追っ手来たりて(前編)
「すると?」
奇妙な声でそいつが訊いた時、辺りは危険な空気が満ちた。
「ざ、残念ながら妹君は…ぐああっ」
おそるおそる答えた男の頭が、繊手の一振りで吹っ飛んだ。
たわわな胸とほっそりした腰…だが、欲情するには何かが足りない。
そう、腰から下の何かが。
人によってはコスプレだと言うかも知れない。
何故なら、その下半身は魚になっていたからだ。
危険な伝説の持ち主であるセイレーン、その姿そのままに、女は玉座の上に座っていた。
「もういい、私が自ら出向いてくれる」
陸に上がった妹が、人間界に馴染みだしている事を知った姉は、烈火のごとく怒って即座の連れ戻しを命じた。
が、ことごとく失敗。
既に十数名が戻ってきていないのだ。
そして、ついに御大直々の出馬となったのである。
「お姉ちゃん、最近機嫌いいのねえ」
夜間飛行を終えて、帰ってきたレイにアスカが声を掛けた。
「どうして?」
「だって最近笑顔も多いし、足取りもなんか軽いじゃない」
「そう?」
「そうよ、この前までは…あ」
つい余計な事を口走ったと、アスカは口元を抑えた。
「この前までは、なに?」
「な、何でもないわ」
巨大な黒翼を折り畳み、ゆっくりと近づいて来る姉から、じりじりとアスカは後じさった。
アスカの言うとおり、せいらの一件以降強力な恋敵の出現に、レイはどう見ても穏やかではなかったのだ。
無論、配下に当たり散らすような真似はしないが、触れば一瞬で切れそうな、何かを持ち合わせていたのである。
それが、ここの所妙に機嫌がいい。
当然、シンジがその原因である。
ほとんど毎晩のように出かけるレイは、その都度シンジを付き合わせていると、アスカはちゃんと知っている。
吸血鬼のくせにレイは相変わらず処女だが、それはそれでいいらしい。
もっとも、とアスカは内心で呟いた。
(他の男ならともかく、シンジに迫るなんて並の女じゃ無理よね。多分姉さんも…)
アスカの想像は当たっていた。
吸血鬼の夜間の出歩きは、しばしば欲情させる事もあり、レイとて例外ではないのだが、どうしても迫れないのだ。
せいぜい、口を小さく開けて、シンジを待つのが精一杯である。
黒翼を畳み、口元の牙が目立たぬ時のレイはごく普通の、いや群を抜いて美女の域に入っているのだが。
「ね、お姉ちゃん」
「なに?」
「自分から迫ったりしないの?」
「ごほっ、げほごほっ」
レイの足が止まった瞬間、レイは激しくむせ込んだ。
「ちょ、ちょっと大丈夫?…ひたたた」
「子供が首を突っ込む事ではないわ」
ぎゅうっとアスカのほっぺたをつねりながら、それでも赤くなっているレイに、
「ふうーん、でも早くしないと」
ぴたっとレイの手が止まった瞬間、しまったかと思ったアスカ。
だが、それ以上攻撃される事もなく、
「紅茶でもいれるわ。アスカも飲む?」
「え?あ、うん」
首を捻っているアスカに、
「私がどうして反応しないのか、不思議なんでしょう」
くすり、と笑って訊いた。
ここまで読まれていれば隠しても無駄である、アスカは素直に頷いた。
「ちょっと不安になる時もあるけど、私は碇君をずっと想っているから」
「それでいいの?」
「アスカ、考えてもご覧なさい」
「え?」
「どこかの女が、碇君に迫れると思う?勿論、あの女も含めてね」
あの女、と言うのがせいらなのかリツコなのかは分からなかったが、とりあえずアスカは首を振った。
「でもそれって…ちょっと受け身の自信じゃない?」
「大人の恋愛って、そうゆう物なのよ」
「はいはい、ご馳走様」
アスカは軽く肩をすくめると、どっちにも取れる台詞を口にしてから、カップをくいっと傾けた。
「ちょっと甘いかな」
その前の台詞のせいで、余計に甘く感じたのかも知れない。
「アスカ、私は少し休むから」
「お休み、お姉ちゃん」
レイが出ていった直後、部屋の扉が控えめにノックされた。
「はい」
「レイ様はおられますか?」
「姉さんは睡眠よ。用件ならあたしが聞くわ」
その眉が寄ったのは、室内に運び込まれた物体を見た時であった。
