第六話
 
 
 
 
 
 今の科学力では、一人の人間から十六人のクローンが造れるという。
 勤労奉仕に励む好青年と、同時刻に、テレクラで知り合った女性に睡眠薬を飲ませて弄んだ挙げ句、零下の夜空に置き去りにした極悪な犯罪者、それが紛れもなく同一人物であった場合に、犯罪の捜査は少々厄介かも知れない。
 だが、こんな場合はどうだろうか?
 故あって、数人の異性からの想いを受け、彼女たちの心を知る故に、危ういバランスの上に立たねばならぬ身を思った場合。
 受験や入社面接で急ぐ途中、突如陣痛を迎えた妊婦に出会い、救急車に押し込んだ途端、付き添ってとしがみつかれたら。
 自宅に待機してある我が分身を召還できれば、ほぼ事態は収まるかもしれない。
 ただし、一つ決して許されない使用方法がある。
 即ち「私が死んでも代わりはいるもの」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 既にリツコにより、警備システムの解除は済んでいるはずであったが、レイを玄関に残したまま、シンジは1階を見て回った。
 信濃家の広大な敷地を存分に使ってのトラップで、慣れているはずのシンジをしてさえ、僅かとは言えども驚かせるには十分であった。
 小型の英和辞典ほどもありそうな、厚い説明書に素早く目を通す。
 読書好きも手伝って速読は得意な上、
「私の想い人は語学に堪能していてもらおう」
 と、かなり強引な理屈でユリから、英中独の三カ国語を教え込まれたシンジにとって、リツコが少々難解に記した本を頭にインプットするのはさして、難ではなかった。
 シンジに対する先入観に支配されていた、リツコの記した内容はその殆どが、ドイツ語だったのである。
「これじゃ、地下シェルターだな」
 よく分からない口調で呟いたシンジは、玄関にレイを待たせていたのを思い出した。
「重かった?」
「そんな事ないわ」
 確かに、レイには乾物の入った袋しか持たせていない。
 レイの言う通りなのだが、短い言葉の中に在る物に、お互いが気付いていた。
 身を挺した、落下物からの庇護を邪険にしてしまってから、目の前の少年の言葉に潜んでいた、ある種の感情が薄くなりつつあることに。
 自分を大切な物を奪う敵と一方的に認識し、それを態度にも見せていた目の前の少女がどこか、柔らかくなりかけていることに。
 短い言葉に、お互いに変わった事を感じつつ、それを口にする事は無かった。
 テーブルの上に仕入れた物を出そうとして、加減が分からず卵を割ったレイを見て、シンジは何となくだが、レイの境遇を知った気がした。
 普通は、逆さにして出すような事はしない。まして割れ物があれば尚更である。
(台所経験は無しの箱入り娘か)
「レイちゃんは、箱入り娘なんだね」
「箱入り娘?」
「車にシャコタン乗りして、族同士抗争していたら、とっ捕まって見事箱入り」
 物騒なジョークはレイには通じなかったはずだが、少し考えてからそうよ、と言った時、その表情に浮かんだ物にシンジは気付かなかった。
 そのため『箱入り娘』と言う言葉に、自分で笑ったシンジだが、それが恐るべき意味を持って的中している、などとはこの時点では知る由もなかった。
 隣接している食堂には、万が一落ちてきたのが当たったら即死しそうな、豪華なシャンデリアに照らされた、楕円形のテーブルがある。
 箱入り娘の待機所に、そこを指定しようとしたシンジだが、クロスに覆われたテーブルを見て、ふと首をかしげた。
 おや?と呟いて見に行くシンジにレイも続いた。
 クロスを持ち上げて、間違いないと頷いたシンジにレイは、
「どうしたの?」
 と訊いた。
「君は歴史マニア?」
 突然妙なことを訊かれたレイの顔に?マークが浮かんだ。
「れきしまにあ、とは何?」
「陶器収集の趣味があったフランスのルイ八世が、一番大事にしていた朱塗りの花瓶とか、秦の始皇帝の墓に一緒に埋葬された共葬品とか、そういうものに興味を持って集めたがる人の事」
 世界各国の歴史博物館に在るはずの物でもお構いなしに、とは付加しなかった。
「分からない」
 正直に言ったレイに、
「普通はそうだ」
(じゃあ、訊かなければいいのに。あなたって意地悪ね)
 そう言おうかと思った、レイの脳裏にある人物が浮かんだ。
 喉まで上がってきた言葉を、直前でおさえ込み、
「歴史マニアがどうしたの?」
 と言う言葉に切り替えた。
「このテーブルは、鎖国状態にあった清代末期の物で、澳門(マカオ)の開門交渉の時に使われた代物だ。旧南京博物館に国宝級として展示してあったんだけど、信濃家で使われていた」
「信濃家?」
「僕が今までいた所だよ。良く落書きして遊んだものだ」
 脱共産主義を唱えながら、今なお国家第一の姿勢を貫く国の、国宝を頂戴してきた挙げ句、落書き板に使ってきたとは。
 発覚したら国家間の問題に発展しかねないが、それを気にするシンジでもそれが判るレイでもない。
「それがどうしてここにあるの?」
「多分、アオイちゃんが手配してくれたんだろうな。あるいは…ユリさんか」
 ユリ、と言う言葉に、微妙に反応したレイをみて、シンジがにんまりと笑った。
「後の支度は僕がするから、レイちゃんはここで待っていてくれる?」
「どうして」
「ここは僕の家。今日のレイちゃんはお客さんだから」
 何となく分からないような顔をしながらも、腰を下ろしたレイを見て、調理室へ行きかけたシンジが、振り向いた。
「ところで…ユリさんに何された?」
 効果はてきめんであった。レイの可愛らしい小さな口が、一瞬不意を衝かれたように開き、次の瞬間間違いなく音を立てて顔が真っ赤になった。
 衣服を剥がして、首筋から胸元にかけて点検したくなる衝動を、僅かながらも感じたシンジ。
 ブラウスの襟元から覗いている真っ白な肌は、陶器に似た物があるが、幾分病的な物を感じさせる。
 真っ白な紙に、赤い染みが点々と出来る様をシンジは想像した。
(この娘、患者か?、それとも仔猫か?)
