聖魔転生−第参話

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 後頭部に痛烈なダメージを食らったレイは、真っ逆様に下へと墜ちて行く。が、何故かその顔には余裕のような物が感じられる。
 理由はすぐに知れた−地上から五メートルの位置まで墜ちた時、レイが指を鳴らした途端髪が一斉に伸びたのだ。その先が揃って蛇と化すと地面を強力に叩く。勢いを九割方消したレイが、ふわっと着地したのはその数秒後の事であった。
「碇シンジのやつ…覚えてなさいよ」
 全身から漂う妖気とは裏腹に、乙女の顔になるとぷりぷりしながら去って行った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「美味くできたし…先輩ほめてくれるかしら」
 頬を染めて廊下を歩いていくのは家庭科担当の伊吹マヤ。生徒達に調理実習で作らせた物を、自分もこしらえたのだ。ビニール製のタッパにたっぷりのクッキーを、大事そうに抱えて歩くその姿は、傍目には恋する乙女の姿そのものに見える−対象を別とすれば。
 胸・腰・尻・脚、と四点揃ってかなりの上玉である。従って校内でも熱い視線が向けられる事は多い−但し女生徒の割合が半分以上だが。
 男共が半ばあきらめているのは、十二分に知っているからだ…その双瞳に誰が映っているのかを。
 そして同性に憧れる事の多いこの年齢、その女生徒が集まるのは彼らも知っているからだ−そう、すなわち彼女が自分たちの同類だという事に。
「せーんぱい」
 その呼称は止めなさいと、何度も拷問に近い目に遭わされて命じられても、マヤはこれを止めようとはしない。彼女がドアを開けたのは通称『逢魔が部屋』、校内で唯一摩道学担当のリツコの専用控え室。こんな風に勢いよく開けるのは、マヤを含めて二人しかいない。ただし、もう一人はれっきとした男だが。
 マヤが甘えた声でドアを開ける→飛んできた何かが首に巻き付く→全身に電流みたいな物が走る、とこれが定番だったが、その日に限ってそれはなかった。
 だがその代わり。
「せんぱい?…いやあっっっ!」
 悲鳴に近いような声と共にマヤの手からタッパが落下し、床の上に惜しげもなくクッキーをばらまいた−とろけるようなチョコレート入りのそれを。
 荒縄でぐるぐる巻きにされているリツコに、マヤは血相を変えて走り寄った。
 ぐるぐる巻き、と言っても正確には亀甲縛りであり、両の乳房の下を通して股間を潜らせてあり、背中もきちんと升目状になってなかなかの様になっている。
 だが何故かその最後は蝶結びになっており、それを見たマヤはそれをぐいと引っ張った−ほどけない。
「せんぱいっ、せんぱいっ」
 早くも半泣きになったマヤだが、リツコの口にはハンカチが押し込められている。顔を左右に振ってようやく吐き出すと、
「無理よ」
「え?」
「縄の前に先に口の中の物を取ってちょうだい」
「ご、ごめんなさいっ」
「もういいわ。それより机の上のヘアピンを取って」
「え?」
「早く」
「は、はいっ」
 慌てて持ってきたそれは、薄いブルーの小さなヘアピンであり、どう考えても役立つとは思えない。
 だがリツコは、
「結び目の境にそれを刺して」
 と命じた。
 言われた通りにしたマヤは、次の瞬間首を傾げた。無機物が結び目に差し込まれた瞬間、確かに縄全体がぶるっとたわんだのである。
「もう一度引っ張って」
 命じられるままに引くと、あっさりと縄はほどけてリツコの身体から落ちた。
「ひどい目に遭ったわね・・やめなさい」
 肩をすくめるのと同時に手が伸びたのは、マヤがいきなり抱きついて来たからだ。普段こんなチャンスはないだけに、マヤの双眸は妖しく光っていた。
「せ、先輩を心配したのにひどいです」
 校内のアンケート『嫁にもらいたい率』で、トップを維持しているマヤだが、リツコの事になると俄然崩れる。せっかく焼いたクッキーは駄目になるし助けたリツコは冷たいし、と崩れかけた顔を見てリツコはため息を吐いた。
「はいはい、助かったわよ」
 頭をなでてやると、途端に満面の笑顔になり、
「ほんとですか?」
「嘘は言わないわよ」
「良かったあ」
 とかなり幸せそうな顔になった直後。
「ところでこれ誰が?」
 一気に羅刹の仮面と化したマヤを見て、リツコは事実の隠蔽を決意した。
「…私が自分でやったのよ」
「え?」
 一瞬疑わしそうな顔になったがすぐに変化した−喜色へと。
「もー、先輩ったら一言教えてくださればいいのに」
 もじもじと俯きながら、
「わ、私がいつでもお手伝いしますのに」
 机の上のペンを剣と変え、勝手に想いを寄せてくる後輩を貫きたくなる衝動を辛うじて抑えたリツコが、マヤを何とか追っ払ったのは十五分後の事であった。
「それにしても」
 十五分遅れながら次の授業へと急ぐ途中、リツコは首を傾げた。
「なんであの子、あんな上手く縛れたのかしら」
 
