第八十七話
 
 
 
 
 
 アスカは今まで常識の世界に生きてきた――巨大ロボットに乗って敵と戦うアニメみたいな話――は別として。
 モミジと話す前なら、間違いなく抵抗したはずだ。背中に貼り付いているのは、ナイフでも銃でもなく、ただの紙切れなのだから。
 だがアスカはモミジに会った。そして理解不能な、と言うより理解してはならぬ世界がある事も知った。全部を信じた訳ではないが、キス一つで知識を共有できるなど、アスカの常識ではあってはならぬ事だ。
 地下への道を歩きながら、アスカの抵抗を止めさせていたのは根底から覆された常識だが、アスカの命を救っているのもまたそれであった。モミジと話していなければ、おめおめと人質にされているアスカではない。
 ナイフや銃ならいざ知らず、自分に突きつけられているのは一枚の紙片なのだ。
 短時間で常識を根底から上塗りされたアスカだが、それを理解出来ぬほど頑なではなかったし、石頭でもない。
(それにしても)
 アスカは内心で呟いた。
 後ろの女が持っている紙切れが、何の役目を果たすのかは知らない。しかし、先に立って歩くモミジよりも弱いとは思えないのだ――無論、自分よりも。
 つまり、わざわざ自分を人質になどする必要は無いという事だ。
 では何の為に?
 アスカは訊いてみる事にした。一応理解したとはいえ、銃やナイフのように存在自体が恐怖を喚起する対象でない事もあるが、この辺の思い切りの良さはアスカらしいと言える。
「一つ訊いていい?」
「何か」
 一撃は来なかった。ハナから用心などされていないのかもしれない。
「あたしを人質になんてしなくても良さそうだと思うんだけど、何であたしを盾にしてるの」
「さて」
 ある意味予想した答えであった。ちょっとムカッとは来たが、振り向くほどアスカは間抜けではない。
「死体になって私の踏み台を希望ならそれでも構わないけれど」
「…遠慮しておくわ」
 ぞくり、とアスカの背を寒い物が走る抜けると同時に、アスカはある事を確信していた。
 即ち、二人同時の相手を怖れた訳ではなく、自分の人質効果の為でもない、と。
 シンジ様に取り入った、とカエデは言った。レイの反応を見る限り既にシンジの敵になっているようだが、まだ何らかの感情はあるのだろう。少なくとも、自分をあっさり殺せない程度のそれが。
 ただ、それが分かったところで事態が好転する訳ではない。主導権は間違いなくカエデなのだ。
(中途半端なピンチよね)
 微妙なスタンスの答えが出た時、
(アスカ)
 不意に脳内で声がした。
 テレパシーの出来る知り合いはいない。
(幻聴?)
(わたくしです)
(モミジ?)
 脅されるまま歩くモミジではあるまいと思ったが、こう来るとは思わなかった。間違いなくダイレクトに脳内へアクセスしてきたのだ。
(あんた超能力者だったの?)
(さっきキスしたからです)
 モミジの台詞は単純明快であった。
 不意にアスカが蹌踉めいた。思わず大きな声を上げかけて、咄嗟に抑えたのだ。
 何でもないわ、と立ち上がり、
(…それで何よ)
(もう少し我慢して下さい。必ず助け出しますから)
(分かってる。頼んだわよ、“相棒”)
 アスカがあっさりと任せた理由はただ一つ、シンジがモミジを信頼しているからだ。それに、モミジに打つ手がなければ自分の命運も決まってくるのだから。
 それきり精神波の行き来は途絶え、何事も無かったかのように歩き出す。
 途中、アスカの表情が僅かに動いた。誰かに見られているような気がしたのだ。
 しかし何も見つけられず、すぐに歩き出した。
 十数分後、一行の足はある場所で止まった――巨大な水槽に沢山の綾波レイが回遊している部屋である。
「こ、これは…」
 最初は分からなかった、と言うより本能が事態の認識を拒否したと言った方が正しいだろう。
