歌姫(前編)
 
 
 
 
 
「は?デート?」
 朧月夜を楽しんでいたシンジの元に、レイから連絡があったのは夜の十一時ごろであった。今から行くと言う。
「全く無粋なんだから」
 グラスを傾けながら、ぶつぶつとぼやいたシンジ。
 とは言え、夜の一族にとっては今が昼間なのであり、こんな時間まで起きているシンジが悪い。 
 小奇麗な室内を見回すと、
「掃除機は要らないな。綾波にはこれで十分だ」
 ちっとも歓迎の素振りなど無い口調で言ったが、実はこの室内、その辺の女性の部屋よりはよほど綺麗である。
 ワインとカマンベールチーズを戻し、座布団を引っ張りだしたところでインターホンが鳴った。
 早いぞ、と呟いたシンジだったが、実はレイはシンジを空中から眺めていたのだ。朧月夜を楽しむのは、シンジ一人の特権ではなかったらしい。
 空を飛翔していたレイは、窓から天空を眺めるシンジを見つけた。
 だがすぐには下降せず、わざわざ電話で連絡した辺りはシンジへの気遣いがある。
 と言うよりは怖れたのかもしれない−月を眺めるシンジの邪魔をすることを。若き当主がもっとも願う物、それは碇シンジの微笑だと凍夜町の住人なら知らぬ者はいない。
「誰」
 知ってて訊くシンジに、
「綾波レイと言うものです」
「お土産は」
「私の笑顔」
 と言えるような性格をレイはしていない。
「あの、チケットを」
「券?まあいいや入って」
「お邪魔します」
 玄関から入ったレイは、靴を脱ぎながら左右を見た。
「いつもながらきれいね」
 ふう、とため息が洩れたのは、だだっ広い邸内を思い出しのか。
 そんなに広くない家だが、散らかっている所など見たことが無い。
「何してんの?」
 辺りを見回しているレイに、奥から声がかかった。
「今行くわ」
 部屋に入ったレイに、
「さっき宙に浮かんでいたね?」
 第一声がこれである。
 ぎくっと硬直したレイに、
「券がどうしたって?」
 その口調に安堵したのか、レイはすっと腰を下ろした。
 目が紅い、と言うのは奇妙な感じを与えるが、それ以外の点ではレイになんら変わった所はない。
 吸血鬼の乱杭歯も無いし、背中の羽根もきれいに折り畳まれているのだ。
「今週、裏町のクラブにとてもいい声の歌手が入ったんですって。碇君、良かったら一緒に行かない?」
 そう言って、レイがテーブルの上に置いたのはプラチナチケット。
「歌声を聴く為に?」
「私が言うのはおかしい?」
「いつもマイク離さないのに」
「そ、それとこれは別の話なの」
「いつ?」
「明日の夜は空いている?」
 明日は、と首を傾げたシンジ。数秒考えてからいいよと頷いた。
「では明日の晩、迎えに来るわ」
 業務連絡のような口調で言ったレイだったが、シンジが頷いた時その口許は、ほっとしたように一瞬緩んでいた。
「ところで綾波」
「なあに?」
「それだけの為にわざわざ来たの?」
「え」
「電話で呼びつけりゃいいのに」
「そんな事はしないわ」
「どうして?」
「碇君に悪いもの−折角月を眺めていたのに」
「本当にそう思ってる?」
「お、思ってるわ」
「ふうん」
 膝の上に手をちょこんと置いたレイを、シンジはじっと眺めた。
「…な、何」
「ここに来るの、今年に入ってから何回目だっけ?」
「三回目よ。本当はもっと来た…あ」
「それが本音だな」
 尋問するような口調に、レイはすっと俯いた。その顔が妖艶に上がったのは、数秒後の事である。
「想い人を呼んでくれない…碇君が冷たいからよ」
 危険な妖香を漂わせ、レイはずいと身を乗り出した。
 レイの赤瞳が危険な赤光を帯び、開いた口からは真っ白な乱杭歯が迫り出してくる。
 シンジの首筋にその牙が迫った刹那。
 ちゅっ、と音がした。
 身体を引き戻したレイの顔は、うっすらと染まっている。
「暴行罪で訴えるよ」
「ひどいわ」
 顔に手を当てて、いやいやと首を振ったレイを見てシンジは、今日が何の日なのか思い出した。
(色っぽくなるわけだ)
「番茶とようかんがあるけど、飲んでいく?」
「喜んで頂くわ」
 台所へ立っていったシンジは、なにやらがさがさやっていたがやがて戻ってきた。
「玉露しかなかった−綾波には勿体ないけど」
 それを聞いたレイは、
「煎茶で良かったのに」
 と何故か薄く微笑んだ。
 何を話していたのかは不明だが、結局レイがシンジの家を辞したのは明け方であり、その時にはようかんの包装紙が二本分からになっていた。
 
