恋人達の事件簿「侵入する娘(こ)」
 
 
 
 
 
 
 
 
 街の外れにある喫茶店『葛城』
 中世の東欧風の造りと、カロリーを押さえたメニューの揃いもあって、女子高生達にはなかなか人気が高い。
 禁煙は厳禁だが、店内は広く昼寝しても学校を脱走して来ても、別に文句を言われる事もないため、店内はいつも混んでいる。
「学校にいなかったら葛城へ行け」
 と言われる程であり、それはそれで問題なのだが、ゲームセンターだのカラオケだのに行ったり、或いは援助交際に勤しまれるよりはましだと、教師達の間では意見が一致している。
 さて、その葛城に今日も来ている小娘達が三人−
 
「ねえ、どうするのよマナ」
「しーらない」
「ちょ、ちょっとあんたねえ、ちょっとは協力しなさいよっ」
「だってアスカが悪いんじゃない、私知らないわよ」
「な、何ですってえっ!」
「こらそこ、うるさいぞ」
 店のオーナーが、顔を上げてじろりと睨んだ。
 店名の葛城は、無論彼女の名前葛城ミサトから来ているのだが、実質はと言うと何もしていない。
 基本的に、と言うより殆ど座って新聞か週刊誌を読んでいるのだが、その存在感たるや圧倒的であり、どんなに大騒ぎが起きてもあっさりと止めると言う。
 通常業務?
 いまコーヒー豆を挽いている無精ひげが、店の業務は全部やっている。
 加持リョウジ、ミサトとはかなり長い付き合いらしいが、その辺の事を知る者は誰もいない。
 
「おーい、ブラック三つ上がったぞ」
「あ、出来た」
 立ち上がり掛けてから、
「これ以上騒ぐなよ」
 一瞥してからカウンターへ向かい、トレイにカップを乗せた。
 持っていったのはいいが、
「あまりカフェイン取ると、おっぱい縮むぞ」
 ときた。
 店員だが嫌がらせだか、分かったものではない。
 何でこの店がいつも混むのか、奇怪極まる話なのだが、
「そこがまたいいのよねえ」
 なのだそうだ。
 店の経営とは、奥が深いものなのかも知れない。
 
 
 
「あんたのせいで怒られちゃったじゃないのよ」
「アスカが勝手に騒いだんじゃない、私のせいにしないでよ」
「な、なによっ…」
「二人とも進歩って言葉知らないの?」
 額をくっつけて睨み合う二人に、オレンジジュースを飲んでいた蒼髪の少女がぼそりと言った。
「喧嘩するより、方法考えるのが先でしょう」
「何か良い案あるの?レイ」
「誘拐するのがてっとり早いわね」
「『ゆ、誘拐?』」
「碇先生がいなければ、とりあえずどさくさで成績の事は棚上げになる。その間に成績関係を全部盗み出すのよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。んな事して、ばれたらどうするのよ」
「パンスト被ってれば大丈夫よ。それに、いざとなったらお姉ちゃんの薬貸すから」
「お姉ちゃんって、リツコ先輩の薬?」
 リツコはレイの姉だが、大学一年生にして既に危険な薬品の開発に勤しみ、その第一号が、かのバイアグラをも越える薬だったと、もっぱらの噂となっている。
「記憶消去剤。二週間くらいの記憶は全部消えるそうよ」
「だ、駄目よそんなの。先生に何かあったらどうするのよっ」
「そうね、碇先生はアスカのお気に入りだものね」
 たちまちかーっと赤くなって、
「ち、ち、違うわよっ!な、何で私があんなのっ」
「そうかあ?」
「オーナー!?」
 ミサトの特徴としてそのスタイルともう一つ、呼称へのこだわりが挙げられる。
 
