シンジと愉快な仲間達−ゴーストバスターズ
 
 
 
 
 
封魔カルテ1−F
 
 
 
 
 
「で、何処へ行く?」
 訊ねたシンジの目は、ナルの視線の先を見ていた−すなわちホテル街を。 
「ちょうどいい所にいい物があるわねえ」
 粘っこい声でナルは囁いた。人前でなければ、じゅるっと涎でもこぼしかねない。
「目を血走らせるのは止めないか?僕が人格疑われる」
「だって滅多にない機会だもの、女としては当然の反応じゃない…聞いてないのね」
「もう復活してるな」
 シンジの顔は後方に向けられている。無論そこには起き上がった迷彩服が。
「いいじゃない、放っときましょうよ」
「なぜ」
「手下雇ったんでしょ、もう」
 僅かにシンジの表情が動く。
「どうして分かった?」
「あそこの街中で迷彩服着てるメガネザル、さっきからちくちく攻撃されてるじゃないの−真っ黒い服着たやつらに。やくざもどきの格好で、あんな穏便な手は取らないわよ。それにあいつら、あなたの方ちらちら見てるじゃない」
 なるほど、と納得したシンジを、ナルは呆れ顔で眺めた。
「まったく、優秀だかなんだか分からない男(ひと)ね」
 ふう、とため息一つついた後、
「あの娘(こ)が見た現象は自分の力が暴走したせい。で、それはあの変態小僧を六感で知ったからよ。これで用は済んだでしょ」
 さっさとシンジの腕を引っ張ろうとする。よほどホテルに行きたいらしい。
 だがまだ昼間である。
 確かにマユミの件は片付いたかに見えるが、こんな時間からご休憩などしたくない。 断る口実を考えた時、携帯が鳴った。
「はいもしもし…ああ」
 後方の黒服達からであった。
 権助をどうするか訊いて来たのだ。
 携帯とナルを交互に見たシンジだが、どうやら何か考えついたらしい。
 ちょっと待って、と電話機を抑えるとナルを見た。
「なによ?」
「ホテルなら行ってもいいよ」
 その途端ナルの顔が火を噴いた。ぼっ、と音を立てて真っ赤になったのである。
「な、な、何を言い出すのよ」
 自分から誘ったものの、いきなりOKが出るとそこはやはり、羞恥心位は持っているらしい。
 だが行かないの?と訊くと思い切り首を振った。
「商談成立」
「はあ?」
「条件がある」
「…何ですって」
 表情の一転したナルに、
「あそこの坊やが、二度とマユミさんに近づかないようにしとかないと」
「だったらあたしが凍らせてあげるわよ。ついでに北極海に沈めてあげるわ」
 さっさと歩き出そうとするのを、腕を掴んで止めた。
「何」
「もっといい案がある」
「いい案?」
「六感の暴走とは言え、マユミさんは苦しんだ筈だ。それをあっさり片を付けては穏便過ぎる」
 一瞬シンジの顔を眺めたナルだったが、すぐにこれもにっと笑った。シンジの考えが読めたのだ。
「綺麗な顔して結構意地悪いのねえ」
「頭が回る、と言って貰いたいな」
 異議を唱えたシンジの腕に、ナルはきゅっと腕を絡めた。
「いいわ、行きましょう」
 妖々と歩き出した二人の後方で、迷彩服がむっくりと起き上がった。
「ちくしょう…絶対しとめてやる」
 とぶつぶつぼやきながら。
 