 
 
 
 
 街の中央を流れる絵瑠川。
 その川岸で奇妙なものを見たと、配下が伝えてきたのは先週の事である。
 たわわな胸と引き締まった腰−但し、下半身は別。
 女、と見るより前に獲物だと見るのは、夜の一族らしいと言えよう。夜の川辺に全裸で寝そべるなど、骨の髄まで食いつくされてもやむを得ない街なのだ。
 だがすぐに様子がおかしい事に気が付いた。女の下半身は水の中に浸かっていたのである。
 夜ともなれば、まだ幾分は冷え込んでくる。まして氷の冷たさとも変わるこの水に、自ら好んで浸かる者などまずいないのだ。
 何事かと近寄ったその目に水中の肢体が見えた−すなわち、尾鰭を持ったそれが。
 彼が伝えたのはここまでであった。
 いや、正確には残存思念が。
 世にも幸せそうな顔で息絶えているのを、他の者が見つけたのである。
 物言わぬ脳から読み出したデータは、一般的には人魚と称されるそれを確認させた時点で終わっていた。
 
  
 
 
 
 日が沈んだ直後の街を、シンジとレイは歩いていた。
 シンジに腕を絡めて歩く姿は、幸せの海に沈んでいるように見える。
 スラックスにカラーシャツのシンジに対し、レイの方は純白なドレスに身を包んでいる。
 気の入りようが随分違う二人だが、レイは気にもせず嬉々として肩を寄せている。
「ところで綾波」
「何?」
 答える声すらも、どこか弾んで聞こえるのは気のせいではあるまい。
「その服、脚が涼しくない?」
 シンジが訊いた通り、レイのドレスはぴったりとしたタイプではなく、かなり余裕を持って作られている。
 と言うよりは、あちこちにひらひらの付いたタイプなのだ。
「そんなことはないわ」
 首を振ったものの、これを見た世話役の者が必死になって止めようとしたことは、無論シンジには内緒である。
「それならいいけど…ん?」
 ふとシンジの視線が前方で止まった。その視界には長い行列が映っている。
「食べ放題の店でもできたかな」
 それを聞いたレイがくすっと笑って、
「違うわ、あそこに行くのよ」
「あれがクラブ?行列出来てるよ」
「声のせいよ−今度入った新人のね」
「…でも何時間待ち?」
「その必要はないわ、こっちよ」
 行列を見て、瞬時に帰りたくなったらしいシンジの手を取ると、レイは行列の先頭へと歩き出した。
 割り込むかのように見えた二人を見て、最初はその容姿に気を取られていた者達も、すぐに騒ぎ出した。
 その声を聞きつけて、中から黒服が飛び出してくる。
 何か言いかけるそこへ、
「碇シンジよ」
「あ?」
 その頭が深々とお辞儀したのは、次の瞬間である。いや、正確にはがくっとつんのめったのだ−後ろからの一撃で。
 風格を漂わせた男が、
「お待ちしておりました」
 と最敬礼するのに、レイは偉そうに頷いただけである。
「部下の教育が出来ていないわ」
「申し訳ありません」
 深々と頭を下げた男に、
「早くしなさい」
 命じた言葉は、シンジへ向けたのとはまるっきり違う口調になっていた。
 二人が案内されたのは、もっともステージに近い席であった。
 レイに手を取られて行くシンジは、レイのなすままに任せていたが、テーブルに付いた途端レイが何かを隠したのを見逃さなかった。
「それなに?」
「な、何でもないわっ」
 うろたえるレイだが、シンジの視界にはちゃんと映っていた−そう、ネームプレートに夫妻と言う文字があったのを。
「証拠没収」
 すっとシンジがレイを抱き寄せると、背中の手からネームプレートを取り上げた。 
「なになに…碇シンジごふ…」
 全部読めなかったのは、レイが奪還の手を伸ばしてきたからだ。
「だ、駄目っ」
 見られて恥ずかしいのか必死になって取り返そうとするレイと、ひょいひょいと手の間を移動させて、返そうとしないシンジ。
 既に周囲は満席であり、かなり目立っている。
 しかもレイの方は純白のドレスであり、人目を引くことこの上ない。黒服がすっ飛んで来るまでには、三十秒と要さなかった。
