赤子、襲来 
 
 
 
 
 学校の帰りらしい一組の男女が、鞄をぶら下げて並んで歩いている。
「ねえシンジ、帰りに何か食べてこうよ」
「何を?」
「アイスでもいいよ。あんみつでもいいし」
「あんみつはやだぞ、こないだアスカのせいでひどい目に遭ったんだから」
「あれはほら…ちょっとしたミスってやつよ…いたっ」
 何を思い出したのか、シンジがアスカの頭を捕まえてぐりぐりとこすったのだ。
「何がちょっとしたミスだよ、女子高生とかOLとかの専門店に連れて行った癖に」
 シンジが言っているのは、先だっての授業参観のことである。新作ゲームにはまったシンジは宿題を忘れたのだ。しかも何を考えたかは不明だが、シンジはあらかじめ指定打者となっていた。要するに指されると分かっていたのだが、ゲームの誘惑には勝てなかったらしい。
 この二人、いつも交代で相手を起こしに行くのだが、その日はアスカの番となっており、シンジがアスカに泣き付いたのだ。アスカは理系、シンジは文系とはっきり分かれており、課題は数学であった。
 教師が赤木リツコなだけに、シンジもすっぽかす訳には行かず、あんみつでいいわよと言うアスカの条件を呑んだ。授業で恥をかくのは免れたものの、放課後に連れていかれのは女性向の雑誌にも載ったことのある有名な店であった−女性に人気のある店として。
 しかも午前中で終わったのが失敗だった。午後の早い内から混んでくる店だったが、行った時には空いていたのだ。アスカと二人してパフェをつついている所へ、うじゃうじゃと入って来た女性軍に囲まれ、シンジは茹蛸になっていた。
「思い出した…」
 アスカが、しまったという顔になったがもう遅い。
「アスカよろしく」
「そ、そんな…」
「嫌なの?」
 手をわきわきと動かしているシンジに、アスカは抵抗を諦めた。断ると、危険な動きを見せている手が何をするか分からないのだ。
「分かったわよもう。でもあんまり高いのは駄目だからね」
「どうしようかな」
 にやっと笑ったシンジ。一瞬アスカの眉がぴくりと動いたが、シンジが選んだのは二百円のモナカアイス。ほっとしたアスカだが、本来はシンジに買わせようと思っていたことを忘れている。金額は些少でも、出すのと出させるのとでは合計で大分違うのだ。
 
 
「もー、シンジに買わせようと思ったのに」
 アイスを手に公園に向かった二人だが、ようやくアスカは計算の結果に気が付いたらしい。ぷーっと口を膨らませたアスカに、シンジがくすっと笑った。
「何がおかしいのよ」
「さっき僕がアイスって言った時、ほっとしただろ」
「え?」
「店員さんが笑ってたよ」
 財布をぎゅっと握り締め、ほっと安心した顔になり−
 思い出したアスカの顔がみるみる赤くなり、
「あ、あんたのせいじゃないのよっ」
 うぎゅーっとシンジの首を締めに掛かる。
「ちょ、ちょっとアスカ待ったっ、うぐっ」
 シンジの身長は真中より少し後ろだが、アスカの方は一番後ろである。ここ最近妙に発育著しいアスカの方が数センチ高い。従って、こういう場合アスカが圧し掛かっているように見える。
 二人ともアイスを持っているから、片手だけで揉み合っているのが妙な体勢になり、シンジの状態がぐらりと後ろに揺れた。
「アスカっ、アイスが落ち…あれ?」
 シンジの声にアスカの猛攻が漸く止まった。
 だが手は離そうとせずに、
「下手な芝居したって許してやんないんだからね…どうしたのよ」
「ダンボール」
「へ?」
 アスカがシンジに重なるようにしてベンチの下を見ると、確かにそこには封のされたダンボールがある。とは言え、ガムテープで封がされている訳ではなく、互い違いになっているだけなのだが。
 二人の上半身はくっついていて、かなり際どい体勢になっている。それに気付いたアスカが、一瞬顔を赤らめた時、
「アスカ下りろ」
 シンジの口調が変わった。怒っている訳ではないが、この口調になった時はアスカは従う事にしている。大抵シンジが何か感じた時であり、それがまた外れないからだ。
「どうしたの?」
「ベンチの下にダンボール」
「それで?」
「無修正のポルノ」
「スケベ」
「それか捨て猫、どっちかだ」
「猫?うそっ」
 ペットが欲しいと、常々言っているアスカの顔がぱっと輝いた。しかしおかしい、シンジの顔が少し硬いままなのだ。
「シンジ?」 
「…もう一つある」
「もう一つ?」
「開けてみ」
 シンジの口調が伝染ったのか、アスカの顔も僅かに強張る。そして次の瞬間、アスカは唐突に理解した−シンジの表情の原因を。ダンボールに手を伸ばした途端、アスカは耳にしたのだ…小さな泣き声を。
「ホギャホギャ…って聞き憶えない?」
「…あるわね」
 二人の手が申し合わせたように箱に伸び、ぎこちなく重なって箱を開ける。
「男?」「女?」
 口から同時に出たのがこれである、結構いいカップルらしい。
 予想通り、いや分かりきっていた事だが中から現れたのは赤子。それもご丁寧に産着を着せてよそ行きの格好になっている。
 はーあ、と洩らしたシンジに続き、アスカもふうとため息を吐いた。
 
