哀執(後)
 
 
 
 
 
「アンドロイド?」
「そっ、アンドロイド」
 リツコは頷いて、
「ただし、普通とは異なる改造が入っているわね」
 と付け加えた。
 その前には、真っ白な貫頭衣に身を包んだ娘が座っている。
「それでアスカ、確かにこの娘が乱闘の輪に割って入ったのね」
「乱闘って言うか、一人が囲まれてたんだけど。でもあのリツコさん、アンドロイドとかって、何とか三原則が組まれているんじゃないんですか」
「ロボット三原則。一応理に叶ってはいるわ。その一に人間に危害を加えてはならないというものがあるの。もしもこの子が護衛的なプログラムを組まれていたとしたら、その子を守ろうとした事も、でもその一方で加害者ではあっても、人間に危害を加える事は出来ないからやられる一方だったのも説明は付くわ」
「あ、あの私は…」
「大丈夫よ。こっちの独り言だから気にしないで」
 どう聞いても気にせずにいられない内容だが、既に絶対服従を決意する体験でもしたのか、娘は素直に頷いた。
 ふゆな、と名乗った娘に、
「あんた親とかいないの」
「お母さんがいます。お父さんはもう事故で亡くなっちゃったから」
「ふうん?」
 リツコを見たが、
「フェイク−疑似と言いたい所だけど、実の親として設定する事は無理じゃないわ。もっとも、本人にその自覚があるかは別だけど」
 リツコが言ったところへ、
「私が造られたものだと言う事は分かっています。でもお母さんは、私に取って大事なお母さんなんです」
「ならば、余計な事はしない事ね」
「余計?」
「あなたの中に三原則がある以上、人間を傷つける事は出来ない。従って、誰かをかばえばあなたが傷を負うだけなのよ。それを見たら、あなたの母親は悲しむでしょう」
 リツコにしては珍しいことを言う。
 普段は他人の人生など、研究材料として以外は全く興味を示さないような女なのだ。
 現職の刑事としては問題ありそうだが、これでも鑑識を任せれば余人の追随を許さぬ腕を持っている。ただそこで得た知識が、時としてあらぬ方向に行きたがる事を別にすれば、の話だが。
 はい、とふゆなが頷いた所へ、
「こんにちは」
 玄関で声がした。
「出て」
 当然のように命じられてアスカが出てみると、三十代の女が立っていた。
「どなた?」
 普段なら、アンタ誰よと言う所だが、ここはリツコの家である。これがもしもリツコの知り合いだったりした場合、文字通り命がけの冒険になると言う事で、アスカも控えたのだ。
「うちの娘が御邪魔してるかと思うんですけど」
 やや度のきつそうな眼鏡と薄い化粧、どことなくリツコに似た姿だが、何と言っても特筆すべきはその髪の毛にあったろう。
 リツコと同じ金髪で、眉毛まで染めていたのだ。それも、根本にも黒髪が見あたらないから徹底して染めているらしい。
 よほど、髪を傷めるのが好きと見える。
「娘ってあれ、あんたの?」
 アスカが訊いたところへ、
「お母さん!」
 ふゆなが嬉しそうに顔を出した。
 アンドロイドの感情の発露に興味を持ったのか、リツコがひょいと顔を出し、
「『あら…』」
 黒から金、染めた者と分かる同士の邂逅は、秒と立たずに静かだが火花を散らした。
 相手の染め方を無言の内にチェックし合い、やがてにっこりと微笑み合った。どうやら二人とも、自分の方が上だという結論に達したらしい。
「娘がお世話になったみたいで、ありがとうございます」
 軽く一礼した母親に、
「私は少し診ただけ。運んできたのはこの子よ」
 指した先にはアスカがおり、それを見た母親の顔に驚きの色が浮かんだ。
「運んできたって…あなたが?」
 確かにアスカは、見た目はどう見ても線の細い美少女だし、こんな重量の物体を運べるとは思えない。
 しかしその表情に幾分気を悪くしたか、
「あたしこれでも、一応凍夜町のトップの妹なのよね」
「凍夜町って吸血鬼の…ごめんなさいね、あなたがあんまり可愛らしいからつい訊いてしまったの」
「そ、それなら別にいいわよ」
 可愛らしいと言われて、あっさりと納得したようだ。
「ところであなた、どうしてここが分かったの?どこに発信器があるのかしら」
「その位分かりますわ、私は母親ですもの」
「きれい事ね。うちに運ばれてくる幼児の死体は、その半分以上に暴行の痕が見られるのよ。このご時世に、母親だから愛情があるなんて言うのは戯言よ」
 リツコの言葉を聞いた時、何故かアスカの脳裏にシンジの顔が浮かんだ。
 シンジが両親に甘えている光景を想像し−すぐに首を振った。
 思いつかなかったのである。
 そんなアスカをよそに、
「まあいいわ。ただし、ロボット三原則は分かっているわね。そして、これに反した者にどんな罰則があるかもね」
「ええ、分かってますわあ」
 母親はにっこりと笑って頷き、リツコの眉がわずかに上がった。
(?)
 内心で首を傾げたアスカだが、その原因を知ったのは親子が帰ってからであった。
「あの、リツコさん」
「何」
「あの母親、発信器なんてどこに付けていたんですか」
「興味ないわ、そんな事。大方子宮の中にでも入れていたんじゃないの」
「し、子宮?」
「女の身体には、隠し場所なんていくらでもあるでしょう」
 リツコの口調と内容で、アスカはリツコが不機嫌な訳を知った。
 どうやらリツコが検査した範囲では、発信器を見つけることが出来なかったらしいのだ。鑑識として、常人が見落とす物を見つけるのが役目、それも優秀な鑑識官であるリツコにとっては、確かに屈辱であったろう。
「それともアスカ、あなた自分の身体で試してみる?」
 累が自分に及んできた事を知り、アスカは慌てて首を振った。
 