 呆然と立ち竦んだ瞬間、アスカは間違いなくカエデの事など忘れ去っていた。
「なるほど、これがクローンの生け簀ね。ダミーには所詮及ばぬ廃棄物の溜まり場か」
 カエデが嘲るような口調で言うのと、アスカの身体が引っ張られるのとがほぼ同時であった。一瞬の隙を突いて奪還されたアスカだが、カエデの方は気にも留めていなかったらしい。
 アスカを抱き込んで数度回転したモミジを冷ややかに眺め、
「こそこそとさらっていってから、見事奪還しましたと“あの方”に報告するつもり?さすがに下賤の者は考えまで下賤と見える」
 “あの方”とは、シンジの事だろう。理由や経緯は分からないが、カエデが好んでシンジに敵対しているとは、アスカにはどうしても思えなかった。
 そもそもカエデはここへ何をしに来たのか?
「私が何をしに来たのか、と?」
 一瞬アスカは狼狽えた。
 口に出した記憶はない。
「勉強には秀才でも、表情を読まれない事では小学生程度ね。顔に書いてあるわ」
「べ、別にあんたが何をしに来たかなんて興味ないわよ。でも、この水槽壊したりしたらあんた、絶対に生きて第三新東京市(ここ)から出られないわよ」
 カエデはうすく笑った。
「あの方が討伐にやって来たら…そうだな、お前達二人を人質にするとしよう。それより、これの事は知っていたのかしら?」
「…知らないわよ。そもそもこれって何なのよ」
「クローン人形の生け簀。或いは肢体を補う為のパーツ置き場と言った方が正解かしらね」
「パーツ置き場…」
 鸚鵡返しに呟いてから、アスカはちらりと横を見た。
 無論モミジも初めて見る筈だが、自分ほど衝撃を受けている様子はない。ダミーには所詮及ばぬ、とカエデは言った。或いは、モミジもこの手の物は見た事があるのか。
「つまりレイが普通の人間じゃないって事?」
「普通の人間だと思っていたの」
 逆に聞き返され、アスカは一瞬後悔した。クローンとは言っていなかったが、自分が普通(ノーマル)でないとは、レイも自ら言っていたのではなかったか。
 しかも数時間前、レイが手に帯びていたのは間違いなくATフィールドであった。
 倒した使徒から造られたクローンというなら分かるが、人間とまったく同じ姿態の使徒がいたとは聞いていない。そもそも使徒出現はついこの間だった筈だ。
「あの方が何を考えてあんな化け物を甘やかしたのか、興味もないし知りたいとも思わない。とはいえいくらでも身体のパーツ交換にいくらでも補充の訊く化け物など、我らの妨げになるのみ。ここで始末してくれる」
「なっ!?」
 思わず前に一歩前に踏み出したアスカだが、
「五体を吹っ飛ばされたくなかったら大人しくしていなさい。今日の要件はお嬢様にはないのよ」
 台詞は穏やかだが、カエデの一瞥はアスカを呪縛するには十分であった。
(あれ?)
 ふとアスカは、服を引かれているのに気付いた。
(わたくしより力は上ですが、爆破は絶対にさせません。動かないで)
(いや…足動かないし)
 やや自嘲気味に呟いた直後、今度こそその足は凍り付いた。いや、アスカのみならずモミジも、そしてカエデまでもが彫像と化したかのように動けなくなったのだ。
 その原因は、彼らがやって来た方向にあった。
 吹き付ける凄絶な妖気が人の形を取った。
「わらわの休み場所を荒らすと申したか」
 妖々と歩み出たのは、無論妲姫だ。
 その雰囲気はシンジを吸った時の物へと、完全に戻っている。
(動けない!)
 カエデのそれとは根本的に違う――人が決して目にしてはならぬ存在が、そこには確かにあった。
 睨むでもなく、威嚇するでもない。ただ近づいていてくるだけだ。
 にもかかわらず、アスカとモミジを子供扱いしていたカエデさえ、全く動けないではないか。