 
 「『どうすん(のよ)だ、これ!!』」
 
 
 
  
「で?いつの間に生んだのよこんな子供」
「…あんた殺すわよ」
 拾得物は届けるべし、と言う法律は彼等には通用しない。
 と言うよりも中学生位に見える二人が、赤子を抱いておろおろしているのを見て、周囲からは訝しげな視線が向けられていたのだ。とりあえず家まで持って帰ってきたのだが、そこへ運悪くやって来たのは綾波レイ、シンジの天敵である。正確に言うと、シンジの方は別に嫌っていないが、レイの方がシンジに復讐心を燃やしているのだ。その原因は綾波レイの転校初日にあるのだが、それについてはまたいずれ。
 しかし何故殺す、と言うのがアスカの口から出たかと言うと、シンジは忙しいからだ−赤子のオムツを取り替えるのに。泣いた原因はオムツにあると、見抜いたのはなぜかシンジであり、取り替えるのを買って出たのもシンジである。
「お、女の子だ…」
 オムツを取った第一声がこれであり、その直後にアスカの裏拳が後頭部に炸裂したのだが、それで理性を取り戻したか初めてとは思えぬ手際で、てきぱきと取り替えていく。なお現在は、ミルクの中に指を突っ込んで温度の確認中。既に主夫の姿が板についているシンジである。
 手際よくミルクまで用意したシンジを、アスカとレイは揃って眺めていた。
「なーんかさあ」
「何?」
「あたし、一応女なのよね」
「見りゃ分かるわよ」
「で…あそこで赤ん坊の世話してるのは?」
「一応男ね」
「何よその一応ってのは」
「本当は女なんじゃないの」
「…どうして」
 アスカの声に危険な物が混ざったが、この時点でレイは気付いていない。
 だからうっかり、
「本当はついてな…ぐえっ」
 一瞬息が止まったところを見ると、アスカはかなり本気で締め上げたらしい。
「やっぱあんた殺しとくわ」
「ア、アスカ待って…」
 付き合ってると公言はしてないが、誰もがそうと、いやそうとしか見えないこの二人。しかも入れ込んでいるのは、アスカの方だという噂は本当らしいと、レイが薄れゆく意識の中で思ったその時。
「アスカ、勾引(かどわかし)だけでいいよ」
 ひょいとシンジが振り返った。
「かどわかし?」
「幼女誘拐のこと。殺人も付けて複合起訴されると、当分娑婆には出てこられないからね」
 それもそうね、とぽいと放り出されたレイは激しく咳き込んだ。
「生きてる?綾波さん」
「う、うるさいわねっ、あんたなんかに心配して欲しくないわよ!」
「静かに」
 『「え?」』
 二対の目が凝視する中、シンジは抱いた赤子を指して見せた。何時の間にか、すやすやと眠っているのを見て、二人は唖然として顔を見合わせた。
「『うそ、信じらんない…』」
 
 
 