「何よこれ」
アスカの前には棺桶が置かれ、その中には遺体が収められている。
いや、遺体と言うより物体だった物と言った方が正解かも知れない。見事に腐乱しきったそれは、間違いなく夜の一族の物であった。
アスカの双眸が危険に光ったのは、その壮絶なまでの討たれ方にあった。
両手両足がちゃんと付いている者は一人もおらず、どれもこれも、両手が途中から無くなったりしている。
そしてすべての共通点は−
「見事に心臓を抉られているわね」
「こちらの正体を知っての攻撃でしょうね」
「まとめてやられたの?」
「四人…すべてです」
言葉使いは穏やかだが、口調には火を噴きそうな物が混ざっている。
人間技ではないと知るだけに、秘めたる感情も半端な物ではないらしい。
「いいわ、これはあたしが止めておく」
アスカは静かに言った。
「は?」
「総帥のお耳に入れてはならない、いいわね」
一瞬間があったが、それでも屈強な男達は揃って頷いた。
ではこれで、と彼らが出ていった後、アスカは棺を眺めながら呟いた。
「吸血鬼の弱点は心臓に杭を打ち込まれること、それは誰でも知っているわ。だけど」
刹那、凄絶な表情になると、
「知っているのと出来るのとは、全然別の問題なのよ」
「いかがでしたシンジ様?」
歌い終えた歌姫−せいらは、客席に想い人の姿を見つけて、ぱっと大輪の花が咲いたような笑顔を見せた。
その向け先は違ったものの、それを見た観客からは、ひときわ大きな拍手がわき上がったのだ。
ステージが終わった後、せいらはゆっくりとシンジの席にやってきた。
「お客様、ここよろしいですか?」
初対面のような口調に、
「どうぞ」
シンジは短く応じた。
せいらの表情が緩んだのは、今のステージを見た客達が散り始めてからであった。
やはり、客への配慮と言う物は考えているらしい。
「最近あまり、来てくださらないから」
「綾波に付き合わされてね」
他の女の名前を出されて、せいらの顔に妬心の色が浮かんだ。
が、それも一瞬のことで、
「シンジ様、ひどいですわ」
「そうかい」
それを聞いた瞬間、せいらの顔が引き締まる。
シンジの用件が、焼き餅焼かせではないと瞬時に悟ったのだ。
「何か、ありましたの?」
「人魚狩り」
「は?」
僅かに表情を固まらせたせいらに、
「絵留川から、あるいは街の下水から人魚が上がってきている。君を知らないかと、直接尋問を受けたよ」
「そ、それでっ?」
思わず身を乗り出したせいらに、
「綾波に知られると色々とうるさい」
ゆっくりとシンジは言った。
それはそうだろう、シンジの敵は許すまじと決定しているのに、そのシンジを襲ったと知ったら、ましてそれがせいらの同族と知ったら、女同士の死闘が再開しかねない。
シンジを挟んでいるだけに、せいらが黙って引かないのは知っている。
あまり修羅場を見たがるシンジでもない−まして、それが自分絡みとなれば。
「取りあえず、撃退しておいた」
と言うことは、帰ってこなかった者達は、一人残らずシンジの手に掛かったのだろうか。
「あの…申し訳ありません」
「いやいいよ」
「え…?」
「君をこっちに残したのは僕だ。保護はしておかないと」
黙って頭を下げたせいらに、
「気になる事を言っていた」
「はい?」
「姫って誰のこと?」
「あ、あの…」
「僕は姫様に恋慕されたんだな」
うっすらと笑ったシンジに、
「私では…不足でしょうか?」
躊躇いがちにせいらが訊いた。
どうやら、身分違いと思われたのかと、不安になったようだ。
「こっちではアルバイトの歌姫だから」
「はい」
「それで」
僅かに表情を戻して、
「それで、黒幕は誰だ」
「私の…姉です」
「君が姫じゃなかったの?」
「アスカさんみたいなものです」
「なるほど」
わかりやすい説明に、シンジは軽く頷いた。
「そ、それよりシンジ様」
「え?」
「お、お怪我はございませんでしたか」
「ない」
シンジは短く言った。
「人魚ごときに襲われて怪我出来るほど、僕は楽な存在じゃないぞ」
「あ、ごめんなさい」
