聖魔転生−第五話

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あれ?何にもないじゃない」
 ベッドの上でごろごろしていたアスカだが、空腹がご機嫌を上回って台所へ下りていくと、冷蔵庫には何もない。
 両親の帰りは、無論母親の帰宅など望むべくもないし、
「仕方ないわね」
 財布をとると、スニーカーをつっかけて外に出た。
 既に腹の虫は合唱を始めているが、それでも動かなかったのは、胸にぶら下がるネックレスに見とれていたからだ。
 シンジにもらったそれが、よほど嬉しかったらしい。
「あ、そうだ」
 名案を思いついたように、ぽんっと手を叩いた。
「シンジも多分一人だし…アスカ様が一緒に留守番してあげましょ、そうしましょ」
 この辺で、もう少しストレートに出せていたら、とっくに恋人同士になっている筈なのだが。
 足取りも軽く、どこかスキップにも近い足取りは、間違いなく乙女の色が浮かんでいた。
  
 
 
 
 アスカが家を出る少し前の事−
 
 惣流家から一キロ程離れた公園で、一組のカップルがお楽しみの最中であった。
 最初はベンチに座っていたのだが、どういった話の成り行きがあったものか、今は女の方がベンチの後ろに回り、両手を付いて身体を支えている。
 で、男の姿はと言うとさらにその後ろにあって、茂みの中にその姿を隠している。
 前から見ると、ベンチに両手で捕まっている女の上体しか見えていない。
 屋外プレイを好む男と、バックから突かれるのを好む女、嗜好が一致して屋外ファックと相成ったのだ。
「お前さ、普段より濡れてないか?」
 男の台詞に、
「あ、あんただっていつもより硬いじゃな…ああっ」
「じゃ、普段はフニャフニャだってのか?」
 プライドに傷が付いたのか、男が更に激しく突き上げ、女が高く喘いだ。
 その次の瞬間、
「ひうううっ、あっ、あっ、あああっ」
 既に長い付き合いで、どうすれば奥まで突いてくるかも分かっている。
 くねくねと腰を動かそうとした途端、中に入っている物が凄まじい硬度を持ち、どこか悲鳴にも近いような声で叫んでから、
「ちょ、ちょっと変な薬でも…」
 言いかけた女の顔がそのまま硬直する。
 振り向いた視界に映った恋人は−上体を持っていなかった。
 そして、下半身だけになったそれは、旧持ち主以上に、硬度を増した男根を女の中に突き入れたのだ。
 今、女の目に映るのは上半身を喪った身体と−
「ニンゲンノニクナドマズイガ、カイラクヲムサボッテイルトキダケハベツダ」
 
 ライオンが輸送車から脱走、半野生化したそれは人食いライオンと化して、街に出没して人間を襲った−
 
 そんなどっかで聞いたようなニュースが脳裏を過ぎった瞬間、急速に女の意識は遠のいていった。
 女がまだしも幸せだったのは、男の下肢が貪り食われるのを見ずに済んだことだったろう−自分の身体ごと。
 膣痙攣を起こし、離れようとしない身体はそのまま餌と化した。
 犬歯の周りを深紅に染めたケルベロスは、にっと嗤った。
「マアマアダナ。ダガヤハリ、アノコムスメノホウガウマソウダ」
 
 
 