 多分どちらでもあり、どちらでもないだろうとシンジは考えた。
 つい先日までシンジのいた家の特徴は、だだっ広さとその鉄壁に近い防御ぶりであった。 
 そのトラップは、一個師団位なら軽く撃破できるほどの規模を誇り、押し入るのは並大抵の苦労ではない。
 が。
 それを容易くクリアして、シンジの寝室でひっそりと待ちうけていた者がいる。
 ユリだ。
 妖艶が服を着たように、シンジのベッドで婉然と微笑んでいたが、かと思うと歯牙にもかけていないかのような、冷たい言葉が来ることもある。
 そのどちらも、ユリなのだ。
 レイの白い肢体に存在するかも知れない、いや可能性は高かったそれだがここは諦め、夕食の支度を急ぐべく、シンジは材料の吟味に取りかかった。
(菜食主義なら、魚をベースにして、海鮮系にするか)
 既にレイから、魚は食するとの確認は取ってある。
 水槽の中から掬い上げ、その場で血抜きさせた見事な真鯛をシンジは取り出した。
 四段扉の冷蔵庫には、氷以外は文字通り入っていなかったが、食器類は揃っていた。
 包丁の質も、シンジの眼に叶う物であった。
 清代か明代辺りの物と思われる、白磁の皿を活け作りで埋めるべく、シンジは調理に掛かった。
 約一時間後、リツコの車にユリが同乗し、後ろにゲンドウの車を従えて到着した時、ちょうど料理の支度が揃ったところであった。
 並べるのにはレイも手伝った。
 文字通り、色とりどりに皿を埋めた鮮魚たちは、いずれもシンジの手で捌かれた物達だ。
 見た目も鮮やかなそれが皿を彩り、その他の品は野菜の煮付けに豆腐。さらには、具に豆腐だけを使い、味の濁りを防いだ白味噌の味噌汁。
 炊き立ての程良い加減に炊きあがった白米は、八分についてあるが、シンジに教わった通りに忠実に炊きあげたのはレイの功労による。
 ただし、この時点でレイにはシンジの手伝いと言う観念は薄い。
 むしろ、ユリの反応を気にする部分が大きかったのだ。
 勿論シンジとて、その辺は十二分に承知の上だが。
 シンジの衣類しか、用意されていないはずの衣装部屋で何故か、ピンクのエプロンを発見したシンジは、レイにそれを着せた。
 制服のまま料理はさせられないと、シンジが、
「家に一回行って着替えてくる?」
 という問いにレイは、
「いい、ここで着替えるから」
 と、答えた。
 女の子の服は、と言いかけたシンジの目の前でレイはあっさりと制服を脱ぎ捨てた。
(首筋にあるのが一つ、二つ、いやそんな場合じゃないなか)
 やはりと言うべきか、レイの首筋に残る赤い点をシンジは発見した。
 無論、ゲンドウではあるまい。
 押し倒して制服破く手間が省けたかな、と一瞬邪な考えが浮かんだのを振り払い、
「普段家ではいつもその格好?」
 頷くレイを見てシンジの眼に、一瞬だが危険な光が宿る。
 レイの言葉から、その下着姿が単にラフな格好ではない、と見抜いたからだ。
 そして予想通り、
「制服と下着以外何もないから」
 シンジは一瞬瞑目した。
(機関銃で穴だらけにしても良かったか)
 それは後回しと、適当な服を探しに行ったシンジが見つけたのが、ピンク色のエプロンだったのである。
「家の中で可愛い下着を見せちゃいけません。と言う訳で、取りあえず制服は着ておいて。でもって、上からこれを着けて」
「これは何?」
 まさか、エプロンを知らぬはずは無いと思っていたからつい、
「よだれかけ」
 冗談で言ったのだが、レイは真顔で、着方を教えて、と頼んだ。
 本心から信じているように見えるレイに、思わず訂正する機会を失ったシンジは、エプロンの着け方を教えた。
 うっすらと頬を染めて、
「これ、似合う?」
と訊かれたのには、一瞬度肝を抜かれたが、すぐに納得したような顔になった。
 案の定、
「ユリさんの趣味に合っているよ」
 その言葉に、紅くなって俯きながら、消え入りそうな声で本当?と訊ねた。
 シンジのお墨付きに張り切りだしたレイを見て、
「食事の支度が終わったら、エプロンは外す物」
とは、到底言えなかった。
 最後の皿を並べ終えた時、インターホンが鳴った。
(何だこれは)
 シンジが顔をしかめたのもむべなるかな、インターホンの音とは程遠い、ネルフで緊急時に鳴り響くサイレンと同じだったのである。
 僕が出る、と言ったときにカメラで客人の顔を確認済みではあったが、シンジが動く前にレイがすぐに玄関に向かった。余程ユリの評価が気になるらしい。
 玄関までは十メートル以上あるため、食堂から玄関の様子は見えない。
 レイがいそいそとドアを開けた時、立っていたのはユリではなかった。
 普段シンジが信濃家でワインを口にする時、いつも年代物になる。
 これはシンジの好み、と言うよりむしろアオイの好みに近い。好みのよく似た二人だから、シンジ用に手配するのをアオイは忘れず、運送会社に着いたとアオイから電話があり、おまけとしてついてきたミサトに取りに行かせたのだ。
