第七十九話
 
 
 
 
 
「人間ってのは、変われば変わるもんだな」
 ベッドの上で寝息を立てているミサトを見ながら、リョウジは呟いた。
 無論、一戦交えた後ではない。
 そんな気分ではないし、何よりも身体がそれどころではないのだ。
 美貌の女医の一撃は、今なおリョウジの身体を責め苛んでいるのである。
 今回の作戦はアスカとレイ、ひいてはシンジとアオイに任せてあるのだと、殆ど自分付きっきりになっているミサト。
 まめではあるが、一つ一つの作業を見ていると、今も未だ家事が不得手分野なのは良く分かる。
 それでも、皿の上に三匹並んだリンゴ兎は、自分と付き合っていた頃のミサトには決して作れぬ代物であった。
 患者と付き添いが入れ替わっているのは、ふと気付いたらベッドに頭を乗せて寝ているミサトに気付き、リョウジがひっそりと入れ替えた為だ。
 無論、看護婦は怪訝な表情を見せたが、リョウジは指を一本立てて薄く笑った。
 煙草を取り出したが、火はつけぬままリョウジは空を見上げた。
 いつもの通り、白い月が冷たく、そして美しく見下ろしている。
(……)
 ミサトの反応は、会う前の想像とは随分異なっていた。
 容姿と性格は大体予想通りだったが、半死半生の目に遭ったとは言え、ここまでしてくれるとは思わなかったのだ。
 どういう思考を元にしているのかは分からない。
 ただし、単に好意だとかそんな単純な物ではないと、リョウジは気付いていた。
 そして、ミサトがおそらく自分の正体を知っている事もまた。
 確証は無い。
 だがネルフには信濃アオイがいる。
 自分の正体などとっくに知っている筈だし、そのリョウジに何も知らぬミサトを近づけるとは思えないからだ。
 言葉巧みにミサトが洗脳されでもしたら、それこそ面倒な事になる。
 とは言え、今のところミサトにそれを思わせる素振りはない。ユリにちょっかいを出すなんてあんたらしいわね、とは言われたがそれだけだ。
「鈴の鈴、か」
 抑えなくてもいい――単に貼り付いてさえいれば。
 要するに、彷徨かれる分には迷惑だが、後は害にも毒にもならないと、そんな風に判断されているのだろう。
 だが、とリョウジは首を傾げた。
「それなら殺した方が手っ取り早いはずだ。なのになぜ殺さない?」
 低い声で呟いた時、ミサトが小さく寝返りを打った。
 
 
 
 
 