  
 
 
 
「何?じゃあ、あの子アスカが捕獲してたっての?」
「捕獲じゃなくて保護よ。ミサト、あたしの人格勘違いしてない?」
「だってあんた、普段そんな事興味ないじゃないの」
 えっへんとアスカは胸を張り、
「なんかあたしのアンテナが立ったのよ。ま、人外って分かったのはさっすがあたしよねえ。ね、シンジ?」
「え?あ、うんそうだね。類は友を呼ぶし」
「類じゃないわよ!」
「あっ、そっか。ごめんごめん」
「ごめんごめんって…シンジ?」
 ひょいとアスカがシンジの顔を覗き込んだ。どうもおかしい。普段から似たようなもんだが、今日は一層拍車が掛かっているのだ。
「何か考え事?」
 姉とせいら、どっちを選ぶか迷っているのかと、当事者達に聞かれたら八つ裂きにされそうな事をふと考えた時、
「碇君はそんな事で迷ったりしないわ」
「はうあっ!?お、お姉ちゃんっ!」
 ぴょーんと、アスカの身体は座ったまま五十センチ近くも飛び上がった。ヨガの達人でも、瞬時にこう上手くは行かないに違いない。
「碇君が選ぶのは私なんだから。そうでしょう、碇君」
「え、ああそうだね」
「そ、そんなシンジ様私のことお嫌いになられたのですかっ」
「そんな事無いよ、うん」
「ほら見なさい」
「何よ」
 ふんだ、とお互いにそっぽを向いてから、
「『ん!?』」
 慌てて向き直った。
「い、碇君?」「シンジ様?」
 見つめる四対の視線の前で、ゆっくりとシンジがグラスを持ち上げ、気前よく全部を膝小僧に飲ませてから、
「あれ?」
 やっと気付いたように首を傾げた。
 
