聖魔転生−第弐話

 
 
 
 
 
 
 
 
「なるほど、小娘一人の血では不足って訳だな」
 言葉と同時に、朱に染まった指がキーボードを叩く。
 トマトジュースや絵の具の類ではなく、明らかに鮮血である。
 だがどこか奇妙だ。手首から上を見れば異常な出血とすぐわかるのに、声の主には何の異常も感じられない。
 そして何よりも。
 指がキーボードに触れた瞬間、その部分から紅い色は消えたではないか。
 これの意味するところはただ一つ。
 すなわちキーボードが、指についた鮮血を吸い取っているのだ。まるで吸血鬼か何かのように。
 奇怪なことに、その指が数行打ち込んだ後、その指は完全に綺麗になっていたのだ。
 だが本人は気にする様子も無く、あるキーを叩いた。と同時に画面の中に、ある絵図が現れる。
 それを確認すると、椅子ごと回転させて後ろを振り向く。
 その眼前に展開するのは、画面に現れた図と同様のものであった−すなわちソロモンの五芒星。
 最近ではほとんど、悪魔召還に使われるこの魔方陣は、白い床の上に描かれていた。
 墨痕鮮やかに描かれた、それだけならさして問題はあるまい。
 だがその中心に置かれているのは、全裸の女性であった。
 眠っている?
 いいや、違う。
 昏睡している?
 いいや、それも違う。
 思わず赤面しそうなほどに、大きく開かれた足の付け根からは…小腸がずるりと引き出されている。
 そして胸を見れば−そこには乳首がなかった。
 ニップレスを気取った訳ではあるまい。なぜなら体の横に、千切られたように見えるそれが二つ、放り捨てられていたからだ。
 すさまじい傷跡の上には、それぞれ血文字が描かれている。
 一見すると象形文字にしか見えないが、少し呪術を知る者ならばこう読むだろう−すなわち「オン」と。
 ひらがなの「ろ」の字に点を一つ付けたような字。
 惨殺された死体に描かれたそれは、いったい何を意味するというのか。
「処女ではジャックランタンまで。となると次は…」
 ぽつりと呟いた時、服の胸で携帯が鳴った。
 血の完全に消えた指で、受話器を取ると耳に当てた。
「はいケンスケ…ああ、委員長か。分かってる、今出る所だ…何っ、本当かそれ?…そうか、なるほどね。じゃあな」
 電話を切ったケンスケは、電話機を放り出すとしばらく宙を睨んだ。
「役者が増えたほうが面白くはある。だが万人にとって好都合というわけじゃあないよな」
 かばんを手に取り、出て行こうとする学生服姿は完全に、普通の高校生そのものだ。
 だが出て行く間際死体にちらりと目を向けると、
「食っていいぞ、もう用は済んだ」
 誰もいない部屋に向かって、偉そうに言った。
 明らかに奇怪な言動−だがその数秒後、室内に気配が満ちた。
 誰もいない部屋の中にゆっくりと、だが確実に気配が満ちていく。
 そして数十秒後、部屋の明かりはある影を映し出した−誰もいない部屋の中に。
 それは大蛇に似ていた。依然部屋の中に動く物はない。
 にも関わらず、室内には圧倒的な何かの気配が溢れており、気の弱い者ならば息苦しさで窒息しかねないほどの圧迫感があった。
 そこへケンスケがすっと手をかざし、
「お座り」
 まるで犬にでも言うかのように告げると、ぴたりと気配は止んだのである。
 数秒ケンスケはそれを見つめていたが、ちらりと時計に視線を向けると、
「よし、食ってよし」
 影の頭に部分に手を当てて、よしよしと言うようにその部分を撫でた−依然何も見えてはいない。
 そしてケンスケが出て行った後、そいつは動き出した。
 依然として何も室内には姿を見せぬまま、死体の側にその影が近寄った。
 ごき。ばり。ずるずる。
 耳を覆いたくなるような音が部屋に充満し、みるみる死体はばらされていった。
 そして無人の部屋に異様な咀嚼音が響いたのは、その数十秒後のことであった。
 
 
 
 
 