 
 
 
 
 
「あれ?シンジ?」
「どうしたの?」
「レイ見なかった?」
「綾波さんならさっきトイレに入って行ったけど」
「トイレ?」
 シンジの大嘘を信じたアスカが、時計を見たのは既にチャイムが鳴った後であった。
 何やってんのよもう、と言い掛けた時ドアが開いて教師が入ってきた。
 ヒカリの号令の後、教師が出席を取った。
「ん?転校生の綾波レイはどうした?」
「あ、あのじき来ますから。ちょっとその…」
 アスカの言葉尻で察したのか、
「分かった。では授業に移る、テキストの…」
 告げられたページの通り、一斉に教科書を開いていく。
 だがアスカは無論、シンジさえも知らなかった。
 トイレは大嘘だが、現在レイは帰ってこられない状況にあることを。
 そしてそれはレイが自爆した訳でもなく、シンジが仕掛けた物でもないことを。
 そう−ケンスケは怪しく笑っていたのである。
(お手並拝見と行こうか…綾波レイさんよ)
 ケンスケの内心の呟きは、無論誰にも聞かれる事は無かった。
 
 
 
 
 
「で?何よこれは」
 中庭に墜ちたレイだったが、昇降口から中に入ろうとして足を止めた−眼前に広がる光景に。
 レイの前には、びっしりと生い茂った草木が邪魔をしていたのだ。緑色の木々は圧巻とも言える太さでレイを阻んでおり、どこかで見た記憶があると首を捻ったレイは、一瞬考えた後に呟いた。
「アマゾン川ね」
 幻術なのは分かっている。
 但し問題は−
「弾力あるわね」
 それが『実物』である事だ。
 無論レイが幻術に掛けられた訳ではなく、どこかに発信源があるのだ。がしかし、それを破られないと中には入れない。
 後ろを見たその顔がすっと真顔になったのは、次の瞬間である。レイはそれが動いていると知ったのだ。忽然と現れたそれが、すっと後ろに回り込んで迫ってくる。到底人外の現象も、ここならではであろうか。
 そう、仕掛け人相田ケンスケのアルバムに、冬休みを利用して出かけたアマゾン川流域の写真があるなればこその。
 少しだけ長い爪でレイが幹を弾くと、それは余りにもリアルな手応えを伝えてきた。
「跳ぶ?」
 とん、と地を蹴ったレイは三メートルの地点まで一気に上がった。ふわりと幹の上に着地すると下を眺める。
「だめね」
 レイが呟いた通り、互いを押しつぶすかのように迫っていた幹が、ぴたりとその動きを止めたのだ。そして何かを探すように揺れた後、それが向いた方向は木の上。レイを標的としているのは明らかであった。
「やっぱり私ね。美人って薄命なのよね」
 困った顔も見せなかったレイが、急に暗くなった。ぐぐっと伸びた枝がレイの頭上で結集し、陽光からその姿を覆い隠したのだ。
 これでレイは、完全にドーム型となった罠に取り込まれた事になる。
 密林と化したジャングルを歩く時、木々の流れに逆らって進むのは御法度である。人間ごとき、大自然の前には塵ほどの存在でしかない。あくまで流れに沿って進み、最小限の伐採で道を造るのが原則となっている。
 閉じこめられた事を知ったレイだが、元がメドゥーサだけに完全な人間のような愚は踏まなかった。周囲を見て、このままでは脱出不可能だと知ると決断は早かった。制服に手を掛けて、するすると脱ぎだしたのだ。文字通り滑るように衣服を落とすと、下着ごとくるくると丸めた。
「ラファエルじゃない…でもこの借りは必ず返すわよ」
 低い呪詛のような声で宣言すると、自らの喉に手を当てて真横にすっと引いた。
 
 
 
 
 
