恋人達の事件簿「爬虫類憐れみの令」
「どうしようかなあ…」
部屋の真ん中で、シンジは腕を組んで唸っていた。
その目の前にはスーパーの袋が置いてあり、その口はぎゅっと縛ってある。
それ自体は別に変でもない。
そう、その中でうにょろうにょろと、何やら物体が動いている事を別にすれば。
今は夏休みだが、この少年がこんな物を眺めているわけは、今日の午前中に遡る。
「ちょっとシンジ!すぐに来てよっ!!」
「はあ?」
ちょうどシンジは目が覚めた所である−ただし二度目。
せっかくの休みだし、いつも通り早起きする事もないと、もにゃもにゃ言いながら、目覚ましを止めて寝入っていたのだ。
で、これが二度目の目覚めである。
が、起きたと言うより起こされたと言う方が正解だろう…三十六回鳴った電話のせいで。
突然の甲高い声に−いつもの事だが−シンジの脳は強制的な回転を強いられていた。
生まれた星が違うのか、或いは前世からの巡り合わせなのか、完全に下僕と化している身であり、電話の相手はその主のアスカである。
ただ。
(何か声の調子が変だな)
悲しいかな、その顔色を見て過ごす週間が付いたせいで、調子のずれもすぐに分かるようになってしまった。
どうしたんだろ、と首を傾げた瞬間、
「五秒以内に来なさいっ、来ないと殺すわよっ!!」
それは脅迫罪と殺人罪だ、と叫び返してやりた…くはなかった。
と言うより、そんな事は頭に浮かびもしないのだ。
それにどうせ。
ポキャッ
「アスカ!そんな言い方しちゃ駄目って、いつも言って…いやあっ」
その声を聞いた瞬間、シンジの脳は完全に覚醒した。
アスカを唯一押さえうる人物キョウコ。
その悲鳴にも似た声を聞いて、シンジはただごとではないと察したのだ。
服を掴むと慌ただしく着替え、家を飛び出して行くシンジ。
アスカの家までは、全力疾走で大体三分。
勢いよく玄関を開けたシンジが見たものは。
「へ、蛇…?」
なぜか玄関マットの上でとぐろを巻いている白蛇と、それを前にして震えながら抱き合っているアスカ親子であった。
「ペ、ペット?」
思わず訊いたのは、普段から突拍子もない行動を好むアスカをよく知るからだ。
ペット屋で蛇を飼ってきて、玄関先で脱走された可能性も十分ある。
が、
「ち、違うわよこのおおバカシンジっ!」
違うらしい。
および、回れ右して帰りたくなったが、
「シ、シンジ君ごめんね…あの、蛇がね…」
目に涙さえ浮かんでいる顔に、一転して騎士(ナイト)に変貌すると、俄然捕獲の意欲がわいてきた。
しかし、
「あ、あの今助けますから」
そんな事を言ってもこの碇シンジ、蛇との体験は初めてであり、今までは動物園か図鑑でしか見た事はない。
「あの、キョウコさん袋か何かありますか?」
「袋?え、ええあるわ」
震える足を踏みしめて立ち上がったが、アスカの方はまだ立てない。と言うよりも、腰が抜けて立てないらしい。
「シ、シンジ起こしてよぉ」
と来た。
十年に一度、いや百年に一度しか聞けない台詞だが、今のシンジにはその余韻を楽しむ余裕は無かった。
なにせ、鎌首を上げた蛇がじっと見ているのだ。
(カエルの気分が分かるような気がする…)
なんぞと考えながら、アスカに手を伸ばすとぐいと引っ張られた。
すぱん!
「何でもっと早く来ないのよっ」
ほっとしたと思ったら、えらい事を言いだした。
こんな時、目に涙溜めて強がっても意味無いぞ、と言えるのは対等以上の関係であって、シンジには関係ない。
だから、
「あ、あのっ、ごめんねっ」
とりあえず謝っておく。
「あたしが噛まれて死んだらあんたのせいだかんねっ。一生つきまとってやるんだからっ」
結構気の長い話である。
だがその時、アスカもシンジも気が付いていなかった。
純白の蛇が、その黄金の瞳で二人を眺めていたことを。
そしてそこに、間違いなく呆れた色が浮かんでいたことにも。
「はいシンジ君持ってき…お邪魔だったかしら?」
慌てて戻ってきたキョウコだったが、二人の姿を見て冷やかすような口調で訊いた。
そう、殆どシンジを押し倒している状態のアスカを見て。
「ママっ、な、何言ってんのよこんな奴っ」
げしっ!