 
「何をさせるか?さあ、何にしようかしらね?」
 レイはくっくっと嗤った。もとより端麗な顔立ちだが、そこに邪気が加わると凄絶な淫花のようにすら見える。
 口元をゆがめて笑った場合、似合う女と無様なピエロに見える女、大方はこの二種類に分類されるのだが、レイの場合はどうやら前者らしい。
 だがシンジにはそんなことに興味は無く、レイに翻弄されるわが身にぎりりと歯が鳴った。
 そんなシンジを見て、レイは明らかに愉しんでいたがふと口を開いた。
「私と賭けをしない?ラファエル」
「賭けだと」
「恋のライバルよ」
「下らんな」
「だったら今すぐアスカを起こして、全部ばらしてもいいのよ。アスカは喜ぶでしょうねえ。幼馴染の碇シンジが実は大天使ラファエルだったなんて。何でも万能にできる物をずうっと隠していたと知ったら。しかも実は自分をずーっといやらしい目で見ていたなんて知ったら…」
 レイの言葉が途中で止まった。
 シンジがレイを見たのだ。
 普段の目であり、何ら変わるところは無いにも関わらず、レイはそれ以上言葉を続けることが出来なくなった。
「賭けとかいう物、下らない物だろうが一応聞いておく。僕が何だって?」
「期間は一年、その間にあなたと私とどちらがアスカの心を射止めるか」
「女相手に女を争う気は無いぞ」
「怖いの?」
「……何?」
「私の名を、メドゥーサの意味を知らないわけではないでしょ、ラファエル。私の一睨みで、アスカを全裸で躍らせることも可能なのよ」
 レイは低く笑って、
「阻止してみなさいな、あなたの愛・の・力・で」
「ここでお前を殺したほうが、僕にとっては楽だな」
「心にも無いこと言う時、あなたの表情ってすぐ変わるのよね」
「……」
「私が単身でのこのこ来たこと、その意味が分からない貴方じゃないでしょうに」
「ガイアが動いたのか」
「アスカとの初登校で教えてあげるわ」
「何っ」
 シンジが身構えた一瞬を、レイは見逃さなかった。レイの髪が数本、地に落ちた途端それは紅い蛇となり、シンジを襲った。シンジの手首が一閃して二匹の蛇を両断し、もう一匹の頭を握りつぶした瞬間それは蒼い髪へと戻り、そしてその持ち主はもういなかった−アスカを連れて。
「動いたのはLAW(ロウ)の連中よ、それも国津神を味方にしてね」
 声は空中から聞こえ、シンジは少し憮然として歩き出した。
「まったくとんでもないやつだ」
 とぼやきながら−さして嫌そうでもなかったが。
 
 
 
 
 
「ねえアスカ知ってる?」
「あんたねえ、目的語を先に言いなさいよね」
「本当はずっと前から…」
「え?」
「ずっと前から、アスカのこと…」
「シ、シンジそれってっ」
 おもわず声が上擦ったアスカを、俯いたままのシンジから発する気がやさしく包み込んだ。
「アスカのこと、好きだったんだ」
「う、嘘…」
「嘘なんかじゃないよ。アスカは僕のこと嫌い?」
「うっ、ううんっ」
 アスカは勢い良く首を振った。
「良かった。じゃ…キスしてもいい」
「え?キ、キ、キ!?」
「キスだよ、キス。とても甘いの」
「え、えーとそのっ」
 紅い顔で視線を宙に泳がせているアスカの顔が、そっと挟まれた。
「ちょ、ちょっとシンジ!」
「前からキス…したかったのよね、アスカと」
「え?“よね”って…あーっ!!」
 がばっと跳ね起きた瞬間、アスカは目の前にある、今にも吸い付こうとしている唇の存在を知った。
「レ、レイっ、あんた何してんのよっ」
「あーあ、起きちゃった。もう少しだったのに…ひたたた」
「な・に・が・もう少しですってー」
 ぐいぐいとレイの頬っぺたを引っ張りながら、ふとアスカは気づいた。
「あれ、シンジは?」
 それを聞いた時、レイの目が妖しい光を帯びた事をアスカは知らなかった。
「先行っちゃったわよ、碇君」
「え?先に?あれ、何でレイあいつの名前知ってるの」
「何言ってるのよアスカ、さっきあたしにぶつかって、しかもパンツつまんだのあの人じゃない」
「え?」
「ほら、思い出してよ」
 アスカが首を捻った瞬間、レイの瞳がアスカを捉える。赤い瞳に呪縛された途端、アスカは“さっきの状況”を思い出していた。
「思い出した!あいつレイのパンツ引っ張ってレイに突き飛ばされたんだ。しかもあたしにぶつかって…って事はレイ、今まで待っててくれたの?」
「友達だもん、当然でしょ」
 こういう台詞はアスカの苦手とするところである。
 少し照れくさそうに笑いながら、
「あ、ありがと」
 と礼を言ったアスカを、レイはきゅっと抱きしめた。
「ちょっと!それは別よ」
「別じゃないわよ」
「え?」
「ゆすっても起きないから、これは人工呼吸しかないかと思ったら、急に起き上がってあたしの頬っぺた思いっきりつねるんだもん、ひどいよね」
「ご、ごめんレイ。あたし、知らなくて…こらっ」
 つい謝ったアスカを、レイがむぎゅっと抱きしめたのだ。
「レイ、もう行かないと学校遅れるってばほら!」
 ああんもっと、と抱きついてくるレイを強引に離し、アスカはスカートのお尻をはたいて立ち上がった。
「まったくもう、完全に遅刻じゃないの」
 だがアスカは知らない。
 レイがアスカを抱きしめた手を眺め、どこか凄愴にも見える笑みを浮かべたことを。
 そして、胸の中でこう呟いたことを。
(さすがアスカ、霊体マグネはすさまじい量ね…楽しみだわ)
 と。
 
