突発企画「奴らが戦国にやって来た」
 
第四話:拒食症−卯璃屋得留之助の暗躍
 
 
 
 
 
「なんだと?」
 娘達が帰ってきた、それもすんなりと聞いてほっとしていた霧島屋だが、そうは問屋が卸さなかった。
 アスカ、真名、揃って拒食症になったというのである−それも深刻な。
 この数日、水しか口にしていないと聞いて、その顔がみるみる蒼白になっていった。
「原因は…あれか」
「何とも申し上げられませんが…ただ碇家の殿の名前を、お二人ともうわごとのように呼んでおられます」
 町医者赤庵の言葉に、その眉がみるみる寄っていったが、
「…やむを得ぬ」
「はい?」
 さては娘を優先する気になったかと思ったが、
「例えどうあろうと、娘を戦場に送るわけには行かぬ。よいか、なんとしても滋養を取らせるのだ。そうだ、金はいくらかかっても構わぬ」
「……承知致しました」
 俯いていた事を、彼は心から天に感謝した。
 そう、唾棄の表情を見られずに済んだから。
 碇家に、国人衆を始め優秀な人材が集まりだしているのを知っている彼にとって、文左衛門の台詞は父の資格を剥奪されるに十分な物だったのである。
「し、晋二…会いたいよう…」「碇君…ぐすっ」
 拭いても消えぬ涙の痕、そしてげっそりとこけた頬。
 彼が呼ばれた時、既に二人は衰弱の傾向が明らかであった。
 拒食症、単にそう告げたものの、南蛮渡来の秘薬を無理に飲ませていなければ、今頃は三途の川のほとりに立っていた事は、ほぼ間違いなかったのだ。
 憔悴しきった二人の顔を脳裏に浮かべ、彼は宙を見上げた。
「…卯璃屋殿にお願いしてみるか」
 ぽつりと呟いたのは、医者としてと言うよりも人間として、何かに動かされたものであった。
 
 
 
 
 
 がしかし。
 寝込んでいるのは一人では無かったのだ。
「晋二が私を…私を嫌いになってしまった…」
 碇家の一人娘麗もまた、晋二の不興を買った事を知り、床に就いていた。
 しかも、こっちは発熱のおまけ付き。
 倒れ込んだと思ったら、意識が戻った時にはもう発熱していたのだ。
 それも高熱であり、元から細い身体が手で掴めるかと試したくなるほど痩せている。
「一体どうしたら…」
 頭を抱えているのは無論唯だが、何せ薬がない。
 熱冷ましはあるのだが本当に効く薬−晋二の来訪がないのだ。
 無論姉が倒れたのは知っている。
 だが、姉と母の所行が許せないらしく、顔どころか足すらもこの奥に向けた気配がない。打ち合わせが色々と忙しいらしいのだが、それにしたって来るぐらい、とは思う。
 と言っても、本人が来ない以上どうしようもない。
 万策尽きた唯の脳裏に、ある人名が浮かんだ。
「卯璃屋殿を引っ張り出すしか…なさそうね」
 妙に偉そうだが、ふと思い出したように呟いた。
 
 
 
 
 