 
「何っ!?」
 ケンスケが、思わず立ち上がったのは授業の真っ最中であった−それも小テスト中。
 抜き打ちのテストと聞いて、教室内はブーイングの嵐が起こったが、
「別にいいじゃん」
 アスカの非常に珍しい台詞に、一瞬にして静まりかえった。普段はテスト、それも抜き打ちなどと来た日には、講堂に立てこもった某大学の生徒よろしく抵抗するのだが、その日は正反対の反応を見せたのである。
 無論これには裏がある。昨日の夜、いつものようにシンジの家に侵入して宿題を写させろと迫ったが、あっさり却下された。で教えて貰っていたのだが、その時にシンジから聞いていたのだ。
 アスカの奇妙な反応に、ほかの生徒達は毒気を抜かれたのか素直に従った。当然今は静まりかえっている最中である。
「……相田君」
 女教師の反応に、何を思ったか慌てて立ち上がったケンスケは、答案用紙と筆記用具を勢い良く床に落とした。
「…もういいわ、廊下に立ってなさい」
 はい、と意気消沈して出て行ったケンスケだが、廊下に出た途端にその表情は険しくなった。
 ポケットから取り出したのは水晶球であり、それが映し出していたのはレイだったのだ。ケンスケの表情が動いたのは、レイの全裸を見たせいだったが、ケンスケが叫んだ理由はそれではなかった−そう、レイが自分の首に手を当てた瞬間、水晶球は急激に煙のような物に覆われたのである。
 そのためレイが変化した姿を、ケンスケが見ることは無かった。服を脱いだのは、汚さない為ではないと分かっている。
「問題は何に変わったかなんだよな…使えない奴だ」
 ぼやいたケンスケの表情は、確認し得なかったせいか幾分不機嫌に見えた。
 
 
 
 
 
「さてと、どこに貼ってあるのかしら」
 幻影の中で怪しく目を光らせたレイだったが、他の者がその姿を見れば仰天したに違いない。レイはその姿を白蛇へと変えていたのだ−いや、戻したと言うべきだろうか。
 アナコンダと言うほど巨大でもなく、コブラなどのような獰猛さも無い。ごく普通のアオダイショウと言った感じだが、その純白な全身からは異様なほどの妖気が漂っている。ケンスケが感知した値は微量だったが、今のレイは普通の人間でも分かると思われるほどに、凄まじい妖気を放出している。
 しかしながらこれは、隠し切れていないのではない。あくまで隠していないのだ。
 とは言え、何故隠そうとしない?それよりも、何故じっとして動こうとはしない?
 既に木々はレイの肢体に迫り、その長い胴体ごと押し潰そうとしているのに。
 レイの奇妙な行動だが、数秒とせずに答えが出た。とぐろを巻いていたレイだが、その頭がある方向を向いたのだ。
「こんな所にあったのね」
 するすると移動していくと、その先にあったのは五角形に貼られた呪符。見た目は木の幹に貼られているが、実際には下駄箱の一つである。赤い目を光らせたレイが、尾を一振りするとあっさりと結界は壊れた。
 その効果自体は大きいが、発信源が非常に脆いのもこのタイプの術の弱点である。だからこそ、術者は発信源の隠匿にもっとも力を入れるのだ。
 人間の姿では見つけられなかった物を、白蛇の姿になったレイはあっさり見つけた。レイの妖気は、ちょうど蝙蝠の超音波のような役目を果たしているらしい。普通の人外に属する者ならば、それは単に存在の誇示でしかないが、それを探索にも使えると言うのは、やはり妖蛇三姉妹の一人故なのか。
 レイが呪符を破壊したその瞬間、レイを押し潰そうとしていた樹の群れはその動きを止めた。
 術が解けた後、瞬時に消える物でなかったのは、彼女に取って幸いだったろう…レイは白蛇の姿のままだったのだから。
 ぽん、と人間の姿に戻ると全裸の肢体を隠そうともせずに、悠然と服を手に取った。
「この気は…ガイアね。あの少年かしら?」
 はてと首を傾げたとき、丁度トラップはその姿を全て消した所であった。差し込んでくる陽光が、その白い裸身を照らす。つんと上向いた胸に日差しが当たった時、初めてレイは気が付いたように胸を抑えた。
「やだ、日焼けしちゃう」
 その時だけ年相応の顔を見せると、ばたばたと中へ走っていった。
 
 
 
 
  