 一 おばさん…死刑。
   口にした瞬間、店への永久出入り禁止が決定する。
   かつてその命知らずな不良生徒が、一晩で総白髪になったのは伝説である。
 
 二 おねえさん…今ひとつ。
   本人曰く、「あたしはガキのお守りじゃない」のだそうだ。
   きっと、子供向けの教育番組に嫌な思い出でもあったのだろう。
 
 三 ミサトさん…却下。
 「私を名前で呼んでいいのは一人だけだ」
   その割には、その唯一の人物がそう呼ぶのを、誰も聞いていないのだが。
 
 
 愛想がない、呼称を無理矢理限定させる等、とんでもない店主だが、相談されるのはこれまた尋常でなく多い。
 ひょっとしたら、生徒達の親よりも多いかも知れない。
 
 
「片想いってのは、も少しばれないようにやるもんだよ、アスカ」
 その途端、アスカの顔がぼっと真っ赤になる。
「なっ、なっ、何でオーナーがそれをっ」
「別にねぼすけでもないのに、クラスでワースト一位の遅刻魔は誰だ?しかもシンジ君が来てるの確認してから、教室に入っていくくせに。こないだシンジ君が風邪で休んだ時、血相変えて家に飛んで行ったのもちゃーんと知って…うぶっ」
「こ、声が高いわよっ」
 ミサトの口を塞ぐなど、閻魔か天上のどなたか位しかいない。
 他の二人はすーっと青くなったが、
「分かった、分かった。つまり嫌がらせなんだな」
「嫌がらせ?」
「シンジ君が学年主任のマユミに、いつも遅刻する生徒がいるのは教育が悪いからだと、ねちねち虐められてるのも知ってるし、病人にまずい粥を作ったのも追い打ちのため。そっか、そこまで徹底した嫌がらせか。アスカも大したもんだ」
 半分合ってるが、半分は嘘だ。
 確かに主任のマユミにくどくど言われてはいるが、場所はいつも主任の個室だし、常に二人きりの状況である。
「私がつきっきりで指導してあげる」
 と、いつも迫られているのをミサトは知っている。
 そして、
「で、でも山岸先生のお手を煩わせては申し訳ないですから」
 と、すっと避わされているのも、ミサトはちゃんと知っている。
 なんせ、そのたびにマユミに引っ張りだされて、飲みに付き合わされるのだから。
 なお、アスカがまずい粥など押しつけて、シンジの病状が更に悪化したのを知っているのは、伊吹医院の院長から聞いたからだ。
 無論これも、アスカのせいだなどと言ったのではなく、腹痛だと来院したのだが、シンジの料理上手を知っているのとその歯切れの悪さに、マヤが催眠を掛けて聞き出したらしい。
 院長直々の過剰と思える診療には、当然の事として、
「シンジ君ゲットよ!」
 と言う危険な妄想が混じっている。
 妄想娘に権力を与えると、ろくな事にならないと言ういい例である。
  
 
 
 猛然と反撃して来るかと思ったアスカだったが、
「ひ、ひどいよ…私そんなんじゃないのに…ぐすっ、ひっく…」
「ありゃ?」
 泣き出すのは、ミサトも予想外だったらしい。
「鬼、悪魔…嫁き遅れ…ひたたた」
「レイお前な、その舌抜くぞ」
「女の子泣かせたくせに」
 と、これはマナ。
 普段はよく喧嘩もするが、こういう時の団結力は娘達に特有の物である。
「全くこんな時だけ団結を…」
 しかしアスカの意外な一面を見たと、僅かに相好を崩しかけた所へ、
「で、今回はどうしたんだい?」
 ひょいと加持が顔を出す。
 助かった、と思ったかどうかは知らないが、
「確か期末が終わった所だったな。夏休みは補習か?」
「林間なのよ」
「つまりシンジ君がいない訳だ」
「しかもよりによってあの時田なのよっ、あんなのに教えられる位なら死んだ方がましだわ」
 (そうかなあ)
 レイは内心で首を傾げたが、無論口には出さない。
 時田シロウ−英語担当であり、頭脳明晰である。
 ただし、それを生徒にも強要するので、出来がいい生徒には受けがいいが、アスカのように特定の教師の顔を見に来ているような生徒には、蛇蝎のように忌まれているのが難点である。
 アスカとレイの反応の違いは、無論その成績の差にある。
 ほとんど何時もトップにいるレイに取っては、時田は結構いい友人であり、個室に招かれて紅茶をごちそうになっている。
 教師の人気不人気は、生徒達の成績に寄る所が大きいのかも知れない−そう、もしかしたら。
 