「もー、何やってるのよ一体」
 シンジが首を傾げた途端、レイとせいらが同時にタオルに飛びついたが、一瞬の攻防はせいらに軍配が上がった。
 早速いそいそと拭き始めたせいらに、
「あ、放っておけばそのうち乾くからいいよ」
「いけません、染みになってしまいますわ」
 せっかくのチャンスを逃してはならぬと、丹念にふき取っていく。
 じゃよろしくと、されるがままになっている姿は、どこか大店のボンボンにも見えるのだが、される方はともかくしている方はそれでも至極満足であろう。
「で、何を考え込んでたの」
 局地戦に敗れたレイの恨めしげ、と言うより危険な視線から逃げるように、アスカが少し早口で訊いた。
「リツコさんは無能じゃない。少なくとも捜し物に関しては」
「え?」
「テレパシーか、或いは宇宙の産物で繋がっていない限り、見張らせでもしていなきゃ場所なんて分かりっこない。でも見張らせていたとしたら、アスカが言った状況がおかしくなる」
「袋叩きにされてたって事?」
「うん。見張るというのは普通は保護か護衛だし、だとすればそんな状況に置くわけがないんだ。そうなるとやっぱり、身体の何処かに埋め込まれた発信器をリツコさんが見つけられなかったと言うのが正解だ」
「能力が足りなかっただけでしょう。気にすることはな…ごめんなさい」
 先だっての一件ではっきりと冷戦状態になったせいか、レイの口調は冷ややかであった。無論、今の事も多少は絡んでいるに違いない。
 だがシンジの顔がかすかに動き、その視線の先に捉えられたレイは最後まで続ける事が出来なかった。
「でもリツコさんは、真昼の陽光の下で仕事が出来る。太陽の下を大手を振って歩けるのは人間だけの特権だ。あっそれと僕も」
「……」
 しゅんと俯いたレイにはもう目を向けず、
「アンドロイドなら本来は保護の必要は無いはず。なのに発信器で行動を把握していた女性、割って入ったにしろ最低限の防衛すらしなかったその行動、それがどうしても気になるんだ。割って入るだけじゃ守ることにはならないからね」
「どうしてですか?」
 吹き終わった訊ねたせいらに、ありがとうと頷いてから、
「一対一なら別だが、多数対個人の場合は一人の注意を逸らしても他の連中が襲ってくる可能性が高い。つまり、ほんの少し時間稼ぎをしただけで、結局は被害が拡大する事になりかねないんだ」
「では、何かの目的があってと?」
「うん。と言うわけでアスカ」
「あたし?」
「そう、あたし。ご苦労だが、しばらくその子の身辺を見張ってくれない?さりげなくでもさりげありでもいいから」
「は、はあ」
 さりげありってどう言うのだろう、と考えながらアスカは頷いた。
「上手く行ったらケーキの食べ放題のお店、連れて行ってあげるから」
 それを聞いた途端アスカの顔がぱっと輝き、
「ほんとにっ?」
「ほんと」
「じゃあやるっ」
 そこへせいらが、
「あ、あの私にも何かお手伝い出来ることが…」
「ない」
 一言で切り捨てられてがっかりしてしまったが、
「大人しくしていてくれればいい。そしたらせいらも連れて行くから。ただし、個数はアスカの半分迄ね」
 制限は付いたが、お供の許可は出たから嬉しそうに頷いた。
「じゃあ僕はこれ…ふぐ」
 立ち上がろうとしたら、後ろからきゅうと引っ張られた。
「何?」
「何、じゃないでしょシンちゃん」
 びっと指差した先には無論、悄然と項垂れているレイがいる。アスカとせいらは連れて行ってもらえるのに、自分には連れて行かないの声すら掛からなかったのだ。
「もう許してあげたら?レイだってもう反省してるわよ。そうでしょ、レイ」
 レイはこくんと頷いたが、まだ顔は上げられない。一族の者が見たら、たちまち全軍を挙げて大挙してこの店を囲むに違いない。
 ミサトの言葉にも、シンジはすぐには動かず、感情の無い視線でレイを眺めていた。
 アスカとせいらも口出し出来ず、ただシンジの口許だけを見つめていたが、
「人には得手不得手と、それから可能不可能がある。今度口にしたら、二度と僕には近づかないでもらうよ」
「…ごめんなさい」
 くるりと背を向けたシンジに、ミサトは思わず伸ばしかけた手を止めた。
 出て行く寸前、
「ただし、数はせいらの半分までだ」
 シンジが出て行って数秒経ってから、アスカがふうと安堵の息を吐き、
「せいらがアスカの半分で、レイがせいらの半分−と言うことは、アスカが六十個も食べればいいのよ。アスカ、分かったわね」
「ちょ、ちょっとミサトいきなり何言い出…う」
「私はアスカの半分なのに」
「私はせいらの半分だから、そのまま半分なのに」
 恋敵同士の筈だが、こんな所だけは気が合う。
 二対の視線にじーっと見つめられて、
「わ、分かったわよもう、食べればいいんでしょ食べればっ」
「『分かってくれて嬉しいわ』」
 うむと頷いた二人に、ふんだとアスカはそっぽを向いた。
(シンジはあたしだけ誘ってくれたのに)
 アスカの場合、レイ達と違ってシンジへの憧憬はあっても恋心はない。だから嫉妬とかは持たないが、やっぱり吸血鬼とは言え乙女であり、その辺は所々複雑な物があるらしい。
 内心はちょっとご機嫌斜めだったが、無論口にはしなかった。
 