 
「鈴原、本当に大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
 手首に包帯を巻いたトウジと、その横を並んで歩くヒカリの姿があった。
 無論レイの当たりを食ったトウジを、送っていくとヒカリが強硬に押し切ったのだ。
 すぐに目を覚ましたトウジだったが、妖蛇の一撃はだるさが消えず、結局この時間になった。
 こんな時間まで、付いてやるヒカリもヒカリで結構お人好しである。 
 男の鞄持ち、など無様十傑の筆頭に当たりそうだが、今はヒカリがトウジの鞄を持っている。
 これもトウジは断ったが、
「一時の矜持を曲げるのは男の役目よ」
 訳の分からない台詞に、つい押されて持たせてしまったのだ。
「でも、家の方はいいのか?」
「え?」
 一瞬詰まりかけたが、
「い、いいの、いいの」
 首を振って見せたが、ヒカリの家族はトウジの事をよく思っていない。
 トウジに少しヤンキー入っている、と言うのがその理由だが、別にトウジは髪を染めている訳ではないし、ピアスがぶら下がっているわけでもない。
 どちらかと言えば、女だけ三人姉妹に父親の組み合わせが生んだ、と言った方が正解かも知れない。
 ヒカリの反応に、
「なら、早く帰らな…」
 帰った方がいいと言いかけたが、
「私、子供じゃないわ」
 つん、と少しすねるような言い方は、いつものヒカリとは少し違っていた。
「そうか」
 とトウジはそれ以上言わなかったが、
「鈴原、私と帰るのは嫌なの?」
 明日雪になりそうな台詞が出てきたのは、宵闇が後押ししたせいもあったのかも知れない。
「別にそんな事は言ってないさ、どうかしたか?」
 聞き返されて、その顔が一瞬かーっと赤くなる。
「な、な、何でもな…え?」
 下を向いてごにょごにょ言っていたが、その足が止まったのは、何かにぶつかったからだ。
「ちょ、ちょっと鈴原…」
 急に止まったトウジに言いかけた顔が止まる。
 鈴原から、ただならぬ気が伝わって来たのだ。
「洞木、その鞄離すな」
「え…?」
 前へ出ようとしたのへ、
「来るなっ」
 その足がびくっと止まる。
「ど、どうしたの?」
 不良がたむろしてたのか位にヒカリは考えており、トウジがいれば大丈夫と、少し呑気に訊いたのだが、
「何かいる」
 血の匂いもする、とはトウジは言わなかった。
 その嗅覚には、異様な物を捉えていたのだが、ヒカリを動揺させないように言わなかったのだ。
 しかも、その視界には何も映ってはいない。
 血の匂いをもったそいつが近くにいる、トウジのアンテナはそれだけの知識を持っていた。
 どうするか?
 答えは決まっている、逃げだ。
 木刀を持ったヤンキー共ならともかく、血の匂いをさせた奴に女連れで立ち向かうほど、トウジは物好きでも無謀でもなかった。
「な、何かってなに?」
 トウジはそれには答えず、
「俺の背中掴んで離すなよ」
「う、うん…」
 反射的にトウジの背を掴んだヒカリだが、その顔が僅かに赤いのは事態が分かっていないからだ。
 背を見せるな、トウジの本能はそう告げていた。
 その告げるままに、ゆっくりと歩を進めていくトウジだったが、すぐにその正体が分かる事になった。
「イイコンジョウダナ」
 生臭い息がかかったのは横から−
 だがどうしてライオンが人語を解する?
 いや、解するどころかどうして話しているのだ?
 獅子に似たその姿を見たとき、トウジは背中に鋭い痛みを感じた。
 無論ケルベロスの物ではなく、ヒカリがしがみついた時に、爪が食い込んだのだ。
「な、何あれ…」
 痛みが消えぬまま、急速に重量感が背中に加わる−ヒカリが失神したのだ。
 人語を話す獅子を見て、失神したのはある意味助かったかも知れない。
「洞木っ」
 咄嗟に視線を走らせると、ヒカリの手を離して自らに引き寄せた。
 唸りも上げずにケルベロスが襲いかかり、一瞬の差でトウジは後ろに飛んでいた。
 コンマ一秒遅かったら間違いなくヒカリは、いやトウジもろともその餌食になっていただろう。
「な、何やおんどれは」
 震える足を辛うじて踏みしめたトウジを見て、ケルベロスは舌なめずりした。
 生き血の滴っている赤い舌だった。
「ニンゲンノフノカンジョウ、ソレモマタウマイ」
「あ?」
 逃げられぬと悟ったトウジだったが、このままではヒカリと心中する羽目になる。
 もっとも、冥府ではヒカリは喜ぶかも知れなかったが。
「洞木、すまんな」