 姿形――肢体はレイの物だと分かる。完全には復調していない証拠だが、それを分かる者はここにいない。
 だが中国服に包まれた身体を覆う気は根本的に異質の物であり、反応せずにいられるのは無邪気に泳ぐクローン達のみだ。
「いつぞやは、レイが随分と世話になったの」
 親しい友人の肩に手を置いた、と至極ありふれた光景に見える。次の瞬間、声も立てずにカエデが吹き飛んだ。気功とか技とかそんなものではなく、単に触れただけだと、見ていたアスカにもはっきりと分かった。
 文字通り指一本でカエデを壁へ叩きつけた妲姫が、くるりと振り向いた。妲姫の姿を見た瞬間から、蛇に魅入られた蛙のように瞬きすら出来なかったアスカだが、自分では気付いていない。
 その指がくい、とアスカの顔を持ち上げた。
「魔力すら持ち合わせぬ娘か。これでは吸うても役に立たぬな」
 未だ起きあがれぬカエデを視界に入れながら、不思議と恐怖心は感じなかった。女の勘があったのかもしれない。
 妲姫は妖しく笑った。
「我が物とはせずに置いた。シンジよ、借りは返してもらうぞ」
 何が我が物で何が借りなのか、見当も付かなかったが、妲姫はもう興味を失ったかのようにアスカを放した。
 ちらりとモミジを見て、
「生命移動とはなかなか面白い術を使う。六百年前に一度見た。宿り主――お前の場合にはシンジを滅ぼせばお前も滅びる、そうであったの。シンジに抱かれもせぬ内にここへ来たか」
 妲姫の声にはやや揶揄が混ざっていた。
 ここの水槽は妲姫にとっては回復の場であり、来るのが数分遅れていれば破壊されていた可能性が高い事を考えれば、当然かも知れない。
「わたくしの…命に替えても…水槽へ手出しはさせません」
「ほう。頼もしい事よの」
 アスカの時同様、童を見るような視線で見てから、漸く思い出したようにカエデへ足を向けた。
「片づけるのも面倒じゃ。中の者達と戯れてくるがいい」
 この場に於いて力量の順は明確であり、一人遠くに置かれているアスカだが、事態を認識しようとする能力は消失していなかった。ここにいる者達全てを圧倒している妖女が、レイの肢体ではあるが単なる二重人格とは違い、根本的に別人である事にアスカは気付いていた。
 即ち――魂すら異なる者だと。
(でも中の者達ってあのクローンじゃないの!?)
 巨大な水槽の中にいるのが、綾波レイという人間から作ったクローンだとは考えにくい。むしろ、自分の知るレイもまたクローン人間だという方がすっきりする。
 既にそんな事で驚ける状況ではないのだが、アスカは妖女の正体よりもその台詞の方が気になっていた。
 戯れる、と言ったのだ。浮遊するしか能がなければ、そんな事は言わない筈だ。刹那アスカの脳裏にある光景が浮かんだ。
 それは――綾波レイの大群がわらわらと群がってきて、自分が体中をくすぐられている光景であった。
 一瞬ながら、綾波レイは一人にした方が良いのではないという考えが浮かんだアスカは、慌てて首を振った。
 そんな小娘の煩悶など知らぬげに、希代の妖女は悠然と歩み寄っていく。その距離が一メートルになった時、アスカの視界の隅で何かが光った。
(ん?)
 光源を認識する前に、それは目的地へ到達した。
 妲姫の右腕を射抜いたのである。服はノースリーブだから腕はむき出しだ。鮮血の滴り落ちる光景に、アスカとモミジが思わず、あっと声を上げた。
 銃弾でないのは分かっている。銃声は無かったし、そもそも光線のように飛来する銃弾は開発されていない。
 答えは上空にあった。
 銀髪の少年が宙に浮かんでいたのである。
「迎えに来たよ、お姫様」
 無論、あの世へのお迎えではあるまい。その言葉はカエデに向けたものだ。
 にこりと笑ったその顔に、アスカとモミジの口が動いた。
 嫌な感じ、と。
 