 
「つまり、アスカはシンジ君の補習じゃないと嫌なわけね」
 とミサト。
 こっくりと頷いたアスカに、
「しかしアスカ、あんたそんなに頭悪かったの?」
 直球なミサトに、
「レイが教えてるんだけど、いつも先生の事を妄想してるらしくて…」
 
 
 
 
「おっはようございまーす」
 勢いよくドアが開き、いつもの姿が顔を見せる。
 一生懸命、それも掛けすぎな位に時間をかけて手入れされたブルネットも、元から長い脚がきれいに見えるよう、ほんの少し多めに折ってあるスカートも、そして何よりも一番時間をかけて選ばれるその下着も、全部担任の為だとクラスの全員が知っている。
 なぜ男子までが知っているか?
「あたしのはいつも勝負下着、センセ以外には見せないんだからね」
 と、本人の前で公言しているからだ。
 ただ。
「そうなんだ、ありがとう」
 
 
 『「このヒト天然だ…」』
 
 
 クラスメートが、揃って内心で叫ぶほどの天然であり、いつも笑顔しか見せた事がない。
 そう言う場合、
「怒ったらどうなるんだ?」
 などと言う不埒な輩が、大抵一人や二人いる者だが、それをキープしたい者の方が多いらしく、シンジの手を焼かせる者はいなかった−ただ一人を除いては。
 ある時アスカが訊いた事がある。
「ね、今まであたしみたいなのいた?」
「君みたいなの?」
「ほら、こんなに世話の焼ける奴よ」
「いやー、僕の記憶にはないねえ」
「ほんと?」
 にぱっと笑うと、
「じゃあたし、先生の記憶に残る女なんだ」
 がばっとシンジに抱きついた。
 アスカとはそう言う娘であり、
「そ、そうかもしれないね」
 少しだけ照れる−碇シンジとはそう言う青年であった。
 
 
 
 
「別に嫌われてはいないと思うが…なあ?」
「多分ね」
 何やら、密談を開始した男女(ふたり)、しばらく内緒話を展開していたが、
「アスカ、ここは甘えるのがいいだろ」
「甘える?」
「とにかく色気は捨てて、ひたすら一途な娘を演じるんだ。シンジ君みたいなタイプは、妹型には弱いかもしれないぞ」
「駄目」
 レイが首を振った。
「この子、いつも派手な下着先生に見せてるもの、明らかに不自然よ。今だって…ほら」
 ぱっとアスカのスカートをまくった瞬間、紫のガーターベルトが顔を見せる。
「これなんか、股の所が割れちゃってるんだから」
「こ、これぐらいでちょうどいいのよ…あたっ」
「良い訳ないだろうが。アスカ、あんた学校に何しに来てるのよ」
「先生の誘惑」
 言い切ったアスカに、駄目だこりゃと見合わせた顔にため息が漏れる。
「一つ訊いておくんだがな」
「何?加持さん」
「アスカは将来何になりたいんだ?」
「下らないから却下」
「あ?」
「お嫁さんよ、お嫁さん!」
「相手は…いてっ!」
「へ、変なこと訊かないでよもう…」
 指の先を絡み合わせて俯く姿は、可憐な乙女のそれに見えない事もないが、加持の背中には真っ赤な手形が付いていた。
 きっと今晩、ミサトに手当てしてもらうに違いない−ただし舌で。
 それを眺めていたミサトが、ぽんっと手を打った。
「よし!アスカ、あんた侵入しなさい」
「『侵入?』」
「今テストは全部機械式でしょ、だからそれを利用するのよ。シンジ君の事だから、自分のハードに全部答案も成績も入れてある筈よ」
「書き換えて改竄するのね?」
 とこれはマナ。
 アスカと思考が近いだけに、ミサトの発想はすぐ分かったらしい。
「あんたねえ、非合法な単語を嬉しそうに叫ぶんじゃないの。でもま、そゆ事よ」
「学校の警備図はうちにあるから、裏をかくのは簡単よ。後はシンジ君のパスワード次第ね。アスカ、シンジ君のパーソナルデータは分かってる?」
「実の母親より知ってるわよ」
 アスカがライバル意識を一番燃やしているのは、シンジの実母ユイである。
 ある意味当然ではあるが、二十四歳の息子を持ちながら未だに三十代、それも前半にしか見えず、町内では人気が非常に高いという。
 ファンクラブより、そしてマヤやリツコより、確かに手強いかも知れない。
 が、こんな所で力まれても迷惑だとミサトは、
「オーケー、じゃパスワードはすぐに解けるわね。やるなら早い方が…そうね、今晩にしましょう。学校のセキュリティ図持ってきてくれる」
「分かった」
 と立ち上がった加持。
 その二人を見てレイは内心で思った−
(この二人、急に生き生きし始めたみたい)
 と。
 その数秒後に気づいたのだが、
(そう言えば…何で喫茶店の経営者が学校の警備図なんか持ってるのかしら)
 