「さっさと離れなさいよっ」
くっついたりけっ飛ばしたり、なかなか忙しい娘である。
「わ、分かったよもう」
ぶつぶつ言いながらも、ここで逆らうと後が怖い。素直に退散すると、キョウコからビニール袋を受け取った。
「で、シンジ。それどうするのよ」
「これ?何とか捕まえられないかなって思って。ところでこの蛇どうしたの?」
「出かけようとしたら玄関にいたのよ。まったくどこから入ったのかしら」
「真っ白い蛇が?どっかの飼い蛇じゃないの?」
「どうでもいいわよそんなの。そんなことよりシンジ」
「え?」
「捕まえたらさっさと殺しなさいよ。分かってるわね」
ドスの利いた声で脅してきた。
「え゛!?」
「何よ、何か文句あるの」
「だ、だって人の物だったらまずいよ」
「関係ないわよそんなの。第一、人様の家に侵入するようなモン、飼っとく方が悪いんだからねっ」
一応正論だが、危害を加えない物を殺すのは少しまずい。
いや、それよりも前に。
「あの、シンジ君」
二人の論議を傍聴していたキョウコガ口を挟んだ。
「はい?」
「余計なお世話だと思うんだけど…そろそろ捕まえた方がいいと思うの」
「え…あっ」
殺す、の単語に反応した訳でもあるまいが、白蛇は動く気配を見せていたのだ。
しかも、チロチロと赤い舌まで出している。
「ちょ、ちょっとシンジ早くしてよっ」
「う、うん」
請け負ったものの、完全に及び腰だし、軽く押したらすぐに倒れそうだ。
「お、大人しくしてください」
ご丁寧に蛇に頼むと、上からビニール袋をかぶせる。
が、当然のように逃げられ、眺めていた女性陣から悲鳴が上がる。
「シ、シンジ君早くうっ」
「バカシンジ早くしなさいよっ」
「は、はいっ」
助っ人だか下僕だか分からないが、家中をどたばたと、するする動く生き物との大捕物が始まった。
さてそのしばらく前−
「いいかい、絶対に人間達に姿を見られてはいけないよ」
「あの、見られたらどうなるの?」
「厳罰」
「げ、厳罰?」
「そう、二度と戻っては来られないからね」
で…彼女がいきなり人目に触れたのは、その四時間後であった。
二時間後。
「つ、捕まえた」
肩で息をしながら、ようやく蛇はシンジの袋に収まっていた。家具もあちこち倒れ、シンジもまたそこここに傷を作っている。
ただし、噛まれたのではなくていずれも転んだ物だ。
威嚇する素振りを見せながら、ちょろちょろと逃げ回るので、決定的な一撃が出しにくい。
おまけに狭い所ばかりを選んで行くし、
「待ちなさいよっ、このバカ蛇っ!」
強気になったアスカが、棒を持って追い回すものだから、完全に邪魔になっている。
ついでに言うと、背中の傷は転んだ時にアスカに踏まれた物だ。
「さーてシンジ」
指を鳴らしながらやってきたアスカ、なぜかその手に本を持っている。
「それ何?」
「ヘビオタの情報本よ」
「え?」
「蛇に凝ってるオタクのハウツー本よ」
一体そんな物、どこから持ってきたのか。
「これの種類分かったの?」
「あんたバカァ?んなモン調べてどうすんのよ」
「じゃ、どうするの」
「決まってるじゃない」
にたあと笑ったアスカに、シンジが一瞬嫌な予感がした直後、
「売るのよ」
「う、売る〜?」
「そりゃそうよ。ほらシンジ、これ見なさいよ」
アスカが差し出したページには、蛇の大家万石先生と書いてある。
「このロン毛、何か金持っていそうだし、高く売れるわよ」
無知とは恐ろしい物で、その筋の御大を捕まえて飛んでもないことを言う。
いやそれよりも、白蛇など神の使いとされて霊験あらかたとされているのに、きっとばちが当たるに違いない。
「で、でも…」
煮え切らないシンジだが、これもこれで飼った方が解剖でもするに違いないと、勝手に思いこんでいるのだ。
「これを売るの?」
袋の中をちらりと見ると、もう蛇は大人しくしている。
結構ひどい目に遭わされたが−半分はアスカのせいだが−何となく可哀相になって、
「あ、あのさアスカ」
「何よ」
「そ、それ売るのはちょっと」
それを聞いた途端、アスカの目が危険な光を帯びる。
