追っ手来たりて(中編)
それから数日は、何事もなく過ぎた。
海底の女王もちょっかいは出してこなかったし、せいらも店でその美声を披露している。
変わった、と言えばレイが夜の誘いに来なくなった位だ。
浮気者!と怒ってるかと思ったが、電話はよく来るからそうでもないらしい。
「何をしてる?」
とこっちから聞くと、ちょっと調べ物なのと少し歯切れの悪い答えが返ってきた。
どうやら、対セイレーン用の秘策でも練っているようだ。
ただし、シンジ自身は間違いなく自分を狙ってくると踏んでいた。
アスカやレイなど人質の価値はないし、シンジの前に殺しても、せいらを連れ帰る切り札にはならないからだ。
あえて狙うなら、アスカか。
自分に一刀を投じた小娘を、プライドの代償にと言うなら分からないでもない。
だが、やはりシンジを片付けに来るだろう。
力ずくでせいらを連れ帰るより、シンジを殺してその残骸を見せ、ショックに追い込んだ方が早いからだ。
と言っても、シンジを殺せる者はこの世に存在しない。
死ぬことの出来ぬ者を、討てる者は存在しないのである。
出来るとすれば、せいぜい五体をばらして封印する事くらいだが、あいにくとシンジは弱い不死身ではない。
レイ達夜の一族に、勝ってはいても劣りはしない力の持ち主である。
ただ、痛みを感じない身体ではないから、やはり海中に引き込まれれば苦しいし、息を断たれれば気絶もする。
そう考えると、やはり海の生き物は厄介だと言える。
「窒息は迷惑だ」
とりあえず、ここは敵の分析からだと、立ち上がって出ていこうとした時ベルが鳴った。
「はい」
出るとせいらが立っていた。
「どうした?」
「シンジ様、今お時間よろしいですか」
「それは僕の質問だよ。店はいいのかい?」
「オーナーが」
その一言で、シンジの表情が動く。
あの経営熱心なミサトが簡単にオーケーを出すなど、ただごとではないと踏んだのだ。
「上がって」
「失礼致します」
楚々とした腰の折り方も、上がってからの歩き方も、やはり気品と教養があると感じさせる物がある。
フランス製の菓子でも出した方がいいような気がしたが、生憎そんな物は置いてなく、
「これでいい?」
虎屋の羊羹と、玉露があったのがせめてもの幸いである。
「有り難うございます」
にこりと微笑んだ所を見ると、シンジからなら何でも良かったらしい。
羊羹を口に入れると、
「とても甘いのですね」
「え?」
訊いてから、海中の生き物だった事を思い出した。
「味は?」
「とてもおいしいです」
三切れ、立て続けに食べた所を見ると、よほど気に入ったようだ。
湯飲みをせいらが空にしてから、
「それで、何があった?」
訊ねたシンジに、
「はい、姉の事です」
「何かしてきた?」
「いえ、そうではなくてあの…」
「ん?」
「シ、シンジ様は、何をしてくるとお思いですか?」
「僕の護衛なら大丈夫だよ」
シンジは先に言った。
「はい?」
「せいらは、僕が帰れと言わない限り絶対帰らない。ならば、僕から殺すのは分かっているからな」
「…そう」
一瞬せいらの雰囲気が変わったのに、シンジは気が付かなかった。
「それより、葛城は休暇を出したの?」
店で何かあっては客の出入りに障る、ミサトがそう考えたなら、当分休ませるのも十二分に考えられたからだ。
「いいえ、少しだけです」
「それは良かった」
と言ったシンジに、
「ほんの少し…そう、お前を始末するまでの間!」
その刹那、弾かれるようにして後ろへ跳ぼうとして…間に合わない!