 二人を先に行かせてのは、ミサトの到着を待つのと、アオイへの逐一の報告を兼ねて電話するためであったが、それが裏目に出た。
 エプロン姿を見て貰うべく玄関に出たレイが見たのは、リツコとゲンドウであった。
 玄関に沈黙が流れた。
「レイ、それはシンジ君に用意したはずだけど、どういうこと」
 リツコに冷たい口調で言われてレイは俯いた。
 がしかし。
 そうなるとリツコは、シンジ用に赤い代物を用意したと言う事になるのだが。 
 ただその本意はともかく、制服しか与えていないレイがそれを着けていた事、しかも明らかにレイは見せるため、と言う表情をしていた事は大きな驚きであった。
 造物に反抗されたような気がして、不愉快になったのである。
 だが、ここにリツコの誤解があった。
 レイはユリに見せたいと思ったのだが、リツコはレイがゲンドウに見せたかったのではないか、と思ったのだ。
 冷たい口調の原因は、それが殆どを占めている。
 シンジがいたら別なのだが、シンジはそこにいなかった。
 二分あれば着替えられるだろうと、奥の部屋に着替えに行っていたのだ。
「レイ、それは何」
 疑問符でもなく、はっきりした詰問口調でリツコが言った。
「こ、これはその…」
「口があるならはっきり言いなさい」
 レイの腕が強く掴まれたのは次の瞬間である。
 俯いたままエプロンの裾を握ったレイの姿に、ふとゲンドウが思ったのは、
「既にシンジが手なずけたのか」
 と言うことであった。
 初対面では何故かは知らないが、傍目にもレイがシンジに敵意を持っていたのは分かっていた。手の火傷と引き替えに、プラグから助け出した時さえ、あの半分も感情は見せていなかったレイが、である。
 だが、理由は分からぬにせよ、シンジがレイにエプロンを着けさせた、となると既に味方にしている可能性がある。
 もしそうだとしたら−。
 ゲンドウがリツコを制しようとしたその時、
「あの〜」
 のんびりした声がした。
 ジーンズと黒いシルクシャツに着替えたシンジが出てきたのだ。
 髪は束ねておらず、長めのシャツはジーンズの腰辺りまでをすっぽり覆っていた。
 口調とは裏腹に、眼はアサシンとしての物に変わっている。
 自分を俺と呼ぶシンジには遠く及ばないが、アオイと組んで屍山血河を築いてきたシンジは僕の方なのだ。
 やや無表情なまま近づいてきて、軽くリツコの腕を握った時、リツコは腕が砕けたかと感じた。
 銃を扱うから、それなりにごつい手なのだが、着痩せする体型も手伝って、何となく細いイメージを受ける。
 この少年のどこにそんな力があるのか、と思うほど強い力で握られ、リツコの腕は確実に音を立てた。
「レイちゃんに、これを着けて貰ったのは僕だ。それより訊きたいことがある」
 そう言った時には、既にリツコはレイを離していた。
 骨が軋む程の力で握られ、手が勝手に離したのだ。辛うじて、
「な、なに…」
 聞き返した声は掠れている。
「これは、総司令にもお尋ねした方が良さそうだ」
 シンジにこの眼で見られたのは初体験である。
 身体のライン沿いに機関銃を乱射された時でさえ、妖気は無かった。
 だが、今のシンジは黒衣の死神の異名を、否応なく納得させる。実の息子ながら、止めたくとも身体は防衛本能でそれを拒否していた。
「レイちゃんに、私服に着替えるよう勧めた時、面白いことが判明した。年頃の女の子に服すら与えず、必要最小限どころか、最低ラインの基準すら満たしていないと言うのはどういう事?それともう一つ。さっき台所で、家事をしたこともなさそうなのを見て、深層の令嬢かと思ったのだが、私服の一つも持たないお嬢様なんて聞いた事がない。市場で「肉、嫌いだもの」と言われたのも、額面通りに菜食主義とは受け取り難い部分がある。説明してもらうよ。返答次第では」
「で、では…?」
 いつの間にか、手を離されていたリツコが訊いた。
(只じゃおかない、かしら)
 だとしたら定型通りの台詞と言えよう。
 だが答えは、
「身体をぐるぐる巻きに縛ってから、ベンツで市内を引き回す。あるいはエントリープラグに入れたままエヴァで踏んづける。さて、どっちがいい?」
 凄みなど微塵も感じられない口調で言った。
 どうやら、自分でも良い案だと思ったらしい。
 口元はわずかに笑っているのだ。
 顔と、口調はは無邪気な少年だが、科白は極悪非道の鬼奉行、と言った所か。
 凍り付いている二人にさあどうするの、と促した。
「シ、シンジ君。その前に教えて。レイの事をどう…」
 どう思っているの、と訊いたリツコだが、普通に考えればまだ何も、との回答が返って来る所である。
 ただし、それも浮かばないほどリツコの思考は混乱していた。
 しかも。
「クローンなのは聞いたよ」
 思わずリツコが絶句した。
(な、何故それを?しかも平然と…この子は一体…)
 ゲンドウから聞かされたシンジの実力は、幾分誇張だと思っているし、圧倒的な強さを見せた使徒殲滅時は、別人のシンジだとおぼろげに知っている。
