歌姫(中編)
 
 
 
 
 
 別に縛られてもおらず、結界に封じられている訳でもない。早い話が、逃げようと思えばいつでも逃げられる体勢なのだ。
「不用心じゃない?」
 いいえ、とせいらは再度首を振った。
「さらうのならいざ知らず、お帰りになったのにそのような事は」
 自分の服が乱れていない事を知ったシンジは、ゆっくりとベッドから降りた。
 せいらの前にかがみ込むと、豊かな胸の谷間に手を滑り込ませる。
「大きな胸には不慣れじゃないが、窒息するほど物好きでもない。ここに何を塗っていた?」
「いえ、何も」
 三つ指を突いた姿勢を崩さず、せいらはにっこりと笑った。
「愛する方を呼ぶのに、おかしな術などは使いませんわ−ねえ、あなた」
 あなた、と呼ばれた途端シンジは、目の前がぐらりと揺れたのを感じた。
 意識が遠のいていく中、せいらの妖艶な笑顔が視界を占める。
(あまりかっこよくないな)
 呑気にもそんな事を考えながら、シンジはゆっくりと崩れ落ちた。
 落ちる寸前でその体をさせたせいらは、
「まだ、記憶が戻っていないのね。いいわ、ゆっくりと思い出して」
 シンジの頬にそっと口づけすると、軽々と抱き上げてベッドに乗せた。
 だがその表情が強張ったのは、次の瞬間であった。
 柳の葉のような眉が寄ったのは、何かを感じ取ったらしい。
「いやな気ね」
 忌々しげに呟いたせいらは、何を思ったか化粧台の上から剃刀を取った。そしてそれを自らの手首の押し当てると、横にすっと引いたのだ。下に向けて切ったそこからは、勢い良く流れ出した鮮血が滴り落ちる。
 そこまでは当然の結果だが、せいらは痛みなど微塵も見せずに、床にたまった血を眺めた。
 十秒、二十秒、一分近く経った頃、それに変化が表れ出した−その表面が、ゆっくりと細波だち始めたのである。
 しかも奇怪な事に、ただの鮮血溜まりに景色が映し出されたのだ。そしてそこには、ホテルの前をうろついている男達が映っていた。
「虫けらが人海戦術で来たのね」
 吐き捨てるように言うと、ベッドの上のシンジを見た。
「私たちの幸せを阻む愚か者…退治したいけれど今は駄目。あなた、行きましょう――私達の安住の地へ」
 数分後、アスカを筆頭に男達がなだれ込んできた時、部屋の中はもぬけの殻となっていた。
 地団駄踏んだアスカは、無論すぐに周囲を捜させたが、手がかりは何一つ残っていなかった。
「これは?」
 唯一残った手がかりとも言える鮮血を見て、アスカの顔色が変わる。だが指に付いたそれを口に入れた途端、アスカは激しくむせ込んだ。
 それが、シンジの血でなかったのは幸いだったが、
「き、機械油?ど、どう言うことよ…」
 険しい目でそれを見据えたが、無論答え得る者はいなかった。
 
 
 
 
 