 
「問題は、どういう経緯であそこにいたかだな」
 首を捻るシンジを見て、アスカは幾分複雑な表情になっている。男のシンジの方が、完全に扱いに慣れていると言う事実もそうだが、なぜか取られたような気がしたのだ。
 シンジの方は気付いていないが、レイだけはそれに気付いている。しかし余計なことを言うと、今度は成仏させられかねないと黙っていた。
「ねえシンジ」
「ん?」
「その子いつまで抱いてるのよ」
「いつまでって…ベッドもないし」
「さっき買って来れば良かったじゃないのよ」
「え?」
「何で哺乳瓶とミルクは買ってベッドは買わないのよ。それじゃ意味ないじゃない」
 訳の分からないことを言い出したアスカに、一瞬シンジの表情が動いた。赤子とアスカの顔を見比べると、
「抱いてみる?」
「…いらないわよ」
 一オクターブ低くなったアスカを見て、別にシンジなど助けたくないが、このままでは赤子が起きるとレイが、
「私が抱いてるから。私に貸して」
「君が?」
「そうよ。私が持っててあげるから、パパとママは善後策を相談しなさい」
 半ば強引に取り上げたレイだが、相性までは考えていなかったらしい。シンジの手から移った途端にむずかり出したのだ。
「役立たず」
 口調と言葉にレイの眉が吊りあがったが、シンジは目もくれず赤子の顔に手を伸ばした。胸のすぐそばにシンジの顔が来たのを見て、一瞬レイは引きかけアスカの表情も険しくなりかけたが、赤ん坊がぴたりと泣き止んだのを見て唖然とした表情になった。
「やっぱり駄目だ、僕が持ってる」
 奪還しようとしたが、『パパとママ』発言でころっと気を良くしている、アスカがそれを止めた。
「で、でもレイが折角持ってるんだから任せようよ。こう言うのは女の子の方が上手なんだから」
 シンジより上手いとは到底思えない。と言うよりも、シンジの方がはっきり言って上手い。が、ここは幼馴染の顔を立てる事にしたシンジは、奪還の手を止めた。
「でもさあ」
 赤子の顔を見ながら、首を捻ったのはレイである。
「この子、捨て子にしては妙だったわよ」
「え?」
 とこれはシンジ。
「だってこの子血色がいいじゃない」
 言われて二人が見ると、たしかに丸々としていて血の巡りも良さそうだ。
「大体公園の下なんてのは、滅多に人は見ないわよ。何でそんな所見たのよ?」
「ちょっとしたコミュニケーションの弾みで」
「ふうん…はいはい、ご馳走様」
 シンジは平然としているが、ほんのりと紅くなったアスカを見てレイは予想が付いたらしい。やれやれと肩をすくめると、
「話戻すけど、捨てるために置かれたにしては妙なのよ」
「猫ならよくいるよ」
「…それとエッチな本もでしょ」
 ちろりと向けられた視線から、シンジはすいっと視線を逸らした。
「何の話?」
 面白そうだと首を突っ込んだレイに、
「聞いてよレイ、シンジったら…むぐー」
 後ろからアスカを引き寄せて口を塞ぐ。レイは聞かなければ良かったと、痛烈に後悔していた。
「ぷはっ…って何すんのよ。窒息するとこだったじゃない」
「二人とも、じゃれるのはベッドの中にしてくれない」
 当てられると言うのは迷惑な話だが、当人達が自覚してないのは尚更性質が悪い。既にレイの額には数本の筋が浮かんでいる。
「『じゃれてない、じゃれてない』」
 やはり意識はないようだ。
「とにかく!」
 逸れかけた話を引き戻すと、
「最近のおおばかな母親が捨てたにしては、何か変なのよ。まるでいきなり気が変わって捨てたみたいじゃない」
「いきなりって?」
「この子、着てる物もそうだし顔見たってそうよ。相当可愛がられてた筈よ。それなのに何で急に捨てたのかしら」
「気まぐれは女の特権。所詮その程度の生き物だよ」
 冷ややかに言ったシンジに、ちらりとアスカが視線を向けたが何も言わない。
「ちょっとそれ聞き捨てならないわね。それ偏見じゃないの」
 無論噛み付いたのはレイだが、
「太陽光線には紫外線がある」