シンジは、足下が急速に水に浸かっていくのを感じていた。
「お前に様を付けるなど虫酸が走るわ」
すっくと立ち上がった女が、シンジを見下ろしながら言った。
ゆっくりと、顔の仮面を引き剥がしながら。
「やけに食い意地が張ってると思ったよ」
腰のあたりまで上がってきた水は、シンジを微動だにさせない。
そのシンジの言葉に、一瞬かーっと赤くなって、
「だ、黙れっ!」
ぶんっと手を振ると、波がシンジの身体を締め付けた。
「これは幻影ではないわよ」
「み、見れば分かる」
とは言いながらも、水に侵されているのはシンジの四方五十センチくらいであり、他はからからに乾いているのだ。
「僕をどうする気だ」
「殺してあげるわ、ゆっくりと」
女は嬉しそうに舌なめずりした。
「どうやって」
「まずは」
女の指に水の矢ができあがり、
「肩を貫いてやるわ」
言葉が終わらない内に、つららのようになったそれがシンジの肩を貫いた。
みるみる鮮血が流れ出し…
「なっ!?」
回復していく自分の傷口を見ながら、
「セイレーンには、年食ったのはいても不死身はいないらしいな」
シンジが静かに笑った。
だが、
「とはいえ今の顔、やはり痛みはあるようね。それならば」
すぐに現状を分析すると、
「溺れておしまい」
一気に水がシンジを覆い尽くし、文字通り水中に座ったまま溺れたシンジ。
「か…はっ」
もがこうにも、身体が全く言うことを聞いてくれない。
ことり、と首を折ったシンジを見ながら、
「さてと捕らえたわよ。後は…殺せるのかしら」
首を傾げながら、奇怪な水の中に手を突っ込んでシンジの髪を、ぐいと鷲掴みにした。
アスカやレイが見たら、怒髪天を突きかねない行為である。
しかしながら、生憎ここには二人以外誰もおらず、やすやすとシンジを肩に担ぐとそのまま姿を消した。
「シンジ君いるかしら?」
リツコがシンジを訪ねて来たのはその五分後である。
玄関を開けた途端、強く鼻を突いた潮の匂いにその顔色が変わる。
「シンジ君っ」
蹴破るようにしてドアを開けたその前には、なめくじでも這ったような痕だけが残っており、その先にはガラスの割られた窓があった。
「なんて事…」
理由は知らないが、セイレーンによる物と思われる殺人が−おそらく吸精が目的と思われる−せいら以外の犯行だが、せいら絡みと読んでやって来た所だったのだ。
「屑」
リツコが顔に似合わぬ事を呟くと、懐からこれまた物騒な物を取り出した。
その手に握られたのは、ベレッタM93R・フルオートマチックピストルだ。
サブマシンガンとしても使えるこの大型拳銃は、リツコなど引き金を引いただけで指が折れてしまいそうだが、初弾を送り込む動作には無理など微塵も感じられない。
無論、リツコの使うこれが通常弾な訳はなく、国際法で対人戦闘には使用が禁じられているダムダム弾が込められている。
ダムダム弾とは、フル・メタル・ジャケットのそれとは違い、命中した直後に弾が四散して、体内から抉っていく代物だ。
「海にその残骸を返してやるわ」
冥府の亡者のような声で言うと、後を追跡する部下を呼ぶべく、リツコは携帯のボタンをプッシュした。
(あら…?)