  
「で、なんでこれになる?」
「デート、と言えばこれに相場が決まっているのよ」
 シンジが顔をしかめているのは、二人の前に置かれたパスタのせいだ。
 無論ただのパスタではない。
 物自体は海鮮をメインのボンゴレだが、皿が一つしかないのだ。
 しかも取り皿自体もない、と来ている。要するに、ここから二人で食べる運命なのである。
 気乗りしない、と取り皿を頼んだのだが、当店にはそのような無粋な物はございません、とあっさり却下されてしまった。
 おかげで大恥である。
 本人が思っているかは不明だが。
「いいじゃないの、ほらあーん」
 くるくるとフォークに巻き取ると、器用にシンジの口許へ持っていく。
「いやだ」
「あの坊やが見てるわよ」
 ポケットから取り出したのは、ダンヒルのライター。
 それを見たナルが、
「タバコ吸うの?」
「いや、格好だけ」
「タバコ咥える仕種だけでも、いっちゃう女は山ほどいるでしょうね、きっと」
 妖しく笑ったが、蓋の裏に鏡面加工してある事は知らない。
 覗いてみると…いた。
 カップルだらけの店内で、迷彩服は一人浮きまくっている。しかも接客を旨とする筈のウェートレスまでも、冷え切った視線を向けているのだ。
 ん、と首を傾げた後、ここがカップル専門店だと気が付いた。確か看板にそう書いてあった筈だ。
「何で入れた?」
 小声で訊くと、
「店先で騒ぐぞ、って脅してたわよ」
「迷惑なやつだ」
 うんうんと二人で頷き合っているのを見て、無論ケンスケは更に激怒の度合いを深めている。
「あ、あいつ…」
 ぎり、と歯を噛み鳴らしたその前に、ウェートレスが音を立ててコップを置いた。
「ご注文は?」
「だ、だからスープをってさっき…」
「当店は全てカップルの方を対象としております。独り者にはありません」
 やや乱暴な理論だが、カップル専門をうたっている以上やむを得まい。店の方針は、それが異常なものでなければ、その場所に於いては絶対正義なのだ。
 しかも周囲(まわり)が、ほとんどドレスアップしている中、権助一人は迷彩服である。店側としても、許されるならば簀巻にしてオホーツク海に沈めたい所だろう。
 だが、ただでさえその異様な服装に、周囲の耳目が集まっている所である、この上、店の裏口から簀巻きの物体を運び出す訳にも行かない。
 従って、さっさと追い出せと店長から厳命が下っていたのだ。
 問題は店内の雰囲気に気付かぬ相手だった事であり、その付け回す対象が、未だ店内にいた事であったろう。
「しょうがない、真似だけだぞ」
 憮然とした表情のシンジに、ナルはにっこりと笑った。
 空中で待機の結果、冷えた分を更に戻し、熱い所をくるくるとすくって持ち上げる。
 自分で要求しておきながら、シンジの唇が開いてフォークを吸い込んでいくのを、妖女は陶然となった見つめた。
 唇まで寄せて来かねないそれを見て、シンジはついと上半身を逸らした。
「何をする?」
 きゅ、と飲み込んでから訊いた。
「あん、だってえ」
 実はこの時まで、店内の視線は二分されていた。すなわちシンジの美貌と、権助の風体に。
 無論、意味合いは大きく異なるが。
 だがこの一瞬、店内の耳目は全て一人の女に集中した。しかも、男女を問わず殆どの者が顔を赤らめている。
 シンジはすっと店の外に視線を向けると、
「おかしな声を出すな」
 視線だけじろっとナルに向けた。
「だって色っぽいんだもの、あなたの顔」
 瀕死の老人さえ欲情させそうな声が、マユミと同じ顔の何処から出てくるのか。
「余計なお世話だ」
 シンジが男である以上、やや声が低いのは無理もないかもしれない。
 窓ガラスは店内の様子を逆反射させている。
 シンジの視界に若い女が映った−胸の膨らみをぎゅっと掴んだ女が。
 そして他方では座ったまま、不自然な格好でズボンの前を抑えている男が。
 店の中に、みるみる淫蕩な雰囲気が満ちてくるのを知って、シンジの表情が少し動いた。このままでは店内に、淫佚な絵図が展開されたかもしれない。