「当たり前じゃない」
「偏見には真実が含まれている、これも当たり前の事だ」
「なっ、何よそれっ」
 眉が上がったレイを、シンジは冷たく眺めた。
「な、何よ…」
 シンジの視線に遭って固まったレイだが、先に視線を戻したのはシンジであった。
「今は子供の話題だったね」
 シンジの口調が緩んだことで、ほっとしたのはレイだけではなかった。アスカも僅かに吐息を洩らすと、
「そ、それでシンジはどう見てるのよ」
「碇夫妻と惣流夫妻は今日はいない。出張で帰ってくるのは三日後だ」
「え?」
「その間隠匿しておいてもばれないよ」
「何考えてるのよ」
「いや、少し育てて見たくなった」
「『ちょ、ちょっとっ』」
 二人の少女の抗議の視線にもめげず、
「どうせ痴話喧嘩のなれの果てだよ」
「『は?』」
「いつも私ばっかりこの子の面倒見てずるいわよ、とかそんなもんだ。二人も子供がいなくなれば少しは反省するだろ。と言う訳でその子返して」
 言うが早いかさっさと子供を取り返したシンジ。妙に張り切っているそれを見て、アスカがレイをつついた。
(ちょっとレイ、どう思う。何か張り切ってない?)
(母性本能が目覚めたのよ)
(な、何言ってんのよっ)
(それともなきゃ父性愛とか何とか言うやつよ)
(まさか…)
 とは言ったものの、シンジを見るとどう見てもそれらしく見える。
(妬ける?)
 にやっと笑って囁いたレイ。どうもこの辺は進歩がない生き物らしい。アスカの強烈な肘打ちに呻いた所を、
「二人とも退去させるぞ」
 シンジにじろりと睨まれた。
「ね、ねえシンジ」
「ん?」
「い、一応その子さ…け、警察に…その、ね?」
 正論ではあるが相手が赤子とは言え、何となく微妙な感情が無かったとは言えまい。そしてそれが伝わったのか、
「いいよ」
「じゃ、じゃあ」
「警察の帰りから、未来永劫他人になってもらう。二度とシンジとか気安く呼ばないでね。僕も一切話し掛けないから」
「な、何ですってえっ…いいわよ、シンジなんか。誘拐罪とロリコン取締法違反で、刑務所でも何でも入っちゃえばいいんだわっ」
 完全に錯乱しているアスカ。何をどうしたら後者が当てはまるかは不明だが、涙目の少女には通用しないらしい。
「あたし帰るっ」
 と立ち上がったのを、慌ててレイが止めた。ここで帰られると、また自分が愚痴を聞かされる破目になる。他人の痴話喧嘩に巻き込まれることほど、嫌な事はないからだ。
「アスカちょっと落ち着いて。それとそこのおっさん」
 顔だけ向けたシンジに、
「それ犯罪よ、分かってるの?」
「ならない」
「はあ?」
「この子は現在精神的に衰弱している。不祥事が得意な警官と、駐禁取締りしか能の無い厚化粧の連中の所に持って行っても、ろくな扱いはされないからね。その前に体調を治しておくのは見つけた者の責務だ」
「だ、だけど」
「それにさっき、この子は痴話喧嘩に巻き込まれたって言ったのは君だよ」
「う・・それは…」
 確かにシンジの言う通りだが、レイの見た所赤子は完全に元気である。どうやら碇シンジ、赤子を見て奇妙な気分になったらしい。
「仕方ないわねえ」
 やれやれとため息をついたレイに、
「あんたどっちの味方なのよっ、もういいあたし帰る…うぐ」
「待ちなさいって」
 歩きかけたアスカの襟を捕まえると、
「碇君、あたしが言うって事は考えないのかしら?」
「…今何て?」
「善良な一般市民としては、犯罪まがいをみのが…」
 見逃す訳には行かない、と言いかけてレイは凍りついた−半顔だけ向けたシンジが、漆黒の瞳でレイを射抜いていたのだ。自分の物ながら、たまに鏡を見た時自分の目に怖くなる事はある。だが今シンジが向けている視線は、睨んでこそいないものの、完全にレイを圧倒していた。
「その前に口封じ、が一番便利だな」
 逃げようと思えば間違いなく逃げられるのに、レイは微動だに出来なかった。アスカもその余波を食らったものか、レイに服を握られたまま固まっている。