 暗闇の中から現れたシンジに、レイは必死に駆け寄ろうとした。
 だが、全身を黒衣に包んだシンジには到底追いつけず、むしろますます遠ざかっていく。
 振り向いたシンジに、一瞬レイの顔が輝いた。
 ところがシンジの口から出たのは、
「僕はこの女性(ひと)と一緒に行く」
 レイを絶望に叩き落とす言葉であった。
 その時になってようやく、レイはシンジの隣に女がいるのに気が付いた。
 振りかえろうともしない姿からは、長い黒髪しか見えない。
 そして――シンジにしっかりと絡めた腕だけが。
「置いて…置いて行かないで…碇君っ!」
 叫ぶのと、がばと跳ね起きるのとが同時であった。
 目が覚めた時、まず最初に知ったのが全身に汗をかいている事であり、次に視界に入ったのは、冷ややかにも近い視線を向けている人物であった。
「あ、赤木刑事…」
「お目覚め?レイ」
 白衣に身を包んでいるその手に、ペンダントがぶら下っているのに気付いた。
「それは…?」
「あなたの記憶を引き出したのよ」
 短い言葉だったが、レイは今の悪夢の原因を知った。
「あなたがあんな夢を見せたのね」
「そうよ」
 短い返答に、レイの表情が一瞬にして強ばる。
 赤光を放つ視線を、リツコは平然と受け止めた。
 睨み合っている、と言うよりはレイの視線を受け流している、と言った方が近かったろう。
 赤光を帯びたレイの瞳−本来ならそれだけで人間は持たない。
 にも関わらず、リツコは微動だにしなかった。まばたきもせずに、二対の瞳が空中で絡み合った。
 そして−先に視線を逸らしたのはレイの方であった。
 リツコは依然として瞬きもせぬまま、
「シンジ君をさらった女を見たのはあなただけ。どうせ訊いても分からないから、記憶の引出しを開けたのよ。夜の一族の当主なら、もう少し冷静になりなさい」
 リツコの言葉に、レイの肩がびくりと波打った。
「能力(ちから)があっても、それを使えないなら分不相応に過ぎないわ。廊下に配されていた男達は、どれもレイを止めるのに死を覚悟の上よ。こんな所で寝ている暇があったら、さっさと起きなさい」
 言いたい放題言うと、リツコはくるりと踵を返した。
 出口の寸前でその足が止まったのは、呪詛のような声を聞いたからだ。
「碇君は必ず…私が見つけるわ…必ず…」
 それを聞いたリツコは、わずかに唇の端を歪めると、
「面白いわね、楽しみにしてるわ」
 ドアを開けた途端、聞き耳を立てていた男達が瞬時に硬直した。
 リツコは、彼らの制止も聞かずに中に入って行ったのだが、不死人の青年を中にしての感情の揺れは、凍夜町の住人では知らぬ者はいない。
 無論彼らも知っており、どうなる事かと全身を耳にしていたのだ。
「盗聴は立派な犯罪よ。それとも婦女暴行罪で終身刑にでも服してみる?」
 冷ややかな視線に、屈強な男達が凍り付いた。武道を心得る者の雰囲気も、赤光を放つ双眸を持っている訳でもない。
 にも関わらず、選りすぐられた吸血鬼達が微動だに出来なかったのだ。
 彫像と化した男達を後目に、ハイヒールの音だけを冷たく響かせて、リツコが去っていく。
 その姿が消えた頃になって、ようやく男達の呪縛は解けたのだが、その時になってふと彼らは、室内から聞こえる声に気が付いた。
 すなわち−すすり泣くような声に。
 死しても離れるな、アスカにはそう命令されたものの、彼らは互いに頷き合うと、滑るようにしてその場を離れた。
 彼らは選んだのだ−若き当主の感情を覗くよりも、その妹の命に反する事の方を。
 その場に居続けても、当主への絶対忠誠が揺らぐことは微塵も無いと知りつつも−
   
 
 
 
 
