夜間飛行
 
 
 
 
 
 月明かりの下を、一人の少年が歩いていた。
 久しぶりに夜空は晴れ、月がその清楚な美貌にひっそりと笑みを浮かべている。
 折しも桜は満開に咲き誇り、街中にその艶香を振りまいている最中だ。
 そしてそれは同時にある物も意味する−花見に名を借りた酔っぱらい達の宴であり、同時に桜の枝が次々とへし折られるイベントでもある。
 そしてその証拠が目の前に−
 千鳥足になった中年男性が、桜の枝を片手にひょろひょろと歩いているのだ。
 調子っ外れのだみ声は、旧大日本帝国の軍歌だろうか。
 ふらふらと右に左にぶつかりかける度に、枝からは桜の葉がはらはらと散る。
 しかも枝の根本を見る限りでは、折り取られたばかりに見える。
 そして決して小さな枝ではないのだ。
「困ったものだ」
 青ずくめの少年は、ぽつりと呟いた。
 桜は本来見る物であり手折る物ではない−無論のことだが。
 そして振り回して花を散らす物でもないのだ。
 酔っぱらいが枝をぶつけること、五回を数えた時少年の手が動いた。
 何かが酔っぱらいの足下に、投擲されたかに見えた次の瞬間、漫画にでも出てきそうな動きで男が転んだ。
 例えるならそう−バナナの皮に乗っかったような感じか。
 ごちん、と音を立てて後頭部が地面とキスする寸前、枝はその手を離れて宙に舞う。
 勢いよく上がった枝は、ゆっくりと飛行して少年の手の中に落ちた。
「ないす」
 自賛した少年の、青いジャケットの胸元に花びらが一枚、そっとくっついた。
 花がお礼を言ったかのように。
 いや、もしかしたら少年には聞こえたのかも知れない−ありがとう、と。
 何故なら少年は枝を見て、一瞬微笑んだ−ように見えたからだ。
 桜の枝を、大切そうに抱えたまま少年は再度歩き出した。
 枝を救ったせいでもあるまいが、その足取りは僅かながら軽くなっているように見えるのは…気のせいか。
 と、数メートル歩いたときその口が何かを呟いた。
 独り言?
 いや違う。
 それは歌詞であった。少年はゆっくりと歌を口ずさみ始めたのだ。
 
 
Fly me to the moon
 
And let me play among the stars
  
Let me see what Spring is like…
 
 
 男性のようにも、そして女性のようにも聞こえる不思議な声が歌を紡ぐ。 
 そしてそこまで口ずさんだ時−頭上から羽ばたきの音が聞こえた。
「こんばんは」
 頭上から少女の声が降ってきた。
「こんばんは」
 少年は上を見ないで返した。
 
 
 
ON Jupiter and Mars
 
 
 少女の存在を忘れたように、再度少年は歌い始めた。
 
          
In other words、hold my hand
 
 
In other words、darling kiss me
 
 
 
 途中から頭上の声が加わったが、
「darling kiss me」
の所だけ、少し少女が強めに歌ったように聞こえたのは、聞き間違いだろうか。
「“私を月に連れて行って”、あなたはそう言ったわ」
 それを聞いた時、少年の歌が止まった。
「そうだったかな」
 歌って置いて首を傾げている。
「ええ、そうだったわ」
 力強く断言してから数秒後、
「私とでよければ、夜間飛行に行かない?」
 少しだけ羞恥を含んだ声で、少女は少年を誘った。
「こんな日は」
 と少年は言った。
「浮かれたくなるのは、酔っぱらい共だけじゃないみたいだね」
 それを肯定と取ったのか、羽ばたきがゆっくりと降りてきた。
 少年の前に立ったのは、蒼髪の美少女であった。
 見た目は普通と変わらない−髪が蒼い事と、目が紅い事を別にすれば。
 そしてもう一つ。
 背中から、巨大な翼をはやしている事を別にすれば。
「ご機嫌ね、碇君。いい事でもあったかしら?」
「桜の枝が酔っぱらいに虐められていた」
「その抱いている枝がそれ?」
「戻せるかい?綾波」
 綾波と呼ばれた少女は、数秒立ってから頷いた。
「私たち、夜の一族の倣いに従うなら」
「それは良かった」
「ただし」
 水を差したその顔は、僅かに赤らんで見える。
「礼もまた、夜の一族の物に倣って」
「いいよ」
 あっさり頷いた少年に、
「では」
 と言った。
 少年に近づくと、両腕で少年をそっと抱く。
 大切な物を抱きしめるように腕の中にしまい込むと、軽く地を蹴った。
 次の瞬間、しまわれていた羽が大きく開き、少女は空へと上がっていった。
 