 
 
 
 
 風呂から戻ってきたらレイがいなくなっていた。
 とりあえず知り合いに電話する。
「うちのレイが家出しました。その辺にいませんか?」
 唐突な電話にサツキは一瞬顔色を失ったが、探しに行くと言うのを制してシンジは電話を切った。
 レイが自分で出て行く事はあり得ない。と言うより出来ない。
 にもかかわらず姿を消したという事は、妲姫へ完全には変化せぬまま力だけ引き出したという事になるが、
「いーや、違う」
 シンジは首を振った。
「そんなに成長してる訳はない。大体――」
 妲姫として抜け出したのなら、必ずや自分に襲いかかってくる。風呂にいるからといって遠慮するような女ではない。
「車に轢かれもしないだろうし、ほっとこ」
 放置する事にしたシンジは、風呂上がりのアイスを取りに台所へ歩いていった。
 
 
 
 
 
「な、渚カヲル…」
 激痛に顔を歪めたカエデが何とか立ち上がる。
(渚カヲル?)
 そんな名前は初耳だし、無論見た事もない顔だが、宙に浮いている時点で普通の人間でない事は明らかだ。
「誰が来てくれと言った」
「僕が勝手に来ました。言ったでしょう?君の力が必要なんです」
 妲姫を歯牙に掛ける様子もなく、渚カヲルと呼ばれた少年はゆっくりと降りてきた。
 身構えもせずに歩いてきたのには、見ているアスカの方が度肝を抜かれたが、ふと妙な事に気付いた。俯いているかに見えた妲姫の気が変化していたのだ。
 少なくともさっきまでのように見る者全てを凍り付かせるそれはない。おまけに自分の呪縛までも解けているではないか。
 内心で首を傾げたアスカだが、その謎はすぐに解けた。
 妲姫の後ろで足を止めた渚カヲルがこう言ったのだ。
「初めましてファーストチルドレン、綾波レイ。君は僕と同――」
 最後まで言い切る事は出来なかった。
 くるりと妲姫が振り向いた途端、その身体が豪快に吹っ飛んだのだ。
 アスカの口が小さく開いたのもむべなるかな、冷ややかに赤い瞳を向けているのは綾波レイ本人であった。
「レ、レイ…?」
 アスカの声が聞こえたのか、レイが一瞬視線を向けた。
(レイ…)
 すぐに背けた視線がひどく寂しそうに見えたのは、自分の気のせいだったのか。
「なるほど、完全に別人という事か」
 軽く腰をおさえながら渚カヲルが立ち上がる。
「力を封じても君には影響がない、と言う事か。まあいい、それならそれ――!?」
 今度もまた、言葉は途中でとぎれる事になった。
 右足に何かが貼り付いたかに見えた次の瞬間、ぱっくりと口を開けた足から一気に血潮が吹き出す。
「綾波レイさん一人に任せると、わたくしがシンジ様に怒られてしまいますから」
「君の…ご主人様かい」
「ええ」
 無論、モミジの手から飛んだ呪符の仕業である。
 ひっそりと微笑った直後、その表情が凍り付いた。
「じゃあ、人数が一人減ったらどうなるのかしらね?」
 モミジとレイが同時に振り向いた先には、羽交い締めにされたアスカの姿があった。
(しまった!)
 ただ羽交い締めされているだけだが、その首筋へそっと当てられている指先が何を意味するか、分からぬ二人ではない。
「クローン共を破壊してからお前の五体を封印するつもりだったけど、今日の所は見逃してあげるわ。次に会った時は必ず滅ぼしてあげる」
 その言葉そのままお返しします、とは言えない。
 目下捕まっているのは彼女の相棒なのだ。
 アスカを盾にしたままカヲルの所まで歩いていき、
「頼みもしないのに余計な事をする人ね」
 そう言った口調は、モミジ達へ向けたものとは明らかに異なっている。
「予定は…変更かい?」
「誰かさんのおかげでね。一旦退くわよ」
 カヲルを軽々と引き上げると、こちらを向いたまま後ずさりしていく。三人の姿が見えなくなった瞬間、駆け出そうとしたレイの手をモミジが引いた。
「アスカが心配じゃないの?」
「アスカに手を掛ければ、この都市(まち)から生きては出られません。あの二人もそれ位は分かっている筈です」
「……」
 レイにはそう言ったが、モミジも絶対の自信があった訳ではない。ただ、カエデの深読みに賭けていたのである。