 だが乱交パーティーと化す前に、シンジはライターを取り出した。
 そして何が起きたか、おそらく見ていたナルにも分かるまい。
 シンジはライターで火をつけた、そしてその蓋を閉めた−ただそれだけである。
 にも関わらず、店内の淫気は急速に萎えていったのだ。
 テーブル越しに互いの股間に手を伸ばしていたカップルもいたが、はっと我に帰ると慌てて手を引っ込めた。
 その顔が赤いのは、自分たちの行為に気づいたからだろう。
「い、一体何をしたのよ」
「乱交パーティーに興味はない」
 シンジは冷然と言った。
「その淫声、創った物ではないな」
 その黒瞳に捕らえられ、ナルの全身は硬直した。
「それで滅ぼしてきたのはパガンか?それともアンコールか?」
 だが、ぷいとナルはそっぽを向いた。
「あれ?」
「余計なお世話よ」
「何?」
「あなたの美貌は幾らで買ったの?それとも誰かに創らせたのかしら?あなたの美貌よりはるかに罪は軽いわよ」
 ちょっと考えてから、
「それもそうかも知れない」
 と、シンジはあっさり前言を翻した。
「私が好きで持っている訳じゃないのよ。失礼しちゃうわ」
 小娘のように、ぷーっと口を膨らませてみせたナル。
 だが、
「本当に?」
 シンジの視線に遭うと、逃げるようにして逸らした。どうやら、大分誇張表現が入っているらしい。
「に、似たような物よ。そ、それより早く食べないと冷えるわよ」
 その語尾が微妙に変わったのをシンジは知った−そしてその表情も。
 ひそやかに嗤っているその視線は、未だ一人股間を押さえている男に向いている。すなわち権助に。
「あの程度の気に中毒って、まだ直ってないわ。きっと女に触れた事もないのね」
 冷たく言い捨てたが、
「マユミ(あのこ)を見てるのは気に障るわね。滅ぼしていい?」
「まだ」
 あっさりとシンジは首を振った。
「気が長いのねえ」
「いいや、違う」
 シンジの首が再度振られる。
「たっぷりと嫉妬に苦しんでもらおう」
「え?…なっ」
 一瞬きょとんした刹那、シンジの手がにゅっと伸びた。
 ナルの手からフォークを取ると、今度は自分でパスタを絡めた。そしてそのまま、ナルの口許に運んだのである。
 わずかに驚いた表情を見せたが、これも遠慮するような性格は持ち合わせていない、すぐに口を開けて受け入れた。
 口をすぼめて吸い込んだ表情が、一種異様なほど色っぽく、再度周囲に危険な気が漂った。
 それを気にもせず、ゆっくりと味わうように咀嚼してから、こくんと音を立てて飲み込む。
 彼氏に食べさせて貰う彼女の図、に店内の視線は二人に集中した。
 幸せそうな光景に、皆一様に羨望の視線を向けていたが、無論一箇所だけ違う場所があった。
 バックに炎でも背負っていそうな感じで、これは一瞬淫気から開放されたように、シンジに憎悪の視線を向けている。
 視線も凄まじく、デイパックから取り出したのは卵型の手榴弾。中味は不明だが、一目見てそれと分かる代物だ。
 だが。
「見てろよ、この胡椒入りで−」
 大した事はなかったようだ。
 しかも、
「こちらお下げいたします」
 さっきのウェートレスがやってきて、満面の接客スマイルを見せて、コップと一緒に手榴弾まで取り上げた。
「お、おいそれはっ」
「危険物持込で、即時通報してもよろしいのですが」
 顔は天女、声に含まれているのはコブラの毒といった所だ。
 歯がみして、シンジへの憎悪はますます燃え上がっている。
 一方それを楽しむように、
「あーん」
 と喘ぎにも近い声で口を開けて、中に入れてもらっている。
 が、夢中になっていたおかげで、いつの間にか皿が空になっているのに気づかず、
「ね、もう一つ注文していい」
「駄目だ」
 あっさり却下され、
「もう…けちなんだから」
 軽く拗ねて見せた様が、これも男ならわざと見たがるに違いないと、確信させる程に艶めいて見える。
 今度は男共の視線が集中しているが、女達の視線がちらちらとシンジに向いているから、おあいこだろう。
 もっとも、お互いに見限って破綻する可能性もあるが。