 部屋の前に立ったアスカは、我が身を抱くようにして数回深呼吸した。
(落ち着いて。落ち着くのよアスカ)
 処女を捧げにやって来た訳ではない。
 ひっそりとシンジの横へ潜り込み、朝シンジが起きた時、隣に下着姿の自分がいればいいのだ。
 五分の一くらいしか入ってないワインの瓶も持ってきたし、シンジの部屋の灯りが消えているのも確認してある。
 後はどじったりしなければ、いいだけだ。
 勿論、目的は石川五右衛門とは違うから、別段びくびくする事はない。
 しかし、数千年を生きた妖姫に奇妙な影響を受けてきたレイとは違ってこのアスカ、侵入を防いだ事はあっても自分から侵入した事はない。
 文字通り、初体験なのだ。
 トクトクと音を立てているのは、無論自分の心臓である。それほどまでに家の中は静まりかえっていた。
 ドアノブに手を掛けると、ずるりと滑った。
 グリスの罠ではなく、手が汗ばんでいるのだ。
 落ち着いて、と自分に言い聞かせてもう一度深呼吸する。これなら、使徒を前にした時の方が余程気楽である。
 ノブの回る音を普段の数十倍にも感じながら、漸く人が一人入れるだけのスペースを作った。
「あれ?」
 と思わず呟いた。
 もぬけの殻だったわけではない。
 ただ、置かれている簡易ベッドが意外だったのだ。天窓から差し込む月光が、少々大きめのベッドを照らし出している。
 レイは自分の部屋に居たはずだ。
 だとしたら、盛り上がっている中味はレイではあるまい。
 毛布をめくった途端、抱き合う二人の姿が目にはいるような事はないだろう。
 この時アスカがもう少し冷静だったなら。
 或いは、証拠作りと景気づけに――踏み出す勇気の為――ワインを勢いよく飲んでこなかったら。
 おそらくこの状況を疑ったはずだ。
 贅を尽くしてはいないが、家具はどれも重厚な雰囲気を醸し出す物ばかりだし、到底安価とは程遠い物である――耐震・対ショックを優先した結果だとは、思いも寄らないだろうが。
 風呂もトイレも三流ホテルで使うようなものではない。
 なのに、どうしてこの部屋だけこんなに安っぽいのか、と。
 妙なハイテンションが、天才少女から判断能力を奪っていたのかも知れない。
 とまれ、アスカは足音を殺してベッドに近づいた。ワインの栓を抜き、そっと足元に置く。
 ベッド脇に立って、再度深呼吸する。もう、何度目の深呼吸かも分からない。
 ピラニアが生息する河に手を入れるよりもなお、慎重に手を差し入れた途端いきなり引っ張り込まれた。
「!?」
 ぎょっとして思わず抵抗しようとしたが、伸びてきた手はきゅっと身体を抱き締めてきた。
(え?)
 毛布の中だから見えないが、むにゃむにゃ呟いているのが聞こえた。
 どうやら寝ぼけているらしい。
 とはいえ、これなら却って好都合だと内心でにんまり笑った次の瞬間、その唇は塞がれていた。これには流石のアスカも抵抗したが、キスという行為はさほど大きな要因ではなかった。
 寝ぼけているシンジがキスするなら、相手が自分だと思っての筈はない。
 シンジが誰を考えているのか位、分からないアスカではなかったのだが、あっさりと舌を絡め取られ、柔らかく嬲られると四肢の力が抜けてきた。
(やだ上手い…)
 ふにゃふにゃと身体の力が抜け、アスカは何時しか自分から舌を絡めていた。
 たっぷりとお互いの舌を貪りあってから顔が離れる。
 真っ暗な中だけに、尚更感じるのかも知れない。
 と、ふとアスカの本能が異変を感じた。
 小さな針の先ほどの、だが明確な何かがアスカの脳裏で信号を点滅させる。
 次の瞬間アスカは跳ね起きていた。
 思わず伸ばした手が触れたもの、それは紛れもなく乳房だったのだ。
「あ…!」
 あんた誰、と言おうとする前に部屋の灯りがついた。
 相手を認識するのとアスカの顔が青ざめるのとが、ほぼ同時であった。