 ホテルからシンジを連れて脱走したせいらは、地下の下水道にいた。目の前を流れる下水を見ながら、せいらはシンジの顔に穏やかな視線を向けた。
「やっと…二人きりに」
 シンジは、線は細いが痩せぎすではない。そのシンジを背負って逃走したにも関わらず、せいらの服は少しも乱れていなかった。
 歌っていた時と同じ白いドレスが、全てが灰色に彩られたこの下水の中で唯一、純白の輝きを見せている。
 誰もが惹かれるような笑みを見せてせいらが、ゆっくりと顔を近づけていく。
 シンジの唇に触れる寸前、それが指一本で押し止められたのは次の瞬間であった。
「寝込み襲うのは犯罪だぞ」
 首を押さえながら起き上がったシンジは、幾分不機嫌に見える。
「ホテルの次は下水道?で、次は?」
 シンジの言葉に、せいらがすっと手を伸ばした。
 それが顔に触れた途端、零下に近いような冷たさが伝わってきた。それを感じたシンジの表情が、僅かながら強張る。
「凍夜町の地下を流れる下水は、はるかな海に通じる一年の内数日だけ。憶えておいででしょう?あなた」
 深海の人魚は、無論おぞましい下水になどは住まない。その彼らが現れるのは年に一度、それも三日だけだと言われている。
 下水は絵瑠川へと続く、それは間違いない。それに加えて…この街の側に海などはない。
 確かに絵瑠川は海へ流れるが、海までは直線でも二十キロはあり、しかも下水自体が海に繋がっているのだ。
 深海に住む者達が何しにくるのか、そして何の周期で来るのか、詳しい事は何一つ分かっていない。
 そして今、シンジの前にその生きた実験体がいる。
「一ついい?」
「なあに?」
 シンジが抗しない事に気を良くしたのか、その表情には満面の笑みがある。
「僕は君を愛したの?」
 赤面物の台詞だったせいか、せいらの表情が一瞬曇った。
 聞かない方が良かったかな、シンジがそんな事を考えたとき、
「とても…愛して下さいました」
 だが台詞の内容と表情は一致していない。
「離婚したの?」
「いえ」
「あなたは…逃げ出してしまったのです」
「はあ」
 つい間抜けに頷いた時、せいらの手が自らのドレスに伸びた。
 軽い指の動きで、すっとドレスが胸元から裂け、おおぶりな乳房がぶるっと揺れた。
「食されればきっと…思い出されますわ」
 自分の胸にのめり込んだ指が取った物は−
「人魚の肉」
 シンジが呟いた時、凄まじいまでの芳香がその嗅覚を襲った。
「八百比丘尼の食した物などとは違います。さあ、召し上がれ」
 ある尼僧の口にしたのは人魚の肉――美貌と引き替えに手に入れたのは、単調極まりないだけの永久(とわ)の命と…絶望を。
 掌に乗っているのは鴇色の乳首。
 脳髄までも灼くような香しいそれは、シンジの思考すら奪おうとしていた。
 シンジの目に一瞬拒絶の色が浮かび、それがすっと消えるのを見て、せいらは妖艶に笑った。
「さあ、食べて」
 迫ってきたのは掌だけではなく。
 形のいい乳房には−双方とも乳首が揃っていた。
「傷は…無いの?」
 わずかにかすれた声で訊ねたシンジに、せいらは嬉しそうに微笑んだ。
「心配して下さるの?でも大丈夫、どこを切り取ってもすぐに回復するわ。そう−おっぱいで背中でもお尻でも」
「それは良かった…」
 頷いたシンジだが、その顔には危険な色が強い。並の者だったら、とっくにその手から果肉を奪って口にしているはずだ。
 そして、せいらを押し倒してその体に歯を立てて−
 シンジの表情に、わずかとは欲情にも似た色があるのは当然であり、むしろせいらに手を出さず踏みとどまっているのは、驚嘆すべき事由であったろう。
「さ、召し上がれ」
 だが、せいらの甘やかな囁きに陥落したか、ついにシンジの唇が小さく開いた。
 嬉しそうな笑ったせいらが、ゆっくりと果肉をその口の中に入れていく−だが目にはどこか、邪悪な光を湛えて。
 
 
 
 
 
「姉さんがいなくなった!?」
 戻ってきたアスカの受けた報告は、姉が行方をくらましたと言うものであった。しかも、死しても離れるなと言っておいた者達は、誰一人その姿を見ていないと言う。
 みるみるその表情に憤怒が浮かんだが、ふと気づいたように訊いた。
「誰か来たの?」
 赤木刑事がと聞かされたアスカは、事情が分かったような気がした。
 リツコが帰って、しばらくしてからレイは出ていったと言う。おそらくリツコがレイに何か言ったのだろう、とそれは容易に想像が付いた。
「三角関係、か」
 ぽつりと呟いたアスカに、部下の一人が怪訝な目を向けた。
「は?今何と言われました?」
「大人って面倒だって言ったのよ。そんな事より、シンジの行方を追うのは中止よ」
「ちゅ、中止?」
 さすがにその意図がはかりかねて聞き返した部下に、
「今の姉さんは殺気の塊よ。触る物は全部滅ぼしかねないわ。さっさと姉さんの方を捜しなさい、いいわね」
 全身を鋭利な刃物と化したレイの姿が、アスカの脳裏はまざまざと浮かんできた。
 一方、これも殺気を含んで命じた当主の妹に、男達がぱっと飛び出していった。
「見つけたら、絶対に手出しするんじゃないわよ。すぐ私に連絡しなさいっ」
 後ろから飛んできた声に、男達は顔を見合わせた。
「なんか最近…妙に貫禄出てきたな」
「ああ、レイ様とは違うがな」
 
 
 走っていく男達を見ながら、
「姉さん、起きはしなかったようだけど…あのシンジがあっさり連れ去られた相手…まさかシンジ、自分から?」
 無意識に呟いてから、自分の考えを振り払うようにアスカは勢いよく首を振った。
 
 
 
 
 