歌い終えて、圧巻の拍手を浴びている最中、わずかにせいらの身体がよろめいた。
別に疲労のせいではない、その背中に何か嫌な物が走ったのだ。
その様子に、見ていたミサトが観客よりも前に気が付いた。
「あの子、どうしたのかしら」
表情は変えず、内心で首を傾げると楽屋に入っていく。
「リツコ、どうしたの?」
誰もいないと思ったが、既に先客がいた。
「ミサト、あの子はずっとここにいたの?」
「な、なによいきなり」
「訊いているのは私よ、答えなさい」
今日に限ってやけに強迫的な態度に、ミサトの眉が上がる。
「あんたに答える必要はないわ、令状持ってるんでしょうね」
美女二人が睨み合った所へ、せいらが入ってきた。
「あら、ミサトさ…?」
ミサトは普段、あまり楽屋には来ない。
それがいたものだから、一瞬驚いたような顔を見せたが、リツコの存在を知ってその表情が険しくなる。
これもレイを相手にしたほどではないが、シンジを巡る敵だと認識しており、先だっては病室で、シンジにいきなり口づけしたとんでもない女だ。
「何の用」
かなり挑戦的だが、ミサトに用ではないと瞬時に感じ取ったのだ。
「あなた、ずっとここにいたの」
ミサトに訊いたのと同じ事を訊ねた。
「答える必要はな…」
言葉が途中で止まったのは、向けられた銃口を見たからだ。
「何の真似よ、リツコ」
双眸に危険な物を宿したミサトには答えず、
「シンジ君が浚われたのよ、海の生き物に…っ!?」
リツコの足が地を離れたのは次の瞬間であった。
せいらが、いきなりリツコの胸元を掴んだのだ。
「シンジ様は、シンジ様はどこへっ!」
だが次の瞬間には、
「痛っ」
苦痛の声と共に、その手を離していた。
掴み上げられた瞬間、リツコがせいらの手首を逆に捻っていたのだ。
手首を押さえたせいらと、喉をおさえてせき込んだリツコ。
「知らないから訊いているのよ、あなたが浚わせたんじゃないの」
「何ですってっ」
せいらがリツコに飛びかかろうとするのを、慌ててミサトは止めた。
ここは彼女の店なのだ。
「せいら、待ちなさい」
すっと手で制止すると、胸元のブローチに口を近づけて、
「誰か、すぐに来な」
と低い声で命じた。
黒服が二人、音もなく現れた所を見ると、通信機にもなっているらしい。
「どうされま…!?」
これも懐へ手を突っ込んだのは、リツコの手の物騒な拳銃を見たからだ。
ベレッタが珍しい訳ではないが、その向け先がせいらであれミサトであれ、看過する訳にはいかない。
「いいのよ」
軽く手を振ってから、
「この子、今日はもう仕事にならないから、客席にそう言っといで」
一瞬怪訝な顔を見せたが、ミサトの命は絶対なのか、すぐに出ていった。
それを見送ってから、
「でしょ?せいら」
「ミサトさん…ごめんなさい」
「いいのよ、別に」
少し笑って見せたが、
「リツコ、あんたももう少しまっとうに訊きなさいよ。マシンガン持ってたって、この店で何かしたら無事に出られないのは、あんたも知ってるでしょ」
ミサトの視線に、すっとリツコが銃を懐中にしまった。
「そうね、ご免なさい」
素直に詫びたのは、対象がシンジとは言え暴走気味だったと自分でも思ったのか。
「まったく、どいつもこいつも」
軽く肩を竦めてから、
「リツコ、あんたレイには…」
言いかけた時、
「聞いていないわ」
「レイ!?」
対象者がドアを開けて入ってきた。
「なんでここにいるのよ」
訊ねたミサトに、
「あの、リツコさんが血相変えてシンジの家を出ていくのが見えたから、それで姉さんに…」
「じゃあ、あんたも知らないのね?」
アスカの言葉を引き取って、ミサトがレイに訊いた。
「知っていれば、まっすぐそっちへ向かっています。もっとも」
ちらりとせいらを見て、何か言いかけたのを、
「レイ、ストップ」
言う前にミサトが止めた。
そっちの女かもしれないけれど、とそう言うのは分かっていたからだ。
せいらとレイの取っ組み合い程度ならともかく、リツコまで入っては事態がややこしくなる一方だ。
と言うよりも、店を壊されたら大変だと、その方が強かったりするのだが。
「せいらとレイ、それにリツコ」
「『はい』」「何」
「犯人(ホシ)の目当ては付いているんでしょう。だったら、ここは一時休戦しなさい。あんた達がいがみ合っている間に、賞品に傷でも付いたら大変よ」
せいらとレイが、すうっと青くなり、
「いいわね」