「自分と認識されてないって分かってるのに、身体くねらせて舌絡めるなんて、さすがあたしね」
 やや見下したような口調で言ったのは、まぎれもなく惣流・アスカ・ラングレー本人だが、本物のアスカはベッドの横で呆然としている娘である。
 事態が認識出来ぬまま、呆然と立ち竦んでいるアスカの背後で、
「やっぱり自分相手だと感じる?」
 笑みを含んだ声にアスカの首がぎこちなく動いて振り返る。
 立っていたのは当初の目的であった碇シンジ本人であり、珍しくパジャマを着てはいいるが寝ていた気配など微塵もない。
「ど、どういう事…」
 辛うじて訊ねたアスカに、答える代わりにシンジが指を鳴らすと妙な気配がした。
 再度振り向いたアスカが見たのは、ベッドの上に置かれた一枚の紙切れであった。
「痛い目に遭ってもらうのは芸がないし、やはりここは自分とのディープなキスを」
 まんまと当たった為か、明らかにご機嫌なシンジがベッドの上から紙を拾い上げた。
「君が来るのが見えたんでね、急遽用意したの。簡易ベッドがあって良か…あれ?」
 アスカに取っては、弐号機に初搭乗のシンジが楽々と操って使徒を倒したより、衝撃が大きかったらしい。
 ゆっくりと倒れ込んだのを、シンジは慌てて支えた。
 ただし、その口許には妙な物が浮かんでいる。
 にやっと笑ったところを見ると、作戦は成功したらしい。
「巴里は燃えているか」
 妙な事を呟いてから、
「たたき起こすのも無粋だし、さてどうしようかな」
 三秒考えた後、ベッドの上に腰を下ろすと、その膝にアスカの頭を載せた。
 そのまま、黙って月明かりが照らし出す顔を眺めていると、五分ほどでアスカは意識を取り戻した。
「さすがに若いと回復も早い」
 数分前の事だから、勿論記憶ははっきりしているだろう。
 今の状況もすぐに把握した筈だ。
 それでも、シンジの言葉には反応せず、下からじっと見上げている。
「起きてる?」
 訊くと、
「すっごく傷ついた」
 あまり関係なさそうな答えが返ってきた。
「傷ついた?」
「確かに酔ってこの部屋来ちゃったあたしも悪いけど、自分と同じ女にキスなんかされちゃって、すっごく傷ついたんだからね」
 来ちゃった、ではなくまっしぐらだったと、訂正しようかと思ったが止めた。
 事態が複雑化しそうな気がしたのだ。
「それは災難だった。でも、窓越しのキスじゃないんだから」
「だから何よ」
「胸あるのに気付かなかった?」
「く、暗いから見えなかったのよっ」
「……」
「あ、疑ってるでしょ」
 むくっと起きあがるとシンジを睨め付け、
「責任取ってよねっ」
 びしっと指を突きつけたその表情に、もう酔いの色は微塵もない。
「責任って?」
「だからその――」
 最初は勢い良かったが、途中で尻すぼみになった。
 シンジの方は別に見つめてもいないが、アスカの顔が俯くとなかなか上がらない。
 根気よく――四十秒ほど待っていると、うっすらと上気した顔を上げた。
「口直しよっ」
「口直し?」
 何故か、ふと脳内に式場の光景が浮かんだシンジが聞き返すと、
「あんなのとキスさせたんだから当然でしょ。ちゃ、ちゃんと口直ししてよ」
 ずいと迫ってくるアスカに、シンジは頷いた。
 無論、許諾のそれではない。
 レイ一人では可哀相だから、アスカにもクレオパトラの気分を味わってもらおうと決めたのだ。
 頷いたシンジを見て、更にアスカの顔が近づいてくる。
 寸前でひょいと避けようと思ったのだが、少なくとも傍目にはそう見えまい。
「…何をしているの」
 丑三つ時に背後で聞こえたら、背筋が凍り付きそうな声がした。声の主など、確認するまでもあるまい。
 シンジがひょいと振り向くと、赤瞳からレーザーでも発していそうな表情のレイが立っていた。
 それを見たシンジの表情が僅かに動く。
 