 
 
 
 熱い思いのこもる腕に抱かれ、宙に飛翔する間シンジの眼は、下の風景に向けられていた。
 月の女神の微笑みを、存分に受けるその横顔は白く輝いて見える。
 航空写真の光景が、段々と真下に広がっていく。とは言え既に深更であり、昼間の街の顔は見えない。
 だが夜の闇は、街の汚れた顔は映さない。
 火を怖れ、火を使い、闇を削って生きてきた人間達の、作り出した夜の顔だけがうっすらと浮かび上がる。
 街の中心街、そして数百本の街灯に照らされた中央公園。
 いずれも人工の光が描く偽りの灯りであり、どこにでもある風景である。
 だが。
 一つだけ珍しい、いや異様とも言える場所がある−川だ。
 街の中央を流れる川は、まるでルミノール反応のように、青白く光っているのだ。
 昼間は普通の川である、別に何の変哲もない。
 そして夜も。
 だがこれはある意味正解であり、ある意味では間違いだ。
 街の中央を流れる絵瑠川は月の夜、それも満月の夜にだけ変貌を見せる。
 その水面(みなも)は、それも街の中を流れる部分だけが青白く光るのだ。
 街を一歩でも出ればそこは、普通によどんだ色であり、その辺の河川と何ら変わる
所は無い。
 そして奇妙なことに、その部位は地図上の区切りとは少しずれているのだ。
 もしかしたら川自体が、街の境を定めているのかも知れない−愚かな人間達を嗤うかのように。
 そして一番の奇怪な事は、人の目で見るならば川の色の変化は確認できるにも関わらず、写真には決して撮れないことだ。
 如何なる技術の粋を尽くしても、如何なる最新鋭の機器を投入しても、そこは常に無粋な機械に自らを投影される事を拒絶しているのである。
 そして今夜は満月であった。
「今日は一段ときれい」
「そうだね、レイ」
 ぽつりと呟いたレイに、これまた同様にシンジが返した。
 端から見れば、冷え切ったカップルに見えるかも知れないが、当人達にとっては十分な会話なのかも知れない。
 その証拠に、二人の間には距離が殆ど感じられないのだ。
 それにしてもそこだけ光っている川は、どうみても異様である。
 川底の石が光るのか?
 答えは否、である。川底の石は他の区間の石と、何ら変わらないと言う明確な結論が出ているのだ。
 では水中の微生物がそうさせるのか?
 これも否である。満月の夜に限った発光体など確認されていないし、何よりもそれでは、他の区間が全く光らない理由の説明が付かない。
 シンジは川を見つめていたが、ふとその表情が動いた。
「ん?」
 レイの紅眼も、それにつれて動いた。二人の瞳は、ある光景を捉えていたのだ。
「行くの?」
 レイが訊いたが、既に答えを知っている訊ね方であった。
「どうしようかな」
 わざとらしい呟きに、レイがくすりと微笑った。高山にひっそりと咲く花のような笑い方であった。
「何故笑う?」
 少しだけぶっきらぼうに訊ねたシンジの顔を、レイは黙ってぎゅっと抱きしめた。
「そんなところも好き。だから好き」
 シンジはそれには答えず降下を告げた。
 頷いて降りていくレイの表情に、残念さは微塵もなかった。
 
 
 
 
 