 せめて自分が先にと、ヒカリを降ろそうとした瞬間、両者の間に何かが飛んできた。
 それが銀光と知った途端、奇妙な事にケルベロスが先に飛び退いていた。
「間に合ったか」
 ふーう、と息を吐き出したのはケンスケであった。
「ケ、ケンスケ…な、何でここに」
 呆然と呟いたのも当然であったろう。
 普段と変わらぬ迷彩服ながら、その表情にはまったく動揺が無かったのだ。
「委員長は無事か?」
 訊ねられてトウジは、
「あ、ああ気を失ってるだけだ」
 辛うじて答えるのが精一杯であった。
「そうか、それは良かった」
 薄く笑うと、閃光から回復したケルベロスの方に向き直った。
「ナンダオマエハ」
「ガイアって言えば分かるか?」
「フン、カキュウノクセニナマイキナ」
 もう一度ケルベロスが地を蹴った。
 今度はケンスケの方へと。
「ガアアアッ」
 その手から飛んだのが炎だと、トウジが知るには数秒を要した。
 いや、実際には分かっていたのだが、認識するのに時間を要しただけである。
「マハラギしか、まだ使えないんだなこれが」
 ケンスケは自分の手を見ながら言った。
「コゾウ、キサマ…」
 ゆらり、と立ち上がったケルベロスは、これも驚いたことにダメージは殆ど感じられない。
 だが、ケンスケは慌てた風もなく、
「止めとこうぜ、お互い」
「ナニ」
「狙いはこの二人じゃないだろうが。それにもう、何人か食ってきたんだろ、本命の所に行った方がいいぜ」
 ケンスケの余裕に不気味な物を感じたのか、それとも何かの考えがあってか、ケルベロスは巨体に似合わぬ動作で、くるりと向きを変えて去っていった。
「あぶねえ、あぶねえ」
 かなり安堵した所をみると、結構ぎりぎりのはったりだったらしい。
「おいトウジ無事…ん?」
 言いかけてから近づいて、その顔を左右にぎゅうと引っ張った。
「おい」
「あ、ああ…」
 出来事に付いていけず硬直、それでもヒカリを抱きかかえた姿は、奥州のとある館にて、全身を針鼠と化してもなお薙刀を構えた僧兵を思わせた。
 呪縛が解けたように、ようやくヒカリをそっと降ろしたトウジが、
「な、なあケンスケ…」
 辺りを調べているケンスケを、幾分硬い声で呼んだのは一分ほど経ってからである。
「んー?」
「い、今のは一体何だったんだ」
「知りたいか?」
 返ってきた答えは、意外にも冷たい物であった。
「何?」
「正体を知っても、今度襲われたら助からないぜ。知っても意味無いから、止めときな」
「お、お前…」
「生身の人間が敵う相手じゃない。それと今度から、夜間の帰宅と出歩きは避けるよう委員長にも言っておいた方がいいぜ」
 その指が地面から何かを掬い取ると、
「愛液と血…処女喪失ショーじゃないな」
 とんでもないことを言うと、
「何人か食い殺されてる。多分警察も来る頃だ、もう行った方がいいぞ」
 トウジが素直に従ったのは、むしろ本能的な物であったろう。その意識は当然のように、凄まじい屈辱に苛まされていたのだ。
 当然だろう、ヒカリを守ることも出来ず、しかもケンスケには自分の理解外の炎で守られたのだ。
 女は男が守るもの、そう思っているトウジに取っては、屈辱以外の何物でもなかったに違いない。
「ケ、ケンスケ…」
「ん?」
「ありがとうな」
 辛うじて礼を言うと、ヒカリを背負って鞄を手にして歩き出した。
 ケンスケが返さなかったのは、トウジの心中が分かっていたからだ。
「悪いなトウジ、こんな言い方して。でも…その方がお前に取っていいんだよ、それと委員長にもな」
 呟くように言ったのは、トウジの姿が完全に消えてからであった。
「にしても」
 とケンスケは首を傾げた。
「満月の夜とは言え、あんな妖気を振りまく獣魔を誰が召還したんだ?」
 ケンスケの言葉通り、ケンスケが来たのは偶然であった。
 レジスタンス・ブリッツ、ポーランド制式のSMGだが、これのモデルガンが手に入ったので、試し撃ちだと家を出たとき、異様な妖気に気が付いた。
 それを辿って来たら、ちょうどトウジ達に出くわしたのである。
 ケルベロスも服だけは残したと見えて、そこには下着とジーンズが落ちていた。
「屋外ファックじゃ…ま、食われても当然だな」
 サバイバルゲームの最中、しばしばそっちの最中に出くわすためか、屋外プレイの結果には冷たいケンスケ。
「さて、撃ちに行くか」
 歩き出したケンスケの脳裏からは、ケルベロスの本命が誰かと言うことは、既に消えていた。
 