 突如機関銃を乱射する辺りを別にすれば、シンジは普通の少年に見える。
 どうしても、普通の少年という概念があるリツコにとって、シンジの発想はネルフ随一を誇る、その頭脳を持ってしても不可解であった。
 ショックで硬直状態にあるリツコを見て、ゲンドウが何か言いかけたとき、その身体も又、硬直の道を辿った。
 見てしまったのだ、シンジの眼を。
 身体は同じまま、別の魂を持つかに見える、妖鬼へと変わっていったシンジ。
「クローンであれば、人間以下だとでも言うつもりか。赤木リツコ」
 そう言ったシンジの声は、その雰囲気は、まさしく異生命体である使徒をさえ、一瞬ながら凍り付かせた物であった。
「ドクターとは違う意味で、俺も少し興味があった。薬と水だけで生かされているとはさすがに予想外だったが。かつて俺の命じた人体実験を、カギ十字の旗の下、勝手に拡大解釈して悪名を馳せた部下達とさして変わらん」
 そう言って何気なくリツコの方に手を置いた瞬間、リツコの口から悲鳴が上がった。
 僅かに力を加えた手は、リツコの肩を外していたのだ。だらりと腕が垂れ下がる。
 シンジの右手は、軽く拳を作り、ゲンドウの脇腹へ吸い込まれた。
 苦痛の呻きを洩らして、膝を付いたゲンドウ。
 シンジの拳を跳ね返すには、その肋骨は余りにも脆い物であった。
 だが、激痛で思考能力が低下した事は、幸いだったのかも知れない。
 垂れ下がった腕を押さえるリツコも、肋骨に皹の入ったゲンドウも、シンジが口にした『カギ十字』という言葉の意味を考える余裕は無かったから。
 あったとしても、真相が解りはしない。
 もしも、解ったらその時点で脳は間違いなくオーバーヒートを起こしたはずだ。
 いや、メルトダウンかも知れないが。
 二人を見下ろし、更なる一撃を加えるべく組まれたシンジの手が掴まれたのは、次の瞬間である。
 “碇司令が危ない”
 その想いだけで動いたレイが、シンジの妖気の呪縛さえ断ち切り、その腕にしがみついた、と判るまでに数秒掛かった。
「止めて…・下さ…い…」
 絞り出すような声はか細かったが、今のシンジへの訴えと知れば、ユリは掛け値無しに賞賛したであろう。
 だが、シンジがゆっくりとレイの方に振り向いた時、レイの手から力が抜けた。
(今の人とは違う)
 本能的に知った瞬間、一気に緊張が解けたのである。
 倒れそうになったレイを支えて、
「大丈夫?」
 他人事のようだが、原因が自分にあると知りながらの呑気な声だ。他人が訊いたら糾弾は免れまい。
「クローンだろうが、人は人。それに創ったのは誰だったかな」
 その声に、妖気は殆どない。
 リツコの口から再度呻きが上がったのは、外れた肩を強引に押し込んだ時の、痛みのせいである。
「ユリさんに軽く揉んで貰えば、すぐ楽になるよ。それより」
「な、なに?」
「クローン元に少しだけ、難があるけど彼女は別人だ。どうやらユリさんも気に入った事だし、この子の事は」
 言いかけた時、
「私とシンジにお任せ願おう」
 ユリの声に、一斉に振り向いた。ワインの入った重い箱はミサトが持っている。
 いいところを持って行かれた、とシンジがちょっとユリに視線を向けた。
 ミサトがユリに続いて入った時、リツコの腕にある鬱血の痕と、漸く立ち上がったものの、激痛で肋骨を抑えている最高司令の姿が目に入った。
 とっさに箱を取り落とし、懐の拳銃を抜き出しかけたが、
「掃除、大変だから箱は落とさないでね」
という、シンジののんびりした声が寸前で止めた。
 ここには平和しか無かったかのような、間延びすらして聞こえるシンジの声に、辛うじてミサトは平静を保った。
「リツコ嬢」
「は、はい」
 リツコさん、とも赤木博士とも呼ばなかった。
 にもかかわらずリツコが素直に返事したのは、既にシンジもユリも、尋常ならざる人物であることを知ったからだ。
「私の想い人に会われたかな」
「ドクターの想い人…じゃ、今の…」
「その通りだ。だが肩が外れたのと、肋骨への皹だけで済んだなど、奇跡と云える」
 殺されてもおかしくない、ユリの言葉の裏にある物を感じて、三人がぞっとした時、ユリの目はレイのエプロンに向いた。
「着替えの代わりにこれを着せられたか。シンジにしては良い判断ね」
「あ…あの…」
 似合いますかとは言えず、まして似合うでしょ、などとは言えないのを知っているユリは、レイに向かって、
「良くお似合いよ」
 レイが頬を染めたのを見て、リツコはレイの目的を知ると同時に再度、驚愕した。
(あのレイが一日でここまで…しかも頬まで染めて…一体何をしたの)
 ゲンドウとミサトの驚きも同様であった。
 三人の驚愕をよそに、ユリはミサトに入るよう促した。
「幾ら蛇足扱いの客人とは言え、重労働はさせかねる。これ以上腕が太くなっては申し訳ない」
「これ以上って何!?」
 既に太い、にも似た意味を感じ取り、叫びたくなったミサトだが、数秒の激情の放出とその後の報いとを秤にかけ、胸の奥にしまい込んだ。
