追っ手来たりて(後編)
 
 
 
 
 
「ここはどこだ」
 目を開けたシンジだが、ちっと舌打ちした。
 自分が、依然として水漬けになっているのを知ったのだ。
 どうやら、自由に動くのは首から上だけらしい。
 だがシンジははて、と首を傾げた。
 水、と言うよりゼリー状の中に閉じこめられているが、四肢に束縛力はないのだ。 だとしたら、どうして手足が動かせない?
「毒素を埋め込ませてもらったのよ」
 降ってきた声に、シンジはじろりと視線を向けた。
 降ってきた、と言うのもおかしな話だが、今のシンジは正座した格好で閉じこめられており、ちょっとみっともない。
「僕を殺すんじゃなかったのか」
「あんた不死身でしょうが」
 ふん、と女は冷たく笑った。
「お前を人質にして、あの子を連れて帰るのよ。せいぜい、そこでおとなしくしているがいい」
「迷惑な女だな、全く」
 辺りを見回すと、見覚えのある光景である。
「また下水道か?」
「また?」
 一瞬怪訝な顔をしたが、
「お前程度には、この汚らわしい所で十分よ。この汚水につっこまれないだけ感謝するのね」
 また、とシンジは言ったが、せいらに連れ込まれた場所と全く同じだったのだ。
 無論目的は全く違うが、やはり姉妹だと思考は似るのかも知れない。
 だが、感心している場合ではなく、せいらにも勝手に帰るなと言ったシンジが、こんな所で捕まっている訳にはいかない。
 さっさと脱走しようとしたが…にっちもさっちも行かない。
 いっその事、手足を断たれてしまえばまだいいが、手足が付いたまま毒液を送り込まれ続けると、いかにシンジと言えども手が出ない。
 シンジとて、完全完璧ではないのだ。
「困ったな…」
 藻掻いているシンジを見て、けらけらと笑った。
「ふん、逃げられはしないわよ。ま、もがくだけ藻掻いてみるが」
 ふと女が途中で言葉を切った。
「どうやら、来たみたいね」
「ん?」
 シンジが顔を動かすと、こっちに向かってくる人影に気が付いた。
「あれは…アスカとせいら?」
 次の瞬間、
「シンジっ!!」「シンジ様っ!」
 悲鳴にも似た声が上がる。
 遠くから見ると首だけに見えない事もなく、シンジが不死人と知っているだけに、首より下を切り落とされたと見えたのかも知れない。
 二人が急加速したが、アスカの方が一気に地を蹴ったが、
「大丈夫、五体付いてるから」
 キキキー、と音を立ててアスカの足が止まる。
「シンジ…無事なの?」
「無事でもない」
 五体はあるが無事でもない、なかなか難しい所である。
 第一。
「小娘、動くな」
 妖女の妙に伸びた爪が、シンジの頭部に当てられているのだ。
「ね、姉さん…」
 せいらの血を吐くような声に、女は低く笑った。
「今ならまだ許してあげる、帰っておいで」
「あっ、あんた卑怯よっ、シンジを人質に取るなんてっ」
「人質?何を言っているのかしら」
 アスカの言葉に、女は奇妙な表情を見せた。
「…何ですって」
「人質なんかする気はなかったわよ」
 あんたが帰ってくれば、と続くかと思ったら、
「こいつを五体ばらばらに殺す気だったんだから。ただ、不死身らしいからこうやっているだけよ」
 その途端、アスカの歯がぎりりとなった。
「貴様…」
 アスカの双眸に、ひときわ強い赤色が宿ったが、女はあっさりと跳ね返した−うねる波で。
「おやめ」
「何」
「お前と私が戦う理由はないのだよ。私の妹を帰してくれれば、お前の好きなこの男も帰してやる」
「べっ、別に私はっ」
「ほほ、ではなぜわざわざ来た?この男が気になるからであろうが。なに、安心しなさい、私は約束を破りようはないのだから。人間の人質ならともかく、この男なら終わった後に殺す事はあり得ない、そうだろう?」
 その言葉に、一瞬アスカの表情が揺れる。
 確かに妖女が言うとおり、せいらさえ返せばほぼ間違いなく、シンジは無事に帰ってくる。
 だが。
「アスカ」
 冷え切ったシンジの声に、その全身がびくっと動いた。
「せいらを渡したら、未来永劫口は利かないぞ」
「シ、シンジ…」
「それとせいら、勝手に帰るなと…くっ」
「うるさい男だねえ、あまりうるさいと女に嫌われるよ」
 嘲笑った女が、右手をシンジの首に当てた瞬間、激痛が走ったのだ。
「シンジ様っ!」
 悲痛に叫んだせいらだが、ついに覚悟を決めたらしい、悲壮な表情で、
「シンジ様、短い間でしたがお世話になり…」
 言葉が途切れたのは、シンジ達の後方に人影を認めたからだ。
 そう、暗闇でも赤光を放つ瞳を持った夜の一族の主を。
 “続けなさい”
 決して相容れぬ筈の恋敵同士が、一瞬だけ意志が通った。
 がしかし。
 これは別に意志が通った訳ではない。
 単に、シンジの血を大量に受けた者同士だから、出来たに過ぎないのだ。
 とまれ、途切れた間は感情の吐露と怪しまれる事もなく、