「お、お客様恐れ入りますが…」
 言いかけた男を、レイが赤い瞳で見据える。
「何の用」
「あ、いえその…」
 レイの正体に気が付いたのか、すっと顔から血の気が引いた。
「後で事情聴取だ」
 囁いてから、シンジはレイの手にプレートを返した。
 真っ赤になってそれを受け取ると、
「こ、これはその…」
「目立つから座って」
「そ、そうね」
 と腰を下ろしたものの、シンジの興味は呼称にもレイにもなかった。その目は周囲の席に注がれていたのだ。
 歌声が響く中、痴話喧嘩にも似た騒ぎを起こせば、殺意にも近い視線が飛んでくるのは道理である。
 だが、誰一人としてシンジ達に視線を向けてはいなかったのだ。
(それに殆どが泣いてる)
 シンジが内心で呟いたとおり、テーブルから聞き惚れる者達は皆−男女老若を問わず殆どが−泣いていたのである。
 歌に心打たれたのは明白であり、テーブルの上の飲み物などは全くの手つかずに等しい状態で残っている。
「碇君、どうしたの?」
 周囲を見回しているシンジに、レイが不思議そうに声をかけた。
「きれいな店内だね」
「最近改装したと聞いたわ。評判は高い所よ」
「で、あの歌人は?」
 シンジの言葉に、レイは水割りを作っていた手を止めてステージを見た。どうやら歌よりも、シンジに出す飲み物の方が気になっていたらしい。
 これはぴったりとしたブルーのナイトドレスに身を包み、マイクを使わない肉声だけで歌っている。
 澄んだ良く通る声は、百席近いテーブルが置かれた広い店内に隅々まで響き渡っているらしく、聞きづらそうにしている者は一人もいない。
「先週入ったのですって。外の行列は彼女が来てからだそうよ。名前は確か…せいらとか」
 レイの目は、ドレスですっぽりと覆われた足首に向けられている。
「きれいな人だ」
 あまり感情の無い声で言ったのだが、レイの眉がぴくりと動いた。
「…そうね」
 と言った声には棘がある。
「どうしたの?」
「どうもしないわ」
 即答が返って来たレイの顔を、シンジはじっと眺めた。
「何?」
「何でもない」
 シンジの指が伸びて、レイの頬をすっとつつく。
 その顔が赤くなるのには、殆ど時間は要らなかった。
「な、なにをするのよ」
 嬉しそうに言うレイを見て、シンジが薄く笑った。その横顔に視線を感じたのは、数秒後の事である。
(ステージ?)
 目だけを動かしてステージを見ると、歌姫の視線がこっちを向いている。何気なく顔を舞台に向けたシンジの視線と、彼女の視線が空中で出会った。
(泣かないのが気に障ったかな)
 小首を傾げたシンジだが、既にその聴覚は感じ取っていた−すなわち、歌声に秘められた魔力を。
「歌声には魔力。でもどうして惑わさない?」
 小声で呟いた声は、レイには聞こえなかったらしい。
「はい、できたわ」
 と水割りの入ったグラスをシンジの手元に滑らせた。一口傾けてから、うんと頷くのを見てレイの口許が緩む。
 だがシンジの視線は、ステージと交錯したままであった。互いに視線を向けているとは、傍目には到底分かるまい。
 大抵の者はその歌だけに魂までも奪われたように聞き惚れ、そうでない者も微妙な視線の動きまでには、気が付かなかったろう。
 長い黒髪さえも、妖しい色香を漂わせてるように軽く揺れ、濡れたような目元はそれだけで見ている者を惑わしそうだ。
 豊かな肢体など無くとも、それだけで人を容易く惑わす物を彼女は持っていた。
(それに加えてこの歌声、か)
 レイはどうしたかと見ると、その目は軽く閉じられている。はまっている訳ではないが、聞き入っているのは間違いなそうだ。
 やがて歌が終わり、せいらが立ち上がって退場していく。にも関わらず、誰も拍手もせず身動ぎ一つしない。
 ゆっくりと拍手が沸き上がり、割れんばかりの喝采に変わったのは、その姿が消えてから数十秒あまりも経ってからである。
「いい声ね…あら?」
 目を閉じて聴いていたレイが、拍手の音と共に目を開けた時、横にいたはずの想い人の姿は何処にも見えなかった。
 