 
「ありゃ、寝ちゃってたんだ」
 ベッドの柱に頭をぶつけたミサトが目を覚ますと、いつの間にかリョウジと位置が入れ替わっていた。
「怪我人のくせに無理しちゃって」
 うっすらと笑ったが、すぐ真顔になった。
 愛情があるか、と訊かれれば答えはノー、だ。
 それでも、ユリの夭糸で八つ裂きにされていれば、きっと後悔したに違いない。あの時、自分には何も言わずに姿を消したろくでなしだが、幸いもう時は経っている。
 何よりも、流れる時で自分を変えられる程には成長した。
 お人好しかな、とは自分でも思う。
 リョウジの消息はずっと知らなかったし、もしかしたらさっさと恋人を作っていたかもしれないのだ。
 にもかかわらず、リョウジを抑えておけるかとアオイに言われ、頷いたのはリョウジに会う前である。
 もしかしたら、ピエロになっていたかもしれない。
「ま、こいつに恋人なんか出来るわけないけどね」
 ミサトが知っていると、薄々は気付いているかもしれないが、この男は二股膏薬のスパイである。
 何を考えて、そんなに愉快な道を選んだのは知らないが、スパイ活動で精一杯の男が女を愛している余裕など無いはずだ。
 ミサトの知る限り、リョウジはそんなに器用な男ではない。
 ただ、アスカには懐かれていたようだが。
 そのアスカはと言うと、来日早々シンジにくっついている。
 まるで人形だったレイが、シンジの妹の位置に納まってから、初めて普通の娘らしい反応を見せた時、ミサトもリツコもとても驚いたのだが、あのときの状況に似ている。
 だが、シンジが自分から口説くはずはない。
 何かがあったのだ――おそらく、あの洋上で。
 それも、リョウジへの憧憬すら消滅させうるほどの何かが。
「あたしは嫌われてるのにね」
 ミサトは小さく呟いた。
 アスカに、ではなくシンジにだ。
 シンジが地位や名誉や財産になど、まったく興味がないのは知っている。そして、全人類の平和にもまた。
 はっきり言って、きまぐれで乗っているような少年だが、その少年に嫌われている理由は分かっている。
 嫌われている、と言うよりは敬遠されていると言った方が正解かもしれない。
 本当に嫌っていれば、さっさとあの世に送られているだろう。シンジがそう言う性格だと、ミサトも理解していた。
「でもしようがないじゃん。私じゃ限界があるんだから」
 シンジの限界を知らない以上、どうしてもアオイと同じ発想は出来ない。
 普通なら無謀な作戦でも、アオイが言うならシンジを知り尽くした上での事だから、シンジもあっさりと受け入れる。
 同じ事をミサトにやれと言っても、根本的に無理がある。
 もう何年も一緒にいる女と、ついこの間会ったばかりの女が、同じように相手を理解しているなら、それはどちらかに問題があるのだ。
 尤も、ミサトはそれを悪いとは思ってない。
 正確に言えば、もう開き直った。
 使徒退治は人類の為だが、そこに自分の私怨が入っているから今ここにいるのだし、どう理屈を付けようが年端もいかぬ少年少女を前線に、それもまったく未知の敵との戦いに送り出しているのは事実なのだから。
 自分がその十字架から逃れられるとは思っていない。それでも、時々はどうしても淋しくなるのは事実だ。
 誰かに分かってもらえる話ではないし、うち明ける相手もいない。
 だからこそ、女は女なのだ。
 種族全体が今でも繊細かどうかは別として、感情を表す字に女という文字が屡々含まれる理由は、その辺にあるのかも知れない。
 