 
 
 
 
「よっ」
「あ、アスカさん。今晩は」
「今帰り?」
「ええ。図書室にいたら遅くなってしまって」
 シンジはさりげなくと言ったが、さりげありでもいいと言われたから、アスカは堂々と接近した。
 これがレイやせいらなら怪しんだかもしれないが、アスカには初対面で助けられており、家まで担がれていったからふゆなもまったく警戒せず、すぐに打ち解けた。
 とは言え、夜の生き物が真昼の陽光の下で学校に潜り込む訳にもいかず、必然的に帰り道以降になる。それでも傷があればすぐ分かるし、夜の時間ともなれば、アスカの目から逃れられる事はない。
 もちろん医師でもないし医師免状も持ってないが、見抜くことに関しては時間限定だが医者より遙かに上と言える。
「ところでふゆなさ、なんであんたいつもこんな遅いのよ。大して役に立たない勉強だし、それにどうせ夕方前には終わってるんでしょ」
「私は、アスカさんみたいに勉強できないですから」
「あたしはそれ以前に、人間ごときに混ざる気がないだけよ。旧態然のあんなのを嬉々として会得するなんて、人間がこの世界に追いつくのは永遠にあり得ないわね」
「私もいつか、そんな事言ってみたいです」
「ま、一億年もすれば大丈夫よ−で?」
 ろくでもない事を言ってるが、ふゆなは気にした様子もなく、
「少し…足りないんです」
「足りない?」
「以前勉強したはずなんですけど、少し抜けてる所があって…」
 それを聞いたアスカの目が、わずかに光を帯びたがふゆなは気付かない。
「覚えてない、ってこと?」
「ええ。最近少し、忘れっぽくなっちゃって」
 舌を出したふゆなに、アスカの口許も僅かに緩んだが目は笑っていなかった。
 その後はもう、その事には触れず、雑談しながらやがてふゆなの家の近くまで来た。
「じゃ、あたしはこれで帰るわ。あんた、たまにはさっさと帰るのよ」
「いいんですか?」
「え?」
「私が真っ直ぐ帰ってくる時間だと、アスカさんと帰れなくなっちゃいますよ」
(!?)
 反射的にアスカは目を閉じた。自分の赤光を恐れたのである。
 すぐに開いた。
「なーに言ってるのよ。真昼だって最近の種族は歩けるんだから。じゃあね」
「はい、おやすみなさい」
 