 マユミの刻(とき)ならこうはなるまい。やはりある種の女のみが持ち得る、淫性の効果と言える。
 シンジの方は、口に突っ込む作業の繰り返しと言った感じだったが、ふと権助にもう一度目を向けた。
「ん?」
 止まった手に、ナルの視線も動く。
「どうしたのよ?」
「目だ」
 とシンジは言った。
「目?」
「さっきから大分物騒な目で見ているが、何かおかしい」
「あら、分からなかったの?」
「何?」
 一瞬シンジの顔に驚きが浮かんで、すぐに消えた。
「ガキよ」
「確かにあなたから見れば…いたっ」
 ナルの手が伸びて、シンジの顔をきゅっと引っ張ったのだ。
「あの世で後悔してみる?」
 冷たい口調には、ぞっとするような物が混ざっていた−そして痛烈な殺気も。
 今までの甘い気が一瞬にして硬直し、店内の空気が凝結する。 
 だが、
「面倒だから」
 呑気に否定したシンジの顔を、
「次は駄目よ」
 と再度指を伸ばし、今度は軽くつついたのだ。
 緩んだ空気に、店内から安堵の吐息があちこちで洩れる。妖艶と秀麗のこのカップルが、それだけの存在ではないと見ている者たちにも伝わったらしい。
「爪の手入れが不足だな」
 その言葉にナルの顔がかーっと赤くなり、さっと指を引っ込めた。
「じ、時間が無かったのよっ」
 だがマユミの時は綺麗になっていた筈だ。
 やはり肢体ごと入れ替わった、と言うことか。
「爪談議は別にして、何時分かった?」
 その口調に救われたように、
「一目見た時からよ」
 一転して偉そうに胸を逸らした。
「見え隠れしているのは餓鬼ね、間違いなく」
「餓鬼…」
 鸚鵡返しに呟いた後、
「いい案がある」
 にっと笑った。
「どうするの?」
「悪いが付き合ってやって」
「え…?」
 シンジの翻意に一瞬首を傾げたが、すぐにその表情が厳しくなる。
「何を考えてるの」
「君と同じ事」
 外に視線を向けたシンジに、ナルは刺すような視線を向けた。
 さて、ここで出た餓鬼とは無論子供の別称ではない。地獄を描いた絵図には、必ず出てくるキャラと言える存在であり、生前の報いに等しく地獄に落ちた亡者である。
 なお、一般的には骨ばった身体に突き出た腹、のイメージで描かれる事が多く、三途の川のほとりに積まれた石塔を壊したりしている。
 字のごとく、いつも飢えているためその願いは常に食っちゃ寝であり、施餓鬼と言う言葉もそこから来ている。
 しばらくナルは、シンジに射抜くような視線を向けていたが、そこには恨みに似た色が強い。
 ややあってから
「…分かったわ」
 妙に低い声で言った。
「その代わり代償は高くつくわよ」
 その黒瞳に、危険な色の光が浮かぶ。
「よろしく」
 表情を変えずに頷いたシンジだが、ナルの要求を知っているのかどうか。
 いや、それよりもこの二人、打ち合わせもせずに一体何をしようと言うのか。
 答えはすぐに明らかになった。
「嫌よ、絶対にっ!」
 叫ぶように言ったナルに、
「分かった、好きにするがいい」
 シンジも言い捨てると、ぷいっと外へ出て行く。
 店内が、一瞬唖然として静まり返る。
 女の狂乱はともかく、青年のあんな反応までは誰一人予想していなかったのだ。
 俯いた女の姿に、声を掛けられる者などいよう筈が無い。
 ましてその連れが、魅入られてやまぬ程の美青年であれば。
 いや、違ったようだ。
 一人いた。
 迷彩服が、するすると移動し始めたのである。
 この店内に迷彩服と言うだけでも異様、いや十分迷惑なのに、それ以上の事をこいつはしようと言うのか?
 大胆にも、と言うより厚かましくも、シンジの後釜を狙いに行った権助に、店内からは憎悪にも似た視線が浴びせられている。
 だが本人は、何ら気にする気配は無くかさかさと動いていき、シンジの座っていた椅子に納まったのだ。
 その瞬間何人かが、がたっと音をさせて立ち上がった。
 いずれも殺気を含んで−またすぐに座る。
 彼らは見たからだ。
 娘が笑うのを。
 俯いたまま、彼女はにっと笑ったのだ。そう、確かに。
 そこに浮かんだ笑みは、殺気立った男達を一瞬にして我に返らせる物を含んでおり、あちこちで、