 
 シンジの表情が動いたのは、妹に構ってくれないで他の娘にうつつを抜かす現場を押さえられたからではない。
 レイは下着姿だったのだ。
 そんな格好での徘徊は禁止、と言う話ではなく、どうしてそんな格好でいるのかだ。
 現在は冬のまっただ中であり、下着姿で寝られる季節柄ではない。大体、アスカと同様でトイレでも風呂でも、フロアが違うのだ。
 レイが恨めしげに見ている背後で、雨蛙の潰れたような声がした。レイに見せつけるかのように、迫ってきたアスカの顔をひょいと避けると、前にのめった頭をきゅっとベッドに押しつけたのである。
「もう、何すんのよ」
 むくっと起きあがったアスカに、
「あ、手が滑った」
「嘘。わざとやったでしょ」
「当たり前で――」
 シンジの声が途中で止まる。
 柔らかな感触は、既に慣れたものであった。それでも一応振り向くと、自分の手はレイの胸に押しつけられており、おまけにその足下には下着がわだかまっている。
 姿を見せた時には、ブラもショーツもしていた。
 と言うことは、ほんの数秒で脱ぎ捨てたのだ。触れれば、きっとなま暖かいに違いない。
「お兄ちゃんはいつもアスカばっかり…私を見てくれない」
 その言葉が終わらない内に、
「あ、あんた話が違うじゃないっ」
「話が違う、とは?」
 シンジがゆっくりと振り向くと、しまったという表情のアスカがいる。
 しかし、最近影を潜めてはいるが、元々アスカは勝ち気な性格であり、こんな時にすごすごと引き下がる性分ではない。
 勢いよくブラジャーを外した。
 そこまではいいとしても、既にこっちを見てるシンジの顔を両手で挟み、
「あたしも…あたしもちゃんと見てっ」
 妙な力が入り、当然のようにシンジの首が妙な音を立てた。
 ごき、と鳴った音が静まりかえった部屋に響き、
「お、お兄ちゃんっ」
 アスカは顔色を変えたし、レイが慌てて首に触れようとするのを、
「いい」
 シンジは手を上げて制した。
「鳴らなかったら関節の代わりに鉄パイプでも入っている可能性があるし、大した事じゃない。それより君らに話があるけどその前に――」
 ゆっくりと首を左右に動かし、二人の少女の胸にきっちり三秒間視線を止めた。見てとは言ったが、いざ見られると恥ずかしいのか、二人の頬が赤く染まる。
 シンジの首が元に戻る。
 見たよ、と言うことらしい。
 そんな情緒は微塵もないが。
「二人とも下着つけて」
 強い口調ではなかったが、二人とも黙って従った。
 もぞもぞとブラを付けた二人に、
「そこ座って」
 にゅう、と床を指した。
「アスカのはとどめだったけど、自爆じゃない」
 奇妙な事を言いだした。
「『え?』」
「僕の知ってる限り、レイちゃんに夜尿症の癖はない」
「そ、そんなのないわ」
 白磁器のような顔を紅潮させるレイだが、アスカは分からない。
「何よそれ」
 肘でレイをつついて訊いたアスカに、
「一応病気の一種で、通常は五歳を超えた子供が夜間に尿を漏らす状態が続く事よ」
「おねしょとかって奴?」
「知ってるんじゃない」
「ママが言ってたのよ。それであの、それがどうしたの?」
 今度はシンジに訊いた。
「この家の中は、一応冷暖房は完備されているけれど、季節を考えれば下着姿で寝る時じゃない。汚れた下着を変えたならともかく、それならこの階(フロア)に用は無いはずだ。しかも、寝ぼけた様子もない君が、どうしてそんな格好でこの部屋へ来た?それもまっすぐに」
「そ、それは…」
 言いよどんだレイの代わりに、
「じゃ、レイを見て分かったって事?」
「そうなる」
「やっぱりあんたのせいじゃない」
 レイを指差したアスカだが、
「レイちゃんが来たせいで、君を簀巻きに出来なくなった」
「え?」
「レイが来なかったら、君を絨毯巻きにして同じ気分を堪能してもらう予定だった。邪魔されたね」
「え…」
 口直しどころか、絨毯巻きにされる予定だったらしい。
「本来なら太巻きだ。赤と青はあるし、あとは茶色を混ぜれば出来上がる。絨毯巻きにして朝まで放置だ」
「赤?」「青?」
 それぞれ自分達を指して訊いた二人に、シンジはうんと頷いた。
 びくっと肩を震わせた二人だったが、