 すなわち、居場所とまでは行かずとも、生命反応はシンジが掴んでいる、と。カエデがそう踏んでいれば、アスカを殺した瞬間シンジに知られる。逃げる間際だとしても、深手を負っている荷物がいるから、機動力は半減している筈だ。その上でなお、シンジから逃げ切れると考えるほど愚かではあるまい。
 逆に言えば、単純に考えた場合アスカは始末した方が得になる。二人に出来るのは、ただ待つ事だけだ。
 無邪気に泳ぐクローン達を横目に、重い沈黙が流れる。
 先に口を開いたのはレイであった。
「さっきは…ごめんなさい。よく似ていて区別が付かなかったの」
 モミジは軽く首を振った。
「あなたが来なかったら、今頃はアスカを盾にしてわたくしは封印されていました。だからこれでこの話は終わりにしましょう」
「ええ…」
 会話は途切れ、また二人は立ちつくす。
 ふとレイが水槽を見た。
「私がクローンだという事は知っていたのね」
「ええ。大量の予備を見るのは初めてですが」
「クローンの人間は見た事あるの?」
「いいえ。人間のクローンを作るのは国際的にも禁止されていますから。でも、正確はクローンとは違うのでしょう」
「どういう意味?」
「碇司令が喪った方の面影はあるけれどうり二つではないし、クローンとは本来コピー品を指しています。何よりも、今のあなたは遺伝子レベルで完全に別人になったと聞いています」
「あまり…嬉しくはないけれど…」
「どうして?」
「最初はお兄ちゃんの妹でいいのだと喜んでいたけれど…今は変わってしまった。妹なんかじゃないとお兄ちゃんに言われたら私は…」
 シンジがレイに優しく接していたのは知っている。ただ、それはあくまでも癒しの一種のようなもので、自分の物にしようとか手懐けようとかいう発想は全くない。
 結果としてレイはシンジを慕うようになったが、レイの意志とは違って依存に近いとアオイから聞かされている。レイに言えば、シンジを好きなのは自分の意志だと言うだろう。が、現実には未だ依存の域を出ていないのだ。
 だからこそ、アオイもシンジには理由を告げず別に暮らしている。シンジは当然のように同居だと思っていたが、今シンジと一緒に暮らした場合、レイの精神が不安定になる事を考えた結果である。
 実を言えばモミジも、レイにそのまま告げたい誘惑に幾度か駆られはしたのだが。
「妹ではない、と言うのは事実でしょう。でもそれをあなたに言った所で何も変わらないし、そもそもシンジ様は気にしておられないと思います」
「ほ、本当に?」
「はい」
 モミジは軽く頷いた。
 別に嘘は言っていない。
 ただ正確に言えば、気にしていないというより――どうでもいい事であろう。
「良かった…」
 レイがきゅっと我が身を抱きしめた数分後、アスカが戻ってきた。カードは持っていないから、怪我人を連れたカエデがゲートを破壊して出て行ったのだろう。
 特に負傷している様子はないアスカを見て、モミジは内心で安堵の息を吐いた。アスカに万一の事でもあれば、アスカを預けたシンジに会わせる顔がない。
「アスカ無事で良かった…」
 アスカは自嘲気味に肩をすくめ、
「無事っつーか…見抜かれてたわよ」
「え?」
「カエデだっけ?あの女が言ったのよ、お嬢さんの身体に追跡子の気配はない。殺しても問題はないし、むしろその方が後の禍根を断てるけれど殺さないってね」
「そ、それはどういう…」
「モミジ、あんたに伝言よ。あの方のお命を頂戴する気だったけど気が変わった、必ず我が物としてみせる、だそうよ」
「……」
 次の瞬間、アスカとレイの表情が固まった。
 かり、と小さくモミジの歯が鳴ったのだ。最初に会った時、シンジすら巻き込みかねない勢いで襲ってきたレイにさえ、全く見せなかった表情であった。
 鬼気にも似たものがモミジの全身を覆っていく。
「モ、モミジ…」
 漸く平静の気に戻るまで、三十秒近く掛かった。
「ごめんなさい、もう大丈夫です」
 うっすらと微笑んだモミジに、やっと二人の硬直が解ける。
「でもさ、別にいいじゃない」
「え?」
「あの言い方だと、次も絶対来るわよ。その時に決着付ければいいじゃない、そうでしょ?」
「え、ええ…」
 頷きはしたが何かがおかしい。
 次の瞬間それは的中した。
「ところでそこのクローン人間、あんた何で視線逸らしてるのよ」