「誰が密告を買って出るの?」
 シンジが穏やかに訊ねた時、レイは背中がびっしょりと濡れているのを知った。
「わ、私よ」
 と言ったレイは、悪魔の羊皮紙にサインした気がした。
「ちょ、ちょっと待ってよレイ」
 止めたアスカに内心で安堵しつつ、
「なに?」
「何って…わざわざ密告しなくてもいいじゃないのっ」
「どうして?」
「だ、だってそれは…その…」
 言いよどんだアスカを見て、さもしょうがないと言う振りは崩さず、
「じゃ、言わないであげるわ」
「え?」
「ただし条件付よ」
「何よ条件って」
「アスカと碇君二人で世話する事。こう言うのはやっぱり、女手があった方が便利だからね」
「ふ、二人で?…」
 ちらっとシンジを見たが、シンジの方は反応もしない。どうやらレイの考えることなど、あっさりと読んでいたらしい。
 だが別にいらないとは言わず、
「いいよ」
 と頷いた。
 ありがと、と視線で礼を言ったアスカに、
「練習よ」
 脇腹をつつかれて、アスカが赤くなる。
 踵を返しかけたレイの後ろ姿に、シンジが声をかけた。
「直球は嫌いなの?」
「曲がったカーブが好きなのよ」
 二人の間をアスカの視線が往復する。?マークを顔に付けたアスカに、軽く手を上げてレイは出て行った。
「シンジ、今の何?」
 シンジが赤ん坊から顔を上げて、うっすらと笑った。
「何だと思う」
「分からないから聞いてるんじゃないの」
「最初からアスカを残そうと思ったんだよ」
「レイが?」
「そう」
「カーブって何の話?」
「警察なんか行く気も無いのに、引き換えの条件を出したのさ。アスカもいい友人持ったよね」
 少し皮肉が入っているのだが、アスカはそれには気付かず、レイの出て行った玄関を見た。
(レイ、ありがと)
 心の中で呟いたアスカに、
「ところで、今日泊まっていくの?」
「へっ?」
 思わず間抜けに聞き返してから、その顔がみるみる紅潮した。
「と、と、とまっ、泊まりっ?」
「ママじゃないの?」
 言われてやっと気が付いたらしい。しかし、僅かに落胆に近いものが浮かんだのはどういうことか。
「あ、そ…そうよね」
「何だと思ったの?」
「べ、別にっ。それよりご飯どうするの?」
「夕飯?ミルクでいいんじゃない。それともアスカが飲ませるの?」
「あたし?シンジの方が上手いじゃない」
「違う、そっち」
 ぼん、とアスカの頬が爆発する。シンジの視線はアスカの胸に向けられていたのだ。
「でっ、出るわけ無いじゃないっ」
「そうなの?」
「あ、当たり前でしょっ」
「知ってるよ、そんな事。当然じゃな…あたっ」
 アスカの投げたスリッパが、シンジの後頭部を直撃する。
「子供に当たったらどうすんだよもう」
「…だからあんたを狙ったのよ、このバカシンジ」
「分かった、分かった。じゃ買い物行って来て」
「え?」
「ミルク一回分のやつしか買ってないから、晩の分が足りないんだ。それと僕とアスカのも」
 分かったと出て行きかけたが、
「シンジは行かないの?」
 振り返って訊ねた。彼らの両親は会社と部門が同じせいで、揃って遅くなる事は珍しくない。だから泊まったことは無いが、食事が一緒になることはよくある。あーでもないこーでもないと、がやがや言いながら買い物するのはアスカの楽しみでもあったのだが。
「僕は番してるから行ってくれる」
「え…あ、うん、じゃ行ってくるわね」
 どこか釈然としない物を感じながらも、アスカは店に向かった。ミルクの缶を籠に入れた後、惣菜を目にしてから立ち止まる。
(今日は一緒に作って…くれないわよね)
 子供は嫌いではないが、シンジの腕に抱かれている赤ん坊のことを考えると、なんとなく複雑な感じになる。
「割り込まれた…って感じよね」
 ぽつりと呟いてから、慌てて自分の言葉を打ち消すように首を振った。
「べっ、別に彼氏じゃないし、気にする事無いわよね、うん」
 ふう、とため息をついた後、出来合いのものを幾つか放り込んでレジへと向かった。
 