 
 
 
 
「入ってもいい?」
 抜け出したシンジは、裏口から回って控え室に来ていた。屈強なガードマン、それも三人も番をしているのへ平然と訊く。
「何だお前は」
「何って言われても困るけど」
 こいつはバカか、と言う視線を互いに交わすと、
「花か贈り物があるならここに置いて行け。五秒以内に退散すれば許してやる」
 一番体格のいい男が言ったが、もう一人は早くもカウントを数え始めた。
 五、四、三、と来て二と言いかけたとき、
「いいから入ってもらって」
 中からの声に、男達は唖然とした顔を見合わせた。
 デビュー当日から凄まじい人気を呼んだ彼女には、街の実力者達が次々訪れたが、彼女は誰一人会おうとはしなかったのだ。
 それがこんな若造に、しかも顔も見ないで会うという。
「し、しかし…」
 扉越しに反論を試みた男に、
「構いません」
 返ってきた声は、一切の異論を許さない物を含んでいた。
「わ、分かりました」
 不承不承ながら頷くと、シンジに向かって行け、と顎をしゃくった。
「じゃ遠慮なく」
 入ろうした所へ男の一人が足を出した。無論嫌がらせである。
「あっ」
 躓いたかに見えたシンジが、男の足を踏むような格好になった。何も言わずに入って行った背中を、野卑な笑い声が追いかける。
 だがこの男、家に帰る途中足に激痛が走り、家に着くなり倒れ込んだ。運ばれた病院先で検査の結果、回復不可能なほどに砕けていたという。
「お邪魔します」 
 中に入った途端シンジは、息が出来なくなった−ただし、ガスやその他の悪臭にはあらず。
 重量感のある胸が、その顔に押しつけられたのである。
「ずっと、ずっとお探ししていました…」
 抗う間も、いや押しのける間もあらばこそ、シンジの意識は急激に遠のいていった。
 
 
 