「シンジ様、お会いできて本当に…本当に…」
 言葉が詰まったように、深々と頭を下げる。
 妹の様を見て、女がからからと笑った。
「そう、やっと来る気になったのね。さ、こっちにお…!?」
 こっちにおいで、と言い終わらぬ内に、大事な人質に異変が生じた。
 そう、それがゲルごと数メートル吹っ飛んだのだ。
「何っ!?」
 思わず振り向いた先には、無論双眸に殺気を漲らせたレイが立っている。
「お前はあの時の」
「私に無様を晒させた礼はたっぷりす…あっ」
 こっちも思わず叫んだのは、四肢の自由が利かないシンジが、下水に転げ落ちたからだ。
「シンジっ」
 咄嗟に身を躍らせたアスカが、無事にシンジを捕まえた。
 荷物と化したシンジを、何とか引き上げてくると、
「シンジ様、ご無事ですかっ」
 せいらが繊手の一振りで、シンジの呪縛を弾き飛ばす。
 不死人の特徴なのか、急速に色を取り戻した手足を見ながら、
「ありがと、せいら」
「い、いえ」
 うっすらと赤くなったせいらに、向こうではレイがぷうっと口を膨らませたが、無論もっとも面白くないのはこの女だ。
「貴様ら…そうか…もういい、貴様ら全員皆殺しにし…ぐああっ」
「皆殺し?何を寝ぼけているの」
 弾倉の20発全弾を、フルオートで撃ち尽くしたのは、無論仁王立ちのリツコであり、その凶悪な弾の前に、女の両手は地に落ちて肉塊と化した。
「ぐ…ああ…お、おのれ…」
 亡者の呪詛を吐く女に、
「やっと元に戻ったぞ」
 腕をぶんぶん振り回したシンジが、とどめを刺そうと地を蹴ろうとした所へ、
「お、お待ちくださいっ」
 がくっ、と前につんのめった。
「なに?」
「あれでも私の姉です…決着は私が付けます」
 とは言え肉親ならやりづらかろうと、
「いいの?」
「はい」
 少し悲しげに、だがはっきりとせいらは頷いた。
 次の瞬間のせいらの行動には、その場にいた全員が目を見張った。
 ふわり、そんな感じで地を蹴ると実姉の前に着地したのである。
「さよなら、姉さん」
 言い終わらぬ内に軽く一閃させた手刀は…いとも容易くその首を落としていたのだ。
 まず生首が下水に落ち、ついで司令塔を喪った胴体がその後を追った。
 凄惨な、だが余りにもあっさりした光景に、リツコさえも束の間言葉を失った。
 そして、最初に破ったのはせいらであった。
「シンジ様、申し訳ございません」
 腰から、身体を二つに折ってシンジに頭を下げたのだ。
「いや」
 シンジはそれだけ言うと、軽く首を振った。
「この身が朽ちても、お前に帰られたら来世まで後悔していた」
 意味深な台詞だが、
「僕がいらなくなるまで、こっちにいるといい」
 そうでもないらしい。
 結構我が儘である。
 が、
「はい、喜んで」
 それはそれでいいらしい。
「それはそうと」
 視線を動かして、
「綾波、よくやってくれたね」
「べ、別にっ」
 ちょっと赤くなって、
「そ、その女を助けた訳じゃないわっ」
「誰もそんなことは言ってないけど」
「…あ」
 たちまちかーっと赤くなって、
「言っておくけれど、あなたを助けたのは碇君の前で叩きつぶす為よ。誰が碇君にふさわしいか、その目で確かめるのね」
 結構強情である。
 しかも、
「夜の生き物なんかには負けないわ。勝負なら望むところよ」
 あーあ、とシンジが天を仰いだ。
 失言したと思ったらしい。
 最悪の展開になった、と思ったがまだ早かった。
 天を仰ぐシンジの後ろから、艶めかしい腕が巻き付いたのだ。
「無事で良かったわね、シンジ君」
「ちょ、ちょっとあの」
 それを見て、たちまち二対の刺すような視線が飛んだ。
 リツコが平然とそれを受け止め、シンジを真ん中にして文字通りの三角関係が火花を散らす。
「最悪…」
 呆然と呟いたシンジに、
「取りあえずお礼しといたら」
「え?」
「一人だけだと、絶対角立つわよ。じゃね、あたしはこれで」
 修羅場には付き合ってられないと、さっさと退散を決め込んだアスカ。
 相変わらずピリピリした空気の中、
「あ、あの…お礼に一杯おごるけど…いく?」
「『ええ、勿論』」
 揃って頷いたが、相変わらず視線はお互いに牽制し合っている。
「私は結構よ」
 シンジの耳に艶めかしく囁いたリツコ。
「え?」
「今度、一晩掛けてお礼してもらうから」
 更に妖しく囁き、場の雰囲気をひときわ険悪にしてから、
「アスカ、待ちなさい」
「え?」
「私ももう帰るわ、一緒に帰りましょう」
「え、うん…」
 歯切れが悪いのは、リツコの本心が分かったからだ。
 そう、別に自分と帰りたいのではなく、盾にする為なのだと。
 チジョウノモツレでぴりぴりしている中、殆ど人質状態にされたアスカだが、表情には何とか出さず、内心でしくしく泣きながら、リツコと二人地上へと出ていった。
 