「なにやってんのよもう」
 と、彼女からなじられる光景が見られた。
 そうなると、彼らの興味は絞られてくる。
 すなわち、笑った娘がでしゃばり男をどう料理うるのか、という事に。
「あの、山岸マユミさんですね。僕、藍田権助と言います、これ使って下さい」
 一体どういう神経をしているのか、権助は座るなりハンカチを取り出したのだ。
 しかも、強引に渡したそれは黄色地にペイズリーの柄。模様は紫黒と来ている。
「有難う、もう大丈夫だから」
 顔を上げてにこりと笑った顔に、たちまち権助は撃墜された。
 一瞬の沈黙の後、
「あ、あのっ」
「なにかしら?」
 小首を傾げた姿は清楚な女子大生そのものだが、その内に何を秘めているのか、出て行った青年は知っている。
「な、何があったんですか」
「え?」
 わずかに見上げた黒瞳は、まさに妖花そのもの。
 しどろもどろになりながら、
「よ、良ければ、ぼ、ぼ、僕に話してもらえませんか」
 余計なお世話だ!
 店内の席は満席になっていたが、客全員が一斉に内心で叫んだ。
 それを知ってか知らずか、
「断られちゃったのよ」
「断られた?」
「フルコースを断られたの…振られたのかしらね」
 再度俯いた姿には、思わず抱き締めたくなるような雰囲気が漂っている。
 無論権助とて例外ではなく、思わず手を出しかけたのを辛うじて抑え、
「お、俺…いやっ、僕が付き合いますよそれっ」
 勢い良く叫んだが、周りの何人かは首を捻っている。
 それもその筈で、この店にはフルコースなど無いのだ。
 だがナルは、
「本当に…いいの?」
 しっとりと憂いを含んだ瞳に、権助は一も二もなく頷いた。
 それを見てすっと手を上げる。
 寄ってきたウェートレスに、何事かを囁いた。若いウェートレスが、にっと笑ったのは次の瞬間であった。
 間もなく、見守っていた物達は呆気に取られる事になる。そう、運ばれてきた料理の数に。
 店員をすべて動員したと思われる数であり、全員がその手に皿を持っている−料理が山盛りに載った皿を。
「こ、これは…?」
「フルコース、よ」
 ナルは表情を変えずに言った。
「店のメニューを全部食べられるか、彼と賭けをしたのよ。勿論食べるのはあいつの方。付き合ってくれるって言ったわね?」
 不意に口調の中に何かが混ざった−とんでもなく危険な何かが。
「そ、それは…」
 そこで見た光景を、居合わせた者達はおそらく、一生忘れる事はあるまい。
 清楚な容貌が淫靡な気を刷いた物に変わり、こう言ったのだ。
「お食べ」
 と。
 そして次の瞬間、迷彩服の奇怪な男は猛然と料理に手を伸ばしたのだ。
 文字通りの手を。
 フォークやナイフ、いや十歩譲ってもスプーンすら使おうとしない。
 まるで餓死寸前のように、いや飢えた獣のように勢い良く食べ出したそれを、周囲は唖然として眺めた。
 さすがに店員たちも呆気に取られたが、ナルは平然と、
「言った通りフルコース持ってきなさい」
 厳然と命じた。
 品揃えの豊富さで知られる店だけあって、運ばれてくる量は半端ではない。
 しかも、いずれも二人分以上の量であり、三皿目を平らげた時には、早くも権助の顔色は変わり始めていた。
 おかしい。
 皆が気付き出したのは、五皿目のボンゴレを食べ終わった時であった。
 既に権助の顔は紫色に変わり始めているが、それでも食べるのを止めようとはしないのだ。
 進んで食べている、のではなく体が勝手に食物を詰め込んでいる、と言った方が近いかもしれない。
 七皿、八皿と進んで行くにつれて、その顔は段々と土気色に変わっていく。
 もう既に、人数に換算して二十人分位は平らげているのだ。
 ただ、他の客たちが気付いていないことがあった。
 すなわち、どうしてこんなに次々と運んでくるのか、という事である。
 職業倫理からしても、既に止めていなくてはならない所だ。
 にも関わらず、店員たちはバケツリレーのように運んで来ている。
 そう、店員たちもまた魅入られていたのだ。