「erst!」
 一匹目、とどこかご機嫌な声が上がった時、巨躯の男が一人吹っ飛んだ所であった。
 それ自体は、さしたる光景ではないかも知れない−声の主を別にすれば。
 ぶん、と軽く手を振ったのは紛れもない少女であった。
 年の頃は七、八歳くらいだろうか、明らかにシンジより年下である。
 西欧系の顔立ちに見えるが、どこか日本人も混ざっているように見える。
 まだ若年ながら、末恐ろしいとさえ言えるほどの美貌の持ち主であった。
 ハスキーな声が、
「木偶の坊が」
 と、顔にも声の質にも合わぬような科白を吐いた瞬間、別の影が襲いかかる。
 凄まじい殺意をこめて薙がれた青龍刀を、少女は軽やかにかわした。
 そして刃が流れざまに、その手首を掴んでぐいと捻ったのである。
 ごきり、という音がした。どうやら外れたか折れたかしたらしい。
 だが少女は手を緩めなかった。奇妙な方向に折れ曲がった手首に、手刀をたたき込んだのだ。
 次の瞬間、信じられないような光景が出現した。
 男の手首は、あっさりと断たれていたのだ。
 武器など何も持たぬたおやかな少女の手刀の一撃で、大男の手首が断たれるとは。
 のたうち回る男に近づき顔に足をかけ、そして−ぐしゃりと踏みつぶした。
「あーあ、汚れちゃった」
 ローヒールに付着した液体を見て、さも嫌そうにぼやくと、
「後一人ね」
 歌うように言ったその先には、一人の女がいた。
 少女の目は、その手に握られている杭に注がれている。
「やはり男では当てにならぬか」
 女がどこか吐き捨てるように呟いた。
 苦々しげなそれを聞いた時、少女は嘲笑った。
「なんにも出来ずに見物した挙げ句、男のせいにするの?“人間の女”ってほんっと勝手な生き物よね」
 一瞬女の目が吊り上がったが、かろうじてそれを抑え込むと、
「翼も操れぬ出来損ない−夜の一族になど言われたくはないわ」
 今度は女が嗤った。
 その胸を何かが貫き、そしてそれが銀色の長剣だと気付くまでには、秒と掛からなかった。
 口から鮮血を流しながら、ゆっくりと女は振り向いた。
 そして空中に浮かんでいるカップルを見た時、その口は僅かに歪んだ。
「後ろからとは…さすがは夜の生き物、卑怯を…」
 その言葉が終わらない内に、空中から投擲された小刀が、目にも止まらぬ早さで女の胸に突き刺さった。
「さっきのは僕。それと僕は夜の一族じゃないぞ」
 空中から降ってきた声を聞く前に、女は前のめりに倒れた。
「そして今のは私」
 という声も−無論。
 ゆっくりと降り立った二人を、少女は憮然とした表情で出迎えた。
「もー、余計なことするんだから」
 だがその口調には、何処か甘えのような物がある。
「アスカが負けるなんて思ってないよ」
 とシンジが言った時、少女の口元は少し緩んだ。
「じゃ、どうして邪魔したの?」
 名残惜しそうに離した、レイの腕の中から一歩前に出たシンジに、アスカが訊ねた。
「どうしてかな」
 不思議そうに言った時、レイがうっすらと笑った。
「もう、ちゃんと答えてよ」
「訊きたい?」
「うんっ」
 ぶんぶんと頷いた顔には、甘えが溢れている。
 シンジがアスカの耳に口を近づけると、一瞬アスカはくすぐったそうに身を捩った。
 ごにょごにょと囁かれると、嬉しそうにアスカは笑った。
「それよりも」
「え?」
 シンジは上着を脱ぐと、アスカの肩に掛けてやった。
「あ、ありがとう…」
 礼を言った顔はうっすらと染まっている。
「ううん、僕のため」
 とシンジは言った。
「え?」
 と少し蒼い瞳が見開かれた。
「君の胸を見ていたら」
 シンジはどこか危険な響きの声で言った。
「僕がおかしくなりそうだし」
 そして一瞬だけアスカの胸に目を向ける。そこには身体に合わぬような、大ぶりな乳房が片方その全貌を見せていたのだ。
「あら?もしかして感じるの?」
 アスカは妖しく笑うと、露出していた乳房を両手で持ち上げて見せた。
「アスカ」
 少し冷たい声でレイが呼んだ。
「はーい」
 幾分残念そうではあったが、アスカはあっさりとシンジに上着のボタンを留めた。
 どうやらレイの命は絶対らしい。
 着衣を直したアスカはシンジを見ると、
「これ、大事にするね。じゃあね、お姉ちゃん」
 ひらひらと手を振った次の瞬間、その姿はかき消すように消えた。
 それを見ていたシンジの後ろで、
「でれでれしてた」
 ぽつりと声が呟く。
「気のせいだね」
「いいえ」
「気のせいだよ」
「いいえ」
 不毛な論争に終止符を打つように、シンジは転がっている死体に目を向けた。
「男の方は杭を手にしていない」
 実験結果を吟味するような口調でシンジが言った。
「あの子のおっぱいに惑わされたのよ−誰かと一緒で」
 声に少し棘がある。
「宿乳(しゅくにゅう)があれば、男相手なら無敵だな……」
 最後にぼそりと言った声は、レイの耳にはちゃんと聞こえていたらしい。