相手が不死身だと、思い出したらしい。
「それにあれ」
「え?」
「よわっちかったぞ」
まあ、とようやくせいらが微笑んだ。
「確かに、シンジ様には力不足の者達ですわ」
だが、すぐに真剣な顔になると、
「ただ…」
「ただ?」
「次はおそらく姉が自ら…」
「禁止だよ」
「はい?」
「自分が帰れば全部終わる、なんて勝手に思ってるね」
一瞬肩が震えた所を見ると、ちらっと考えにあったらしい。
「で、でも…」
「半人前ごときに奪還されたら、不死人の名が廃る。そんなことより」
「え?」
「返り討ちにしてもいいの?」
実姉を討つ、シンジはそう言っているのだ。
が、これもあっさりと、
「海中を出たときから、既に縁は切ってあります」
どこか冷たく聞こえる口調で答えた。
「シンジ君、もういいかしら」
いつの間にか、次のステージの時間になったらしく、ミサトが近づいてきた。
「もう終わったさ」
すっと立ち上がると、
「今日終わったら、僕の家に寄って」
せいらの返事を待たず、シンジは踵を返した。
レイに口止めしたシンジだったが、水の漏れ場所は一カ所ではなかったのだ。
「セイレーンね、99%」
ゆっくりと紫煙を吐き出しながらリツコが言った。
「ほ、本当に?」
「鑑識の私が言うのよ、間違いないわ」
「……」
「ただし」
リツコは付け加えた。
「あの娘の物ではないわ、パターンが違うもの。それにこれは、海の匂いがそのまま残っているわ」
「でも…仲間なんでしょう」
「人を襲う吸血鬼もいるわよ」
リツコにしては珍しい事を言う。
本当なら、アスカを煽ってもおかしくはないのだから。
「じゃあ…何なの」
「追ってきたのよ、多分」
「追っ手?」
「あなたの家に、最初からシンジ君が素直に入れたわけでは無いでしょう」
言われてアスカは思いだした。
若き当主にくっつく虫と、シンジを排除する動きが強かったことを。
そして、シンジに熱く片想いしていたレイがそれを知った時、両手を越える数が屍と変わった事も。
「で、でもシンジが…」
「不死人に心配は無用よ」
リツコは断言した。
「ほ、本当に?」
黙って頷いたリツコに、少し不安を隠しきれない様子でアスカは部屋を辞した。
その後ろ姿を見ながら、
「セイレーンの戦闘能力なんて、私は知らないわよ。知っているとしたらそう…レイと互角にやり合ったあの娘くらいの物よ」
アスカが聞いたら仰天しそうな台詞を、小さな声で呟いた。
店を出たシンジは、しばらく行った所で違和感に気が付いた。
足下から何かが上がってくるような感覚は、むずがゆさのそれでは無かったのだ。
「これは…ノミでも集ったか?」
首を傾げた直後、シンジの視界は急速にぼやけ始めた。
それが、水中で目を開けたような感じと知るには、数秒を要した。
「くっ」
僅かに声が漏れた直後、シンジの唇から血が一滴流れ落ちた。
殆ど同時に、その足取りが回復する。
「血で治るなら幻覚だ」
口元を拭った時、
「大したものね」
声は足下から聞こえた。
シンジがそっちを見なかったのは、罠だと見抜いたからだ。
アスファルトに潜れる女など、シンジの知っている中にはいない。
「話す時は相手を見なくては」
次の瞬間、シンジの手から伸びた刃が、近くの電柱を襲った。
電柱を貫くのと、その影から一人の女が現れるのとが、ほぼ同時であった。
「初めまして」
「似てないな」
シンジの言葉に、女はにいっと笑った。
「私のこと、既に知っているようね」
「あれは僕がもらっておく。引き取りはお断りだ」
「二股男に言われたくな」
言葉が途切れたのは、途中で横に跳んだからだ。
ただし、原因はシンジではない。
「碇君は私しか見ていないわ」
ゆっくりと空中から降りてきたレイは、黒翼を畳むとシンジの横に立った。
「何でここに?」
「い、碇君の顔が見たくなって…」
「どうしてこっちに来たのかな?」
「あ、あうそれは…」
「訂正するわ」
レイが赤くなった所へ、女が口を挟んだ。
「私の妹の方がよほどいい女、あんたでは張り合いにもならないわ」
