恋人達の事件簿さらって欲しいヒトとさらっていいのか分からないヒト」
 
 
 
 
 
 
 
 
 時に西暦2015年。
「僕は君に会うために生まれてきたのかもしれない」
 と、同性を口説く使徒を最後に、来襲する使徒は一匹残らず退治された。
 後は残った十八番目の使徒−人間が春を謳歌する事になり、それはその最前線であったここ、第三新東京でも例外ではなかった。
 大きな爪痕を残した都市も復興に向かいつつあり、十四歳で死線に送り込まれた少年少女達もまた、徐々に平和に染まろうとしていた。
 レイは現在三番目。
 と言っても彼女以外はもはやなく、現在は碇夫妻と同居中。
 内に秘めたエネルギーは莫大である、と言う事を土壇場で見せてきたシンジは、両親と暮らす事を拒み、疑似家族と共に現在も生息中。
 別に誰かを選んだ訳ではない−選ばなかったのだ。
「父さんと暮らすのは…やだ」
 その一言が二人の明暗を分けた。
 ところで見事主夫を獲得したアスカだが、仲の方はあまり進展してない。
 ただ、なかなか難しい所なのだ。
 なんせ、人の持つ感情など押し殺すのが当然だったアスカと、誰かに想いを寄せられた事のないシンジである。そう簡単にはいかないのだ。
 しかもアスカが入院してる間、いつの間にか下着類までシンジが洗濯するようになっており、明らかに腐れ縁の域にはまりつつある。
 単なる腐れ縁、にはなりたくない。
 アスカもそう思っているのだが、なかなか良いきっかけがない。
 加えて彼女の知らない所で、密かに陰謀が進みつつあったのだ。
 
 
 
 
 