 
 
 
 
「おかずにおにぎりとジュース、これでいいわよね」
 シンジの好みも買ってやったし、とご満悦の様子で歩くアスカだが、ふとシンジに電話してないのを思い出した。
「まさかあいつ、私を差し置いて食べちゃってないでしょうね」
 いや、普通ならもう食事はしている時間の筈だ。
 釘を刺そうと思ったが、名案を考えついた。
「あ、そだ…荷物持ちに呼んじゃえ」
 荷物持ちはいつもの事だが、結構良い案である。
 その発想の一端には、ほんの少し開いた胸元からぶら下がる、ネックレスがあった事は間違いあるまい。
 善は急げと、公衆電話からシンジの家に掛ける。
 
「はい、碇です」
 いつもの声が出た。
「あたしよ、アスカ」
「どうしたの?」
「まさかと思うけど、食事はしてないわよね」
「……」
 コンマ二秒、シンジは考えた。
 既に家族の分もカレーを作って、たった今デザートまで食べ終わった所である。
 が…
 
 ちょっと待て、碇シンジ。
 あの声は、子細はともかく食べたと言ったら後が怖い声だ。
 よし、ここは。
 
 脳内会議を瞬時に終わらせると、
「父さん達用に作ったんだけど、僕はまだ食べてないよ」
「ちょうど良かったわ、感謝するのよ」
「…はあ?」
「いいから感謝しなさい!」
「う、うん…で、何?」
「どうせあんた暇でしょ、あたしが今から行ったげるから、荷物持ちに来てよ」
「今どこにいるの?」
「角のコンビニよ、遅れたら許さないからね」
「り、了解」
 さっさと切れた電話の向こうで、シンジは受話器を眺めていた。
 いつもなら、家まで食べる物を持ってこいと言うはずだが、珍しい事もある物だ。
 ただシンジは、アスカの珍奇とも言える台詞が、自分が贈った物に端があるとは知らなかった。
 とりあえず今シンジがすべき事は、歯を磨いて完全に匂いを消し去る事だ。
 かすかな物、味見だと言い逃れられる位にしなくてはならないだろう。
 あまり歯磨き粉の匂いがしても、結構勘のいいアスカなら気づくかも知れないのだ。
 姫の護衛も大変だ、とシンジが思ったかどうかは知らないが、とりあえず洗面所に入ると、歯ブラシを手に取った。
 
 
 
 
 