 
 
 
 
「遅い」
 シンジの呟きは、既に10回を超えていた。
 朝入ってくるなり、
「男共、喜べ!美少女が転校して来たわよ!」
 と、勢い良く煽った担任のミサトだったが。
「…の、筈だったんだけどねえ。実は…来ていないのよ」
 えー!、何だよそれー!!と湧き上がるブーイングをかわすように、
「あれ?シンジ君アスカは?」
 シンジの隣はアスカの席。そこに鞄だけあるのを見つけてシンジに訊いた。
「低血圧だそうです」
「え?ははーん、また怒ってどっか行っちゃったのね。シンジ君、夫婦喧嘩はほどほどにね」
 その言葉を聞いてクラス中がどっと沸き…数秒でぱたっと止んだ。
 シンジの表情が、苦虫を噛んだような顔をしていたのである。
 普段怒らない人が怒ると怖い。別にシンジは怒ってはいなかったが、なんとなく危険な気がして、それ以上笑おうとする者はいなかった。
 ミサトもどこかばつの悪そうな顔をして、
「アスカが来たら、あたしのとこまで来るように言っといてね。あ、後相田君は欠席ね。じゃSHRはこれまで」
 と、そそくさと去っていった。
「シンジ、何があった?」
 近づいてきたのは鈴原トウジ、シンジの友人の一人である。
「ちょっと攫われてね」
「はん?」
「転校生、あれアスカの幼馴染なんだ」
「惣流の古い友人なのか?」
「そゆこと。でさっき会ったんだけど積もるチリが何とかって、二人でどこかに行っちゃった」
「先生に言えばよかったのに」
「面倒だから…多分」
「多分?」
 トウジが訊き返そうとした時、始業を告げるチャイムが鳴った。
「やべ、リツコさんの授業だ。シンジ、後でちゃんと白状してもらうぞ」
 脅したトウジに、
「こら、鈴原!さっさと席に着きなさいよっ」
 ヒカリの鋭い声が飛んだ。
「まったく、委員長はいつもいつも…」
 ぼやき掛けたトウジに、
「なんですってぇ」
 ヒカリが角を出しかけた時、
「痴話げんかなら廊下でやって貰うわよ」
 白衣に身を包んだ赤木リツコが入ってきた。
 だが誰も笑わないのは、彼女が冗談は言わないと知っているからだ。
 依然とある男女(ふたり)がリツコに、
「熱いのは結構だけど、今は授業中よ」
 と注意されたところ、命知らずの娘が私たちそんなんじゃありません、とリツコに言い返したのだ。リツコは笑ってそう?、と言っただけだったがその数日後、昼の構内放送で二人の愛の語らいが一部始終流された、というとんでもない一件があったのだ。
 それ以降、リツコに歯向かう者はいない−ただ1人を除いては。
「さて、今日は術の実習よ。あら?シンジ君アスカは」
「宇宙人に攫われた」
「はい、もう一度」
「火星からの小型宇宙人に連行されました」
「それは初耳ね、いつ地球は宇宙人の侵略を受けたのかしら」
「関東大震災の時から」
「それはまた随分と昔の話ねえ」
「先生に恋人がいたより前じゃないよ」
 こんな事を言えるのはシンジだけであり、またリツコも怒ってはいないと皆知ってはいるのだが、その冷たい雰囲気に息を呑んでやりとりを見守っている。
「シンジ君」
 リツコが穏やかな声で呼んだ−危険な兆候だ。
「術式はF、最初の実験はあなたにやってもらおうかしら」
 魔道も授業に組み込まれているこの学校では、さして難しいことでもない。単に数十センチ物体を宙に浮かせればいいだけの事だ。
 だがリツコが一体何を企んでいるのかと、皆の視線に不安な物が混ざった次の瞬間、
「私がやりまーす」
 元気のいい声とともにがらりとドアが開いた。
「あなた?」
 リツコがじろりと見た瞬間、レイの手元から数十条の何かが飛んだ。それがレイの蒼髪であると、リツコとシンジだけが見抜いた。