 
 
 
 シンジの家のベルが鳴ったのは、アスカが出かけてから三十分ほど経ってからであった。独特の鳴らし方で相手が分かる。
「どうしたの?ミサトさん」
 玄関に出ると、明らかに不機嫌そうな顔のミサトが立っていた。取り締まりにかけては優秀で、逃げる輩は必ず捕まえるのだがが、情に訴えられると結構見逃してしまう事も多く、功罪半ばになってしまいなかなか出世できない婦警である。
 しかし今はまだパトロールの途中の筈だが。
「シンちゃん、迷子知らない」
 第一声がこれである。先般取締り中に、暴走族と話しこんでいたせいで、数台の違法駐車車両に逃げられたのがばれたのだ。おかげで親分に呼ばれて、届出のあった迷子を捜して来いと言う。
「迷子って何?」
「痴話喧嘩の馬鹿親の子供らしいのよ」
 シンジの表情は変わらない。
 続けて、 
「どうしたの?」
 と訊いた。
「何かねえ、育児の完全負担に切れた母親が、心配させようと思って友人のとこに黙って預けようとしたのよ。だけどやっぱり気が変わって持って帰ってきたんだって」
「なんで迷子になるの」
「馬鹿だから雰囲気が出ると思って、ダンボールに入れたらしいのよ。ところが帰りに公園で一休みして、ジュース買って戻ってきたらもう無かったんだって」
「それって誘拐なの?」
 ミサトは軽く首を振って、
「違うわよ。どうせどっかのガキ共が、エロ本か何かだと思って持っていったのよ」
「その割には落ち着いてない?」
「信じてないもん」
「え?」
「大体ダンボールに入れて子供を運ぶ親なんて、いまどきいると思う?ばかばかしくてやってらんないわよ。大方白昼夢でも見たか、そうでなきゃここがイっちゃってる女よ」
 自分の頭を指して見せたミサトに、
「つまりありえない訳?」
「そーゆー事。ていうか、来た時泥酔してたから、こっちもまともには取り合ってないのよ。はいはいって感じね」
「じゃ何でミサトさんが来たの?」
「それはその…お叱りの一端って言うかその…」
「じゃいいや」
「え?」
「ありえない物なら存在する筈も無い。問題ないね」
 一瞬ミサトがぽかんと口を開け、次の瞬間その顔が蒼白になった−その耳が赤子の声を聞きつけたのだ
「ま、まさか…」
「言っとくけどあれは僕が産んだ子だ。持ってくなら、まず親と話をしてもらおう」
 ミサトとシンジの視線が交錯し、先に逸らしのたのはミサトであった。
 前にミサトの間抜けな相棒が、暴走族を怒らせた事があった。明らかにその婦警の発言に問題があったのだが、その時は相手が悪かった。二十名あまりに囲まれて拉致されてしまったのである。それだけならシンジには関係なかったろう。だが連れて行く途中で、彼らの一人がアスカに絡んだのだ。何かした、と言う訳ではなく単に冷やかしただけなのだが、運悪くアスカはその時二日目であった。刃のような言葉に、血の気の多い彼らは忽ちアスカを取り囲んだ。一番背の高い男がアスカの肩に手をかけたのと、その首が前にがくんと折れるのとが同時であった。湧いて出たかのような少年に、彼らは数を頼んでなめて掛かった。
 何があったのか、ミサトには見当もつかない。だが結果だけ言うならば−全員病院送り、及び最速が全治一ヶ月。なおシンジは肩甲骨にひびが入っていた。
 シンジに何の心得があるのかは不明だが、ミサトでは到底敵うまい。それを知りながら、猪突猛進するミサトでもなかった。
「…いつ返してくれるの」
「返す気は無い」
 一瞬ミサトの眉が上がったが、すぐに抑えた。シンジの口調の変化を読み取ったのである。
「貰って行ってもいいの?」
「明日まで僕が育てる」
 うーん、とミサトは思考能力を始動させた。泥酔している女が泣きながら来ても、まともに取り合うほど警察は暇じゃない。明日なら…何とかなるか。
 秒と経たずに弾き出すと、
「明日の朝六時。いいわね」
「一つ条件がある」
「条件?」
「親に一発かましといて」
「…分かったわ」
 ミサトが引き揚げた後、シンジの表情に変化は無かった。もとより誘拐絡みか、或いは愚かな母親の育児放り出しの結果だろうと、予測は付いていたのだ。ミサトは警察の人間だが、明日までは動かない事をシンジは分かっていた。
「娘の育成ゲーム、地で行きたかったんだけどね」
 本気とも、冗談とも付かない口調で言うと赤ん坊に笑いかけた。だあ、と赤子が笑い返したように見えたのは気のせいだったろうか。
 