「もう、シンジ遅いわねえ」
 時間にして、まだ二分も経っていない。
 ついでに言うと、アスカのいる店の前まで、シンジの家から一キロくらいの距離はある。
 ただ、待つ身にとっては十倍くらいに感じられる物であり、ましてや一人寂しく立っている乙女に取っては、当社比200%位になってもおかしくはない。
 もーう、とうろうろしていたら、店内からバイトの娘がこっちを見ていた。
 にらみ返してやろうと思ったが、どう見ても自分の方が挙動不審である。
 それに気が付いて、少し裏手まで足を伸ばした。
 何となく恥ずかしいような気がして、歩いている内にいつの間にか、公園の近くまで来ているのに気が付いた。
「あれ?いつの間にこんな所にきたんだろ、戻らなくちゃ」
 戻りかけた足が止まったのは、最前のケンスケと同じ理由であった。
 そう、血の匂いをアスカは嗅いだのだ。
「血?誰かが使用済み捨てたんじゃないでしょうね」
 若い娘にあるまじき台詞を吐いたのは、実はこの公園には、結構色々な物が捨ててあるからだ。
 段ボールの中に無修正の本や、口が縛ってあるコンドーム…中には液体入り等。 学校帰りにヒカリと、アイスを買って寄ったりするアスカだが、その時にしばしばお目にかかっているせいで、変な耐性が付いている。
 だが、ただの生理用品にしてはどうもおかしい。そんなに風は強くないが、妙に血の匂いが生臭いのだ。
 一瞬アスカの目が鋭くなったのは、怪我人を想定したからだ。
 生理用品などどうでもいいが、万が一怪我人が、それもひき逃げなどの被害者がいたら一大事である。
「まさか…ね」
 暗闇の不気味さよりも、放っておけないと言う義侠心にも似た物に動かされて、アスカは公園の中に入っていった。
「確かこの辺で…」
 臭いが強くなった付近へ着いたが、それらしき物はない。
 もっともアスカの目に映らなかっただけだ−電灯がすべて消えていたから。淡い月光だけで来たアスカには、地に残る血溜まりの跡が見えなかったのだ。
 もし見えていたら、いかなアスカとて全力で引き返していただろう。
 そして、
「おかしいわね」
 呟いた瞬間、
「モドッテセイカイダッタナ」
「外人?」
 少し間抜けにも聞こえる事を口にしたのは、アスカの性格故だったが、その内容が全部聞き取れなかったせいもある。
「誰…」
 振り向いたまま、その顔が硬直する。
 ばさっ、と音を立ててビニール袋が地に落ちた。
「な…な…」
「オマエヲクウキハナイ、コムスメ、イッショニコイ」
 だがケルベロスも中級魔獣であり、アスカの生体マグネタイトは感じ取っている。その金色の双眸に宿る、飢えにも似た隠しきれない光にアスカは一歩も動けなかった。
「コイトイッテイル」
 一撃で軽く失神させくわえて運ぶ、位は造作もなかったろう。
 そして現にそのつもりで近づいた次の瞬間、アスカはへなへなと崩れ落ちた。
 それでも失神しなかったのは、ヒカリの反応を考えれば特筆事項と言えるだろう。
「イイドキョウダナ、ムスメヨ」
 魔獣の口調に、どこか感心したような物が混ざったが、今のアスカにはそれどころではなかった。
(シンジ、お願い来て!)
 心の中で幼馴染みを呼んだ瞬間、魔獣の巨体が地を蹴った。
 
 
 
 
 
「あれ、いないぞ?」
 証拠の隠滅後、すっ飛んできたシンジだったが、店の前にアスカはいなかった−無論店内にも。
 幾らアスカでも、呼んでおいて勝手に帰りはすまい。
 そこまでアスカが無筋な行動を取らぬと、シンジは幼馴染みを信じていた。
 ではどこへ?
 ふと気が付いて店内に入り、店員に訊いてみた。
 店の前でうろうろしていたが、逃げるようにどこかへ行ったという。
 
(僕を待ってうろうろして、店員に見られてどこかへ行ったな)
 
 ここまでは、完璧にシンジは読んでいた。
 だが結局最初の所に行き着くのだ。
 すなわち、一体どこへ行ったのかと。
 自分の家へ帰った、或いはシンジの家へ一人で向かった。
 両方ともありそうだが、絶対に無い。
 読み切ったシンジは、店の裏手へ回ってみた。
(ん?)
 ふとシンジの顔が険しくなる。
 普段なら付いている電灯が、何故か一斉に消えているのに気が付いたのだ。
 この先には公園がある筈だ、アスカが行くなら公園の可能性が高い。
 何となく嫌な予感に捕らわれて、シンジは一瞬身を沈めると、一気に地を蹴って走り出した。
 