「ただし明日――正確に言えば今日は、使徒退治の本番だ。溶け合って一つになられても困るから、正直に言ったら許してあげる。深更、僕の部屋へ侵入しろと誰に吹き込まれた?」
「『え?』」
 一瞬、きょとんとした表情を見せた後、
「『誰にも言われてないわ』」
 ぴたりと息の合った答えが返ってきた。
(あれ?)
 内心で首を傾げたが、嘘を言っている様子はない。
 行動を起こす事については、何らかの教唆があった可能性は高い――下手人はほぼ確定出来るが――が、行動自体は独自の物で、それがバッティングでもしたのだろう。
「普通なら、子供はさっさと部屋にお帰りと追い返す所だけど、君らの場合はまた来襲してくる可能性がある。夜襲の場合は二回目を狙うのは基本だし」
 何を言うのかと、二人とも膝に手をちょこんと置いたまま、シンジを見上げている。
 その表情が一転したのは、シンジの言葉を聞いた時であった。
「だから、二人とも今晩はここに止まるように」
 理解するのに二秒程要したが、二人の顔がさっと紅潮したのだ。
「ほ、本当にいいの?」
 少しうわずった声で訊いたレイに、
「いいんじゃなくて、拘束だからね」
 こくこくと頷いた二人だが、ふとレイが気付いたように訊いた。
「あ、あの」
「何?」
「お兄ちゃんはどこに?」
「君らの頭を膝に乗せて一晩過ごす訳だけど、邪魔?」
 またしても、思いも寄らない言葉に、二人は頭を思い切り振った。
 自分達をこの部屋に置いて、どこかへ行ってしまうのではないかと思ったのだが、シンジにしてみれば、二人が何を企んでいたのかなど、大した関心事ではない。
 その裏に、美少女に目がない美貌の女医や、元極道のナースが絡んでいなければ気になる事ではなかったのだ。
「二人とも、部屋に戻ってパジャマ来ておいで」
 シンジの言葉に、二人が脱兎のように飛び出していく。
 数分もせずに戻ってきた。
 既に室内はいつもの光景に戻っていたが、
「アスカ待った」
「え?」
「さっきワインの匂いがしたけど、歯は磨いた?」
「ま、未だだけどいいわよ今日は」
「良くない」
 却下したが、磨いてこいとは言わず、
「歯ブラシ持ってきて」
 妙な事を言った。
 怪訝な表情は見せたものの、素直にアスカが持ってくると、ベッドの上を指して横にならせた。
 よいしょと、シンジの膝の上に頭が持ち上げられると、さすがにアスカもその意味に気付き、
「そ、そんな事しなくていいわよ。一人で出来るから」
 逃げようとしたが、
「口開けて」
 即座に却下された。
 子供扱いのような処遇に不満の色を見せていたアスカだが、段々とその表情が変わってきた。
 徐々に表情が緩み、今度は溶けてきたのだ。
 勿論、シンジの手は顔より下にはないから、純粋に磨かれているのが気持ちいいのだろう。
 ふにゃふにゃと溶けていくのが、傍目にも分かる。
 最初は子供扱いされていると見物モードのレイだったが、気持ちよさそうだと知り、今度は羨ましそうにじっと見ている。
 やがて隅々まで終わり、シンジの手が離れると、アスカは物足りなさげに起きあがった。
「うがい」
「うん…」
 アスカが覚束ない足取りで出ていった後、
「お兄ちゃんあの…わ、私もしてほしい…」
 シンジの袖をくいくいと引っ張った。
「磨いてないの?」
「磨いたけれど…駄目?」
「いいよ。持っておいで」
 飄々と頷いた途端、レイが飛び出していく。多分、ライオンに追われるトムソンガゼルといい勝負だろう。
 十五分後、初めての体験でぼーっとしている二人を膝の上に載せ、シンジは部屋の電気を消した。
 完全に無防備な姿であり、不用心もいいところだ。
 表には十五体のダミーを配したから、まず襲撃される事は無いはずだが、それでも右手だけは自由にして、枕の下にある拳銃へ手が伸びるようにしてある。
 と、思ったら手がもぞもぞと伸びてきた。
(……)
 うろうろされると面倒なので、二人の手を取って繋ぐと、ぷいっと離れた。
 気に入らないらしい。
 お互いの手だと識別している様子に、今度は自分の手を間にすると落ち着いた。
 両側からきゅっと握られるのは初めてだが、放っておく事にした。一人一本に分割されるより、遙かにましである。
 