 
 
 
       
「ま、無事で良かったじゃない」
 電話連絡を受けた時はほっとしたのだが、今はそれを微塵も見せず、むしろ挟まれているシンジを見て、くすくす笑っている。
「借り出して悪かったね」
 勿論、急遽ステージを空けたせいらの事だが、いいのよとミサトは首を振った。
「うちの店はね、空っぽの歌は客に聴かせないのよ」
 言葉の通り、黒服からステージのドタキャンを告げられた客からは、一斉にブーイングが起きかけたのだが、せいら達を送り出したミサトが、
「今の歌姫では、心はお届けできません。あしからず」
 管理ぐらいしておけと、ブーイングが増加しそうなコメントだったが、何が功を奏したものか、ぴたりと客は静まった。
 もっとも。
「あたしじゃ、役不足かも知れないけれど」
 ちょっと胸元をはだけて、客が思わず視線を集中するような格好で一芸して見せたお陰かも知れない。
「入ります」
 と、鉄火場の姉御のような格好で壺にサイコロを二つ放り込み、全部ゾロ目にしてのけたのには客席もどっと沸いたのだ。
「でもいいの?」
 訊ねたのは、無論両側を固めている少女の内、片方への物だ。
 と言っても、外見と生きた年数は彼らに関しては比例しない。
 無論若作り等ではなく、吸血鬼でありセイレーンであり、そして不死人と言う組み合わせである。
 その中では、一番せいらが大人びて見える。
 夜の一族を束ねる主のレイとは言え、外見が若いのはまだ如何ともしがたいのだ。
 たが、シンジと並んで歩くのを考えた時、今のままで十分なのだと、アスカは姉から聞かされた事がある。
「わたしがこれ以上成長した体型になったら、碇君と釣り合わないもの」
 数百、あるいは千にさえ達する歳月を生きる吸血鬼だから、いずれはレイとて大人の肢体へと変化する。
 それでも今は、思い人と似合うこの外見でいいらしい。
 そのレイと、真っ向からシンジを張り合っている元海底族、セイレーンだったせいらは、シンジの横をがっちりと固めている最中だ。
「邪魔かしらあ?」
 にたっとミサトが笑うと、せいらが悲しそうな顔で、
「私ではお邪魔ですか?」
 と訊いた。
「邪魔よ」
 言いたいけれど、直に口を挟むとシンジに怒られるから、横でうんうんと頷いているレイ。
「いや邪魔じゃないんだけど」
 なぜかミサトを見たシンジ。
「店の経営の方が気になりそうだし」
「あのねえ、シンちゃん」
 僅かに眉を上げて、
「あたしがそんな無粋な事、する訳無いじゃないの。折角愛しい人に無事再会出来たのに」
 確かに言葉通り、座敷内には彼ら以外おらず、恋人達の時間を演出しているかに見える。
 ただし、男一人に女二人で人数に剰りが無ければ。
 そして、その女二人が左右で火花を散らしていなければ。
 何よりも。
(こんな楽しいイベント、見逃してなるものですか)
 と言う意志が、ミサトの双眸にありありと見えていなければ。
「はいはい、分かったよもう」