 家に帰ってから、ペンギンにでも愚痴れば済むことだ。
 そう思うことにした。
 ユリがリツコの肩に触れ、軽く二、三度揉んだだけで、肩の感覚は常態に復した。
「せっかくシンジとレイ嬢が用意した夕餉だ。鮮魚がぬるくなる前に頂戴した方がいい。総司令の方も三十分もすれば、かなり楽になるはず。」
 どうして分かる、と表情で訊いたゲンドウに、
「木っ端微塵に砕けていません」
 短いが、あまりにも明確な答えに改めて戦慄した。
 だが確かに、遙か以前絡まれた時も同様の目にあったが、その時と違い一歩踏み出すたびに激痛が走る事はない。むしろ、単なる強打に近いような気さえする。
 幸運だったかとゲンドウは思ったが、初めて会ったシンジの別人格を調べる必要がある、とまではさすがに思わなかった。
 パンドラの箱にプラスチック爆弾を仕掛けて開ける要は無い。正解であった。
 ゲンドウの肋骨に入った皹を別にすれば、玄関での出来事を思わせる物は何も無かった。鬱血したリツコの腕もユリの軽いマッサージであっさりと消えた。
 だが、どうしても重くなりかけた雰囲気は否めない。
 そんな空気も食卓に皆が入った瞬間変わった。
 食卓の上に並べられた料理は、ミサトに感嘆の声を上げさせ、リツコも思わずため息を溜め息をつき、ゲンドウでさえもほう、と洩らした。
「美味しそうなご飯は僕が作ったんじゃない」
 その声に一斉にレイに視線が集まった。
「先に少し、頂戴してもよろしい?」
 見つめられたレイが勢いよく頷くのを見て、ユリは箸で白米を少し取って、口に運んだ。
 ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ時、レイの顔に僅かながら緊張が浮かんだ。
「良くできている。普段からの訓練の賜物と自慢しても差し支えない」
 妙な言葉は、リツコに向けられた物であった。
 レイは怪訝な顔をしたが、こう言われて分からないリツコではない。
 レイの方を向くと、レイが初めて聞く声でレイ、と呼んだ。
「はい」
 一瞬沈黙が流れた後、
「ごめんなさい」
 幾分小さくはあったが、はっきりした声で告げた。
 嫉妬心もあったとはいえ、素体への影響を考え、外部からの刺激を遠ざけて来たのもまた事実であった。
 だが、ヒトとして作りながら、モノとしてしか扱って来なかった自分。
 たった一日で、レイ本来とも言える姿を、はっきりと見せつけられたリツコは、自らの機械仕掛けの思考が、敗北した事を認めざるを得なかった。
 それに加え、なついているのはユリだ、という事実も彼女の思想転換を容易にした。
「あなたの生活は、全てドクターにお任せするわ。必要最小限なメンテナンス時以外は二度と、あなたを縛るような真似はしない。いえ、それもドクターがされるなら、全権を譲渡するわ。まさか、十数年をかけて育成した性格が、一日でこれほど変わるとはね。私が…間違っていたわ、レイ」
 レイにとっては驚天動地のリツコの科白である。
 明らかに自分をモノとしてしか、見ていなかったリツコ。
 失敗に対しては常に、ロボットがミスでもしたかの如く、峻烈な叱咤を飛ばしてきたリツコの突然の言葉に、軽い自我喪失に陥りかけたが、それをユリが救った。
「私とシンジの前で明言した以上白紙撤回は許されない。それに、自ら認めるほどのそれなら、容易く済むとは思っておられない筈だ」
 はい、分かっていますと、項垂れたリツコの姿に、普段の冷静で皮肉屋の科学者の姿は微塵も無かった。
「リツコ…」
 思わず呆然と呟いたミサト。
 リツコがクローンだのどうのと言っていないから、それはミサトには分からない。
 だが、リツコとレイの間のどこか緊迫した空気は、ミサトとてよく知っている。
 それだけに、それを全て覆すようなリツコの発言は、ミサトにとっても驚愕に値する物だったのだ。
「さて、レイ嬢はどうされる?」
「どうするって?…」
「シンジの車の後ろに縛り付けて、湖畔道路を一周するも良し、LCLの海で漬け物にするも良し。あるいは両手足を私の実家の患者の方々に提供して頂いて、余生は義手義足で過ごして頂くのも良かろう」
 表情を変えずにユリが言った時、部屋の温度が五度、低下した。
 さすがにレイもこれには首を振った。
「本当に良いの?」
 どこか、残念そうな口調さえ感じられる言い方で、訊いたのはシンジである。
「いいの、それに…」
 数秒、言い淀んでから、
「さっき、碇君が怒って…くれたから」
 その言葉に、わずかにユリの雰囲気が変わったが、その時レイはシンジの方を見ていたせいで、それには気付かなかった。
 だがそれも一瞬の事で、すぐにその雰囲気は消え、皆に席に着くよう促した。
 全員のグラスには、冷えたビールがシンジ手ずから注がれた。
「今日のシンジには、料理人と給仕を兼ねて貰おう」
 自分を俺と呼ぶシンジが、レイの事を気にかけた事に対する微妙な感情の表れがあるからだとは、二人だけが知っていた。