 
「ばれた?」
 かちり、とシンジの目が機械的に上がった。
「ばれたって…そんな筈はないんだけど…」
「彼女にばれたわけじゃなさそうだね、多分。情報源は他にある」
「他?誰なの?」
「彼女のお母さんだな。吸血鬼だから近づいちゃ駄目、位は言った可能性が…あ、待てえ」
「あのアマ今すぐ干涸らびさせ−ふきゅっ」
 奇妙な声は無論、気道が締まった事によるものだ。
「日干しにしてどうするのさ、この短気吸血鬼」
「だ、だってあたしに近づくなって人間ごときが…て言うよりシンジ、あれアンドロイドでしょ。血なんか無いじゃない」
「そこはほら、地獄の沙汰も金次第」
「なにそれ?」
「アンドロイドの知識なんて、教える側次第でどうにでもなるって事だよ」
「やっぱあの女、八つ裂きにしとけば良かったかな」
 アスカの目が危険な光を帯びた瞬間、その頭にぽかっと一撃が入り、
「血の気の多いことばかり考えるんじゃないってば。ほら、これでも食べて少し落ち着いて」
 差し出されたのは皿に載せられた羊羹で、
「虎屋に行って買ってきたんだ。血の気が減るよ」
「血の気なんか多くないもん」
 そう言いながらも手を伸ばし、ぱくぱくと食べていく。たちまち皿は空になった。
 だが。
「吸血鬼ってあの子が?」
「うん、間違いないわ」
 不死人の予想に反し、アスカを吸血鬼と見抜いたのはふゆなの方であった。
「私の所に来るのは夜になってからだし、時々目が光るのに、自分では気付いていないのよ」
 くすっと笑ったふゆなに、
「でもどうしてふゆなに近づいたのかしら」
「吸血鬼の思考は分からないわ。でも、アスカさんは悪い人じゃないみたいだし、何か企んでいるようには見えないもの」
「あなたは人間の身体じゃないから大丈夫だけど…十分気を付けてね」
「はあい」
 頷いたふゆなだが、それを心配そうに見つめる母親の顔は、真摯にわが子を思うそれであった。
 そのまま、何事もないかと思われたのだが、事態の急転はある日突然訪れた。
 いつものように夕方になってから、アスカはぶらりと邸を出た。無論黒翼は畳んだ美少女の姿だったが、いつもと変わらぬ場所で歩いてくるふゆなを見つけ、
「よっ」
 と手を上げた。どことなくおっさんくさい。
「こんばんは」
 と、こちらもいつものようにお淑やかに一礼した。
 並んで歩き出したがふと、
「アスカさんて、普段は何をしておられるんですか?」
 ふゆなが訊いた。
「乙女の破瓜の血を集めて回ってる、そう言えば納得する?」
「体中の血を抜いて回ってると言われた方が…い、いたいです」
「あたしは集血業者じゃないのよ」
 ぎゅうと絞めてから、
「ところであんた、あたしの事を知ってるのになんでこうやって付き合ってるの?」
 自分から近づいておいて、訊く方も訊く方だが、
「人畜有害でも、私には無害ですから。それに、私に何かしようとは思っていないんでしょう?」
 これが人間だったら、いや人外でもふゆな以外だったら、間違いなく首をへし折っていたに違いない。
 しかし直前で何とか抑え、ふうっと息を吐き出してから、
「あんた、発言は相手を見てしろって習わなかった」
「思った事は素直に言いなさいって教わってますけど」
「だと思ったわよ」
 けっ、とアスカがそっぽを向きかけたその時、不意に風が動いた。
「ん?」
 アスカが横を見たとき、そこにふゆなの姿は無かった。
 
 
 
 
 
「ロボット三原則がいじってある可能性が高い?それどう言うこと」
 リツコの元を訪れたシンジに、リツコは並々と注いだトマトジュースを出した。それをちらりと眺めてからふゆなの事を切り出したシンジに、リツコは奇妙な事を告げたのである。
「だから言った通りよ。総合的に判断すると、やはりあの子には本来付いているべき物がついていない可能性がある、と言うより高いわ」
「三原則というと、人間への危害禁止と命令服従、それとその範疇での自己防衛だったよね」
「その通りよ。でもあの子は、いじめられていた子を庇いはしたけれど、本来ならその子を連れて逃走するべきなのよ。多人数を考えれば当然でしょう。それに−」
 リツコが言いかけた時、シンジの身体がぶるぶると揺れた。
「トイレはあちらよ」
「携帯だ」
 オーバーアクションだったらしい。
「はい僕で、ああアスカ、どうし…え?分かった、すぐ行く」
 携帯を切るとシンジはすぐに立ち上がった。
「今まで隣にいたアンドロイドの娘が、いきなりセーラー服と機関銃に早変わりしたらしい。トマトジュースはまた今度ね」
 シンジが出て行くのを見送ったリツコだが、その口許が僅かに歪んだ。
「一般人ならいざ知らず、刑事に洩らす内容では無かったわね」
 そう言うとリツコは携帯を手にして、これも何処かへ掛け始めた。
  