 
 
 
「困ったな…」
 うーんと、PCを前に考え込んでいるのはシンジである。
 別にフリーズした訳でも、爆弾が現れた訳でもない。
 今、シンジの前の画面には、生徒達の成績表が写し出されている。
 
 
「このままだと、洒落にならなくなりますう」
 ついさっきまで、マユミの部屋に呼び出されていた所だ。
 普段はどこか淫靡にも似た、危険な気をおっとりした中に漂わせているマユミだったが、今日に限っては真顔であった。
「あぶない…んですよね」
「碇先生が一番分かっている筈ですよう。やはり、教師替えが必要ですねえ」
「そ、そんな…」
「時田君は有能ですよ。現に三人組の中で、綾波レイはあんなに親しいですし」
「そ、それはそうですが…」
「でも、今はそんな事より」
「はい?」
「今ここにある危機を何とかしないと。このままじゃあの子、確実に留年退学ですわあ」
 
 
 
 
「アスカ、僕の事嫌いになったのかな…」
 かなり重い発言だが、別に二人に交際の過去があるわけではない。
 ただ。
「ね、先生撮って行こうよ。ね、ね」
 繁華街の見回りの時、シンジに捕まったアスカは素直に帰るからと、プリクラを要求したのだ。
 あの時、腕にくっついた柔らかな感触は今も覚えているし、アスカが見せた笑顔は極上だった…筈。
 それが分かる位だ、別にシンジは鈍感ではないと思われ…
「授業中に僕をじっと見つめてにやにやしてるのも、ノートに僕の名前ばかり書いてるのも、きっと僕への嫌がらせなんだ。あの名前は…きっと呪いに違いないんだ」
 やっぱり、肝心な所では駄目らしい。
「しようがない、リツコさんに頼んで強力催眠剤でも貰ってくるかな…」
 かくなる上は、強制催眠学習しかないと、シンジも決意を固めかけた。
 腕を組んで考え込んでいたシンジ、今日は当直でありまだ時間はあると、シャワーを浴びに席を立った。
 五秒後にスクリーンセーバーが流れ、画面に景色が現れた。
 
  
 
 
 