 卯璃屋得留之助。
 堺衆の一人だが、かなり南蛮に染まっており、その髪は後ろで緩く束ねられている。
 無論、地方では奇妙すぎる格好だが、南蛮人も多く、アスカのような少女も受け入れられるこの街においてはさほど目立つこともない。
 尾張にある織田家、そこの当主である織田信秀が以前、この街を訪れた事があるのだが、その時卯璃屋得留之助に会い、
「儂のせがれとそっくりですな」
 と言った事がある。
 織田信長、幼名を吉法師と言った尾張の風雲児である。
 出自は不明だが、妙に人脈が広く、朝廷から地方まで、どうしてこんなと思われる程知り合いが多い。
 なお、碇源道出奔の原因を唯一知る人物でもある。
 大抵屋敷におり、そこから色々と指示を出しているのだが、今日もその元に一人の若者が訪れていた。
 その名を渚馨と言う。
「で、碇家に仕官したいと言われるのですな」
「晋二君が、僕のことを覚えていてくれるといいんだけど…」
「と言っても、もう十年も前でしょう、覚えていても曖昧ですよ」
「そ、そうかな…」
 晋二の幼い頃の友人だと言う彼は、蒼い髪と紅い瞳が災いして、遠く因幡但馬の国へと売り飛ばされたのだ。
 しかも、山名祐豊に危険な視線で召し出されそうになったので、里親が死んだのを気に出奔してきたと言った。
「ま、手がない事もないですな。ただ行くよりも、土産のあった方がいいでしょう」
「土産?」
「近々、この国は戦場と化します。その時に…」
 と、馨の耳に何やら囁いた。
「これなら、晋二殿も貴方の帰参に異論は無いでしょう。何よりも、家中から異論は出ますまい、如何かな?」
「晋二君の為…いいよ、必ずやってみせる」
「よろしい。では、ひとまず準備に掛かられよ」
 出て行く馨を見ながら、
「男も女も問わず…老若男女だな、晋二殿は」
 おかしな事を呟いたそこへ、
「あの、お客様が来られました」
「どなた?」
「それが、碇唯様で…」
「碇のおばさんが?」
 一瞬表情が固まったが、すぐ元に戻して、
「お通しして」
 と告げた。
「失礼致します」
 楚々と入って来た唯だが、顔を上げる前からかなり痩せたのを得留之助は知った。
「弟想いの姉の事ですか?」
 第一声から、幾分皮肉混じりに訊いたのだが、
「お願いです、娘を…麗を助けてください」
 いきなり頭を下げた唯に、ふっと息を吐き出した。
 
 
 
 
 
「さてどっちがいいか…」
 今日もまた、晋二は絵図面の前であった。
 今その前には、この摂津河内の国の勢力図が描かれている。
 すなわち、石山御坊には本願寺顕如が、飯盛山城には三好長慶がそれぞれ勢力を張っている。
 ここ高屋城など、比すれば微々たる物だが、まずはここを統一しなければ天下など夢のまた夢である。
 三好家を倒す場合、願泉寺と本願寺家は味方になる。
 加えて国人衆も味方になるから、ほぼ間違いなく勝てる。
 だが問題はその後だ。
 二城を拠点にしても、いやそれ以前に本願寺が城を落としてしまえば、城は本願寺の物になる。
 最悪そうなってしまえば、勢力を増した坊主の大群と対峙する事になり、かなりきつくなる。
 ただでさえ、紀伊の手取城が鈴木佐田夫に狙われているのを、遊佐信教を行かせて何とか抑えているのに、ここで本願寺に破れでもしたら、間違いなく危地に追い込まれるだろう。
 では、先に本願寺を相手にしたら?
 坊主の大群を相手にするのは変わらないが、石山を三好家に任せればかなり疲弊する筈で、ここはほぼ間違いなく碇家の物になる。
「安見殿はどう思います?」
 さっきから、何やら計算している家臣、安見直正に視線を向けて訊いた。
 若造が、とはなから侮っていた連中だが、晋二がそれを知りながら知行を上げた事、彼らに色々と聞くようにした事で、だいぶ協力的になって来た。
「これですな」
「これ?」
 ひょいと差し出した紙には色々と数字が書かれているが、余所の家で家臣がこんな事をしたら、即座に手打ちオーケーである。
 その事を知っているのかどうか。
「一枚目が対本願寺を優先した時の損害、二枚目が三好相手に戦端を開いた場合の物でござる」
 言われて見ると、一枚目の方が損害予想は大きい。
「確かに、対本願寺相手は痛手もありそうですが、坊主を片づけねば始まりません。山城の比叡山延暦寺、大和の興福寺、彼らを相手にしなくてはならないのに、こんな所で日蓮かぶれの坊主に構っている暇はありませんぞ」
「う、うん…でも…」
「何でござる?」
「お坊さん達相手なら、大砲が絶対不可欠だよね。で、誰が撃つの?」
「は、それは…」
 槍隊、と言うのは誰でも操れる。
 だが、それ以外は適性がないと使えないのだ。
 そして…大砲の適性を持つのはアスカと真名だけであった。
 
 
 
 
 