 無論シンジもそれは分かっているから、さっさとあっちへ追っ払いたいところなのだが、あまり露骨にすると、せいらが勘違いして落ち込む可能性がある。
 覚えてろよ、と内心で毒突いたが表面には出さず、
「僕がお礼するから、メニュー片っ端から持ってきて」
 変わらない口調で告げた。
 
  
 
 
 
「ね、リツコさん」
「何?アスカ」
「どうして一人だけ抜け出したの?」
 乾いたアスファルトに女二人、足音が冷ややかに響く。
「どうして?」
「だって…シンジ連行されたら…」
「あなたレイの妹でしょ」
「そ、そうだけどそうじゃなくて…」
 奇妙な事を言ったアスカに、リツコはその意図を見抜いたらしい。
 婉然と笑って、
「どこ行くか、分かってるからいいのよ」
「え?」
 盗聴器?と顔に書いてあるアスカに、
「シンジ君があの二人を連れて、その辺のバーにでも入ると思う?ミサトの所しか無いわよ」
「あ」
「あそこなら、ミサトが茶々入れるからどうせ発展はあり得ないわ。小娘達に付き合うのは、大人の女のする事じゃないのよ」
「じゃ、じゃあ後でひっそりと?」
「人聞きが悪いわね、アスカ」
「ご、ごめんなさ…なっ!?」
 次の瞬間、リツコがアスカを強引に引き寄せたのだ。
 まさか、シンジの身代わりかとあらぬ危険に身を硬くした途端、後方で断末魔の声がした。
「…え?」
 後ろを見ると、黒服の男達が三人、ちょうどぶっ倒れた所であった。
 いずれもベレッタの猛撃を受けて、胴体に穴が開いている。
「な、何これ…」
「ヤー公の屑共よ」
「え?」
「この間、司法解剖の結果を改竄しろと私の所に来たのよ。どうせ今も、金を積んでその後は脅しでしょ」
 硝煙をふっと吹き消してから、銃を手にしたまま男達に近づいた。
 蹴飛ばして仰向けにすると、その懐中に手を突っ込む。
「やはりね」
 右から札束を、そして左からは消音器の付いた自動拳銃を取りだした。
「最近こういう馬鹿が多いのよ」
「どういう事?」
「見なさい」
 と、急速に生者の色を喪っていく手首を掴み、アスカに見せた。
「鉄砲玉にするには最適の三下よ。でも、こんなおもちゃのドスしか持ったことのないような手で、こんな大口径を撃てる訳無いでしょう。私を狙って、通行人を射殺するのが落ちよ。殺して置いて正解ね」
 あっさりと、とんでもない事を言い出すリツコ。
「さすが鑑識は、見る所が違うのねえ」
 とアスカは、これも無論死体に禁忌はない。
「吸ってもいいわよ」
 なぜか、クールな表情にいたずらな笑みを見せたリツコだが、
「こんな外道、吸ったらおなか壊して大変よ」
 と、血を見てもその瞳に変化はない。
「でもこれ、どうするの?」
「その辺の妖獣が、お腹空かして待ってるわよ」
 その言葉が終わらない内に、既に付近からは低い唸り声がし出している。
「さ、行くわよアスカ」
 歩き出すか、と思われたリツコが、死体となったその頭に三発、これは抜く手も見せずに叩き込んだ。
(やっぱり…)
 クールな仮面に、どこか情念の色が見えたような気がして、アスカはどこか複雑な気分で死体を見やった。
 