 そしてそれは全員の机に落ちた途端、ちろちろと舌を出す蛇へと変わった。
「きゃ!?」
 女生徒達の達の驚愕が悲鳴に変わる寸前、それはきれいな花へと変わった。
「転校のご挨拶に」
 と、レイは嫣然と笑って見せた。
 机にぽんと咲いた色とりどりのきれいなバラに、女生徒達は半ば尊敬のまなざしでレイを見た。
「貴方が転校生なの?」
「綾波レイです。学校に来る途中で気分が悪くなっちゃって。そしたらアスカさんが通りかかって助けてくれたんです」
「そうなの?アスカ」
「う、うん」
 だがそれを聞いた時、わずかにリツコの表情が動いた。そして視界の端にシンジを捉えたとは、当人たちだけが気付いている。シンジが軽く首を振るのを見て、リツコはそれ以上追求しようとはしなかった。
「まあいいわ。体の具合じゃ仕方ないわね。で貴方の席は…あら?」
「さっきいなかったんで、まだ机は無いんです」
 シンジの言葉にレイがシンジを見、二人の視線が空中で絡み合った。
「僕が取りに行きますから。アスカ、付き合ってくれる?」
 ミサトならそれを聞いて間違いなく冷やかしただろう。
「あーらシンジ君、綾波さんに興味があるの?目の付け所が違うわねえ」
 位は言ったかもしれない。
 だがこれはリツコである、シンジの意図を見抜くと、
「そうね、じゃあ綾波さんあなたはアスカの席に座っていて」
「はーい」
 レイは屈託無く返事をすると、
「じゃあよろしくね、私のぱんつ触った碇君」
 一瞬の静寂が訪れた後。
 教室中は雀蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 初めてであったろう、赤木リツコの担当授業でこんな騒ぎが持ち上がったのは。ある意味開校以来の珍事と言えたかもしれない。
 しかし、生徒たちの関心はシンジが転校生のパンツを触った(らしい)、ということではなかった。何故か転校生と親しいらしい鬼嫁、すなわちアスカがどう反応するかであったが意外にも、
「男なんてそんなもんだし、別にいいわよ」
 と、驚天動地の台詞が返ってきた。
 クラスは違った意味でどよめいたが、
「私の授業、これ以上の遅滞は許さないわよ」
 リツコの一言で静まり返った。
「じゃシンジ君頼んだわよ、それとアスカもね」
(絶対怒ってる)
 400%確信しながら、シンジはアスカと出て行った。
 が、
「アスカ、行こう?」
「うん」
(あれ?)
 なにやら落ち込んでいる様子に、何があったかとシンジの表情がわずかに変わった次の瞬間。
(あ、良かった)
 安堵した途端、ドカ!っと後ろから強烈なひざが飛んできた。
「痛っ!」
「このバカシンジ!」
「え?」
「あんたレイのパンツなんかどこがいいのよ!」
(弄られたか)
 一瞬逸らした表情が、凄絶なものに変わった。第一シンジはレイの下着など、見てさえもいない−ましてや触ってなど。
 レイが奇妙なことを口走った時に、アスカが無表情だったのも気にはなったが、今アスカの言葉を聞いて、間違いなく記憶を変えられたことをシンジは知った。
「ご、ごめん。あんまり良く覚えていないんだ」
「なんですって?」
「ぶつかったショックでちょっと頭がぼうっとしていて」
「じゃあ何で逃げたのよ」
「あ、あれは…綾波さんが先行けって言うから」
「え?そうだったの?」
「アスカは私の幼馴染、私が面倒見てるからって…」
 まさか自分が押し倒した、などとは言ってないだろうと鎌を掛けてみると、
「そうよね、シンジがあたしを放り出して逃げるわけはないもんね。私の家来なんだから」
 ポツリと呟いた瞬間、アスカはうめいて頭を抑えた。