 もっともシンジにとっては、やや迷惑気味であったが。
「この飲み物は何?」
 怪訝な顔で訊いたレイと、一応制して見せたミサト。
「レイはまだ未成年なんだから…ってあなたもそうでしょ」
「あんな事言ってますが」
 突然振られて驚いたリツコ。
 一瞬返答を考えた時、
「レイちゃんに水しか与えて来なかった、訳ではないでしょう?」
 にっこり笑って、だが瞳の奥に確実に何かを含ませて念を押された時、リツコはその意味を知った。
「も、勿論よ。ビールの成分に含まれる麦芽は栄養になるんだから…」
 どこか説得力の薄い言葉にレイが、
「で、でも私…」
 シンジがリツコを救った。偽証が覆される前に、
「十四才になったら、ビールは飲めなくてはいけない、ユリさんがそう言ってたよ」
 こちらも嘘の上塗りだが、レイの視線に、
「その通りね。もっともシンジですら飲めるのに、レイちゃんは飲めない、というなら話は別ね。無理はしなくても構わないわ。一緒に飲めると思ったのに、残念だけど」
 悪魔の誘いとはまさにこの事を指す。嘘の魔王の王手でレイは陥落した。
「の、呑みます。これぐらい」
 シンジが対抗馬になったのが効いたか、あるいはユリが一緒に呑むと言ったのが、大きかったか、グラスを取り上げると一気に飲み干してしまった。
 少し苦みを押さえている顔で、ユリの方を見た。
 もっとも、香り自体は果物のそれが強く、さほど口当たりが悪くはない。
「お見事。さて、美味しかった?」
「は、はい。おいしかったです」
 ユリが目で促し、シンジが再度グラスを満たした。
 今度は、全員で揃ってグラスを上げる。
  一口含んだ瞬間、ミサトとリツコから声が上がった。
「こ、このビールはまさか…」
「セカンドインパクト前の、極地の氷を溶かした水使用っていう宣伝文句の…」
 その言葉にシンジが、
「そうですよ」
 と、事も無げに言った。
「そうですよって、これ今じゃ幻どころか絶滅に近いはずなのに…」
「シンジが今までいた家は、飲むものには随分とこだわった。セカンドインパクトのある事を予想した訳ではないだろうが、氷の成分を分析し寸分違わぬ物を、作り出せるだけの技術を備えた工場があってね。複製品(レプリカ)の製造を怠った本家の工場では二度と作り得ぬ代物になってしまったが、データさえ残っていれば作り出すのはさして難ではないそうよ。しかも」
 言葉を区切ってシンジを見た。
「シンジが育った家、信濃家だけにしか納品されていない逸品になっている」
 四対の視線を感じたシンジ。
「これと引き替えに見逃してあげたんだって。結構美味しいでしょ」
 『シンジの預け先は代々暗殺者の家系…』
 ゲンドウの言葉が脳裏に浮かんだが、そう言ったゲンドウも言われたリツコも、それを持ち出す気にはなれなかった。
 ビールながら、幻と言われた品に驚嘆した彼らだが、魚を口にした時、あるいは煮物をつまんで口に入れた時、それぞれ驚くことになった。
 美味しい、との声は掛け値無しの物であったが、ユリは当然という顔をして、ゲンドウに視線を向けた。
「私が保証した味ですが、いかがですか?」
 シンジ以外の三人の視線が集まる。
「ドクターの言われた通りだった。シンジ、とても美味い」
 ミサトもリツコも驚かなかった。認めているのだ−ゲンドウの鉄仮面もユリ相手では外されるだろう、と。
 シンジの方も、それは良かった、とさして嬉しげでもない。
 刺身を出しておきながら、自分も悪いとは言え幾分時間が経ってしまっている。
 歯ごたえを優先にして出した今回の場合、やや不満の残る内容だったのである。
 せっかくユリが治めた雰囲気を壊すこともないと、表には見せなかったシンジの心中を、ユリだけは気付いた。
 シンジとレイが用意した夕餉も半数以上が消化され、ビールの方もゲンドウとリツコを除いた面々で、10リットル近くが吸収された頃、
「ねえ、シンジ君」
「何、ミサトさん」
「いつもこういう風にご飯とか作ってるの?」
「気が向いた時だけ」
「え?」
「僕より美味しい料理作ってくれる女性(ひと)いるし。ミサトさんもリツコさんもこの位なら簡単に作るでしょ。別に大した事じゃないし」
「『 それは…』」
「何故合唱を?家事全般は花嫁予備軍の必修科目だって聞きましたけど。まさか、家事をしないって事はないですよね」
 自ら、せっせと墓穴を掘った辺り、かなり酔いは回っているらしい。
 一方ユリとシンジには、酔いの片鱗も見られず全く平素のままであった。
 一語一語を区切るようにして言ったシンジに、よせば良いのにミサトが、
「あ、あったり前じゃない。リツコと私は料理なんか何でもこなすんだから」
「それは良かった」
 ユリの声に、二人は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
「ぜひ、お二人のお手前を拝見したいところね。よろしいかしら」
 その瞬間ミサトが顔をしかめた。リツコがミサトの足を直撃したのである。