 手の上に乳房を乗せて男の顔に近づける女、であればさして違和感は無かったろう。
 だがいませいらの手の上にあるのは、ぷつりとちぎられた乳首である−それも自らの物を。
 自分の乳首を千切って差し出す女−それだけでも充分猟奇的なのに、ちぎった後の乳房には早くも肉が蘇生しているのだ。
 一つ余ったから、と言う風情に見えない事もない…余りにも奇怪な情景ではあるが。
 しかもそこからは、一体何をすればこんなになるのか、そう思わせるほどに食欲を、いや欲情をかき立てるような芳香が漂ってきている。
 シンジの顔色を見れば、せいらの勝利は間違いないと思われた。
 だが。
 それがシンジの唇に触れる寸前、せいらは愕然と手を止めた。
 シンジがこう言ったのである。
「他の男達にもこうしてきたの?」
 と。
 自らのそれが通じない事を知った表情に、驚愕の色が浮かぶ。
「トカゲがしっぽを差し出すのは、それがすぐに再生すると知っているから。君が肢体を食させるのもまた同じだね」
 勝利を確信した故か、どこか欲情にも似た色を見せていたせいらの顔から、急速にその色が消えていく。
 そしてどこか哀しげに笑うと、
「その通りよ」
 と言った。
「こんなもの、幾らだって再生するわ。男達は皆…そうやって人魚に溺れて来たのよ」
 自らの乳首をぎゅっとつかみ、下水の中へ放り捨てようとするその手を、シンジがそっと抑えた。
「下水の臭いで理性が戻った」
 シンジの笑みが微妙なのは、差し出された乳房の肉片に囚われ掛けた、自分への感情があるのかも知れない。
「捨てるには勿体ないし」
 次の瞬間、せいらは愕然とシンジを見つめた−何を思ったのか、シンジは自らそれを口に入れたのである。
「だ、駄目よっ、出してっ!」
 一転して叫んだせいらに、
「食べさせたいんじゃなかったの?」
 せいらが唖然と見つめる中、シンジの唇の端からつう、と血が一筋流れ落ちた。
 顔色が変わるせいらへ、
「ごちそうさま、美味しかった」
 軽く口許を拭うと、
「僕にはこの位でちょうどいい」
 にんまりと笑う。
「あ、あなたは…」
 半ば呆然としているせいらに、今度はシンジの手が伸びた。
 顔に手を掛けると自らに引き寄せ、顔を交差させるかのように耳元へ口を近づける。
 シンジの吐息に、せいらの顔が赤くなるのを感じながら、
「さて、僕は何番目の男に似ていた?」
 シッポの生えた悪魔のような声で囁いた。
 
 
 
 
 
「邪魔」
 既にレイの足下には、十を越える屍が転がっている。
 せいらを雇った背景にやくざがいた事を突き止めたレイは、興龍会の組長を町中で襲ったのだ。
 ご苦労様でした、と見送りに出た子分がドアを閉めた途端、それがぽいと空中に放り出された。
 無論、何の気配も見せずに近づいたレイの仕業である。
 機銃掃射すら弾き返す鋼鉄のドアを、片手だけで剥ぎ取った少女。
 一瞬呆気に取られ、すぐに血相変えた子分の中へ、まるで段ボールでも振り回すようにそれを叩き付ける。
 たちまち数人が吹っ飛んだが、警察だ!と叫ぶ見物人はいない。加害者は凍夜町のうら若き姫当主であり、やられているのはやくざなのだ。
 特にこの、青嵐椋十郎率いる興龍会は幼児犯罪を始めとした、あくどいシノギでつとに知られており、加勢はおろか警察への通報すら誰一人しようとはしなかった。
 遠巻きに眺めていた見物人達が、その目を大きく見開いたのは、レイがこれも片手で青嵐を車内から引きずり出した時であった。
 彼らの目は、空中から急降下してくる黒い群を見つけたのである。
 曇天の下、危険な音を響かせて急行してくるそれは−
「吸血コウモリじゃねえか!」
「凍夜町の公認ペットだ」
「見ろ、吸いまくってやがる」
 通行人達の叫んだ通り、真っ黒な群は紛れもなく吸血コウモリ。吹っ飛んだ男達の上に、一斉に舞い降りると離れていても聞こえる程の音で、ちゅうちゅうやり始めた。
 吸われた体がみるみる干涸らびて行くのを、通行人達が呆然と見つめる中で、恐怖に駆られた組長が足をじたばたさせて叫ぶ。
「お、お前ら何をしとる!は、早くこの小娘を片づけろ。こ、このままでは…」
 だが、ウシガエルの潰れたような声を、最後まで出すことは出来なかった。レイがそのデブを、軽々と空中に持ち上げたのだ。
「うるさいデブね」
 その言葉に、通行人達の表情が凍り付く。
 レイは、凍夜町の当主はこんな凍てついた声の持ち主だったか?いつも一緒にいる少年への声は、もっと甘えた声だったぞ。
 普段は活動時間帯が違うだけに、街の住民はレイの事をあまり知らない。彼らが知っているのは、せいぜい昼にシンジと街中を歩くレイであり、そしてその時のシンジに甘える声だけである。
 血相変えて近づこうとするそれへ、
「邪魔」
 一言だけ、何の感情も感じられない声で言うと、さっと手を動かした。それを合図にするかのように、一斉に黒い塊が襲いかかる。
 次々と、一夜干し状態になっていく子分達を目の当たりにして、もはや死相さえ浮かんでいるやくざの親分に、
「あの女を、どこで手に入れたの」
 レイは死神の問いを向けた。 
 