「碇君遅い…」
 勝手にトイレに行くようなシンジではないし、既に三十分余りが経過している。あまりにも帰りの遅いシンジに、レイは周囲を探し回っていた。
 席の方は通しで取ってあるから、ずっと座っていても問題はない。とは言え、シンジがいなければ何の意味もないのだ。
 さっきは中途だったから、今度は最初から見られると思っていたのだが、一向に戻ってくる気配がない。
 だが、この時実はショーの始まり自体も遅れていたのだが、シンジの事で意識が占められていたレイは、それに気が付く余裕は無かった。
 ふと裏手に回ったレイが、叫ぶような声に気づいた。男達が殺気立ってうろうろしており、ただ事ではない。
「どうしたの?」
 騒動を感じてレイが訊いたのは、さっき二人を出迎えた支配人であった。
 レイに訊かれて困ったように、、
「それが…歌手がいなくなってしまいまして」
「歌手って、あのせいらさんが?」
「ええ、しかも窓ガラスが割られてるんですが、どうもおかしな感じなんですよ」
「おかしい?」
「それがですよ」
 声をひそめてレイの耳に口を近づけると、
「中から割られとるんです」
「中?じゃ、彼女が逃げたの?」
「声が大きいですよっ」
 慌ててレイを制すると、
「ガラスのあの穴は、大きな荷物でも担いだ感じなんですがね、せいらはそんなもん持っていなかったんですよ。それと、これは内緒なんですがね」
「え?」
「若い男が一人、楽屋へ入っていったらしいんです」
「若い男?」
「ええ、妙にきれいな顔したやつで、なんかいきなり入ってもいいかって来て、しかもせいらがすんなり通したらしいで…レ、レイさん?」
 みるみる顔色の変わったレイに、屈強な男が後ずさりした。
 だが遅い。
「あの女碇君を…」
 蒼白な顔で呟いた瞬間にはもう、握れば折れそうな細い手が、男の襟を掴んで軽々と持ち上げていた。
「必ず探しなさい、お前達の命に代えても」
 夜の一族、その全てから絶大な信頼を得ていると言われる当主綾波レイ。全てに置いて勝っていると言われるレイは、余人の前で感情を出すことなど無いとされていた。
 それだけに、初めて見せるその激情ぶりには、いやそれよりも魂すら畏怖させるその恐怖に突き動かされて、支配人はただただ頷いた。
 その日から、シンジの捜索は悽愴とも言える程の物となった。凍夜町の住人全てが動員され、夜を徹しての捜索を開始したのだ。
 女歌手一人ならともかく、一緒に消えたのがシンジである。レイに取ってシンジの存在が何を意味するか、知らぬ者はいないだけに皆が皆殺気立っていた。
 シンジを拉致しても、脱走するには組織の力が必要に違いないと、まず最初にガサ入れが入ったのが組事務所であった。
 だが例え相手が吸血鬼と知っても、突如ドアを吹っ飛ばされれば面子もあるし、はいそうですかとは行かない。
 命よりプライドを取ったヤクザ達。その結果数時間で、四つの組が壊滅する事となった。
 特に眠りから覚めたばかりのアスカは壮絶であった。軽機関銃の弾を全身に浴びながら、嬉々として殺戮の限りを尽くしたのである。
 無論レイとて例外ではなく、当主自ら殺気立っているおかげでその夜は凍夜町の歴史に新たな一項を加える事となった−血で染まった夜の伝説を。
 酸鼻にも近い状況を招いたのは、一つには彼らの活動限界もある。一番鶏の鳴く頃、それか彼らの活動停止を意味している。従って、その前に何としてもけりを付けたかったのだ。
 だが彼らの懸命の捜索にも関わらず、シンジはとうとう見つからなかった。捜索を一旦打ち切ったのは、仲間達の活動不可も無論あったのだが、何よりもアスカの決断であった。
 一晩で見るも無惨に憔悴したレイを、見るに耐えかねたのである。
 目の下は腫れて髑髏のように窪んでおり、見る者に羨望の念さえ抱かせた蒼髪は−完全な黒髪へと変わっていたのである。
 普通一晩で白髪になる事はあるが、蒼が黒に変わる例はない。
 とは言えこれは完全な天然であり、精神の衰弱が招いた結果なのは明らかであった。
「碇君…ごめんなさい…ごめんなさい…」
 繰り返しながら、夢遊病者のように出ていこうとするレイを必死に個室に押し込め、屈強なガードマンを二十人配置した−レイがその気になれば無駄と知りつつ。
「殺すために攫った訳じゃないわ」
 言い切るアスカに、配下の一人が訊いた。
「なぜそう思われます?」
「女の勘よ」
「お、女の?」
「そう、女の勘。第一シンジを殺せるかなんて見れば分かるでしょう。そんなことよりいい?」
「は?」
「とにかく居場所だけでも突き止めるのよ、何としても。そう…姉さんが目覚める前にね」
 レイはただ眠っているだけである。にも関わらず、目覚める前にと言ったアスカの声には明らかな恐怖が漲っていた。
 既に日は高く、動ける者達も殆どいない。
 だがアスカの精神(こころ)が伝わったのか、可能な者達は一斉に散っていった。
 本来なら高い位置から見下ろしている太陽だが、今日はどんよりとした曇り空であったことも幸いしたろう。
 音もなく出ていく彼らを見ながら、
「シンジ、お願いだから帰ってきて…姉さんが覚醒する前に」
 終局的な台詞を呟くと、両手を胸の前でぎゅっと組み合わせた。
 
 
 
 
 
「ここどこ?」
 うっすらと目を開けたシンジが、ゆっくりと起き上がる。
「お目覚め?あなた」
 その声に、シンジの顔が音源を向いた。
「僕は攫われたの?」
 いいえ、と女が首を振る。
「お帰りなさい」
 三つ指突いた声に、シンジの眉がわずかに寄った。
 
 
 
 
 
(了)

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