 ミサトははっきり言って家事不能者、リツコも簡単な料理はこなすが、とても今日のシンジを大したこと無い、などと言えるレベルには無いのが真相である。
 もっとも、ユリもさして追求する気は無かったらしく、話題を変えた。
「シンジ、この邸の説明書はもう読んだの?」
「一応ね。何か専門的だったけど」
 その言葉にリツコがシンジの顔を眺め…次の瞬間大きく目を開いた。
「シ、シンジ君。あれ、ドイツ語だったのよ」
「ドイツ語?、リツコあんた、何考えてんのよ」
 まさか、MAGIを使用しての憂さ晴らしとは言えず、口ごもるリツコ。
 会話には殆ど入らず食事に専念していたゲンドウが、
「確か、もう一つか二つは話せたな、シンジ」
「一応」
 あっさりと認めた時、
「入浴の方は?」
 ユリの問いに、
「地下一階に大きなお風呂があるんだって。常時湧いてるらしいよ」
 シンジの語学力より、一層の驚愕が走ったのは次の瞬間であった。
「レイちゃんを送っていく前に、入っていった方が良いわね。女性の部屋にお邪魔する前には、清潔にしていくのが常識。レイちゃんも一緒に入る?」
 事も無げに告げたのだ。
 一瞬、あんぐりと口を開けたミサトとリツコ。
 しかもレイが、
「お風呂は身体を綺麗にする所。誰かに洗って貰った方がきれいになりますか?」
 真顔で訊ねたのである。
 ユリがレイの顔に耳を寄せて何やら囁いた。
「いえ、それはまだ…」
 レイの返事に気が変わったのか、
「スケジュールに遅延があるわ。今日は直行で送っていって」
 混浴を告げられても動じず、中止を言われてもシンジの表情に変化はない。
 わかった、とすんなり立ち上がった。
「パジャマを忘れないように」
 ユリの声にミサトが首をかしげた。
「あの、ドクター」
「何か」
「パジャマってレイのですか?」
「いや、シンジの物だ」
「は?」
「今日は綾波邸に泊まることになっている」
「い、今何て?」
「レイちゃんの部屋に泊まる、そう言った。余程私が嫌いと見える」
「ドクターを嫌いと、シンジ君の行動にどういう関係が」
 と、これはリツコ。
「ユリさんの泊まるとこはどうなってるの?」
 シンジの言葉に、リツコがあ、と洩らした。
「ごめんなさいそれは…」
「で、ここに泊まると言い出した」
「部屋は3階に6部屋、完全防音にして、用意してあるはずよ」
「シンジの胸の中でないと寝付きが悪い。しかも悪夢にうなされる」
「それが嫌だったんだけど、トラップとか無い親父の家に泊まるのは物騒だし」
 そこまで聞いて、リツコには大体読めた。
 確かにゲンドウの家は最高級の家だが、対人警備など皆無に等しい。
 かといって、ユリがこの家に泊まるとシンジの寝室に侵入するという。
(それで、レイの部屋に…でも何故)
 レイがユリになついたのは分かった。
 だが、ユリならばシンジと同じ屋根の下に寝る事を望むはずだ。
 まさか、レイが言い出したなどとは知る由もない。
(この二人って…どういう関係なの?)
 素朴な疑問を胸中で呟いた時、シンジが立ち上がった。
「レイちゃん、行こうか」
 レイも続いて立ち上がり、二人は出ていった。
「あのドクター」
 話の見えないミサトが口を挟んだ。
「あの二人、一緒にしておいて大丈夫ですか?」
「大丈夫かとは?」
 ユリに視線を向けられた瞬間、ミサトは凍り付いた。
「片づけは私がしておく。酔いが回りきる前に、帰途に着かれた方が良い」
 返事を考える余裕もなく、ミサトは引っ張られたように立ち上がった。
「失礼します。今日は有り難うございました」
 九官鳥のように告げ、ふらふらと出ていったのは、決して酔いから来る物ではない。
「さて、私に何をおたずねになりたいのかな」
「レイの…事です」
「綾波レイ嬢の?」
「はい。シンジ君はレイがクローンだと言う事を知っていました。しかも全然驚いた様子もなかった。あれはドクターが教えられたからですか」
 訊かれたユリは一瞬微笑した。
 何故かリツコの背に寒い物が走った時、
「一週間ほど前、ネルフの誇るコンピューター『MAGI』に、侵入者があった筈」
 単純明快な答えにリツコは絶句した。
 定期メンテナンスの隙を突かれたにせよ、対ハッキング防御率は、100%を誇るMAGIにとって、初めての敗北であり、それはリツコにとってのそれと同義であった。
 パスワードが16桁まで解読されたのを知った時、間髪入れずに走らせた、第二種の防御プログラムのおかげで、パスワードは一気に40桁まで達した。
 きっかり1分後にパスワードが全桁解読され、ダミープログラムまでもが破壊された瞬間、リツコは最終防衛プログラム「弟666プロテクト」の発令を決意した。
 それを止めたのはゲンドウであった。
「こっちが666を使っても、向こうは777を流してくる。所詮悪魔は神には勝てんよ。データを気が済むまで見たら撤退するはずだ。放って置け」