  
 
 
 
 アスカが帰って来たのは一時間ほど経ってからであった。
 ミサトの話を聞いて顔色が変わる筈…だったが、 
「え?捜索願いが出てたの?…やっぱりね」
「やっぱりって言う発言と、その安堵したような顔は何?」
 図星を突かれて、一瞬アスカは慌てた。
「だ、だってほらっ、ひ、人様の子だしね?」
「ふうん」
「べ、別にその…何かシンジ取られたみたい、なんて思った訳じゃないのよっ、そうっ、私は純粋に心配して…あ」
 直径数十メートルの大墓穴を掘ったことに、この時点で漸く気が付いたらしい。その頬が薄っすらと赤くなった。
「この子お風呂に入れておくから、ご飯用意してくれる」
「入れるって…一緒に入るの?」
「どうやってやるのさ」
「だ、駄目よっ、そんなの!」
「何が?」
「お、女の子と一緒にお風呂入るなんてっ」
「…冗談だよ」
「え?」
「こんな小さな子浴槽に入れられる訳ないだろ。何考えてるんだよ」
「だ、だってその…」
「巨大な洗面器につけて洗ってくる。おむつ三回取り替えたからね」
「な、ならいいけど…」
「そんなに女の子と一緒に入りたいの?」
「ちっ、違うわよっ」
 手を振り上げて見せたものの、内心ではシンジにばれたのを分かっていた。
(ちょっと大人気なかったかな)
 何でこんなに気になるのだと、内心首を傾げながらアスカは夕食の用意に取り掛かった。
 
 
 
 
 
 それから二時間ほど後の事。
 アスカとシンジは赤子を真中にして、川の字になっていた。かなり美味しい場面の筈だが、シンジの意識は子供に集中してるし、アスカはアスカでそれが何となく面白くない。
「ねえ、シンジ」
「何?」
「あのさ…その…」
「ん?」
「ひ、人の子でも可愛いの?」
「どう言うこと?」
「母性愛とか父性愛とか言うじゃない。自分の産んだ子とか、自分の子は皆可愛いって言うけどさ。だけど…」
「フィーリングだな」
「は?」
「フィーリング。一目見た時に何か気に入ったんだ。向こうもそうらしいよ」
「向こうってその子?」
「そう。だから綾波さんでは泣き止まなかったでしょ」
「…そう言えばそうね…」
 アスカがちらりと赤子を見ると、その小さな手はきゅっとシンジの服を掴んでいるではないか。
「シンジ」
「え?」
「あたしって、母親に向いてないのかな?」
「この子はクローン人間じゃないよ」
「クローン人間?」
「普通に母親の胎内から生まれてきてる。子供を道具に使うような馬鹿親でも、母親にはなれるんじゃない」
 シンジの声に、僅かだが怒気を感じ取ったアスカ。
「じゃ、あたしもこうなるって言うの?」
「相手次第だね」
「ふうん…って、何よそれ!…あ」
 ぴっと髪が逆立ちかけたアスカに、シンジは唇に手を当てた。
「赤ちゃんが起きるから静かにして」
「だ、だってシンジが…」
「アスカって尽くすタイプみたいだからね。じゃお休み」
 赤子を抱き寄せると、さっさと寝息を立て始めたシンジ。
 本来母親と言うものは、いつ夜泣きするかと気が気ではないものであり、こんなにさっさと寝る親などいてはたまらない。
 それよりもアスカの方が、シンジの投下した爆弾に直撃された影響をもろに受け、暗闇の中で真っ赤になって硬直していた。むしろこっちの方がある意味、母親らしいと言えるかもしれない。
(尽くすタイプ…あたしがそんな感じの…嘘っ!)
 シンジは思った通りに言っただけで、別に嘘など言ってないのだが、アスカは何を考えたのか赤くなったり頬に手を当てたりと、なかなか寝付く様子は無かった。
 
 
 
 
 