 
 
 
 
 現場にはすぐ着いた。
「どう見てもいじめっ子の図だな」
 呟いた先には、あからさまなヤンキーの小娘が五人、腰を抜かしておりその前には右手をサブマシンガンと変えたふゆなが銃口を突きつけていた。
「どうしたの?」
 間延びした声でシンジが訊くと、アスカは彼らの横を指差した。
「ここに差し掛かったら、ふゆながいきなり消えたのよ。見たらあっという間に河原に飛び下りていて、あそこの女を恐喝していたこいつらを突き飛ばして、銃口を向けたのよ」
 あそこの女、すなわちこの事態の発端となった女は二十代のOL風な娘で、服を破られている所を見ると金を出せと小突かれでもしたらしい。
「で、なんであのお嬢ちゃんが銃口なんか向けてるの?」
 さあ、とアスカが首を傾げたところへ、
「娘は…娘はあいつらのせいで自殺したのよ」
 子を隠された鬼子母神もかくや、と思わせるような鬼気を孕んだ声がして二人が振り向くと、そこにはふゆなの母親が立っていた。
 だがリツコの所で見せたような表情は微塵もなく、そこにあったのはまさに鬼女と呼ぶに相応しい表情であった。
「あいつら?殺された?」
「校内のいじめってヤツだな」
 低い声がした。
「なんで屍さんがここに?」
「その呼び方やめろって言ってるだろうが。俺は死体じゃねえんだ、今度言ったらあの世に送るぞ」
 隻眼と花柄のコート、屍刑四郎がそこに立っていた。
「一文字はおまけだよ。で、なんでここにいるの?」
「私が呼んだのよ」
 ふうん、と初めて気が付いたように、シンジはリツコに視線を向けた。
「金髪に染めていたから分からなかったわ。私も地に堕ちたものね」
 やや自嘲気味に言ってから、
「北条春菜と言えば、かなり有名なロボット工学の権威よ。その娘冬奈が自殺したのは、今から数ヶ月前になるかしらね。でも、娘の替わりにしては少々性格が荒っぽすぎないかしら?」
「こんな奴ら…死んだって当然なのよ」
 ぐいと掴んだ髪を地面に放り投げ−金髪はカツラであった。
「苦しい、死にたい、あの子の日記にはそう書いてあったわ。そしていじめた奴らの名前も全部ね。生活費が沸騰した時、私も気付くべきだったのよ。あの子自身がいくら贅沢しても構わない。でもそれが全部恐喝されて消えていたなんてね…」
 ぎりりと歯が鳴った。
「でもあたしは、即復讐をとは思わなかった。だから…だからお前達が改心していれば、許してもいいと思っていた。なのに、なのにお前達は少しも変わらずっ!!」
 ひいい、と悲鳴が上がったのは機銃の安全装置が、音を立てて外れたからだ。それを見ても、即戦闘モードと言う訳ではなかったらしい。
「確かにあんたの言う事はよく分かる。だがここは未開のアメリカじゃない、それは警察の仕事だろう」
「警察?警察が何をしてくれたの。いじめはない、そうしらを切る学校の台詞を真に受けて、ストレスから来る物だと決めつけて、まったく捜査なんて仕様としなかったじゃないのっ」
 どんなに大胆で素敵な犯罪者も、この男にだけは遭ってはならぬとされぬ屍刑四郎だが、この答えをあらかじめ分かっていたのか、僅かに肩をすくめた。
「私はどうなってもいい、でもあの子の無念だけは必ず晴らすわ」
 むしろ穏やかな声で言うと、その手がすっと動いた。それが上がった時、数十発の銃弾は、髪を染めて顔を涙と鼻水で染めている張本人達を蜂の巣と変えるだろう。
「させる訳にはいかんな」
 すう、と屍の手から力が抜ける。無論、その先にあるのは超大型拳銃ドラムだ。戦闘用アンドロイドでないふゆなより、間違いなくその手の方が早かろう。
 だが。
「邪魔は良くないわ」
 月光の下、静かな声がした。
 びくっと屍の身体が硬直したのは、何の気配も感じさせず、首筋に冷たい物が押し当てられたのを知ったからだ。
 研ぎ澄まされたそれは、一センチでも動けば即座に頸動脈から鮮血を吹き出させるに違いなく、そしてそれを避けられぬ事を屍は分かっていた。
 刃物担当はせいらであり、
「でも、あなたに殺人をさせる訳にもいかないわ」
