女同士(中編)
 
 
 
 
 
「痛い…痛いのよ…」
 苦痛に顔を歪める姉を、妹はぎゅっと抱きしめた。
 既に、手足はあちこちの皮膚が裂けており、傷口からは皮膚の下が露呈している。
 文字通り満身創痍の肢体をかき抱いて、
「必ず治してあげるから」
「駄目よ…」
 姉は苦しげに笑った。
「これを治すのに何がいるか…あなたも知っているでしょう?必要なのは鮮血…それも、特別な生命力のそれなのよ…」
 その言葉通り、傷の治癒に必要なのは、特別な生命力を持った鮮血なのだ。
 おそらく、いや到底手に入りそうにないそれは、既に八方手を尽くしても入手は不可能だったのだ。
 だが妹は、力強く頷いた。
「…え?」
「あったのよ、それが。裂傷を瞬時に治す治癒力を持ったそれを、私は見つけたわ。だから姉さん、もう少しだけ待っていて」
 
 
 
 
 
 月の下を浴衣美人が歩いている。
 せいらとレイだ。
 湯から上がった後、二人で数本の銚子を空けたのだが、ふとレイが気付いた。
 雲一つ無い空に、くっきりと浮かんだ中秋の名月に。
「レイ、誘われる?」
 くすっと笑って訊ねたせいらに、
「月の晩は私達の時刻(とき)、本当なら碇君と一緒に飛ぶのだけれど」
「それは妙ね」
「何が?」
「この間の満月の夜、電話したらシンジ様が出られたわ。つい、長々と話してしまったけれど」
「……」
「……」
 美姫二人、視線が宙で交錯したが、どちらからともなく外した。
「ここでは取りあえず、止めておきましょう。外行く?」
「そうね」
  
 月がじっと見つめる中、浴衣のまま出かけた二人の、草履の音だけがひたひたと鳴っている。
 無論靴はあるし、木の下駄もあったのだが、これがいいとせいらが言い出したのだ。
「草履は懐に入れて暖めるほど、人間の生活に密着しているのよ」
 一応合ってはいるが、知識が中途半端に仕入れられているようだ。
「きれい。それにとても静かね」
「そうね」
 他から見れば、まるで決闘でもしに行くように見えるかも知れない。
 実際口数はほとんどなく、ただ目的地だけを目指しているような歩き方なのだ。
 だが当人達には、この静けさも嫌なものではないらしい。
 むしろ、あれこれと話すことの方が、却って違和感を生じさせたろう。
 隣にいるのは、シンジではないのだから。
 もしこれがシンジなら、多少はあれこれと話題を向けたかもしれないが、この二人にはかなり難しい芸当であった。
 加えて、この静寂を楽しんでいる様子もあり、彼らにはそれで十分なのだ。
 一種独特の雰囲気のまま、二人は特に会話する事もなく歩き続けたが、ふとせいらが立ち止まった。
「どうしたの?」
「風が…風が動いたわ」
「かぜ?」
「僅かに邪気を感じた…誰かに付けられているようね」
 その言葉にレイの足が止まり、後方を振り返った。
 だがすぐに顔を戻し、
「要らない事よ」
 と言った。
「要らない?」
「浴衣姿の女は、おそらく襲うのも簡単そうに見える筈よ。でもそれが何を意味するのか、身を以て知ることになるわ」
 手出しできるものなどいない、との自信が言外に溢れている。
 そうね、とせいらも苦笑して歩き出したレイに追いつく。
「せいら」
 レイが前を見たまま呼んだ。
「何?」
「さっきの言葉、訂正するわ」
「え?」
 さては強力な邪気でもあったかと思ったら、
「その辺に碇君がいたら、襲ってしまうかもしれないわ。あなたはどう?」
「……レイ」
 この夜の一族の当主が、何となく人格が変わったような気がしたせいらだが、もしここにシンジがいたとしたら、誘惑に抗しきれる自信がない事に気が付いた。
 
 
 
 
 