「シンちゃんいるー?」
 ミサトが玄関を開けたのは、翌朝六時二分前であった。
 昨日は母親が自棄になってか、酩酊状態で来てくれたおかげで助かったが、父親までも来てしまい、全力で探す事が決定したのだ。だから、何としても連れて行かなければならないのだ。
「うるさいわねえ、とっくに起きてるわよ」
 ぬっと顔を出したアスカを見て、ミサトは目を見張った。アスカの腕には、哺乳瓶をくわえている赤子が抱かれていたのだ。昨日アスカが買い物に行った事を聞いたミサトは、多分アスカが赤ん坊と合わなかったのだろうと見抜いていた。と言うよりも、シンジの接し方を見て、これではアスカが妬くと見切ったのだが。
 だからそのアスカが器用に抱いているのを見て、思わず驚愕の視線を向けたのだが。
「シ、シンジ君風邪引いたの?」
「…なんでよ」
「だ、だってアスカが子供の世話するなんて…」
「うるさいわね、嫁き遅れ」
「…何ですって」
「どうせあんた、あたしが世話するのは変だとか思ってるんでしょうか」
 図星を突かれ、一瞬うっと引いたミサトに、
「予行演習よ」
「は?」
「あたしがママになった時の為にね」
「ア、アスカ?」
「ミサトを仲人にしたげるから、ちゃんと結婚しとくのよ」
 ぴき、とミサトの眉が上がりかけたが、その表情がすぐに穏やかな物に変わった−アスカがそっと赤子に頬擦りしたのだ。
(へえ、結構様になってるじゃない)
 と思いつつも、嫁き遅れと言われた事を思い出し、
「で、アスカ」
「何?」
「お父さんは誰なのかなあ?」
「な、何よ」
「アスカに子供出来た時の予行演習ってのは分かったけど、お父さんは誰なのかしらねえ?」
「そっ、それはその…」
「朝っぱらから、婦警が玄関先で騒がないで欲しいな」
 制服に着替えたシンジが出てきた。
「シンジ君…いいのね」
 ここで拒否されれば、ミサトとしても公にせざるを得ない為、さすがに声には緊張がある。しかも碇・惣流両夫妻は知らないと思われるだけに、緊張もひとしおであった。
「風呂に入れないからいらない」
「『え?』」
 声が重なった二人に、
「人の子だと、一緒にお風呂入ると何か罪悪感あるし」
「シ、シンジ君そんな…」
 言いかけてミサトは気付いた−即ちシンジはかなり気まぐれだと言うことに。
「そんなことより」
「え?」
「ちゃんと一発かましといた?」
「ああ、やっておいたわよ」
 と、ミサト。だがこれは本当だ。
 亭主連れでもう一度来た時、
「お子さんは必ず探し出します」
 ミサトはそう確約したのだ。
「でもその前に」
 怪訝な顔をした妻の顔に、鈍い音がしてその身体が吹っ飛んだ。
「子供はあんたの道具じゃないのよ。ついでに警察はあんたらの便利屋でもないわ、憶えておきなさい」
 般若の形相を見せたミサトに、夫妻が返す言葉もなかったのは幸いだったろう。
「じゃ持ってって」
 シンジが持ってきたのは子供用の簡易ベッド。そっとアスカがそれに移したのを、ミサトは受け取った。
「シンジ君、あのね…」
「ん?」
「今度から…ナマモノは警察に届けてくれると…その、嬉しいかなって思うんだけどね」
「捨てる親がいなくなれば、無用の台詞だよ」
「…それもそうね」
 ふう、とため息を吐いたミサト。アスカは籠の中を覗きこむと、赤子に笑いかけた。
 その顔が引きつったのは次の瞬間であった−彼女は間違いなく舌を出したのだ。
 ミサトの背中を見送りながら、シンジがぽつりと呟いた。
「もっと飼育したかったかな」
「絶対にやだ」
 抗議の言葉に、シンジが後ろを振り向く。
「あの子…あたしに舌出したのよ」
「は?」
「ガキンチョのくせに、あたしに宣戦布告したのよ、まったく」
「宣戦布告?何それ」
「あ、ううんこっちの話。それよりシンジ」
「え?」
 シンジ夕べ言ったわよね、アスカの場合は相手次第だって」
「うん」
「と言うことはよ。相手が良ければいいんでしょ?」
「普通そうだよね…あ」
 シンジの腕に、きゅっと腕が巻きつけられたのは次の瞬間であった。
「何?」
「じゃさ…その…シ、シンジが相手ならいいんじゃない。一応安心だし」
「はあ?」
「あ、あたしが子供産んだげる…とかその…いや別にシンジが嫌ならいいけどそのっ」
 どさくさに紛れたとは言え、かなりカミングアウト的な発言に、アスカの頬はかなり染まっていた。
 ふーん、と踵を返したシンジに、さては失敗したかとアスカが俯きかけた時。
「二人以上ね」
「…え?」
「一人失敗すると困るからもう一人は予備。帝王切開で苦労してもらおう」
 意味を理解するのに若干時間を要したが、ゆっくりとアスカの顔が緩んでいく。
 うんっ、と満面の笑顔で頷いたのは、数秒後の事であった。
 
 
 
 
 
(終)