 
 
 
 
「作戦成功ね」
「人聞きの悪い事を言うな」
 表情の変わらないシンジが、入って来たミサトをじろりと睨んだ。
 自分を挟んで危険な関係の二人。
 さすがに取っ組み合いはしないだろうが、シンジとしてはやはり居心地が悪い。
 で、何を思ったかこのシンジ、まず最初にせいらに、
「今回はありがとう。君のお陰で助かった」
 と、手ずから酒を注いで勧めたのだ。
 無論、せいらが嬉々としてそれを受け、一気に飲み干したのは当然であり、反対側から、シンジを見つめる視線があった。
 そしてこっちにも、
「綾波もありがとう」
 と、注いでやったのだ。
 酌をする芸者と化したシンジだったが、その狙いはそこにはない。
 少し辛目のビールだったが、コップが空いた方から注いでやったものだから、競うようにしてぐいと空けていく。
 “絶対に負けないから”
 “望む所よ”
 意趣を変えた女の戦いは、シンジの思う壺だと二人とも気が付かない。
 結果。
「シンジ様〜もっと飲めますう〜」
「い、碇君どこぉ〜」
 完全に酔いつぶれた二人が、今はシンジの膝枕である。
 なお、二人の手が繋がれているのはシンジの悪戯だ。
 当然の事として、二人ともそれがシンジの手だと思っているのは、言うまでもあるまい。
 シンジが注いだのは、せいらが二十五杯にレイが二十四杯。
 ほぼ互角の勝負と言えるだろう。
「ところで」
「なに?」
「この二人頼んでいい?」
「いいわよ、あたしんとこで預かっておいてあげる。それよりさ」
 にゃっと笑いながら、シンジの所に腰を下ろした。
「この二人、どうするの?」
「どうするって?」
 ちらりとシンジがミサトを見る。
「何でもないわ」
 軽く首を振って、
「奥に寝かせて置いていい?」
「手を繋いでる相手が分かると揉めるから、絶対に起こすなよ」
「分かってるわ。あたしも店、壊されたくないしね」
 じゃよろしく、と立ち上がったシンジの後ろ姿を、ミサトは黙って見送った。
 が。
「こら、二人とも起きなさい」
 ミサトの声に、奇怪な現象が起きた。
 そう、二人が揃って目を開けたのだ。
 むくっと起きあがったが、これは意識が完全にある訳ではないらしい。
「碇君は…」「シンジ様…」
 揃って呟いてから、繋がっている手に気が付いた。
 が、離れない。
「大した事ないのね」
「先に潰れたのはあなたでしょ」
 ぐっと握った手に力を入れて、力比べを始めたのだ。
「な、なかなかやるわね」
「そ、そっちこそ」
 顔は笑っているが、目は笑っていない。
 ぎりぎりと力比べしている所に、
「こら二人とも」
「『え?』」
「今日は止めときなさい」
 額をくっつけて、殆どキスでもしそうな距離で睨み合っている二人に、
「キスでもするわけ?」
 その途端、さっと離れた二人に、
「こんな所で喧嘩したら、シンジ君に怒られるわよ」
 まったく小娘が、と指を鳴らした途端、それがどんな効果をもたらしたのか、二人の少女が揃って倒れた。
 たちまち寝息を立て始めた二人を見ながら、
「男の子を巡る三角関係って、青春よねえ」
 なぜか、冷やかす口調もなく呟いた。
 そのまま二人を引きずって、ずるずると布団に押し込んだのは数分後の事である。
 