「人形使い?」
「そう、ひんひょうふはいよ」
「食べてから喋れー!」
「あーって、ほれおいひいんらもん」
 翻訳する気にもなれぬそれだが、前者と後者は発信源が別だ。
 すなわち前者はリツコであり、後者はアスカである。
 刑事と不死人と吸血鬼、この組み合わせも珍しい。
 何よりも、普段なら絶対にレイかせいらが入ってくる所であり、この三人だけと言うのも、なかなか見られるものではあるまい。
 なお、リツコのモンブランは既に四つ目で、アスカのレアチーズケーキは七つ目だ。
 アスカが、杭でも打ちこまれたかのように萎縮しているところへ、救いの女神が現れた。
 いや女神とはやや違うが、アスカには本当にそう見えたのだ。
 もう少しシンジの視線に遭っていたら、朝日を素肌に浴びたかのように、塵になってしまったに違いない。
 一応日光の中も歩けるとは言え、素肌のそれへは絶対に禁止であり、依然として太陽が敵である事には変わらない。
 日中の行動には、絶対の曇天かまたは大雨などの条件が必要なのだ。
 無論アスカは、まだそれを体験した事はないが、疑似のそれを初体験かと、生きた心地もしなかったのだが、
「アスカを見ていてもつまらないわよ。それより、甘い物でも食べれば気分転換になるわ」
 ここにレイがいての台詞なら、危険な状況が勃発した事は想像に難くないが、アスカに取ってのそれは天啓にも聞こえた。
「いいよ、この顔の方がいい」
 せいらやレイに取っては驚喜の、だがアスカに取っては真綿で首を絞められるような台詞を吐いたシンジだが、
「レイ達は今、出雲の方に行ってるんですってね。面白い情報があるのよ」
 リツコの言葉に、シンジの表情が少し動いた。
 で、近くの喫茶店に来たのだが、アスカとリツコのケーキ食べ放題タイムと化している。
 シンジはと言うとミルクティーをもう四杯目だが、こっちもこっちで、砂糖とミルクをたっぷり放り込んでいるから、カロリーでは似たようなものかもしれない。
「あっ、こらっ」
 不意にリツコの声がした。
 本来なら店中の視線を集める所だが、店内には三人しかいない。
 まるでゴキブリでもいたような声だが、何のことはない、シンジはマロンをひょいと取ったのだ。
 それも、リツコが最後まで取って置いたやつを。
 もぎゅもぎゅと噛んでから、
「食べないと用件言いそうにないからね、おてつだ…ごめんなさい、もう一個取ってください」
 凶悪な幼児誘拐犯を見ても、こんな表情にはなりそうにないリツコを見て、シンジは猛烈に後悔した。
「モンブランスペシャル三つ−シンジ君、いいわね?」
「は、はい」
 ノーと言ったら、ホルマリン漬けにされて永久保存されそうな気がして、シンジはこくこくと頷いた。
「そ、それであの…に、人形使いがどうしたって?」
「ああ、あれね。霊能班の連中に訊いたのだけど」
 やっと本題に移りかけたが、ギヌロとシンジに一瞥をくれるのは忘れない。
 食べ物の恨みは、それも女性にケーキの恨みは厳禁と言うことを、シンジはまた一つ学習することになった。
「姉妹で、特別指名手配されてるのよ。正確には、妖怪と木偶人形の組み合わせね」
「木偶人形?」
「元は妖怪の姉妹だったのだけど、姉の身体が朽ちた時に、ご神木を勝手に伐って人形の身体をこしらえたの。それに姉の魂を移したのだけど、相性が合わなかったのよ」
「神木だから?」
「その通りよ」
 頷いて、
「確かにその辺の木よりはよほど頑丈だけど、退魔の効果を持つと言われる神木を、妖怪の身体にして保つわけがないわ。それを保たせるために、処女の生き血を吸って血液代わりに循環させていたの。今までにもう、数十人がその血を吸われているわ」
「殺されたの?」
「いいえ、殺すような採り方はしていなかったわ。だけど一人、体の弱い娘が衰弱死したの。器物損壊と殺人罪で、霊能班から手配書が出ているわ」
 霊能班とは、通常の事件の範疇には収まらないもの−要するに霊が絡んだ事件ばかりを扱う部署だ。
 しかし、普通の刑事課もそこも、鑑識はリツコの所が請け負っており、彼女の優秀さを示している。
「出雲出身?」
「違うわ。ただ、大きな神社や仏閣を回って、参拝客を物色しているようなの。私の所で出現図を解析したら、次は出雲地方だと出たのよ。レイ達が行った先は出雲大社でしょう」
「話したの?」
 アスカを見たが、
「ひらはいあよ」
 奇妙な古代語と共に首を振ったアスカの頬は、まるでシマリスのように膨らんでいる最中だ。
「じゃ、何で知ってる」
「出雲大社の願掛け対象を考えれば一発でしょう」
「?」
 奇妙な顔になった所を見ると、何しに行ったのかまでは知らないらしい。
 では、憮然としていたようにアスカに見えたのは、温泉に置いて行かれたと思っていたのだろうか。
「あそこは、恋愛の神様で有名な所なのよ−知らなかったの?」
「知っていたけど…温泉巡りだと思ってた」
 奇妙な表情で言ってから、
「置いてきぼりにしたお礼だ。帰ってきたら、二人に十字架をプレゼントしてやる」
(一緒に行ったら意味がないでしょ)
 同時に心の中で突っ込んだが、やっぱり怒らせたくはないから、口にはしなかった。
 ちょうどそこへケーキが運ばれてきて、二人ともほっとしたのだが、運んできたウェイトレスに取っては地雷原だったに違いない。
 