こくんと、これは揃って頷いた。
「結構」
とりあえず、この二人を抑えれば騒ぎは止められる筈だ。
「それでせいら」
「はい」
「浚ったのはあんたの姉さんね」
「はい…」
力無く頷いたのは、自分のせいだと思ったのだろう。
が、
「こら」
「え…いたっ」
その額を、ミサトがぴんっと弾いたのだ。
「お前がいなければ問題はない、シンジ君はそう言ったの?」
「い、いえそれは…」
「勝手に帰ったらぶっ殺す、そう言わなかった?」
「あ、あのそこまでは…」
「ま、まあとにかく、勝手に帰るなって言ったでしょう」
「はい…」
「ふーん」
急に怪しく笑うと、
「良かったじゃない、せいら」
「え?」
「シンジ君にそこまで気に入られて」
むろん、これを聞いた時反応は幾つかに分かれた。
明らかにむっとしたのがレイ。
レイほどではないが、僅かに眉が寄ったのがリツコ。
そして…
「そ、そ、そんな事ないですう」
もじもじと、嬉しそうになったのがせいら。
なお、入っていなくて良かったと言う表情は、無論アスカである。
「ご、ごほんっ」
わざとらしく咳払いしたレイに、
「ああ、そうだったわね」
ミサトもまともな顔になると、
「にしても、どうしてシンジ君浚われたのかしら」
「『え?』」
「シンジ君がセイレーンごときにやられるなんて、せいらには悪いけどまずありえないわよ」
「それに、シンジは不死身だしねえ」
口を挟んだアスカは、何か思い当たらないかとせいらに視線で訊いている。
当事者ではないアスカとミサトだけが、まともに事態を進行出来るというのは、ある意味皮肉な話と言える。
「シンジ様は特別ですから。もっとも私の一族なら…んんっ」
「ちょ、ちょっと待ってよせいらっ」
慌ててアスカがせいらの口を押さえる。
吸血鬼には負けない、そう言おうとしたのを察知したのだ。
どうもこの二人、恋敵意識がお互いに強く、すぐ突っかかりたがる。
これでは、アスカも大変である。
「あんた達が強いのは分かったから、それよりあんたの姉さんがどこにシンジを担いでいったか、心当たりない?」
「そ、それが…」
「それが?」
「姉は私と違って、ここに暮らすつもりはないし、それにここの地理も知らないから…」
「ま、まさかっ」
アスカの顔色が一瞬変わる。
「死なないのを知ったら、海中に持ってく可能性が高いのね」
ミサトがとどめを刺した。
「ミサトさんっ」
さすがにレイが血相変えたのへ、
「ま、今度はせいらの二の舞にはならないわよ。シンジ君も同じ轍は踏まないでしょうし。それに、海までシンジ君を担いでいくのは楽じゃないわよ。絵留川を下っていくか、或いは」
それを聞いた途端、レイが携帯に手を伸ばした。
「もう手は打ってあるわよ」
リツコの声に、視線が一瞬そっちに向いた。
「シスコンのセイレーンが、妹の奪還にシンジ君を狙ったのは分かっていたわ。だから、街からは手荷物一つ以外の者は絶対に出られないし、川岸にも私服を配備してあるのよ」
「さっすがリツコ、腐っても鯛ね」
「腐ってる?アル中の人と一緒にしないで欲しいわね」
あーもう、とアスカが、
「ちょ、ちょっと二人とも止めてよ」
今日は調停役に徹する運命にあるらしい。
「ミサトも余計な事言わないでよ、もう」
「はいはい、アスカも大変ねえ」
本人がのうのうと言ってから、
「でも、出られないとなると後は街の中ね。アスカ、レイ」
「『はい』」
「もうすぐ夜の時間よ、すぐに捜索に入って。それとせいら」
「はい」
「さっきも言ったけど、店はもういいからあんたも探しに行きなさい。シンジ君がいないと、あんたの歌声も地に墜ちるでしょ」
とんでもない事を言いだしたが、
「駄目です、絶対に」
と、これも簡単に肯定した。
「じゃ、私はこれで」
レイがアスカを伴って出ていこうとしたが、
「あ、ちょっと待った」
ミサトが呼び止めた。
「はい?」
「どうも信用できないのよね」
「は?」
「せいらと街中で会ったら、また大喧嘩始めそうだから。と言う訳でアスカ」
「え?」
「あんた、せいらと行きなさい。いいわね」
「あ、あたし?」
「そう、あんたよ。分かったわね」
有無を言わせぬ口調に、アスカは思わず頷いた。
アスカがせいらと行けば、とりあえずレイとぶつかっても仲裁は出来る、そう踏んだミサトの判断は正しかったろう。
四人が出ていった後、ミサトはふーうっと大きく息を吐き出したが、一番大変なのはアスカに違いない。