「悪く思わないでね」
 軽い手刀の一撃で、男はその場に昏倒した。
「『う、うそ…』」
 アスカ達が呆然と見つめる中、
「さ、私が出来るのはここまでよ。後はあなた達で、自分たちで行くのよ」
「そ、そんなもう少し…」
「駄目」
 あっさりミサトは首を振った。
「ど、どうしてですか?」
「どっかの娘にひっぱたかれた背中、直さなきゃならないからね」
「ア〜ス〜カ〜」
「あ、そう言えば」
 頭をかくアスカの脇腹を両側から肘鉄が襲った。
 ただし、
「何だかんだ言って、仲いいんじゃないですか」
 などとは決して言わない。
 いかに彼らとて、冷やかして良い相手の区別くらいは付く。
 
 
 汝ら、決して触れる事なかれ。
 
 まるで、他人の妻みたいな物である。
「しょうがない、マナ、レイ行くわよ」
「『え?』」
「え?じゃないわよ、この中あたし一人に行けっての?」
「大丈夫よアスカ」
「オ、オーナー」
「この中無人だし、後は地図通りに行けばシンジ君の部屋までまっすぐ行けるわ。健闘を祈るわ。じゃ、二人とも帰るわよ」
「『はーい』」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ二人ともっ!こらーっ!!」
 騒いでみたが、さっさとミサトの後にくっついて踵を返してしまった。
 何とも、友達甲斐のある二人である。
「い、いいわよ別に。あ、あんなのいなくてもなんとかなるもん」
 腰に手を当てて、とりあえず強がってみたアスカだが、夜の校舎は嫌でも恐怖を起こす物があり、しかも足下には昏倒している警備員まで転がっている。
「い、今行くからね先生」
 密会ではなくむしろ見つかったら困るのだが、それだけがお守りのように呟くと、アスカはおそるおそる足を踏み出した。
 
 
 
 
「と言う訳だ」
「え?」
「これが短針銃。反動は最大限少なくしてあるから、あんた達の手でも撃てる。射程距離は50メートル位だから、援護にはちょうどいいだろ。でマナ、あんたは催涙ガスだ」
「な、何か鉄砲に見えるんですけど」
「元はそう言うもんだったからな、多少は似てるかも知れない」
 ミサトはからからと笑った。
「ま、悪事に多少の危険は付き物だ。ちゃんと護衛して行くんだぞ」
 いきなり物騒な物を渡された二人、揃って内心でこう思った。
(この人、危険物マニアだ)
 と。
 そんなマニアが、いるのかどうかは知らないが。
 
 
 
 
 
 いまいち頼りないが、一応護衛は付いているアスカ。
 しかし本人はそんな事はつゆ知らず、手にしたペンシルライトだけで周囲を照らしながら歩いている。
「なーんか夜の学校っていやなのよね…ひゃーっ!?」
 アスカがぴょんと飛び上がったのは、首筋に何かを感じたからだ。
 悲鳴を上げて走りだしかけて、辛うじて踏みとどまった。
「あ、雨水?まったくこのポンコツ校舎はっ」
 雨漏りだと気づき、しばらくぶつぶつ言っていたが、やがてまた歩き出す。
 その後方では、レイとマナが互いの口を押さえ合っている所であった。
 別に殺し合いしていた訳ではない、悲鳴を上げかけた口を直前で押さえたのだ。
(アスカの弱点握ったわね)
(当分冷やかせるわ)
 と何やら目配せしながら。
 
 
 
 
 
「それ以外にないのか?」
「何がだ?」
 僅かに加持が顔をこちらに向けて訊いた。
 その裸の背には、これまた裸のミサトが体を重ねている最中だ。
 だが背中に?
 そう、アスカが手形を付けた所に、丹念に舌を這わせている最中だ。
「文句言うな、これが一番なんだからな。野生動物は薬なんか使わないぞ」
「人間じゃなかったっけ?」
「もとはしっぽの生えた何とかさ。さ、終わったらちゃんとお礼してもらうからな」
 円を描くように、その豊かな胸を押しつけたミサト、店へ来る者が聞いた事もないような艶めいた吐息を漏らした。
「あいつら、うまくやってるかな」
 一瞬だけ、学校の方に顔を向けながら。
 