 
 その翌朝。
 強羅の絶対防衛線を越えた使徒は、早くも二体に別れている。侮り難し、と思ってやって来たのかは分からない。
「アスカ、レイ。出撃の用意はいいわね」
 二人は既に来ているが、シンジの姿はまだ無い。
 サツキが車で迎えに来たのだ。
 プラグスーツに着替えた二人は、もうエヴァに乗り込んで待っている。
 回線が開き、二人が同時に頷いた。
「零号機・弐号機発進!」
 声を張り上げたが、ミサトの中には一抹の不安が残っていた。今回の作戦で案は出したが、結果は全く見ていない。
 二人の連携がどれだけ出来ているのかも、さっぱり分からないのだ。
 おまけにアオイはと言うと、全く口を出そうとしない。仕方がないから、出撃命令も自分が出したのだ。
「総員第一種戦闘配置」
 いつもの低い声で告げたゲンドウは、両手で口許を覆ったまま、微動だにしない。
(碇司令はシンジ君を信じ切っているのかしら)
 呟いたミサトだが、数時間前まで綾波レイの姿をした娘とお楽しみだった事などは、微塵も知らない。
 今脳裏に浮かんでいるのは、レイの白い裸身であって、使徒など目にすら入っていない。
 いわゆる、眼中に無いというのはこう言うのを指す。
 知らない方が幸せだったろう。
 と、両機が使徒の前に立ちふさがった時、初めてアオイが口を開いた。
「アスカちゃん、レイちゃん聞こえるかしら」
「『はい』」
「今のあなた達なら二分で倒せるわ。指を搗くよりは、使徒の動きを捉える方が楽だから。気負うまでもない相手よ」
「『了解』」
 返ってきた返事に、アオイは軽く頷いた。
 シンジには及ばないが、元々エヴァを操る能力面に問題はない。余計な事さえ考えなければ、十分戦える相手なのだ。
 ただ今回は、相手が相互補完という奇妙な技を使うから、協力させただけの話だ。
 二人の気持ちが重ならなければ、時間内に作り上げる事は不可能だし、縦しんば出来たとしても、食用には耐えない雑な物になろう。
 出来た物を全て二人の食事にさせたのは、それを防ぐためでもある。
 人間はどうしても、理想とか責任で縛るよりも、三大欲求に訴えた方が効果の上がる種族であり、それは彼女たちも例外ではない。
 漁師が二人がかりで魚を追い込むように、使徒二体を追い込んでいく二機を見ながらアオイはうっすらと笑った。
 そのアオイが、お見事と呟いたのは、二体から一体に変化(へんげ)させた時であった。
 普通なら考えられぬ事――ATフィールドが重なったのだ。
 シンジとて、やってのけるかどうかは分からない。
 一瞬ながら、完全に同化したのだ。
(さて、煽った張本人はどこかしらね)
 昨晩何があったかは不明だが、一晩でがらりと変貌したのは間違いない。確かに完成形に近づいてはいたが、ここまでの飛躍を遂げるとは予想外であった。
 アオイが呟いた十数秒後、ふっと地を蹴った零号機と弐号機の脚が前後から使徒の身体を貫いた。
 見ていたアオイの眉が僅かに寄ったのは、それが彼女達のパフォーマンスと見抜いたからだ。最後の一撃は、地に足をつけたままでも十分だったはずだ。
「へえ、二人ともやるじゃないの」
 ミサトが感嘆の声を上げた直後、辺り一面は大爆発を起こした使徒の炎に包まれた。
 スクリーンの画面は完全に炎と黒煙に埋め尽くされ、様子はまったく分からない。
 やがて煙が晴れた時、発令所の目に妙な格好で折り重なっている二機の姿が映った。
「あちゃ」
 頭をおさえたミサトに対してアオイの反応は、
「これなら及第点かしらね」
 であった。
「しようがないわね。とりあえず回収を」
 ミサトが言いかけた時、中で動きがあった。
 憤懣やるかたない表情のアスカが受話器を取り上げたのだ。非常ベルのような音が鳴り、これもむっとしているレイが受話器を取った。
「レイあんた、あたしのエヴァに何て事すんのよ!せっかく勝ったのに台無しじゃないのよっ!」
「最後にあの体勢を選んだのはアスカよ。普通に立った姿勢からの攻撃なら、こんな事にはならなかったわ。私は悪くない」
「なーにが私は悪くない、よ。あんただって、やるって言ったじゃない。大体脚かけて転ばせたのあんたじゃないっ」
「確かに一瞬躓いたのは私だけど、避けようともしないで転んだのはあなたよ。どうせお兄ちゃんの事でも考えていたんでしょ」
 かーっとアスカの顔が赤くなる。
 図星だったらしい。
「もっ、元は自分が悪い癖によくそんな事言えるわね。あんたこそ、普段からぼんやりしてるからこうなるのよ。昨晩の事でも思い出して変な想像でもしてたんじゃないの」
「していないわ。思い出しただけよ。誰かさんが来なければ私がお兄ちゃんと一晩過ごせたのに」
「はん、どうだか。あんたみたいに、いつまで経っても怒られてばかりの妹なんか、いい加減呆れられるわよっ」
「そうね。確かにお兄ちゃんが私と一緒に居てくれた可能性は低かったと思うわ。それでも、アスカが妹になったりする可能性よりは余程高いと思うけれど」
「何ですってっ」
「…なに」
 睨み合う二人だが、音声は本部に筒抜けである。本来なら大爆笑の局面だが、笑う者は一人も居ない。
 皆、分かっているのだ――この小娘達が誰の関係者なのか、と言う事を。
 このまま放っておいても、エヴァは動かないからエヴァ同士の戦闘にはなるまい。
 それでも肉弾戦くらいには移行しかねないと、ミサトがアオイに視線を向けた時、
「あ、よく寝た」
 間延びした声と共にシンジが入ってきた。
「昨夜はお楽しみ?」
「いや、お疲れ」
 眠そうな声に変化はないが、ちらりとスクリーンを見た。
 事情は分かっているらしい。
 尤も、音声はそこら中に筒抜けだから、分からない方がおかしい。
「取りあえず、とっ捕まえないとね」
 マイクを取り上げると、
「アスカ、レイ聞こえてる?」
 その瞬間に光景は一変した。
 二人の肩がびくっと震えたかと思うと、そのまま硬直したのだ。
 文字通り、頭の先からすうっと血の気が引いていく。顔を紅潮させて睨み合っていた二人が、それこそ瞬時にして白蝋のような顔になった。
「じゃ、連行してきます」
 片手を軽く挙げ、シンジはゆっくりと歩き出した。
 発令所から出ていく間際、
「んまったくもう」
 と小さな声で呟いてから。
 
 
 
 
 
(続く)

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