 夜空に巨大な黒翼をはためかせ、ゆっくりと降りてきたのは、凍夜町の総帥綾波レイであった。
 事態の急変に、呆然としている春菜の前に立つと、
「勘違いしないで。人間などどうでもいいわ−ただ、ケーキの為よ」
 ある意味もっとも似合う台詞を口にしてから、
「でも、少しだけ解る。碇君が誰かに殺されたら−例えそれがありえないとしても、私は必ず血の復讐を遂げるわ。もし、世界を敵に回すことになっても」
「あ、あなたは一体…」
 レイはそれには答えず、
「この者達の口から、死に追いやったのは自分だという言葉が出ても、警察は邪魔をするの」
「……」
 屍が反応しなかったのはせいらの刃故ではなかった。
 その視線の先には、シンジがいた−正確には、僅かに指の動いているシンジが。
 そこから何が出てくるのか、そしてそれが何処を目指すのか、屍には明確な見当がついていた。
「オーケー、分かったよ」
 とうとう屍は肩をすくめた。
 命を惜しむ訳ではないが、吸血鬼が二人に人魚が一人、そしてもう一人は不死人と来ており、正義を遂行する前にあの世で警察手帳を翳す羽目になると気付いたのだ。
「そっ、物わかりのいい刑事さんって好きよン」
 あまりにも場違いな、甘ったるい声がして全員が振り向いた。
「ミ、ミサト…なんでここに」
「何でって、吸血鬼の小娘に任せたんじゃ、血を吸ってから白状させるしか無いでしょうが。それともレイ、あんた何かいい案でもあるの?」
「そ、それは…」
 言いよどんだ所を見ると図星だったらしい。
「ほうらね。ま、あたしに任せておきなさいって」
 ぼよん、とたわわな胸を叩き、せいらとレイの眉がぴくっと動いた。
 額に菱形の物を貼り付けたミサトの功績で、真相はすぐに出てきた。
 最初は金だけ巻き上げるつもりが、段々とエスカレートしていき、ついには気に食わないと言う理由で暴行を、それも目立たぬ場所を選んで暴行を加えた事を白状したのである。
「あの子が、あの子が一体何をして…」
 声を震わせている母親の頬で、甲高い音がしたのは次の瞬間であった。
「え?」「あ?」
 誰もが呆然とする中、
「あんたはね、娘の身代わりにこの子を造ったのよ。その事自体は否定しないわ。でもね、あんたがこの子に自我を持たせたせいで、この子が通常モードに戻ればすべてを知るのよ。自分が何のために造られたのか、すなわち自分が身代わりだったって言う事もね」
「み、身代わりだなんてそんな…」
「復讐の道具に仕上げるのは、エゴイストの復讐心ってのよ。分かったら、さっさとあの子を通常モードに戻して連れて行きなさいっ」
 その言葉に打たれたように、びくっと身を震わせ、春菜はおそるおそるふゆなに近づいた。
 どこか呆然とした春菜が、それでもふゆなと一緒に去っていく間、屍もリツコも動かなかった。
 最初に動いたのはシンジであった。
「せいら、もういい」
「はい?」
「そこの人を連れて行って、リツコさんの所から記憶消去剤を貰って飲ませておくんだ。後は家の前に放り出せ」
「かしこまりました」
 頷くとせいらはあっさりと、実にあっさりと屍を放した。
「嬢ちゃん、随分と高く付くぜ、こいつは」
「クレームなら、シンジ様を通してください。それ以外はお断りです」
 さらっと言うと、事態が分からず腰を抜かしていた娘を肩に担ぎ、
「ではシンジ様」
「頼むね」
「はい」
 一礼して去って行った。
 その姿が消えてから、
「シンジ君、それどうするつもりなの」
「え?」
 不意に自分の方を向かれて、何故かレイは慌てた。
「僕は死ねないよ」
「ご、ごめんなさい…」
「でもまあ、僕の墓標は綾波に任せようかな」
「い、碇君…」
 怒っていないと知り、レイの顔がわずかに赤くなった。
「この先生達は多分、死にたくなるほどの絶望がどんなものか、その冬奈って娘に教えたかったんだよ。でも問題は、自分がまだ体験してないことだよね。死にたいと思っても死ねない、舌を噛みたくても噛めず、どんなに泣いても叫んでも決して救われぬ世界を、その目でよく見てくるといい」
 まもなく辺りに、この世の終わりみたいな絶叫が響き渡った。
 