「別に…」
(アスカ!?)
 モミジの知る限り、アスカはこんな事を言う娘ではない。一体どうしたというのか。
「ちゃんとこっち向きなさいよ」
 肩を掴んで無理矢理自分の方を向かせると、その両頬をぎにゅっと引っ張った。
「な、何をするの」
「あんたさっきからどうしてあたしの顔を見ないのよ。あたしに後ろめたい事でもしてるの?」
「そんな事はしてない。ただ…」
「ただ何よ」
「姫様の事は言っていなかったから」
「姫様ってあの女のこと?」
 レイは小さく頷いた。
 シンジでさえも、妲姫の事をあの女呼ばわりはしない。知らないというのは強い事だと、モミジは妙な事に感心してから、
「アスカ、その呼称はお止めなさい。あなたが抗える相手じゃないわ」
 妲姫に変化した時、その全てがレイに伝わる訳ではないが、逆の時レイに流れを止める術はないのだ。
「分かってるわよ」
 やや苛々した口調で言ったアスカが、
「こっちは余裕無いんだから大目に見なさいよ」
「余裕?」
 何の余裕かと、レイまでも訝しげな表情でアスカを見た。
「あんた自分がクローン人間で、おまけに使徒と同じ力を使えるって胸を張れないんでしょ。その事恥ずかしいと思ってるんでしょ」
「恥ずかしいとは思ってないわ。でも…普通とは違うか――」
「普通に何の意味があるのよっ!」
 レイも初めて聞く叫びにも似た声であった。
「あんたもあたしも何なのよ」
「何って…エヴァのパイロット…」
「そう、エヴァのパイロット。そこまでは三人とも同じよ。でも二人は自分の身を自分で守れて、もう一人は14歳で大学を出た頭でっかちなだけのパイロット。自分の身も自分で守れない役立たずなのよっ!あんたもモミジも、いざという時足引っ張らないじゃない。なのにあたしだけ荷物で…普通の人間である事に何の意味があるのよっ」
「『アスカ…』」
 確かにさっきの状況で、アスカは終始お荷物状態であり、モミジやレイの足を引っ張った事は否めない。
 渚カヲルというのが何者かは分からないが、アスカがいなければ妲姫に、或いはレイに討たれていた筈だし、そもそもモミジもアスカを質同然の状態にされて無理矢理案内される事はなかったろう。シンジから力をもらっていないとはいえ、抵抗も出来ぬまま封じられるほどモミジは弱くない。
 レイの肩を掴んでいるアスカの声は、最後は嗚咽に変わっていた。
 最初に動いたのはやはりモミジであった。
「確かにアスカの気持ちは分かります。でも、それは今だけのことです」
「……」
「アスカが言う事は間違いではありません。ただそれは、今が使徒の来襲と言う非日常の中にわたくし達がいるからです。シンジ様にも言われたでしょう?使徒が何時までも来る訳ではない、と。14歳で大学を出た少女は、賞賛の目を向けられる事はあっても避けられたり、恐怖の目で見られる事はありません。でも撃たれたり斬られたりしても死ない者や、異形の者と同じ力を使える者は、日常なら石持て追われる存在なのです」
「だ、だけど…」
「アスカ」
 語りかけるように名前を呼んだモミジが、優しくその髪を撫でた。
「自分の身を守れないような娘(こ)は要らないと、シンジ様は言われましたか?」
 アスカが力無く首を振る。
「わたくしもいます。綾波レイさんもいます。護衛が職業じゃありませんから、チルドレンを守る義務はありません。でも、お友達は必ず守ってあげます」
「モミジっ…」
 肩に顔を埋めて泣くアスカをモミジがきゅっと抱きしめる。
 さっきの鬼気は微塵もなく、優しい姉のようにアスカを抱きしめるモミジを、レイはじっと見つめていた。
(お兄ちゃんによく似ている…)
 自分の時もそうだった。最初は敵意すら見せたのに、シンジはまったく怒る様子は見せなかった。
 それどころか、綾波レイは一人の人間なのだと繰り返し言って聞かせ、その通りに接してくれた。だから自分も変われたのだ。
 人間らしく、と言うのが何かと訊かれると少々困る。
 ただこれだけは言える――ゲンドウが全てであり、自らさえも信じていなかった頃とはまったく変わった自分になれた、と。
 歩み寄ったレイがアスカの肩に手を置いた。
「私も…私もいるから…アスカ」
 