 ご存じなのですか、という質問には答えなかったゲンドウの言葉通り、1時間に渡って絶対機密までも、悠々と読んでから、痕跡を全く残さず侵入者は消えたのだった。
 名古屋と岡山と長野、その三カ所から、正・副・予備の三本立てで侵入した犯人の手がかりは今もつかめていない。
「三本のうち、私とシンジが一本ずつ、もう一本はシンジの想い人信濃アオイの手による物だ。もっともシンジはどこへ侵入したかは知らない。適当に作らせたのを、私が手を加えた」
「適当に?」
「思い人には、多少なりとも荷担してもらうのが本筋」
 さらりと告げ、
 『お邪魔した一時間あまりでで大体の事は判った。たとえば…」
「例えば?…」
「貴女と総司令の関係、とか」
 思わず顔を見合わせ、二人ともわずかに顔を赤くする。
「シンジに言われなかったかな、好きにするが良い、と」
「そう言われました。でも、どうしてです。普通は父親の愛人」
 言ってしまってから、意味に気付いたのか下を向いた。
 氷水に浸してあった缶を一本とって空け、リツコのグラスに注いだ。
 何かを振り切るように、一気に飲み干したリツコ。
「シンジにとって、碇ゲンドウ氏は父親だが、父親ではない。すなわちその動向はさして気にしていないことが一つ」
 本人の前で平然と告げるユリ。
「二つ目は…私からの忠告だ」
「忠告?」
「シンジの母親は碇ユイ。だが、シンジに母親はいない。シンジの前でその名は、絶対に口にしない方が身のためだ。もっとも、重傷で入院したければ別の話だが」
(母親がいないことで何かあったのかしら?それにしても、父親の愛人をあっさり認めたのが、母恋しではなくてどうでもいいからだった、とはね…解らない子だわ)
 自分がその愛人である事を、一瞬忘れて考え込んだとき、
「ドクターに一つお伺いしたい」
 ゲンドウの声で、我に返った。
「何か」
「先般MAGIに侵入されたとき、彼女の最終防衛プログラムを上回る物があったのかと思い退かせたが、何かお持ちでしたか?」
「三人の合議制でなる以上、分裂して頂くのが一番だ。特に“女”の部分に。女と言うのはとかく、自らの女足らんとする部分を気にしたがる。そのあたりの線で幾つかは用意して置いた。もっとも最悪の場合、自爆させる代物だから、使わずに済んだのは何よりだった」
「『自爆』」
 二人の声が重なり視線があった。
(司令、人選を誤ったのでは)
(使える物は何でも使…)
(既に手に余っておられるようですが…)
(言うな)
 二人の会話はユリには読めていたが、何も言わなかった。
「お訊ねの事項はそれだけ?」
「MAGIを除かれたなら、隠し事は無駄。率直にお訊ねしたい。人類補完計画に関して、シンジにはどこまで?」
「碇司令っ」
 さすがにリツコが、立ち上がった瞬間ユリの視線に、肩を掴まれたように座った。
「人類をどう変化させようと、私にはさして興味はない。シンジがどう反応するかだが、現在の所、シンジにはまだ何も。シンジの持つ総司令と等しいIDカード、いずれ探り出すでしょう。それで?」
「レイは計画の要です」
「磔にされた上、全身をヴァルカン砲で穴だらけにされたいのなら」
 束の間沈黙が流れた。
「現在の所、綾波レイの戦闘能力は初号機を操るシンジに遠く及ばない。自分を僕などと呼ぶ少年であっても、だ。それに現在、ドイツに保管されてある弐号機とその専属パイロット、惣流・アスカ・ラングレーにしても同様。それとも、シンジを送り返しますか?」
 別に脅迫口調はない。ゲンドウが頷けば、明日にでもシンジと共に帰って行くであろう。シンジにはその方が嬉しいのだから。
 だが、れっきとした事実を突きつけられ、ゲンドウも認めざるを得なかった。
「分かりました。ドクターにあの二人はお任せします」
 兜を脱いだゲンドウへ、
「確かに承知した。ところで、あの二人が今頃どこで何をしているか、興味はお有りかしら?」
 
 
 
 
 
 シンジの家を出た二人。
 シンジに酔いは微塵も感じられなかったが、初飲みで一リッター以上レイは空けている。
 幾ら飲みやすいからと言って、少々量が過ぎる。
 その証拠に玄関を出るとき、よろめいたレイにシンジは肩を貸したのだった。
(まさか、吐いたりしないよね)
 シンジ自身、小学校でいきなりワインをグラスで大量に飲まされたが、一度も吐いた例はないせいで、気分が分からない。
 だが、ベルトを着けるよう言ったとき、すんなり着けた辺り、幾分回ってるのかとも感じた。
 レイの指示に従って、車を走らせたシンジだが、ふと気付いて、
「この道は、ネルフ行きじゃないの?」
 土地勘と記憶力は抜群のシンジである、来るときの道順は完全に憶えている。
「そう、ネルフに行くの」
 あっさり告げたレイの声から酔いは消え、僅かに緊張があるのをシンジは見抜いた。
(いよいよ、メインディッシュか…)
 
 
 
 
 
(続く)

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