 
 
 
 
「夫(ぼく)の事、もっと調べて来るべきだったな。人魚の肉、食した者が全て墜ちる訳じゃあない。それに食べたら、凄まじい激痛に襲われる筈じゃなかったか」
「いいえ」
 シンジから体を離すと、せいらはひっそりと笑った−都会の片隅に咲いた、一輪の花のように。
「私の肢体(からだ)は、不死の命を与える物ではないから」
「違うの?」
「はい」
 頷くと、
「人魚の肉は、本当ならあなたが言われた通り、凄まじい激痛をもたらす物。そして何よりもその容姿は喪われます。それを越えた者だけが、不老不死を得る事が出来るのです。でも私の体は…」
 アンコウ、と言う魚がいる。
 深海に棲んでおり、それを船で釣りに行くと、数百メートルも糸を下ろさなければならないのだが、その針に時折とんでもない物が掛かる事がある。
 普段なら図鑑の中でしか見られないような、日の光とは無縁の体をした深海魚だ。
 深海を住処とする彼らが、人間などに釣られる深度まで上がってくるのは、ほんの気まぐれだったろう。
 そして彼らは、針に掛かって釣られてしまうのだ。
 せいらもまた、似たような物であった。
 人の手及ばぬ深海から、陸の世界へと興味を持って上がった事、軽い火遊びの代償は大きかった。
 人魚、すなわちセイレーンが岩の上で歌を詠い、船乗り達を海に引きずり込むのは、幸福そうに死んでいく顔を楽しむ為だという。
 ただ、せいらの場合には――
 彼女が来たのは、やはりここへ海が通じる時であった。
 だが、その姿を人に変えていられるのは一昼夜のみであり、その間に戻らなければ生命の危険が生じる。
 そしてせいらは、その時を過ぎてしまった。
 少しでも幸運だったのは、一応人間に助けられた事であり、それに増して不幸だったのは、彼女を助けたのが狂科学者(マッドサイエンティスト)だった事である。
 彼女を助けたのは単に人助けのつもりだったが、彼女の正体を知った時危険な探求心に火がついた。
「それで実験を繰り返した、と」
「はい…」
 人魚伝説を知っていた男が、まず目指したのはせいらの肉を食す事であった−それも応報なしに。
 そして実験は成功した。
「最初は何ともならないのです」
 せいらは静かに笑った。
「最初?」
「一度食せば病み付きになり、一日に一度は必ず口にしないと狂い始めます」
 人外の、いや人が手を出してはならぬ領域にその男は達した。
 だが危険な虜になる事は避けられず−そしてそれが体を蝕んでいく運命もまた。
 男が喀血したのは二日後であり、そして不帰人となったのはその三日後であった。
「でもそれが一番長かったわ」
「最高記録?」
 緩く頷いて、
「他の男達は、どれも三日と保たなかったのよ」
「早いね」
 奇妙な事を呟いた後、ふと気が付いたように訊いた。
「ちょっと待って」
「はい?」
「陸(ここ)へは、何しに来たの?ここが危険だって言うのは、年食った連中に言われなかった?」
「言われたわ」
 頷いたせいらに、シンジは怪訝な顔を見せた。
「あなたを探していた、そう言ったでしょ」
 言われて思い出したシンジは、
「あれ、本当だったの?」
「あなたを…見たの」
「海の中で?」
「そんな訳ないじゃない」
 少しだけ怒ったように言うと、
「川の畔に腰を下ろして、月と話していたあなたを見たの」
 それなら心当たりがないでもないと、頷いたシンジだったが再度首を傾げた。
「何時の話?」
「去年の事よ」
 気の長い話だと、一瞬天を仰いだがすぐ気を取り直して、
「でもどうして僕が夫?」
「私たちの一族は、常に女が終生の伴侶を決めます。月光に魅入られたあなたの姿に…私が魅入られてしまったの」
 俯いたせいらを見て、
「じゃ、僕が君から逃げたというのは嘘だな」
 シンジはぶつぶつぼやいた。
「迷惑、だったでしょうね…やっぱり私なんかでは」
「それ以外の話だ」
「え?」
「舞台で君の声を訊いた時、歌に含まれた魔力に気が付いた。僕を見ていたのは分かったが、魔力に気づかれたせいかと思ったのさ。まさか花婿候補にされた、なんて思ってなかった」
「候補じゃなくて、本命よ」
「あ、開き直った」
 驚いたように言ったシンジに、
「普通の人なら違うけれど、あなたは不死人。それにその性格…やはり私の想い人には相応しいわ」
「そんな無茶な」
「私では…人外の私ではおいや?」
 こんどはせいらがすっとシンジに近づき、その時になって初めてシンジは、目の前の女がおそろしく色っぽい格好をしているのに気が付いた。
「毎日−それも幾度食べても飽きることは無いわ。これでは不足?」
 食べる、と言うのは普通はその肉を食べる事ではない−無論だが。
 だがこの場合には、文字通りの食肉を意味しているのだ。
 せいらが更に迫り、シンジの肩が壁に押しつけられた。
 