「アスカどうしたの?」
「なんか…頭の中がずきずきして…痛いのよ」
(確か生理じゃなかったはず。だとしたらメドゥーサに記憶を弄られて、そのショックか。道理でさっき殆ど反応しなかった訳だ)
  シンジの目に危険な光が浮かんだが、無論アスカには見せず黙ってシンジはしゃがみ込んだ。
「え?」
「乗って」
「ちょ、ちょっと」
「いいからほら、前はよくこうしてたでしょ」
 そう言ってシンジは指を鳴らした。それを聞くと、アスカは二、三度瞬きをし、そして頷いた。
「まあいいわ、落とすんじゃないわよ、バカシンジ」
 一応威張ってから、シンジの背に乗ったアスカは腕をきゅっと巻きつけた。
 だが柔らかな胸が当たる感触の筈ながら、シンジの表情にそれを感じる物は、微塵も感じられない。
(即席で思い込ませるなら僕でも出来る…いいだろう)
 二人で机と椅子を担いで帰ると、レイの視線が二人を出迎えた。アスカには甘く、シンジには挑戦的な視線で。
 アスカの方は、やたらとくっつきたがるレイを思い出し、なんとも言えない表情でその視線を避けたが、シンジの方はレイを見ようともしなかった。
 その脳裏には、レイが言った事を反芻中だったのである。
(LAWの連中が動き出した…国津神までも?だとしたら…“転校生”は一人では済まないな)
 なにやら考え込んでいるシンジを、リツコが呼んだ。
「シンジ君、終わったら私のところまで来なさい、いいわね」
「え?あ、はい」
「あの、先生私の席は?」
「そうね」
 リツコのきれいな人差し指が、すっと顔に当たって数秒考え込んだ。年がら年中、危険な薬品に触れているにも関わらず、一日数箱は消費するスモーカーであるにも関わらず、女生徒達が羨んで止まないきれいな指の傾きに、教室のあちこちからため息があがった。
 そして何を考えたのか、
「アスカの隣に座って」
 と命じたのである。それを聞いた時、一瞬だけシンジの視線がリツコを捉えた。
 だが、リツコがふっとそれを避けたことに、気付いたのはシンジだけである。その他の生徒達は、どこか危険な匂いのする席配置を興味深げに見守っている。
 がたがたと音をさせて、机をアスカにぴたりと寄せたレイ。その赤い瞳はアスカを通り越して、シンジへと向けられている。本来なら図は逆だ。転校生が幼馴染に妙に接近し、気が気でない娘−そんな図の筈なのにどこか異様な空気を、皆が感じ取っていた。
 だがそれを口に出すことは、普段温和なシンジはともかく、鬼姫の噂もあるアスカを怒らせかねないのだ。そこまでして好奇心を満たしたくはない。 
「ね、アスカ教科書見せてね」
「え?別にかまわないけど」
 と入ったものの、何となく気になってシンジをちらりと見る。無論シンジの許可が要る、と思っている訳ではないが、何となく二人の仲に妙な物を感じていたのだ。そしてそれは、少なくともアスカが心配するような−親密な空気とは違い、むしろその反対のような物であった。
(どうしたんだろ…いた)
 考えようとすると、何故か頭の芯が痛む。それを見て取ったレイがすばやく、
「アスカ、今やってる所教えてよ。ね?」
 アスカの気を逸らしにかかり、アスカの意識がそっちを向いたと知るや、口元にほんの少しの笑みを浮かべた−余人では気付かぬほどの、だがシンジには確実に伝わった笑みを。
 それに気付いたシンジの表情が、わずかに動いた。そのしなやかな眉が寄った時、胸中には何が浮かんだのか。
 だが二人の視線はそれ以上交錯する事もなく、授業は終了した。
(そこまでして、僕に挑戦してくるかメドゥーサ)
 表情は変えずシンジが胸の中で呟いた時、リツコが出て行くのを見つけシンジは立ち上がった。
 