 
 
 
 
「どう、まだ感じる?」
「いいえ、もう感じないわ。きっと気のせいね」
 首を振ったせいらだが、その表情が晴れていないのに、レイは気付かなかった。
 銘酒が、今頃になって回ってきたらしい。
「この地方は神が集結する所。きっと、美女を見つけて悪戯な神がついてきたのよ」
 珍しく饒舌なレイに、
「そうね、きっと」
 適当に頷いておいたが、
「私はもう寝るわ。お休みなさい」
 言うなり十秒も経たずに寝息を立て始めた。
 ただし、寝息と計測できる程のものはなく、文字通り死んだように眠っている。
 棺桶の中じゃなくても眠れるのかと、訊いてみたくなったが、ふとこの間の事を思い出した。
 そう、シンジを間に挟んで酒量の意地を張り合って、二人してダウンした時の事を。
「地下水道で対峙した時は、まさかこんな事になるとは思わなかったのに」
 レイの白い寝顔を見ながら、せいらはぽつりと呟いた。
「多分…同じなのね」
 同じなのだ、と思う。
 多分自分もレイも。
 無論、シンジへの想いは決して負けないと思うが、それでも振り向いてくれたとしたら…どこか怖いのだ。
 愛を告げることで関係が壊れる、一般的な関係ではそれを皆怖がる。
 だからずっと、このままでいいとか言い出すのだ。
 だが、不死人の少年にだけはそうは行かなかった。
 もしかしたら、自分に愛をくれるかもしれない。
 そしてそれを望んでいるにもかかわらず…自分のどこかに、それを怖れる心があるのは否めない。
 でもレイはどうなのか。
 冷静に分析して、口惜しいけれどレイの方に少し分があるような気がする。
 ただそれと、レイが完全に自信を持っていることとは別であり、レイもまた自分と同じように、シンジに計り知れぬ部分を見ているように思えるのだ。
 そして自分もレイも、その部分に惹かれたこともまた事実なのだが。
「シンジ様…」
 小さな声で呟いた時、その表情が動いた。
(まただ)
 ほんの僅かな量ではあったが、せいらの感覚は間違いなくそれを察知していた。
 窓に鋭い視線を向けたが、そこには誰もいない。
 だが間違いなく、何かがこの付近にいる。
 すっと、音もなくせいらは立ち上がった。
 酒のせいなのか、レイはほんのりと頬を染めている。
 せいらがちらりと見た時、その唇わずかに動いた。
「いかりく…」
 せいらの眉がぴくっと動いたが、結局起こす事はせずにそのまま部屋を出た。
 中庭に音もなく降り立った時、隅の方に何者かが潜んでいるのに気が付いた。微量ながら、そこから流れている妖気は、間違いなくさっき感じた物だ。 
「何者」
 低い声で誰何すると、そいつはすっと姿を現した。
 妖怪と一目で分かったが、それよりもむしろ、その腕に抱かれている物にせいらの興味は惹き付けられた。
 見た目は随分とぼろぼろな人形だが、それが魂をもっていると見抜いたのである。
「初めまして」
 和服を着た少女は、深々と一礼した。
 取りあえず、敵意を加える様子はないらしい。
「この私に何の用?」
 少し声を和らげて聞くと、
「あなたの連れ−あの者に用があるのです。そう、決してあなたとは相容れぬあの女に」
「レイに?」
「はい」
 少女は頷いて、
「名乗るのが遅れました。私は椛、こちらは姉の楓と申します。ご覧の通り、私達は妖の者、人の住む所で生きられるものではありません。ただ姉を生かすため、今までに生娘の血を得てきましたがそれも限界、これ以上は我らがいる場所さえ喪ってしまいます」
「それでレイの血に目を付けたか。だがなぜ」
 言いかけて、おそらく昼間のを見られたに違いないと知った。
「傷が再生したのはあなたです。でもそれはあの女が何かしたから。自分に強力な再生能力がなければ、他人に術を施す事は出来ません。何よりも、あの女はあなたとは決して相容れぬ筈です」