「あんた、この私の邪魔をしようっての?」
アスカが修羅モードに入る。こうなると、かなり危険な結末が待っており、シンジが早くも後悔し始めたが何とか、
「だ、だって解剖されちゃうかも知れないんだよ」
「いいじゃない。大体このアスカ様の家に入り込むなんて、三億年早いのよ。解剖でも改造でも好きにされるといいんだわ」
「で、でもっ」
勇気を総動員して、
「べ、別に危害は加えてないん…あう」
アスカの手がにゅっと伸びて、シンジの胸を掴んで持ち上げた。
身長はシンジの方が高い筈、いやそれより相手が弱くなると急激に強くなるアスカだが、
「アスカ、お止めなさい」
ようやく家具を片づけて、戻ってきたキョウコが止めた。
「だ、だってママ…」
「だってもダッチもないわ。捕まえたのはシンジ君でしょう、シンジ君の言うとおりになさい」
いかにアスカでも、母親の言うことは絶対である。
はーい、とシンジを釈放したが、お尻に強烈な一撃を加えるのは忘れなかった−無論ママからは見えないように。
かくして、冒頭のシーンへと戻るのである。
袋を前にして考えていたが、元から咄嗟に救ってしまったため、別にどうこうしようとは考えていなかった。
だから良い案が浮かぶ筈もなく、
「何か、体もあちこち痛いし…一眠りしてから考えよう」
いきなり起こされて、しかもきつい運動したせいであっという間に睡魔に捕まったシンジ。
三十秒もしない内に、すやすやと寝息を立て始めていた。
だがシンジは知らない。
シンジが眠り込んでから数分後、袋の一カ所に穴が開いたことを。
そしてそこから、白蛇がぴんぴんして抜け出してきたことを。
何よりもその鎌首をシンジに近づけて、更にその尖った舌でシンジの顔をちろっとなめたことなどは。
そして数時間後。
「あーよく寝た」
ふわあ、と起きあがったシンジ。
一人暮らしの室内は、本人の性格で結構綺麗なのだが、最近少しばて気味で散らかり気味になっている。
とは言え散らかってるのは好きじゃないし、さて片づけるかと気合いを入れた瞬間。
「…ゴミ…どこ行った…?」
つい間抜けなことを言ってしまったのも、決して無理はあるまい。
なにせ、部屋中からゴミが強制撤去されており、少し散乱していた雑誌類も全部一つにまとめられていたのだから。
ただし。
「あ、こ、これまで…」
その顔が赤くなったのはどういう訳だったのか。
しかしそんなことより、誰かが室内に侵入したのは明らかであり、緊急事態である。
慌てて貴重品のチェック−冷蔵庫の食料点検を含む−を始めたが、全く異常は見られなかった。
んー?と首を捻ったが、結局結論はこう出た。
すなわち、昼寝中に侵入される不覚を取ったが、幸いそいつが善意の塊であり室内を全部掃除−ちょっとあれな本を含む−してくれたに違いない、と。
無断侵入はやっぱり気持ち悪いが、それ以外に思い当たる要素がない。
ちょっと無理があるが、ここは強引に自分を納得させることにしたシンジ。
と言うか、それ以外に道は見つからなかったのだ。
「でも一体誰が…」
浴槽に身を沈め、浴槽の縁に手を乗せてその上に顔を置き、ふうとため息をついたシンジ。
がしかし、ふと天井を見れば気が付いたかも知れない。
そう、どさくさで忘れていた蛇が、そこに張り付いていることに。
しかもその蛇が、シンジをじっと見下ろしていたことに。
「ふえっくしょんっ!」
奇怪で疲れる一日に、風呂場でうとうとしてしまったシンジ、どうやら風邪を引いたらしい。
しかも気づいた時には真夜中だし、こんな時間から友人を呼び出せるほど、シンジは剛毅な性格をしていない。
もっとも…両親不在の時に、シンジは午前二時にアスカから呼び出されたことがあるが。
確かその時は、生理痛だから薬局行って薬を買ってこいと命じられた筈だ。
で、
「私が生理痛で死んだらどうしてくれるのよっ」
治った次の日、顔を合わせた第一声がこれである。
ふとそのことを思い出して、
「あの時の仕返しに…呼んでやろうかな…」