 
 
 
 
「あれ、お店じゃなかったの」
「吸血鬼が我が儘言わないの。この間の物騒なお母さんが、箱一杯に持ってきてくれたんだよ」
「これ全部?」
「そ。結局、アンドロイドのあの子とは仲直りして、これからはまた仲のいい母子でやって行けそうだってさ。昨日二人で、娘さんの墓前に報告してきたらしいよ」
「ふうん。でも、シンジならあそこでふゆなに殺させるかと思ったんだけどねえ」
「僕はそんなに優しくない」
 不死人の青年は冷たく告げた。
「すぐに死ねる機関銃で逝かせるほど、僕は優しい人間じゃないよ」
 リツコは出向かなかったが、いずれも熟練した鑑識が顔を背けた程の、凄まじい苦悶の表情を浮かべて死んでおり、多数に嬲られて死を選んだ娘も、これで少しは浮かばれたかも知れない。
「ふーん。ま、だからシンジなんだけ−お姉ちゃんそのタルトあたしのっ」
「アスカの優先は連れて行ってもらった場合でしょう。今は貰った物だから早い者勝ちよ」
「ちょ、ちょっとそんなのずるいわよっ。せいら、あんたも一番大きなマロン取っといたのに手ぇ出さないでよっ」
「レイが言う通りよ、ご馳走様」
「くーっ、こんな時ばっかりー!!」
 きいと頬を膨らませているアスカに、
「ああ、大丈夫。アスカには別に取ってあるから、もう見たくないって言うくらい食べていいよ」
「ほんとにっ?」
 今度はアスカがぱっと顔を輝かせ、せいらとレイがむうっと頬を膨らませた。
 
 
 
 
 
「まったく、近頃のガキ共は警察を何だと思ってやがるんだか」
「いいじゃないの」
 リツコはくっくと笑い、グラスを軽く触れ合わせた。
「だからこのリツコ様が付き合ってあげてるんでしょう。あなたがどんな名銃を持っていたって、あの四人が組んだら手も足も出ないんだから諦めなさい。ま、今日の所は私が奢ってあげるから、好きな物飲んでいいわよ」
「では、お言葉に甘えよう」
 妙にさっぱりしていると思った次の瞬間、
「ロマネ・コンティのこれにしよう。年代はそうだな、古くさい俺には三十年も前ので十分だ」
 ボトル一本六十万円也。
「あ、あなた少しは遠慮しなさいよ恥知らずな男ね」
「前言を撤回するのは厚顔無恥な女と言うが」
 くすりと笑ったバーテンダーが、
「開けてもよろしいでしょうか」
「分かったわよ、好きにしなさい」
 リツコはやや憮然とした表情で命じた。
 
 
 
 
 
 不死人の青年がなぜ、娘を喪った母親に手を下すことを許さなかったのかは、分からない。
 ただここで春菜が殺させていれば、今までのような関係を保つのはおそらく難しかったに違いない。
 そして、深層意識からの自白という、もっとも間違いない白状で引き出した内容に大して、銃弾の灼熱を刹那感じるだけの報いでは、あまりにも軽かったと言う事もまた。
 それゆえに刑事二人も、身を挺して止める事は躊躇ったのだ。
 
 
 
 
 
(了)

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