 ナルの妖気を帯びた瞳に。
 その全身から漂う危険な気に。
 そしてついに三十分後。
「げはあっ!」
 奇怪な叫びが権助の口から上がった。
 いや、違う。
 権助の口から出た何かが洩らした声、であった。
 あっ、と殆どの者が叫ぶ。それもその筈で、その口からは異様な生物が顔を出していたのだ。
 悪魔事典、でも開けばまず見つけられるそれ−どこか夜魔と呼ばれるインプに似ていた。低級妖魔の類だが、何故そんな物がこの変態男の口から?
 だが驚きはそれだけではなかった。権助を冷たく見ていたナルが、顔を出したそれをむんずと捕まえたのだ。
 その細い指に捻られたそいつは、きけけけ、と啼いてからがくりと首を折った。どうやら断末魔の悲鳴だったらしい。
 床にぼとりと落ちた瞬間、それは灰色の煙と化して消えた。
 信じられない光景に、全員が目を見開いていたが、
「何か用」
 ナルの声に、慌てて視線を逸らした。
 そして、ナルが軽く指を鳴らした瞬間、店員たちの動きが止まった。
 はっと我に返ったように、機械的だった歩みを止める。
「お、お客様っ」
 口から泡を吐いている権助に、慌てて近寄ろうとするのを、
「料金はこいつが払うから。持ってなかったら身ぐるみ剥がしなさい」
 冷たく言い捨てると立ち上がる。
 ぱちぱち、と音がした。
 音がしたのは窓際だったが、段々と店中に広がっていく。
 他の客たちにも、ようやく読めたのだ。
 このカップルがなぜ、あんな分裂を演じたのかが。
 そして何故、この美女が不気味な迷彩野郎の接近を許したのか。
 割れんばかりになった拍手の中で、ナルは顔を赤らめようともしない。
 むしろ、当然だと受け止めている節さえある。
 その拍手が、ぴたりと止まったのは次の瞬間であった。 
「餓鬼よ」
 ナルがぽつりと言ったのだ。
「餓鬼の退治には過剰な食料に限るわ。もっともこれが人外の生き物を寄り代にしていたら、私でも困ったかも知れないけれど」
 講釈するように、更にナルは続けた。
「食う寝る遊ぶ、これしか能が無い奴を餓鬼は好むのよ。例えば、そことそことそっちの小娘、あんた達なんかいいカモよ」
 指をさされたのはいずれも厚化粧の女達であり、そろって能天気な顔をしていたが、ナルの指摘に顔が真っ赤になった。
 だが反論一つ出来ないのは、事実云々と言うよりはむしろ、ナルの冷ややかな気にあったろう。
 店内が静まりかえった時、
「終わった?」
 にゅっと顔を出したのは、無論シンジである。
「もう…遅いわよ」
 一転して甘えきったような口調になると、すたすたとシンジに近づいた。
 ぎゅっと腕を絡めると、
「後は任せるわ」
 と、元の口調に戻って硬直している店長に告げた。
 その声で金縛りが解けたか、
「は、はいっ」
 顔中をミートソースやらパセリやらで、まるで塗装でもしたような顔の権助を、気乗りしないようではあったが掃除し始めた。
「お金は?」
 と店を出てからシンジが訊いた。
「全身剥がせばお金になるでしょ。色々と隠し持ってるみたいだし」
 そうか、と納得して歩き出してから、自分の左腕を見た。
 無論そこには、艶めかしい腕がぎゅっと巻き付いている。
「どうしても行くか?」
「当然よ。それとも嫌?」
 シンジが嫌だ、と言えば手を離すだろう。二度と強いる事はあるまい。
 だが。
「分かった、では行こう」
 あっさりした返事は、少しだけナルを驚かせたらしい。
 一瞬目を見開いて、
「ほ、本当にいいの?」
 目元を染めて訊いた。
「いやなら止めるが」
「行くわよ!」
 意気揚々と手を上げてタクシーを呼びにかかる。すぐに捕まったタクシーに二人は乗り込んだ。
 車内で運転手からの奇妙な視線は、明らかにこう言っていた。
「あんたにゃこの彼氏は勿体ないよ」
 と。
 それを無視してホテルの前で下りる。
 いきなり宿泊にして、二人が消えていったのは五分後の事であった。
 
 
 
 
 
(続)

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