「シンジ、テストどうだった?」
 アスカが近寄ってきたのは、授業の終わった後である。山が殆ど当たったせいか、少しばかり機嫌が良さそうだ。
「ほとんど当たってたでしょ」
「そうね…って、あんなの分かって当たり前じゃない」
 最初は素直に、ありがとうと言う気だったのだが、顔を見るとつい余計な事を口走ってしまう。
「折角教えたのに…」
 ぶつぶつぼやいているのは、シンジだけではなかった。
(ご、ごめんシンジ)
 後悔先に立たずとは言うが、後悔できるのはアスカの利点でもある。後悔できない輩も、決しては少なくはないのだから。
 しかし、何となく気まずくなった所へ、
「ただいま〜」
 レイが何事もなかったように入ってきた。シンジの側にいるアスカを目ざとく見つけると、真っ直ぐに近寄ってくる。
「あらお二人さん何してんのかしら?」
 無論アスカの反応は計算済みであり、
「な、なんでもないわよっ」
 と少し頬を赤くして離れるのを見て、内心でにたりと笑った。
「それよりレイ、あんたどこ行ってたのよ。先生が捜してたわよ…って、こら」
 すっと身を引かれ、レイが大げさに空を切る。
「感謝の証じゃない。だってアスカ、ごまかしてくれたんでしょ?」
「それはそうだけどさ…なんですぐ抱き付くのよ」
「内緒」
 妖しく笑うと、ちらっとシンジに視線を向ける。
 シンジがすっとかわした所へ、
「ね、ねえ綾波さん?」
 何時の間にやらクラス内に、瞬時に溶け込んでいるようなレイへ、少し遠慮がちに声を掛けたのはヒカリであった。
「なに?えーと…洞木さん」
「私の名前を?」
「名簿に印が付いてたわよ」
「印?」
「委員長の所に二十丸があったのよ」
「そうなの…って私委員長って言った?」
「見た目がそんな感じじゃない?それに仕切るのも大好きそうだし、委員長って感じの顔よ」
「そ、そんな…」
 取り付く島もないレイに、さすがのヒカリも声が掛けられない。
 教室内がしんと静まりかえったところへ、
「洞木に恨みでもあるのか?」
 口調は穏やかだが、静かな怒りと共に詰め寄ったのはトウジである。関西系にならないのは、まだ抑えているからだ。
「別にないわよ」
 トウジはシンジより、身長は低いが肩幅はある。見るからに戦闘系の体格だが、相手が悪かった。
「私に公用で来たなら謝るわよ。でもそんなんじゃないでしょ」
「…なんでそんな事が分かるんだ」
「分からない、と思ったの?」
 レイは間髪いれずに聞き返した。
「綾波さんは見た目も普通とは違うし、きっと馴染めないに違いない。ここは私が委員長として−とかでしょうが。あまり笑わせないでよね」
 どこかアスカのような口調で言ったレイに、ヒカリの表情が凍りつく。確かにレイの言う通りだったのだ。
 無論ヒカリがレイを、異種としてみていた訳ではない。それでも少し性格的に変わった感じもあり、話題を引き出そうとしていたのは事実だ。
 ただし。
 ヒカリ自身に特に他意は無く、九割方は好意だっただけにショックは大きい。実は依然、アスカとの時にも同じような事はあったのだが、その時はアスカがあっさりと乗った為に、すんなりと打ち解けたのだ。
 俯いたヒカリに教室内は静まり返り、トウジの怒気が一際高まった。
(やばいな、こりゃ)
 シンジが心配したのは、無論レイではなくトウジの方である。いかにトウジと言えども、今のレイには足元にも及ぶまい。
 しかし遅すぎた。
「おんどれ、ええかげんにさらせや」
 トウジが関西弁になると危ない。柄の悪い関西弁になるのは、どこかが切れかけた証拠だからだ。
「随分とかばうのねえ」
 レイは冷たく嘲笑うと、
「すぐかばっちゃって、お二人さんもしかして出・来・て・る・の?」
 鼻にかかった、神経を逆になで上げる口調なら女に敵う者はいない。
「なんやとコラ!!」
 瞬間的に切れたトウジが、ぐっと右手を握って前に踏み出す。
 何が起きたのかは、シンジにしか見えなかった。ケンスケにさえも、それは分からなかった。
 はんっ、と嗤ったレイは、その手を頭に伸ばしていたのだ。嫌味っぽく髪をかき上げる、と見えた手が髪を引き抜いたと見切ったのはシンジ一人。
 唸りを立てて平手が襲いかけた所へ、数本の頭髪を投げつけたのだ。元より普通のそれではない、トウジの太い手首に巻きつくと凄まじい力で食い込んだのだ。
「ぐあああっ」
 と床へ倒れ込んだトウジの手首からは、真っ赤な鮮血が流れ出していた。レイが刃物でも使ったかのような光景だが、その左手はアスカの机に付いたままだし、右手は髪に触れたままだ−レイは二本の指だけで投擲していたのである。
「す、鈴原っ」
 血相変えてヒカリが駆け寄るのへ、
「手首に力入れすぎると、たまに動脈切れるのよね。大丈夫かしら?」
 さも心配げにレイが声を掛ける。レイの仕業だが、周囲からは見えない以上、女に手を上げた報いにしか見えない。