とりあえず口にしてみる。でないと始まらないからだ。
ただし、そこが限度なのは自分でも十分分かってるから、
「駄目だよな、やっぱり。僕はこのまま…逝くのかな」
急に弱気なことを呟くと、熱で真っ赤になった顔のまま、再度眠りに落ちた。
だがその直後。
「私を助けてくれたお礼は、まだ済んでいません。可哀相にこんなに高い熱で…」
一人の少女がその枕元に立ち、はらりと衣服を落としたことを無論シンジは知らない。
「ん…」
妙に汗ばんだ体を感じて、ふとシンジは目を覚ました。
僅かに頭を起こしかけて、急速に楽になっているのに気が付いた。
「そうだ着替えな…あれ?」
容態の回復に続いて、今度は自分が着替えているのを知ったシンジ。
さっきはTシャツとトランクスで寝ていた筈だが、今のシンジはちゃんとパジャマなど着ている。
「い、一体…?」
呟いたシンジの目が、ふと何かに気が付いた−体に巻き付いている何かに。
ちらりと横を見る…見る…
「は、は、裸ぁっ!?」
体の白い男は幾らもいるし、シンジも結構白い方だ。
だが、その体のラインは明らかに女の物である。
ついアスカ?と口にしかけて、寸前で止めた。アスカが来るはずが無く、しかも裸で添い寝など宇宙が滅んでもあり得ない。
では誰だ?
さすがに起こそうとしたシンジだが、ふと腰に伸びている髪を見た。
(蛇だ…)
叫ばなかったのはたいした物だが、まだ頭の中が朦朧としていたから、と言う理由の方が強かったに違いない。
その脳が覚醒したのは二秒後であり、思考が結論を出したのは五秒後であった。
「そうかあの時の…」
その時になってようやく、シンジは蛇が消えていたことに気が付いた。
「どうせ逃がそうと思っていたし。でも…わざわざ恩返ししてくれたんだ」
ところでシンジよ、蛇が人になったことはどうでもいいのか?
再び横になったシンジが、小さな声でありがとうと呟いて、背中を向けている娘を見た瞬間。
「『あ…』」
二人の声が重なる…娘は、ぱちりと目を開けていたのだ。
「あ、あ、あの…ありがとう」
少し間抜けな気もしたが、とりあえずお礼を言ったシンジに、
「あなたに助けて貰ったお礼です」
「あの、名前は?」
「マユミ、山岸マユミです。化け蛇(ホウアシヲ)の一種ですが、訳あって戻れなくなってしまいました。その上、今日はもう少しで売られる所を助けていただいて…」
「あれはその、何となく可哀相だなって思ったからで、別に恩返しを期待していた訳じゃ…」
「分かっております」
マユミは軽く首を振った−すべて分かっているというように。
「だから」
「え?」
「お礼に、風邪は完治させてあげます−私の体で」
そう言うと、シンジの反応も待たずに体を寄せてきたマユミ。
「あ、あのっ、汗かいてるから着替えないとっ」
「私が全部吸い取ってあげます」
ぴと
と、嬌音を立てて、マユミがシンジにくっついた。
怖い、とは思わなかったが普通は離す場面である。
だがそれをしなかったのは、マユミの目が一瞬光ったように見えたからだろう。
そして一番の理由は…吸い付くような柔らかさに、一瞬脳が陶然と溶けたからに違いない。
さて翌朝。
「あの、お世話になりました」
と言ってマユミは帰って…行かなかった。
いや、行けなかったのだ。
「あの、風邪を引いてしまいました」
恥ずかしそうな声で言ったマユミに、
「今度は僕が看病してあげるから」
シンジの声に、マユミはうっすらと赤くなって頷いた。
その後、マユミがどうなったかは書かないで置く。
ただし、シンジの対アスカ下僕度は、少し下がることになった。
なぜ?
偉そうに命令すると、シンジのくせに見返してくる事があるのだ。
いや、それだけなら構わないが…なぜかその目が金色に光っているように見える事があり、さすがのアスカも少しだけ怖くなってしまうのだ。
今日もシンジは帰ってくる。
シンジの手に寄らずして片づいている家へと。
そして、
「お帰りなさい」
優しい声が迎えてくれる家へと。
教訓:生き物には、特に爬虫類にはやさしくしてあげましょう。
(了)
