若頭以下二十数名が殺られては、組員達が血相を変えてボスを安全な所に押し込むのも当然である。
 とはいえ、元々隠居生活など好むタイプではなく、ましてこんな押し込めなど我慢できる性格ではない。
 オレをもやしにする気かと大喝し、一同の反対を押し切って表に出た。まるで抗争中のような厳重な警備だが、結局襲われる事はなく、ほら見ろと戻ってきた彼らを、事務所前にずらりと並んだ生首が出迎えた。
 血相を変えたボディガード達が、拳銃を手にドアを蹴り飛ばす。
「遅かったじゃない」
 太股まで露わに生足を組んでいる金髪の女が、冷ややかな声をかけた。
 拳銃の引き金に手をかけるのと、その腕が付け根からもぎ取られるのとが同時であった。
 
   
「あら?」
 シンジの表情が一瞬凝固したのは、妙な物を見たからだ。
「すぐに来なさい」
 初めての強気な呼び出しにリツコの家に赴くと、玄関先に飾ってあったのは猫の絵であり、しかもそれは九尾の尻尾を持っていた。
「私だけが突き止めたのよ。違法な高利貸しのせいで、一家が離散したり自殺したケースは何件かあったけど、年を取った猫を飼っていたのはこの家だけね」
「あの、それと玄関先の絵と関係が?」
 リツコは、バンコマイシン耐性腸球菌でも見るような視線を向けた。
「顔を赤くして、あなたの家を見つめているところを捕まえたのよ」
「捕まえた?」
「本当はそのままお祓いして成仏させる所だけど、面白い話を聞かせてくれたわ――私が協力したくなるような話を、ね。私に色香が足りないのはとても不幸な話よ、そうは思わない?」
「い、いえそんな事は」
 首を振りながら、シンジは既に全部露見した事を知った。やはり、異形種間ではあっても、女同士に内緒は無理らしい。
「でも、許してあげない事もないわ」
 今日のリツコは相当強気である。
 ろくでもない話を聞かされた上に、手助けしてやった事でかなり精神的優位に立っているらしい。
「えーと、どうしたら」
「そうねえ」
 リツコの口元に妖しい笑みが浮かんだ。
 
 
 一日目。甘い物の食べ放題を十二軒はしごし、そのすべてに付き合わされた。
 二日目。買い物に付き合わされて、世にも奇妙な、不死人が荷物持ちをスル、の図ができあがった。
 三日目。肉体労働が続いたから、今度は精神波のダメージだろうと覚悟して出かけていったら、弁当を作ったリツコが待っていた。
「どこへ?」
「穏やかな所よ」
 着いた先は森林公園で、いかにもリツコらしい答えであった。
「三顧目は、文明を離れてみようと思ったのよ。こっちの方が好みでしょう」
「全然いい」
 シンジらしい答えに、リツコがうっすらと笑った。
 二人して梅を眺めていたが、やがて昼時になってシンジは驚いた。リツコが取り出した箱の中には一目で手作りと分かる代物が、それも三段重ねで詰められていたのだ。
「あら、私が作れるのがそんなに意外?」
「犯人を識別する薬の調合なら、何作っても驚かないんだけど」
「失礼ね」
 ちっとも思っていなさそうな口調で言うと、リツコはシンジに箸を渡した。
 なお、箸は一膳しかない。
「全部僕が食べるの?」
「そんなに大食漢だとは思っていないわ。半分のそのまた半分は私のよ」
 それにしたって結構な量だが、リツコが箸を忘れるなど珍しい。
 頂きます、と食べようとしたら、その手がおさえられた。
「先に私」
 内心で首を傾げながらも、箸を渡そうとすると今度は首を振った。
「それは嫌」
 リツコの意図が読めたのだ。
「あら、どうして?」
「どうしてもこうしても、どうして僕がそんな事しなくちゃならないのさ」
「そうね、しいて言えば傷ついた私のプライドの代償、という所かしら。これで三顧なんだから」
「ちょっと待って」
「何か?」
「さっきも言ってたけど、三個って何が三つ目なの」
「字が違うわ」
 リツコは優雅に指を振り、
「三顧の礼、よ」
「は?」
 シンジの両目に?マークが浮かんだのも当然で、三顧の礼はもう知っているが、どう考えても関係がない。
「放浪中だった君主玄徳は、諸葛亮を得るために三度も機嫌を取りに行ったのよ。あんな猫娘を私の代わりにするなんて、三顧じゃ足りない位だと思わない」
「それ違う。絶対違う」
「いいえ、違わないわ。傷ついた心の痛みは三倍返しが基本でしょう」
「それは婚約指輪。大体、最初から分かってたんだから僕は無罪だ」
「いいえ、有罪よ」
 一頻り揉めてから、ふと二人の視線がある所で止まった。
「『あ…』」
 宙に浮かんでいたのは、確かに猫耳と尻尾をつけたリツコ、ならぬリツコに扮した猫娘であった。
 ひっそりと一礼した娘がすっと消えた後も、二人はしばらく動かなかった。
「どうしてあの娘(こ)の手助けを?」
「事情を知ったシンジ君が放っておいたんだもの、当然でしょう」
 二人の視線は、まだ猫娘が消えた場所に向いている。
 と、シンジの手が動き、つまんだ唐揚げをリツコの口に押し込んだ。
 一瞬驚いたリツコだが、すぐに笑って飲み込んだ。
 こくん、と嚥下してから、
「ふふ、満足よ」
 婉然と笑った。
「でもシンジ君、もう私と似て非なるものに手を出しちゃ駄目よ――」
 耳元に口を寄せて、早口で囁いた顔は確かに赤くなっていた。
 
 
 それから数日後、アスカとせいらはケーキの食べ放題の店に連れ出され、大いに満足したのだが、レイは不法侵入未遂を咎められ、関係修復に少々時間を要した。
 掛かった日数については、言うまでもあるまい。
 
 
「ねえ、シンジ様」
「何?」
「どうして、あの猫の殺戮を放っておかれましたの?」
 今回は蚊帳の外ではあったが、さすがにシンジの血を一部貰った人魚族だけに、事の顛末には気付いていたらしい。
 至福の極みといった表情でマロンを口に放り込んだアスカを見ながら、
「せいらは、僕が殺されたらお墓作ってお経あげてそれきり忘れる?」
「シンジ様っ」
 思わず眉が上がりかけて――すぐに気付いた。
「私は、頭の先からつま先まで…すべてシンジ様のものですもの」
「所有権の帰属はまた別に議論するとして、そうなった場合、僕はあの世であの子にとっちめられる事になる。それが嫌だったんだ」
 宙を見上げたシンジの表情が、何かを思い出したかのようにふっと緩み、ショートケーキの上からイチゴを取って、せいらの口に入れる。
 嬉しそうに咀嚼するせいらに、シンジは一つ頷いた。
 
 
 
 
 
(了)

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