 
 
 
 
「ガアアアアッ」
 ドサッ、と言う音に、アスカの意識は我に返った。
 
 きっと食われるに違いない。
 馬鹿シンジが来てくれないせいで、哀れ私の美貌は夜露に消えちゃうんだわ。
 
 どこか悲劇のヒロインになったような気がしたアスカだったが、結果は大分違っていた。
「あ、あれ?」
 おそるおそる目を開けた時、自分の胸の光に気が付いた。
「これ…光ってる?」
 よく分からないが、何となくこれが自分を救ったらしいと言うのは分かった。
 砂漠の幽鬼と言われた祖父の隔世遺伝なのか、アスカは急に立ち上がると、それを胸から外した。
 そして光っているそれを、ケルベロスに向けて突きだしたのだ。
 無謀もいいところだが、それ以外に策がなく、唯一とも言える武器である事を考えると、起死回生の一撃とも言える。
「こらあんた」
 ちょっと間抜けかとも思いながら、
「何物なのよ」
「グ、グウウウ」
 左目をかばいながら、じりじりとケルベロスは後退する。
 
 何か知らないけどあたしの方が強い!
 
 ぴんと来たアスカは、
「もう片方の目も潰されたくなかったら、それ以上動くんじゃないわよ」
 すると、驚くべき事に魔獣の巨体がぴたりと止まったのだ。
「ナ、ナンデオマエガソレヲ…」
「訊いているのはあたしよ」
 逆転するとアスカは強い、さらに近づけようとしてふと止めた。
 可哀相、と思ったわけでは無論ないが、万が一を考えたのだ。
 とりあえず現状では自分の方が強い、しかしあまり追いつめると窮鼠になる可能性もあるのだから。
「で、あんた。とりあえず名前は」
「ソ、ソノマエニ」
「あ?何よ」
「ソ、ソレヲシマッテクレ、タノム」
「どうしようかあ〜」
 目の前のライオンみたいな物体が、嘘を吐くとは思っていない。
 しまった途端襲ってくるとは思わなかったが、勿体ないような気がしてきたのだ。
「あんたライオンの変種らしいけど、両目潰されたらおしまいよねえ」
 いつもの小悪魔のような口調になると、ひらひらとペンダントを揺らす。
 それが逆に開き直らせたのか、
「ソウカ、デハシカタガナイ」
 急に気を増してきたケルベロスに、今度はアスカが慌てた。
「ま、待ちなさいよあんた」
「…ナンダ」
「取り引きしようじゃないの」
「トリヒキ?」
「あんた、食べても美味しくなさそうだから、両目潰してから焼き肉にするのは勘弁してあげるわ」
「……」
「その代わり、あたしの下僕になりなさい」
「…ナンダト!」
「どこのサーカス団のやつか知らないけど、その顔で帰ったら座長から首よ。下手すりゃ食用になるかもしれないじゃない」
 どうやら、器用なサーカス団のライオンが脱走したと思いこんでいるらしい。
 
 しかし…喋るサーカスのライオンなんかいたのか?
 