 シンジにそっと近づいて腕を絡めると、 
「本当に?」
 と囁いたのだ。
 シンジは黙って頷いた。
 それを聞いたレイは嬉しそうに、絡めた腕にぎゅっと力を入れた。
 柔らかな感触が、シンジの上腕に当たって潰れる。
「胸の形崩れるぞ」
 よく分からない声で言うと、シンジはすっと腕の中から抜け出して時計を見た。
「もう帰るの?」
 少し残念そうに訊いたレイに、
「丑三つ時だからね、もうすぐ。じゃあこれ頼んだよ」
 と、レイに桜の枝を手渡した。
 レイの反応も待たず、くるりときびすを返した後ろ姿を、レイは黙然と見送った。
 そして数メートル進んだ時、その足が止まった。
「何故止めないの?」
「私には、碇君は止められないもの」
 ぷいっと拗ねているのが、シンジには手に取るように見えた。
「おいで、綾波」
 月光のような声が告げた時、レイの表情が変わった−清楚から妖艶へと。
 一瞬閉じられた瞳が開いた時、その赤光は妖しさを加え、押さえ切れぬように口を拭った後、その口元からは乱杭歯がのぞいていた。
「今行くわ…碇君」
 嬉しそうに告げた声はしっとりと濡れていた−紅い瞳と同じように。
 レイはシンジに近づいた。まるで追いつめた獲物に最後の一撃を加えようとするかのごとく。
「いいのね?」
 訊ねた声からは、押さえきれない欲情が溢れていた。
「礼はすると言ったよ」
 その言葉が終わらない内に、レイの手が伸びてシルクのシャツの襟元を裂いた。
 ボタンが二つ弾け飛び、中からは真っ白な肌が現れる。
 にたあ、と舌なめずりしたレイを見て、
「はやくしてね」
 何処かの宇宙人のような声で言った。
「いただくわ」
 上擦った声で告げるとレイはシンジを抱き寄せ、ゆっくりと口を寄せていった。
 二本の牙が白い肌に突き立てられた時、ほんの少しだけシンジは顔を歪めた。
 みるみるレイの顔が恍惚に染まっていく。
 だが奇妙なことに、レイの喉は一度も嚥下してはいない。
 そう、レイは口腔に鮮血を溜めているのだ−飲み干しては勿体ないとでもいうかのように。
 そして漸くシンジからレイが離れた。
 口元から鮮血がつう、と流れているにも関わらず、口を大きく膨らませた姿はどこかユーモラスでさえある。
 妖艶と滑稽さがコントラストをなしているような、レイの顔を見てシンジはふっと笑った。その顔には、吸われた事など忘れたような節さえある。
 口の中で、シンジの血を転がしている味わっているらしいレイの脇腹を、シンジはちょんとつつこうとした。
 慌ててレイが口腔の液を嚥下する。
 ごくり、と派手な音を立てて飲み干すと、
「ご馳走様」
 と微笑った−心の底から嬉しそうに。
「おいしかった?」
 シンジが何となく他人事のように訊いた。
「ええ、とても」
 口の周りを朱に染めてレイは頷いた。
 異様な、いや凄惨な光景の筈なのにそれが全く感じられないのは、レイの持つ性格故だろうか。
「次はいつ…してくれる?」
 上目遣いに訊ねると、レイは口元をぐいと拭った。無論紅い舌で拭った血を舐め取るのは忘れない。
「そのうちね」
 無機質な声で訊ねると、シンジは再度身を翻した。
「あ、待って」
「何?」
 シンジの足は止まらない。
「お家まで送るわ…最上のごちそうのお礼に」
「別にいいよ」
 それを聞いた時、一瞬レイの表情が哀しげな物に変わった。
「お、怒ったの」
「そう言う訳じゃないけど…あ」
 最後の漏らした声は、後ろからふわりと抱きしめられた事による物だ。
「過ぎたみたい。ごめんなさい」
「どうしてあやまる?」
「だって碇君が…んむ…」
 言葉が途中でとぎれたのは、シンジが不意に振り向いて唇を合わせて来たせいだ。
 数秒間唇を合わせた後、シンジはすっと離して、
「ほら、怒ってないよ」
 と笑った。
「もう、だましたのね」
 咎める筈の口調は、限りなく甘い。
「じゃ、お願いしようか?」
「ええ」
 シンジの気に障っていない事を知り、一転して喜色を浮かべた表情になると、シンジを抱きしめたまま再度空中へと上がっていった。
 
 
 数時間後、棺の中で眠りに就いた若き当主は、本当に幸せそうな寝顔をしていたという。
 そしてその少し前、夜の散策から戻ってシャワーを浴びようと、とある少年が服を脱いだ時、その胸本には何ら傷痕は残っていなかったという。
 
 
 
 
 
 吸血鬼に吸われた者は、すべて皆同じ命運を辿る。
 それに例外はない−たった一人を除いて。
 持って生まれた体質故か、或いは受け継がれたの血のなせる技か、吸血鬼に自らの血を幾度与えようと、けっして仲魔になる事はなく、その傷痕も数十分で消える。
 だから彼はこう呼ばれる。
 すなわち「不死人(アンデッド)と−。
 
  
 
 
 
(了)

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