「何で私が?ご亭主の脱走以来、イロイロといぢめられてきたのに」
 得留之助の言う通り、半ば強制的に箝口令を敷かれて以来、いつも見張られてきた。
 もっとも、卯璃屋得留之助の財力なら、碇家を潰す事すら容易いことであり、或いは何かの理由があったのかもしれない。
 例えば−そう、声とか。
 とまれ、変わった商人の趣味はともかく、得留之助はとっくに晋二を巡る娘達の事は耳にしていた。
 無論アスカと真名も、そして麗の事も。
「手がないことも無いですが、繰り返しですよ。あなたがおかしな事を考え、あなたの娘が弟から卒業出来るまでは。条件付きなら受けても構いませんが」
「条件?」
「あなたと娘が、軍部から手を引くことです。女の幸せは家庭に、晋二殿もそう言ったでしょう。霧島屋の二人が、拒食症になった事はご存じですな?」
「え、ええ…」
「晋二殿の性格を考えれば、あの二人を晋二殿から、引き離すべきではなかったですな−決して」
 俯いた唯から視線を逸らし、
「晋二殿は、次の戦略を決められました。ただし−大砲の使い手がいません」
「た、大砲の使い手…?」
「そう、アスカ殿かあるいは真名殿か。困ったものですな」
「……」
「手は私が打ちます。その代わり、あなた達二人は前線から下がってください、よろしいですな」
 尻尾のような長髪を揺らしながら、妙に脅迫めいた得留之助の口調に、唯は頷くしかできなかった。
 
 
 
 
 
「霧島屋への完全経済封鎖ですと?」
 さすがに驚いた顔の今井宗久に、得留之助はあっさりと頷いた。
「子供の病を知りながら、店を優先するようではもはや父親などとは呼べますまい。宗久殿、あなたの娘御がそうなったら、あなたも同じ事をされますか?」
「そんな事は決して…ですがまずは話し合いを…」
「無駄です」
 得留之助は首を振り、
「それだからこそ商人、なのですよ。何があろうとも、店を優先する事が出来るからこそ、ね」
「……」
 確かにその通りだと思う。
 商人と言うのは、例え万事と引き替えにしても店は守るものなのだから。
「…分かり申した。そこまで言われるのならやむを得ませんな。とは言え、卯璃屋殿がそこまで入れ込まれるとは、随分と珍しい事ですな」
「何事も天下のため、ですよ。そう、天下の為です」
 ちょっと怪しい、とは思ったが、取りあえずツッコミは入れずに置いた。
 
 
 そして一週間後。
「…お迎えに来ました」
 半ば白蝋と化しかけていた、アスカと真名の部屋を一人の若者が訪れた。
「し、晋二…?」「碇、君…」
 その姿を認めた途端、二人の双眸に光が戻ったのを見て、赤庵は内心で大きく安堵の息をついた。
 医者の目から見ても、このままでは間違いなく数日が山だったのだ。
 自分の患者が、こんな下らない事で死なれてはたまらないし、第一そんなのを見たくはない。
「もう、許可はもらったから」
 その言葉に、ふらつきながらも起きあがり、晋二に抱き付いてぽろぽろ泣く娘達に、赤庵はそっと部屋を後にした。
 
 
 
「霧島屋は店を畳みました。文左衛門殿は出家されるそうですが…あれで良かったのですか?」
「忍者雇って暗殺するよりは」
 不気味な事を言ってから、
「ま、資産は全部うちが受け継いだし、路頭に迷う使用人もいないから、これで万々歳でしょう」
 得留之助はからからと笑った。
 その言葉通り、全面的に封鎖を喰った文左衛門は、もはやこれまでと諦め、晋二に娘達を伏して頼み込むと、自らは店を畳んで出家してしまったのだ。
 絶食していた胃とは思えないほど、晋二の姿を見た二人はよく食べた。
 堂々と、左右から晋二にくっついて帰ってきたのだが、麗の事を知ったのは屋敷に着いてからである。
「え…麗さんが…」
 二人とも複雑な表情を見せたが、
「でも晋二、許してあげようよ」
 先に言い出したのはアスカだったが、その口許に妙な物が浮かんでいることには、晋二も真名も気付かなかった。
 
 
 
 
 
(続)

大手門

桜田門