 
 
 
 
「あの、ただいま…」
 家出したがお腹が空いて帰ってきた娘みたいに戻ってきたレイを、シンジはあっさりと迎えた。
「おかえり」
 ダミーから聞いているのかとも思ったが、そんな様子はない。
「あの、お兄ちゃん」
「何?」
「その、お腹空いたの…」
「カップラーメンならある」
 すうっと息を吸い込み、
「お、お兄ちゃんが作ったのが食べたい」
 即答が無く、また縛られるのかと思ったが、
「作っておこう。お風呂入っておいで」
「はい」
 ぱたぱたと風呂に向かうレイの後ろ姿を、シンジは黙って見送った。
 雀よりは少し長かったが、さっさと上がってきたレイが見たのは、野菜のたっぷり乗ったラーメンであった。
「いただきます」
「うん」
 食べながら、シンジにアスカの事を話したが、渚カヲルと名乗る奇妙な少年の事までは話さなかった。
 大した事ではないと――実際に大勢に影響は与えていない――判断したからだが、後に後悔する事になる。
「僕を物に、か。困ったもんだ」
 ちっとも困っていなさそうな口調で言ってから、
「アスカの事は、遅かれ早かれ一度は迎える事だった。戦自もエヴァだけが使徒を倒すのを黙ってみているとは思えないし、使徒だけを倒して全てが終わる事はないと思う。まだ早いとは思うけど、なった以上仕方がない。で、君の意見は?」
 まだ全てを話し終えてはいない。
「わ、私と…モミジさんで守ってあげればいいと思う」
「そう」
 頷いてから、
「今夜は泊まっていくといい。もうおやすみ」
「は、はい…」
 やはり誤答だったらしいと、足取り重く立ち上がったレイに、
「僕はプリンを作ってから寝る。明日帰る時に持って行って」
「え…うんっ」
 一転して、嬉々として歩いていく。
「確かに普通の娘じゃ非日常ではお荷物になる。でも人生では、平凡な方が余程長いんですよ」
 何も映っていないテレビを見ながらシンジが呟く。
 
 
 
 それから数日後、シンジとモミジはユリに呼び出されていた。
 ほぼ毎日のように病院へ来ているマユミに案内されて院長室へ着くと、端末の画面にカルテのような物が映っていた。
「明確な日付は不明だが、近々転校生が来るらしい」
「転校生ってこれ?」
「そう。名前は霧島マナ。戦自からの贈り物だ」
 
 
 
 
 
(続く)

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