「コムスメキサマ…」
「あ、あたしは相打ちでもあんたをやっつける事は出来るんだからね」
 アスカは気づいていなかったが、この時点ではアスカが完全に有利であった。
 ケルベロスが一気に地を蹴ったとしても、紫光に阻まれて両目を潰されるのがオチとなったろう。
 中級魔獣ともなると、おつむが空っぽでは務まらない。
 無論、ケルベロスとて例外では無かった。
「イイダロウ」
 両目を無くす無様より、とそっちを選んだのか、ケルベロスは苦々しげに言った。
「あっそ、じゃ商談成立ね」
 あっさりそれを引っ込めたのには、却ってケルベロスの方が一瞬呆気に取られた。
(コノムスメ、ジブンノチカラヲシラヌヨウダナ…)
 襲ってやろうかとも思ったが、とりあえずここは従うことに決めた。
 その心中には、ペンダントの存在を告げなかったレイへの感情もある。
 知っていれば、もっと違う方法を採っていただろう。
「ムスメ、オマエノナハナントイウ?」
「あたし?アスカよ、惣流・アスカ・ラングレー」
「ワカッタ」
 巨体を揺らして近づいてきたのには、一瞬びくっとしたが、
「コウトナエルノダ−ワレソウリュウ・アスカ・ラングレー、ココニケルベロスヲソノジュウマトセン、ト」
「え?よく分からないけど、まあいいわ」
 言われるままに唱えると、
「オマエノテヲワタシノウエニオケ」
 置いた瞬間、
「あ」
 アスカが呟いたのは、ケルベロスの目が急速に治っていったからだ。
 まるで焼き鏝でも当てられたかのようなそれが、見る見る元に戻っていったのだ。
「あ、あんたそれ…」
「お陰で治った」
「へっ?」
 流ちょうな日本語になっており、驚愕度も二倍である。
「我が名はケルベロス、マスターに忠誠を誓おう」
「ふーん」
 どうやら、便利な家来が出来た位に思っているらしいアスカに、
「どんな格好がいい?」
「え?」
「このままでは困るだろう。好きな姿を思い浮かべるがいい」
「分かったわ」
 数十秒後にそこにいたのは、若い娘とシベリアンハスキーであった。 
 どうやら、欲しかった犬の姿らしい。
 鮮血と妖気に、これも血相変えてシンジが飛び込んできたのは、その直後であった。
 
「こんの馬鹿シンジが!」
 一撃でぶっ倒れたシンジを見ながら、
「人間はよく分からないな」
 とケルベロスが言った。
「何でよ」
「どうして好きな者に…ぐうう」
「あんた、それ以上言ったら焼き肉よ。それも火加減はウェルダンだからね」
 自分と対峙した時より怖い表情に、ケルベロスはさっさと引っ込めた。
「ほらっ、シンジ帰るわよ。さっさと起きなさい」
 
 
 
 
 で、一時間後。
「あの、これでよろしいでしょうか」
「うむ、ご苦労」
 ふんぞり返っているアスカの肩を、せっせと揉んでいるのは無論シンジだ。
 事の顛末を訊いたシンジは顔色を僅かに変えたが、
「あんたにはする事あるでしょ」
「え?」
「手が疲れた。だからその…た、たべ、食べさせなさいよっ」
 甘い雰囲気ではないが、とりあえず食べさせてもらうのは成功した。
 でもって、
「肩!」
「え?」
「凝ってるんだからさっさと揉みなさいよっ」
 マッサージをさせるのも成功。
 ふーう、と肩を回したアスカに、
「あのさ、アスカ」
「何?」
「さっきのあれ、怖くなかったの?」
 なおケルベロスは現在、友人が引っ越すのでもらったとして、玄関に繋いである。
 普段から共働きで、アスカ一人残すのを気にしている両親だ、きっと二つ返事で了解してくれるだろう。
「す、少しだけ怖かったわよ」
 アスカの目は閉じられている。
「でもね」
「でも?」
「あたしの下僕が、きっと来るって思ってたから」
「下僕と言いますと…わたくし?」
「他に誰がいるのよ」
「いてっ」
 アスカの手がシンジの手をきゅっとつねる。
 が。
「今度は…もっと早く来てよね」
 つねった手がそのままシンジの手を包み、上からシンジの手が重なる。
 両手が重なった二人の間に静寂が漂った−どこか甘い雰囲気の静寂が。
 
「素直じゃない娘だ」
 と、犬に姿を変えた魔獣が下で呟いた事を、無論二人とも知らない。