 
 
 
 
 
「ん?」
 遅れてきたケンスケは、校門の所で立ち止まっていた。その嗅覚が霊波の乱れを感じ取ったのだ。
「これだけの波動、しかも結構でかい。シンジのやつ暴走でもしたかな?」
 にやっと笑って下駄箱に近づいたその足が止まった。一番端の下駄箱に入れられていた靴に気がついたのである。転校生か?、と何気なく通り過ぎようとした途端、その顔色が変わった。
「こいつは一体!?」
 ポケットから小さな紙を取り出すと靴に−レイの物−に近づける。それが一瞬にして灰と化した。熱さは感じさせずに燃え尽きた紙を数秒見つめ、
「味方じゃあなさそうだな、もう来たのか。シンジ、やばいぞ?」
 あまりやばそうではない口調で言うと、灰を握りつぶして教室へと歩いて行った。
 
 
 
 
 
「何のつもり?金髪の嫁き遅れの大年増の…いて」
「そのぐらいになさいなシンジ君、いえラファエル」
「僕をその名で呼ぶなと言った筈だよ。それに頬を引っ張ると顔が伸びる」
「しまりの無い顔になれば女の子からの人気も下がるわよ。そうしたら」
「たら?」
 分かっていてシンジは聞いた。
「癇癪の姫のご機嫌を損ねることもなくなるわ」
 真面目な顔で言うと、リツコは熱いコーヒーを一気に飲み干した。
「で?」
「狙いはアスカ、だけじゃないわね。あなたと何があったの?」
「前に見逃した」
 話題の切り替えに、第三者は訳も分かるまい。この二人の会話など、リツコと長い付き合いのミサトにさえ分からないのだ。
「いつ頃の話かしら」
「やく三年前。だから蛇は嫌い−しつこいから」
 少し唇を歪めて言うと、シンジは置かれていた花瓶に手を伸ばした。挿してある花を一本取り出すと、手のひらに載せて息を吹きかけた。あっという間にとぐろを巻いた蛇と化したそれを、リツコの肩の上に載せる。リツコは驚きもせずにその頭を軽くはじいた。
 元の花に戻ったそれを、何事も無かったように花瓶に入れると、
「ゴーゴン?」
 と訊いた。
「違うよ」
「メドゥーサ?」
「当たり」
「あの位置なら、授業中に蛇の大群があなたを襲っては来ないわよ。あなたにも恨みが有りそうだし、かえって好都合じゃない」
「僕はメドゥーサのパンツなんかに興味は無い」
 シンジの言葉を聞いて、ほんの少しリツコの表情が動いた。
「あなた、女の子に興味なかったの?」
 校内一の防音を誇ると言われる部屋から、押し潰したような悲鳴が聞こえたのはその数秒後のことであった。
 
 
 