 さすがのヒカリも、レイに怒りをぶつける訳にも行かず、
「…保健室連れて行くから」
 アスカに告げると、トウジの腕をそっと取って立たせる。ほとんど恋人のような感じだが、さすがに冷やかす者は誰もいない。
「鈴原…大丈夫?」
 血の止まらぬ手首だが、既に髪は離れている。それを見抜いたシンジは、じきに止まるだろうと口出しはしなかった。
 トウジとヒカリの身長差は十センチ以上ある。ヒカリにぐっと重心の残る感じで、連れ添って出て行ったのを見ながら、
「ちょっとシンジ」
 アスカが呼んだ。
「なに?」
「鈴原って、手首に怪我でもしてたの?」
「別に無かったと思うけど。でもナイチンゲールの出番もあったし」
 割と冷たいシンジに、
「ちょっとあんた、冷たくない?」
「そんなに深くは無い筈だよ。あれでばっさり喰いこんでたら、代わりに死刑執行だけど」
「死刑執行?何のこと」
「何だろうね」
 こら隠すな、とアスカが言いかけた時、ドアが開いて教師が入ってきた。
「チャイムは鳴ってるぞ、何してる」
 一斉に席に着く中、教師の目が空席を見つけた。
「鈴原と洞木はどうした?」
「トウジが転んだので、委員長が保健室に」
 嘘ではあるが、事実を明らかに出来る者も他におらず、
「洞木も面倒見のいい事だな」
 と言っただけで、あっさり納得した。
 要点をノートに記していたシンジの携帯が、ポケットの中でぶるぶると震えたのは、授業が始まって十五分ほど経った時である。
 この震え方はメールのそれだが、この番号を知っているのはアスカだけであり、そのアスカは現在黒板を凝視中。
(はて?)
 首を傾げながら、教壇からは見えないように取り出す。
「知ってて助けないの?いい友達ね」 
 ご丁寧に、差出人はメドゥーサと書いてある。隠そうともしていない。
 何でこの番号を知っているのかと、ちらっと向けた視界にアスカの携帯が見えた。どうやら、内緒でこっそり拝借したらしい。
 アスカはバイブを好まず、音が問題ある時は電源を切っている。
 実は以前シンジと帰った時、胸のポケットに入れていたそれが震えたのだ。バイブ設定なら当然なのだが、妖しい場所だったせいで小さく喘いでしまったのだ。感じやすいかはともかくアスカが音のみに変えたのは、それをシンジに聞かれて以来だとはシンジは知らない、
 シンジの記憶にあるのは、眉の寄った何とも言えない艶っぽい顔と声、それに…平手打ちの感触だけである。
 ただしシンジがそれを、高いと思ったか安いと思ったかは知らない。
 よっぽど携帯を鳴らしてやろうかと思ったシンジだが、大人気ないので止めた。
「余計なお世話だばーさん」
 と返信した時にはもう、シンジは後悔していた。
 送ったメール、つまりレイの文章は消す事が可能なのだ。しかもシンジの方も消してしまっている、それをレイが何に使うかは一目瞭然であった。
「ふーん…」
 レイがにまっと笑ってそれをアスカに見せる。と同時にシンジは、背中に言い様の無い殺気を感じていた。
「ただぢゃ置かないわよ」
 わざわざ“じゃ”を“ぢゃ”に変えて送ってくる辺り、かなり危険な兆候である。授業の終わった直後か、或いは放課後はかなり危険を覚悟しなければなるまい。
 終わってからだろうと思った直後、シンジは後頭部を押さえていた。飛んできた何かが、痛打を浴びせたのである。
 飛んできたのはシャープペン、しかも芯が出ているやつだ。
「あっつー」
 呻いたのを教師に発見される。ただし、投擲の段階から発見されていたらしい。
 説明していたのを止め、
「ところで惣流」
「はい」
「俺が一番嫌いな物は知ってるか?」
「…いいえ」
「痴話喧嘩だ」
 その言葉に教室中が沸きかける。
「廊下に立ってろ」
 なんであたしが、と言いかけたが気が変わったのか立ち上がった。
 シンジの横を通る時、すっと顔を下げる。
「共犯も一緒に来るのよ」
 何で僕が!という台詞、実は使っていい機会は結構少なかったりする。そして今は明らかに、使っていい時ではないとシンジは悟った。
「あ、あの」
 手を上げたシンジに、
「何だ」
「思い当たる節があるのでその…た、立っていようかと」
「別に構わんが、廊下で結婚式は禁止だぞ」
 その言葉に、さっきよりも大きくどよめき掛けたが、自分たちで押さえた。
 そう、隣は現在赤木リツコの授業中なのである。それを知りつつ爆笑しようという命知らずは、このクラスにはいなかった。
 助かった、と思ったかどうかは不明だが、アスカは足の先まで真っ赤になって、
「バ、バカシンジ行くわよっ」
 足を鳴らして出て行く。
 シンジを従えて出て行く後ろ姿を、じっと見ているのは無論レイである。
「ちっ、失敗したわね」
 と小さく呟いた声が、周囲に届くことはなかった。
 