 
 そしてその数時間後。
 
 
「あ、せいら…」
 下水の中、海底よりの追っ手を倒した場所に、アスカは黙然と立っていた。
 その感覚が、人の接近を感知したのだ。
「どうしてここへ?」
「何となくよ。それより、シンジはどうしたの?」
「シンジ様はもう帰られたわ。策にはまったわね」
 唇の端で、僅かに笑った顔には酔いなどまったく感じられない。
「策?」
「あなたの姉さんと、呑み比べさせられたの。私達が張り合って酔い潰れた間に、お帰りになってしまったわ」
 シンジらしい、そう思ってアスカは内心で笑った。
 が、表情には出さず、
「せいら、一つ訊いていい?」
 違うことを言い出した。
「何?アスカさん」
「ああ、それいいわよ」
「え?」
「あんたの方が年数長いんでしょ。あたしもアスカでいいわよ」
「そう」
「そ、いいのよ。それでせいら、そのさ…」
「来る時にね、未来永劫縁は切るって言われていたのよ」
 言いよどんだアスカから、意志を読んだらしい。
「じゃ、どうして?」
「独占欲よ。それに、セイレーンの王女の妹が、陸へ上がって人間に恋をしてるなんて、外聞にかかわると思ったんでしょう」
「そう…なんだ」
 それ以上言い得なかったのは、アスカにも分かったからだ。
 無論、せいらの姉の気持ちではないが、吸血鬼が不死人に恋するなど相応しくないと言うのは、凍夜町の長老達にもいたのだ。
「僕を悪し様に言うなら構わん」
 シンジはそう言った。
「でも、綾波をそう言うのなら、冥土へ行ってしてもらおう」
 それがただの脅しでないと、シンジは実力行使で示した。
 平均年齢が少し下がったのは、その時以来である。
「凍夜町にも、そんな事言う人はいたの?」
「うーん、少しね。あの時、シンジがそいつらを討っちゃったのよ。もっとも、肉親では無かったけれど」
「同じよ、アスカ」
「え?」
「あなたの姉が、綾波レイがシンジ様に刃を向けたら、あなたはどうするの?」
「そ、それはその…」
「私は、どんな物であってもシンジ様に刃を向ける者は許さない。でも」
 言い切った後、わずかにその口調が下がったのにアスカは気付いていた。
「でも?」
「そう言うのは…鬱陶しいかもしれないわ…シンジ様には…」
 あるかも知れない、口まで出かかったが、寸前でアスカは止めた。
 シンジの気性からして、他人に守られるなど嫌うとアスカも分かっていたのだ。
 それでも。
 それでも、シンジを質に取った実の姉を討ったせいらを思い、アスカは思いの中に留めていた。
「そんな事ないわよ、きっと。少なくとも、シンジあのままじゃ、生き仏になってたんだし」
「そ、そうね…」
 何となく会話が途切れ、アスカとせいらは黙って水面(みなも)を見つめていた。
 そして数十秒後。
 ぴくりとアスカの肩が動いた。
「さようなら、姉さん…」
 声にせず呟いたせいらの声を、アスカの感覚は捉えていたのだ。
 俯いているせいらに、そっと背を向けると音もなくその場を後にしたアスカ。
 だが、アスカには分かっていた。
 俯いたせいらの肩が、声もなく震えていたことを。
 そして。
 レイがもし、シンジに刃を向けたとしたら?
「あたしは…あたしは多分…」
 最後に呟いた声は、水の音にかき消されて、聞こえる事はなかった。
 
 
 
 
 
(了)

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