 
 
 
「あーんもう、どうなってるのよっ!」
 誕生日…駄目。
 住所の番地…駄目。
 電話番号…駄目。
 個人データを片っ端から打ち込んで見たが、五桁のパスワードは全く反応する気配がない。
 こわごわ校内を進んだアスカは、幸い誰にも会う事なくここまで来た。
 しかも、都合のいいことに電気がついて電源は入ったままになっている。
 もし電源が入っていなかったら、起動パスワードまで入れなくてはならないからだ。
「あたしってラッキーよねえ」
 嬉しそうに呟いたアスカだったが、単にミサトの言う事を聞いていなかったのだ。
「シンジ君は今日は宿直。見回りか風呂でも入っている筈だから、さっさと終わらせるんだ。いいな」
 ミサトはそう言ったのだ。
 だが、今のアスカは既にその事も忘れ、キーボードを片っ端から叩いている所だったが、うんとも寸とも言わない。
 どうやら、シンジの個人データなどではないらしい。
 
 
 
 
「じゃ、あと五百数えてから上がるか」
 頭にタオルを乗せたシンジ、既にいい加減に茹で上がっている。
 それにしても、五百カウントとはなかなか気の長い話である。
「見回りはしたし、侵入してくる人もいないよね」
 確かに見回りはしたが、その後にしっかり侵入されている。
 しかも今、シンジのデータベースに侵入を図ろうとしているなどとは、夢にも思わないシンジであった。
 
 
 
 
「もう、来てるなら早く言ってよね」
 ぷりぷりしているが、これは単に照れ隠しである。
 一向に分からないアスカに物陰から、
「多分、何らかの単語なのよ」
「単語?」
「内容に関係がある物とか…学校関連の名前とか。これは、教えてあげた方が良さそうね」
 にゅっと出ていったのだが、背中をぽんと叩かれたアスカが悲鳴を上げかけ、マナもつられて叫ぶ所だったのだ。
 一人冷静だったのはレイで、二人の口を同時に塞いだ辺り、冷たい天才の名に恥じないのかも知れない。 
「分かったから、さあ続けましょう」
 
 そして三分後。
 
「駄目、全く開かないわ」
「どれもこれも駄目ね」
「もう打つ手ないのかし…あら?」
「どうしたの、マナ?」
「人の名前は?」
「も、もしかしてお母さんとか?」
「可能性あるわよ…あまり考えたくないけど」
 シンジがマザコンだなどと、アスカは考えたくもなかったが。
「ユイ…違う…第一桁数が違うじゃない」
 とりあえず母親はないと、大きく安堵のため息をついた。
 とその時。
(ん?)
 レイが近づいてくる気配に気が付いた。
(まずいわね、先生帰ってきた)
 シンジが宿直だとは三人とも聞いているし、マナとレイはちゃんと覚えている。
 気配に多分シンジだと、レイは感じたのだが他の二人はまだ気づいていない。
「あーもう、壊れてるんじゃないの、この機械っ!」
 このままでは鉄拳制裁を加えかねまじき勢いのアスカに、レイが一枚の紙を渡した。
「アスカこれ」
「え?」
 それを見た途端、アスカの顔がかーっと赤くなる。
 マナの手がぐいと引っ張られたのは、次の瞬間であった。
 
 
 
 
 
「ああ、暖まった。少しのぼせたかな」
 かといって、冷え切った頭でアスカ対策など考えたくはない。
 ちょうどいいやと頬に手を当てた、シンジの足が一瞬止まった。
(人の声がする…侵入者!?)
 しかも間違いなく自分の部屋である。
 一瞬背筋が寒くなったが、すぐに足音を消して歩き出した。
 
 
 