 
「相田、あんた遅かったじゃないの。ヒカリが怒ってたわよ、まーた相田の遅刻癖が出たって」
 妙にくっついてくるレイから、少し体を離したアスカはケンスケを見つけるとこれ幸いと話し掛けた。
「少し寝坊したからな。ところでそっちのお姉さんは?」
「綾波レイよ。アスカの恋人」
 さらりと言った台詞に教室内がざわめき、慌ててアスカがレイの口を抑えた。
「こらレイ!何であたしがあんたの」
「恋人いないんでしょ?」
「え?」
 それを聞いた時、二人だけ表情がわずかに変わった−アスカとケンスケが。
 アスカはほんの少しだけ頬を染め、ケンスケの目には一瞬だけ危険な物が宿った。
(なるほどこいつだな、さっきの主は)
 瞬時に悟ったがおくびにも出さず、
「惣流はもう売約済みだぜ、綾波さん」
(やるわね、この子。さて何者かしら)
 ケンスケが売約済みと言った時、レイの目が危険な光を帯びたのだ。その紅い瞳がケンスケを射抜いても、ケンスケは平然としていたのだ。
 だが一難去って又一難、次の瞬間ケンスケは脇腹を抑えていた。
「いってー…惣流なにすんだ」
「このバカ眼鏡!誰が売約済みだってのよ。だ、大体私が誰に買われ…え?」
 にゅうと伸びたレイの手が、アスカに巻きついたのだ。
「じゃアスカはフリーって事だし、勿論あたしもフリーだから似た者同士問題ないわよね」
「ちょっと待ちなさいよレイ。女同士でそんなの…」
「不潔よ!」
 と言ったのは戻ってきたヒカリであった。
「相田君、また遅刻したわね」
 とケンスケをじろりと見ると、
「あのね綾波さん、女の子同士でそれはちょっとま…」
「ヒカリっ?」
「うーん、でも好きな人がたまたま女の子だったわけだし…問題ないかしら」
 あっさりと方針転換したヒカリを、アスカは愕然と見つめていた。
「ヒ、ヒカリ?」
「強いね」
「え?シンジ?」
 教室の入り口で、腕を組んだままのシンジがこっちを見ていると知り、何故かアスカは紅くなった。
「こらバカシンジ!」
「え?」
「あたしが襲われてるのに何してたのよっ」
「だ、だって…じゃ、邪魔しちゃ悪いかなと」
「うるさいっ」
 アスカの手から飛んだ教科書は、一直線にシンジを襲った。シンジはひょいとそれを受け止めると、ちょうど入ってきたトウジにそれを渡す。
「何だこれ?」
「それアスカに返しといて、ちょっとトイレ行ってくるから」
 トウジの返事も待たずまた出て行った、シンジの後を追うようにすっとレイが立ち上がった事に、気がつくものはいなかった−ケンスケ以外は。
「ヒカリ、一体どうしたのよ?」
「え?」
「普段レズは嫌ってあんなに言ってたのに」
「何の事?アスカ」
「だ、だってさっき女同士でもいいなんて言ったじゃない」
「う、嘘」
「言ったわよヒカリが」
 うんうん、と周囲が一斉に頷くのを見て、みるみるその顔色が変わっていた。
「レズ?女同士?終わらない遊戯??いやーっ!」
「だ、誰もそこまでは…」
 アスカが言い終わらないうちに、
「不潔よ!信じらんない!」
 教室中に叫びが響き渡った。
 
 
 
 
「催眠の腕前は上がったようだな」
 屋上で、貯水タンクに寄りかかりながらシンジが言った。誰も聞く者はいない。
 だが、
「ぼやぼやしてるとアスカは私が貰うわよ」
 声は空から降ってきた。
 シンジはちらりと空を見上げて、
「そんなお子様下着じゃ、触るどころか見る気にもなれないな」
 ふん、と笑った。
 見る見るレイの顔が紅くなり、何か言いかけたがそれを抑えこんだ。
「よ、余計なお世話よっ」
 怒鳴るように言うと、その手から数十条の黒髪が襲ってきた。どうやら本人気にしていたらしい。
 シンジは避けようともせず、手のひらでそれを弾き返す。地に落ちたそれには目もくれずに、
「お子様下着の化け蛇など、敵になるとも思えないが…クラスの女生徒全員をレズ信奉者に変えさせる訳にも行かないな。ただし忘れるな」
「何をかしら」
「アスカにさっさと好きと言わせて、その時点で終わりだ。その後は僕がお前を滅ぼしてくれる。今度は跡形も無いように」
「出来るかしらね、あなた如きに」
 それを聞いた時、わずかにシンジの眉が上がった。
「アスカの性格と、あなたの意気地なし。式にしなくても答えは簡単に出てるわよ」
 レイの上体が大きくのけぞったのは、次の瞬間であった。
 胸元を掠めた光を、レイは間一髪でかわした。
「当たらないわよ」
 笑ったその顔が、がくんと前に折れたのはその数秒後の事である。外れたかに見えた光線は、途中でUターンしてレイの後頭部を襲ったのだ。
 墜落していく姿に、視線を向けようともせずにシンジはぼやいた。
「下僕と恋人…雲泥の差があるんだけど…ちょっとだけ不利かもしれない」
 そして短くため息をつくと、ドアを開けて出て行った。