 
 
 
 
「軽い貧血起こしてるわね、あなた付いてなさい」
 任務放棄、と言うより必死の面持ちのヒカリを見た保険教諭は、ある程度二人の関係を察したらしい。
 豊かな胸を揺らして出て行くとき、
「がんばるのよ」
 と小声でヒカリに囁きかけた。
 赤くなって頷いたヒカリにウインク一つ、出て行く後ろ姿にヒカリは小さく頭を下げた。
 保健室へ着いて、安心したのか気を失ったトウジは、二十分あまりで目を覚ました。
 たいした事はない、と言われてはいてもやはり気になる。意識の戻ったトウジの視界に最初に映ったのは、心配そうに覗き込んでいる光の姿であった。
「…委員長か?」
「鈴原気がついたっ?」
「ああ、たいした事はない」
 自分の手首を見やったトウジは、そこに包帯が巻かれているのに気が付いた。
「こんなのバンドエイドで十分…って、何か雑だな」
 保険医の癖に、と言おうとした時ヒカリの赤い顔に気が付いた。
「ん、どうした?」
「そ、それ私がその…」
「洞木が?あ…有難うな」
「べ、別にいいのよ。委員長だし…」
 素直になれないのはこっちも一緒。なかなか想いの宅配と言うのは難しいらしい。
 ただし。
「傷はどうなった」
 と外そうとしたのへ、ヒカリが飛んできて、
「わ、私がやるからっ」
 重なり合った手に、二人してうっすらと頬を染めている。傍目には、アスカとシンジより、少しだけ距離は短く見えたかもしれない。
 
  
 
 
 
「あんた、いい度胸じゃないのよ」
 さすがに平手打ちはないものの、シンジの上履きは思う存分踏まれている。無論この場合はアスカの方が“正しい”。
 やはりいきなりばーさんと言われれば、普通の女心としては噴火の一つもしたくなるかも知れない。
「だから、あれはそのちょっとした間違いで…」
「何が間違いだってのよ?」
「その…あ、あて先を間違えたと言うか…」
「あて先?ばーさんなんて書いて、誰に送る気だったのよ?リツコにでも…」
 今度はアスカが途中で沈黙した。いや、と言うより凍りついたと言った方が正解だろう−隣の教室から、リツコが出てきていたのだ。
「ばーさん?いい響きねえ」
 にっこり笑ったリツコに、アスカは寿命の凝縮を知った。
「赤木リツコのばーさん証明。アスカ、次の時間にレポートで発表して貰うわよ」
 ぎぎー、と閉まったドアを見ながらアスカは青くなっていた。
「あ、あんたのせいだからねっ」
「僕の?」
 そのとおり。シンジのせいである。
「そうかも知れない」
「そうかもって、あんたバカ?」
 と言う会話にはならず、
「じゃ、お詫びに何かおごるから」
「…何をよ」
「帰りに雅爛堂行かない?」
「はあ?」
 アスカの口がぽかんと開いた。
 
 
 
「雅爛堂?確か魔具を裏で扱う骨董屋だったわね。これは私もお邪魔しなくちゃね」
 教科書を見ている筈のレイが、ふと顔を上げて口元を歪める。
 幸か不幸か、メドゥーサの笑みを見た者は誰もいなかった。