 
「きゃーん、嘘、嘘…そ、そんな訳ないじゃないっ」
 一人身もだえしているのは、無論アスカである。
 アスカとて馬鹿ではないし、紙に書かれた意味くらい分かる。
 レイは、アスカの名前を入れろと言ったのだ。
「あたしの名前をパスワードに?は、はんっ、そ、そんなのある訳ないじゃない」
 顔を赤くして言っても説得力がないが。
「で、でもまあ…な、無いって分かってるけど…い、一応ね。そう、一応なのよ一応」
 そう言いつつも、その指使いは妙に嬉しそうだ。
「ア、ス、カ…と。これで…」
 次の瞬間、画面が変わる。
「嘘っ!あ、開いた…ね、ねえ開いたわよほらっ…」
 レイを見た筈だった。
 だがそこにいたのは。
「せ、先生…」
「ア、アスカ…」
 幾分間抜けに見つめ合ったまま、二人は硬直していた。
 
 
 
 
「ねえちょっとレイ!何で帰っちゃうのよお」
 口を膨らませているのは、無論マナである。
「多分、いえほぼ間違いなくあの単語でいいのよ」
 そう言うと、レイは一人くすくすと笑った。
「あの単語?」
 マナは、レイが渡した紙の内容を知らない。
「きっと…両方なのよ」
 あえてレイは両想いとは言わなかった。
「両方?それなーに?」
「何でもないわ。さ、帰りましょう」
「ちょっとレイっ!ちゃんと話して貰うからね」
 すたすた歩き出した後を、マナが慌てて追いかけた。
 
 
 
 
 
「じゃあ…授業を聞いてなかったり、答案用紙に僕の顔ばかり描いていたのは、僕への嫌がらせじゃなかったんだね」
「あ、当たり前じゃない…ばかあ」
 馬鹿はどっちだ、と言うのはこの際置いといて。
「で、でもごめんね」
「え?」
「こうすればきっと先生が私の事、ずっと気にしてくれるかなって思ったの…だから私…」
「いいよもう」
 シンジは膝の上に乗ったアスカの頭を、よしよしと撫でた。
 自分と目があった瞬間、アスカは生き霊でも見たような顔を見せた。
 普段は無敵に見えるアスカも、結構可愛いところがあるものだ。
 ふとそんな事を考えてしまったシンジであった。
「じゃ、じゃあさ…」
「どうしたの?」
「わ、私に勉強…お、教えてくれる?」
「いいよ、喜んで」
「ふ、二人きりで?」
 ちらっとシンジの顔を見上げたアスカ。
「分かってるよ」
 ぱっとアスカの顔が輝き、
「先生だーい好き」
「あ、こらちょっと」
 止めるまもなく抱きつかれ、しかも不安定な姿勢だった物で倒れ込んでしまい、
「先生?先生?いやああーっ」
 叫びかけたが、
「あ、人工呼吸だ」
 すぐに思いつき、唇を合わせようとした瞬間その目がぱちりと開いた。
 そのまま手が伸びて、影が重なったかどうか。
 
 
 
 
「でも」
 とレイは言った。
「アスカの分際で私に追いつくのは許せないわ」
「分際って何よ分際って」
 とは言いながらも、その顔は明らかに緩んでいる。
「二学期最初のテストで80点取ったら、シンジとデートする約束したんだから」
 確かシンジは、
「二人の事は内緒だよ」
 指切りまでしていた筈だったが。
「『シンジ?デート?』」
「あ、やばっ」
 慌てて口を押さえても、顔が緩みっぱなしのアスカ。
 それを見た二人、声を揃えて、
「『マスター、クリームパフェ大盛りで。今日はアスカが全部払いますから』」
 無論いいのか?と訊くような相手ではない。
「あいよ」
 新聞の手を休めると、さっさと作り始めた−この店でもっとも高いメニューの、五段重ねパフェを。
 
 
 
 
 
「絶対に秘密だからね」
 シンジはそう言って念を押した。
「はーい、分かってるう」
 舌足らずな声で返事したアスカ。
 
 
 教訓:女の子に内緒は無理…それも絶対に無理!!
 
 
 
 

(終)