「………」
「あの女を殺せ、とは申しません。それは私達が手を下します。ただあなた様には、ある事をして頂きたいのです。これを」
 椛がすっと差し出したのは、小さなカプセルであった。
「これは」
「普通の人間には、例え何十錠飲んでも無害な代物です。しかし、妖の力を持った者にはその細胞を根底から破壊する、まさに死のウイルス。本来ならば正面から倒す所ですが、我らは二人で一つ、このままでは満足に戦えません」
「私でなくとも、その辺の人間を使っても出来る筈だが」
 低い声には、海底族の長の血を引くもののそれが、確かに備わっていた。
 だがそこに含まれているものに、椛が気付いたかどうか。
「言われる通りです。ただし、これを体内に入れる方法は二つのみ−まず一つは、注射器等から血液内に射ち込む事。もう一つは、カプセルごと飲ませる事です。ですがどれを取っても難しい、人間などにはまず不可能でしょう」
 確かにその方法なら、そう簡単にできる事ではない。
 出来たとしても後者だが、それとて一緒にいるせいらの方がやりやすかろう。
「……」
 せいらは、すっと下を向いたまま言葉を発しなかった。
 それを、更に後押しするような事は言わず、
「もしお気に召さぬなら、我らをお討ちになっても構いません。今の私達など、あなた様に取っては赤子の手を捻るようなものでしょう」
 確かに言葉の通り、二人にはまったく戦闘の意志は見えず、しかも隙だらけだ。
 せいらがその気になれば、至極簡単な相手であったろう。
 ややあってから、せいらが口を開いた。
「例え首尾良く行っても、私が手を貸したと知られれば、私は未来永劫想い人から憎悪を受ける事になるわ」
 それを待っていたかのように、椛の口許がにっと笑った。
「ご心配には及びません」
 取りだして見せたのは、小型の拳銃のような物であった。
「これは、短針を打ち出す人間達の機械です。これをもう一度撃ってみせれば、これの餌食になったと思うでしょう。あなた様に累が及ぶようなことは、決してございません。外した時の事を考えれば、あなた様のお力がどうしても必要なのです」
「………」
 せいらの脳裏に、いくつかの顔が浮かんだ。
 シンジの顔、レイの顔、そしてアスカの顔。
 水面に消えた姉の顔、そして…
「あなたとは決して相容れぬ存在の女」
 不意に、椛の言葉が浮かんだ。
 例え一時的に友好を取ったとしても、その本質はシンジの想いを奪い合う敵である事に、変わりはないのだ。
 いつの間にか出てきた雲が月を覆い隠し、その下でせいらの視線は地の一点を見つめていた。
 不意に空が晴れた。
 雲が流れ、また月がその全貌を見せる。
 せいらの顔が上がったのは、その直後の事であった。
「その薬、もらっておくわ」
 すっと差し出された手に、白いカプセルが二つ乗せられた。
「万が一の時に備えて、二つお渡しして置きます。そしてこれは」
 と、黒いカプセルが手渡された。
「あり得ないとは思いますが、もしも間違ってあなた様が飲まれた時、三秒以内に呑み込めば効果は消せます。くれぐれもお気を付けて」
 ついに、ついにせいらはレイを殺すそれへと手を伸ばし、悪魔と契約を交わした。
 溶け込むように姿を消したそっちは見ようともせず、せいらは黙然と立っていた。
 自らの想いのため、レイを殺す決意をしたと言うのだろうか。
 月に照らされながらもその表情が見えなかったのは、決して気のせいではあるまい。
 やがてせいらは戻っていった。
 懐に、すべてを断ち切るそれを持ったままで。 
 
 
 
 
 
(続)

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