 
 
 
 
「自分から来た?嘘ね」
 せいらが自ら売り込みに来たと聞いたレイは、青嵐の首をひときわ強く締め上げた。
 みるみる紫になりながらも、
「う、嘘じゃねえ…さ、さいしょは…」
「最初は何」
 問いつめようとしたが、発声不可能な状態になっている事を知り、アスファルトにどさりと放り出した。
 激しくせき込みながら、
「ソ、ソープに回そうと思ったが…い、いい声してるから気が変わったんだ…ぐええ」
 朦朧としている意識を蹴り起こすかのように、レイの繊手の動きに一匹のコウモリがその肩に止まり、鋭い牙を突き立てたのだ。
「ほ、本当だ…う、嘘は言ってねえ」
 子分達の前にも関わらず−既に生きた子分は一人もいないが−はいつくばるヤクザから、レイはふいと視線を逸らした。
 汚怪な物を見ていると目が腐る、と思ったのか違う理由でかは分からない。
 ただし、
「泊まれる所は全て手配済…碇君を連れてあの女が逃げるとしたら…」
 呟いた所を見ると、どうやら後者だったらしい。
 と、を思ったかレイは指を軽く鳴らした。
 指に止まったコウモリに、口を付けて何やら囁く。
 当主のそれは超音波生物にも通じるのか、コウモリ達は一斉に飛び立っていった。
「お姉ちゃんっ」
 後方から聞こえる声に、レイがゆっくりと振り向く。
 血相変えて走って来るアスカに、
「何かあったの?」
 と、これはもういつもの顔で訊ねた。
「な、何がって姉さんがどっかに行っちゃうからっ!」
「大丈夫よ…まだ覚醒(おき)る気は無いから」
 一番気にしていたことを言われ、一瞬引いたアスカに、
「そんな事より、碇君の行き先分かる筈よ――もうすぐ」
「嘘!?」
 驚愕の色を見せた妹に、レイは軽く頷いてみせた。
「問題ないわ」
 
 
 
 
 