ざわ、とレイの髪の毛が動いた。
「何ですって」
呪縛を帯びた赤瞳が光った瞬間、その視界を波が占めた。
一瞬レイの動きが止まった時、その姿は完全に波に飲み込まれていた−あり得ない波に。
僅かに舌打ちして、シンジが地を蹴ろうとした所へ、今度は押し寄せるような波が襲った。
シンジが飛び退かなかったのは、レイが『人質』になっていたからだ。少しでも視界が埋まれば、間違いなくレイは連れ去られたであろう。
せいらの姉、と名乗ったこの女に取って、妹の恋敵であるレイは生かしておく理由がない。
なぶり殺しにされるのを、みすみす見逃す訳には行かなかった。
足に激痛を感じながら、ぐっと前に踏み出したシンジは、片腕でレイを引き寄せた。
「庇わなければ逃げられたものを」
女が冷たく嗤った所を見ると、シンジがあえて動かなかったのを見抜いたらしい。
「気分悪いからな。それに夢見も悪い」
「付き合いの良いことだ。では、そのまま冥土まで見送るがいい」
死の波に引き込もうとして、その手が空中で止まった。
がくん、と前にのめった瞬間に、シンジはレイごと脱出していた。
「せ、せいら…」
呟いた口からは、小さな血の泡を吐き出していた。
そう、その肩を氷柱が貫いたと同時に。
「姉さん、縁は切った筈よ」
せいらの口調は、どこか哀しげに聞こえた。
「あんたをこんな街に置きはしないわよ」
器用に背中へ手を回すと、ぐいと氷柱を抜き取った。
「この程度であたしを討てると思ったの?あんたも甘くなったも…くはっ」
今度こそ、女はがくりと膝を突いた。
「な、何奴…何だお前は」
「アスカ様よ。いわゆる無敵モードね」
その右手には長剣が握られている−たった今、投擲したのと同じそれが。
「シンジ、姉さんは無事?」
「多分」
シンジの声は水のせいで、僅かにくぐもって聞こえた。
ぎり、とアスカが歯を噛みならした瞬間、ひときわ高い水音が聞こえた。
「逃がしたか」
ざぶざぶと、水の中からレイを担いで現れたシンジだが、何故かアスカもせいらも、その姿をぽうっと頬を染めて見つめた。
「どした?」
「い、いえあのっ、と、とても綺麗で…」
「うん、シンジすごく綺麗…」
いわゆる、水も滴るいい男、と言うやつのようだ。
こほこほと、レイが軽くせき込んで、ようやく二人は我に返った。
「ね、姉さんっ」
「だ、大丈夫よ」
少しよろめきながら立ち上がると、せいらを認めて表情が険しくなる。
たちまち美少女同士、空中に火花を散らしたが、
「あなたがいるとろくな事が無いわ。さっさと海に帰ったらどう」
「その私がいなかったら、今頃は姉さんの術中で土左衛門よ。言っとくけど、あなたを助けたのは正面から叩きつぶす為よ。二度とシンジ様に近づかないよう、徹底的に叩きのめしてあげるわ」
それだけ言うと、シンジに一礼してさっさと身を翻して去っていった。
その後ろ姿を睨んでいたレイだが、
「碇君、私もこれで帰るわ。いずれ、また」
こちらはちらっと艶めいた目を向けてから、背を向けて歩き出す。
置いて行かれたシンジが、
「置き去りになった場合、どっちを追えばいいんだろう」
「あたしに訊かないでよ、そんなこと」
「じゃあ、アスカにする」
言うなりアスカの手を取って、さっさと歩き出したシンジ。
「ちょ、ちょっとシンジやだっ、あんっ」
「嫌なの?」
「そ、そうじゃないけど…」
「じゃ、行くよ」
アスカが躊躇したのは、おっそろしく美男子になっているシンジのせいもあるが、それよりは背中に突き刺さる視線のせいであった−それも二組の。
(こ、怖くて今日帰れない…)
が、取りあえず今を優先する事にして、シンジの手をきゅっと握り返したアスカ。
突き刺さる殺気がひときわ強くなった時、ひょいとシンジが後ろを振り返った。
あっという間に視線が逸れたのは、つぎの瞬間であった。
「誰も見ていないし、逃避行と行こうか」
(あ、あーん、シンジぃ)
聞こえよがなしな声に、アスカは内心で悲鳴を上げていた。
もっとも半分くらいは、いやもっと多くの割合は嬉しさが占めていたのだが。