「止めておくよ」
 目の前で揺れる乳房を見ながらシンジが言った。
 せいらに取っては非常に屈辱の台詞だが、シンジの視線が僅かでもそれているのは、女としてのプライドを粉砕されずに済んだろうか。
 それでも、
「どうしても?」
 と訊いた声には、哀しげな響きがある。
「僕が惹かれたのは歌姫だからね」
「歌姫…」
 オウム返しに呟いたせいらに、
「海へはもう戻れないね?」
 確信に近い感じでシンジが訊く。
「もう…無理なのよ」
 哀しげなせいらには、諦めの色がある。
「で、何時まで保つ?」
「え?」
「科学者のおかしな薬で、一旦はその姿を保てても限界がある。何時までその姿でいられる?」
 シンジの言葉に、せいらの顔に驚きの色が浮かんだ。
 この少年がどうしてそれを?
 人間に直せば、まだ二十歳にもなってはいまい。そんなシンジが何故?
 せいらの胸の内を読んだかのように、
「異形の物が人の形を取れば、何らかの手段無しには保てない。何時来たのかは知らないけど、一日しか保たないとさっき聞いた」
「あと一日よ」
 そう言ったせいらの表情は、どこかさばさばしていた。きっぱりと振られ、逆にすっきりしたのかも知れない。
「それはもったいない」
「え?」
「君の歌は、誰もが心惹かれる物があった。例えそれが、セイレーンの物だったとしても。それに」
「それに?」
「僕をおびき寄せる為だったとしても」
 シンジの指摘に、せいらの顔がすーっと赤くなる。どうやら図星だったらしい。
「も、勿体ないってどうするつもり?」
 訊ねたせいらの、形の良い唇が小さく開いた−シンジは、腕を内側に向けて差し出したのである。
「吸っていいよ」
「え?」
「不死人の生き血は、飲んだ者に同じ運命を辿らせる」
 シンジの言葉に、せいらの顔に驚きが走る。
「ただし、夜の一族には通じないし、普通の人間が吸えば人魚の肉と同様、苦しんだ挙げ句に死ぬだけ」
 シンジの口調を見て、楽しんでいるのではないかと一瞬疑ったせいら。
「私ならどうなるの?」
「不老不死にはならない」
「え?」
「人魚の生は元から数千年ある。今の君ならその姿で天寿を全う出来るよ」
 微妙な言い回しに、せいらの表情が動く。
「変な奴の作った薬なら、体がぐじゅぐじゅに溶けて行くはずだ。そっちがいいなら止めないけど」
「…それでも構わないわ」
「いいの?」
「ここにいたって、私にはする事も目的もない。それなら滅んだ方がいいわ」
「でも、顔が溶けていくのは自尊心崩れるよ。それに胸さえ肉汁に化して行くし」
 シンジの視線は、せいらのむき出しの胸に向けられた。
 その視線を感じたのか、一つ咳払いして、
「私に…何をしろって言うの?」
「自分の歌声に人が酔いしれる−そう悪くはないと思うけど。けれど、生き方はその人の物、強制するような真似はしない」
 さんざん煽っておいてこの台詞だが、せいらは何故か怒る気にはならなかった。
「ねえ」
 シンジの目を覗き込んだ視線には、どこか悪戯っぽい物が秘められていた。
「ん?」
「あなたがどうしてもって言うなら、そうしても構わないわよ」
 真っ直ぐな視線には誘惑の色と−かすかな不安を乗せて。
 一瞬考えた後、せいらの視線を受け止めながら、
「責任は取らないよ」
 無責任に聞こえる言い方だが、せいらはにこりと笑った。
 すっとシンジの腕を取ると、唇を押しつける。
 薄暗い下水道の中で、二人の影が重なり合った。
 
 
 
 
 
「下水道?なんでそんなとこにいるの?」
 レイの出した結論に、アスカは首を捻っていた。
「あの女はセイレーンよ」
 レイの答えは短かった。
「セイレーンて、あの船乗りをたぶらかすあれ?」
 だが聞いた途端、アスカは猛烈に後悔していた。誑かす、と言う単語を聞いた途端、レイの目が壮絶な光を帯びだしたのだ。
「あの女…よくも碇君を…絶対に許さない…」
 地獄の呪詛を呟くレイに、今だけは他人でいたいと、アスカは少しばかり勝手な事を考えていた。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん。それよりなんで下水なの?」
 アスカの声に、ようやく現実世界に帰ってきたレイは、
「今が海帰りだからよ」
「海帰り?」
「街の下水が一年の内数度だけ海に繋がるのよ。あの化け物、きっと去年から碇君を狙っていたに違いないわ」
 吸血鬼って…化け物じゃないのかしら?
 ふとそんな事を思ったアスカだが、無論口にはしない。こんな時のレイには、逆らわない方が安全なのである−絶対に。
 そしてもう一つ。
 シンジがもしかして、物好きで付いて行ったんじゃ…と言うことも。
 しかも、それがどうも物事の核心を突いているような気がしたとしても。
 
                
 
 
 
(了)

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