「え?私の帰国要請が出てる?」
「…そうなのよ」
 ミサトは少し苦しげに頷いた。
「どういう事よ」
「私のね…監督者失格だって」
「ミサトの?」
「アスカがきてからこっち、学校の成績が芳しくないでしょ。大卒の子には到底、っていうよりも、アスカの環境には相応しくないって言うのよ」
「そんなの関係ないじゃない。第一、日本のテスト方式なんか時代錯誤も良いところじゃな…」
 言いかけてからアスカは気がついた。自分が墓穴を掘った事に。
「だから帰ってくるように、って言われたのよ。日本なんかより、よほど教育体制の進んでいるドイツにね」
「ちょっと待ってよ。あたしもう大学出てるのよ、今更何しろって言うのよ」
「院生」
 ミサトは短く言った。
「アスカ、確かにあなたは卒業はしたけれど、少し強引な所があったでしょ。ネルフ本部が、ドイツ支部に弐号機の引き渡しを要請したのよ。おかしいと思わなかった?」
 くっ、とアスカは唇を噛んだ。
 確かにアスカは優秀だったが、卒業にはまだ単位も足りない筈だったのだ。
 それがあっさりと卒業を言い渡された。
「来なければ大卒の資格は取り消し、だそうよ」
 それを聞いた瞬間、アスカの顔がぱっと輝く。なにやら、反攻の糸口を見いだしたらしい。
「別に良いわよ、あたし」
 へへん、と、
「こっちでもう一回やり直すから。こっちでも飛び級はあるしね」
 確かにアスカの言うとおり、既に幾人か中学生の年齢で大学に入った者はいるのだ。
 だが。
「駄目よ」
 ミサトがあっさりと首を振る。
「な、何でよっ!」
 噛み付いたアスカに、
「日本語…できるの?」
「そ、それはっ」
 ミサトは一番痛いところ、そして正論を突いていた。アスカは現在、国語の授業だけが付いていけないのだ。
 日本の風俗には慣れてきたものの、その根本である日本語だけはどうしてもマスターできていない。
 これには幾つか理由があり、ネルフでエヴァに乗っていた頃はドイツにいた時とは違い、小難しい単語で議論をする必要はなかった。
 レイは論外だしシンジにしても、
「あんたバカァ?」
 の一言で膝下に屈服させてきたのだ。
 もう一つは、大卒だからと余裕があった事だ。
 日本で学校に行っていたのは、チルドレンは一緒にいた方が護衛しやすいからであって、それが好きで行くようになったのはつい最近である。
 しかも、中学校での勉強自体が好きになった訳ではないのだ。
 だとすればシンジに教われば良さそうなものだが、さすがにそれは頼みにくい−下着まで洗われてしまってる仲でも。
 日本語を教えてと頼むなど、未だアスカのプライドが許さないし、素直には教われないような気がするのだ。
 となると…絶望的である。
「アスカの才能は、こんな僻地で朽ちさせるにはもったいない」
「って言われたの?」
 ええ、とミサトはやや自嘲気味に頷いた。
「しかも花嫁修業さえ出来ない家で、とも言われたわ。家事全部、シンジ君にしてもらってるのがばれたみたいね」
 状況は最悪。
 肩書きがあるから、日本の教育方針は遅れているから、とたかをくくって来たのが裏目に出た。
 方法は幾つかある、とかミサトは言わなかった。
 ただ、
「アスカ、どうするの?」
 と訊ねただけである。
 以前ならいざ知らず、今のアスカなら暴走や逆上はあまり考えられない。口を出すよりも、むしろアスカに選ばせる事にしたのだ。
 だがアスカは、
「ちょっと待ってよミサト」
「え?」
「そんな話、なんで急に出たのよ?」
 違うことを言い出した。
「それはね…」
 更に言いにくそうに、
「アスカのご両親が言い出したのよ」
 それを訊いた瞬間、アスカの顔色が変わる。
「…どういう事よ」
「要するに親権を主張して来たのよ」
「…今頃になって?」
「今頃だからよ」
 ミサトはやや冷たく言った。
 当然、アスカにもその意味は分かる。
 情報が殆ど公開された今、チルドレン達はいずれも世界を救った英雄となっているからだ。
 無論彼らは知らない−人類が十八番目の使徒である事などは。
 ともあれ、彼らの事は今や世界中で知られており、トウジが日本にいないのもその為なのだ。
 すなわち、生体部品を移植するために今は米国にいる。
 なお、猛反対したそばかすの少女は、同行を許されるた途端にころっと宗旨転換した。
 今頃は、かいがいしく世話でもしている事だろう。
 チルドレン達の評価が高い、と言うことはそのまま近親者にも繋がってくる。ゲンドウ達は、レイを幼くして生き別れた娘だとあっさり丸め込んだし、シンジの両親はそのままゲンドウであり、そしてユイなのだから。
 そしてアスカも。
「つまり…私の名声が役に立つ、ってことなのね」
 アスカは吐き捨てるように言った。
「単純に…そうでも無いんだけどね」
 ミサトの口調はどこか煮え切らない。
 それもその筈で、アスカは未だにレイがクローンだとは知らない。
 が、アスカの両親は知っている。
 そして、レイがゲンドウ達に引き取られた事を知って、アスカだけを天涯孤独のようにはしておけないと言い出したのだ。
 その事を知るだけにミサトも、そうあっさりとアスカに肩入れする訳には行かなかったのだ−例えそれが偽善含みと感じていても。
 実体はどうあれ、表面的にはそれなりにやっており、日本へ来たのも別に危害を加えられたからではないのだ。
 だとすれば、この時期になっての申し出も、
「全てが平和になった以上、親として当然だ」
 と言われれば、一応の筋は通っていることになる。
「ミ、ミサトはどうしろって言うのよ」
 あら、とミサトは内心で首を傾げた。
 まさか頼ってくるとは、思っていなかったのだ。
「難しいわね」
 どこか無責任にも聞こえる答えに、アスカの眉がぴっと上がる。
 だが、
「じゃあ…ないの」
 抑えた辺りは、進歩したと言えるかも知れない。
「ない事も無いわ」
「あるの!?」
 一転して喜色にあったアスカに、
「でもね…かなり難しいわよ」
「難しい?」
「さらってもらうのよ」
「さらうって…あのいきなり車に連れ込まれて身代金払わされた挙げ句、殺されて犯されて埋められるっていうあれ?」
「アスカ、それは単なる誘拐」
 どこで覚えたのかと首を捻ったが、
「そうじゃなくて」
「そ、そうじゃなくて?」
 約十秒近く、たっぷりと引き延ばした後、
「シンジ君にさらってもらうのよ」
「はあっ!?な、なんでこのあたしが、シンジなんかにさらわれなきゃなんないのよっ!!」
 つい大声になったアスカに、
「あら、王子様にさらってもらうのは定番じゃない」
「ば、馬鹿なこと言わないでよっ」
 顔を赤くして抗議しても、それが怒りに見えなければ説得力はないという物だ。
 が、ミサトもそれは突っ込まずに、
「でもそれしか方法は無いわよ。どうしても嫌だったら、私に莫大な借金でもしてもらって、ネルフの高給から返してもらうっていう手はあるけど」
 確かにあるが、かなり無謀である。
 アスカを初めとして、チルドレン達に支給された金額は、発展途上国の年間予算位はあるのだから。
 ただし今のアスカはそこまで考えが回らない、ミサトはそう見ていた。
 案の定、
「い、いやよそんなの!なんでミサトに借金なんかしなきゃいけないのよ」
「じゃあ帰る?」
 ミサトも意地が悪い。
「やだ!なんであんな奴らと一緒に暮らさなきゃなんないの」
「じゃ、どうするのよ」
「き、気乗りしないけど…し、仕方ないからあいつにさらわせてやるわよ」
「嫌がると思うわよ」
 言いながらミサトは、お前は意地悪だと糾弾するもう一人の自分の声を聞いていた。
「ど、どうしてよ…」
 アスカの目に、急速に涙が浮かんでくる。
「アスカが精神的にダウンした時、アスカを全部世話したのはシンジ君なのよ」
 秘密をばらす時、方法は幾つかある。
 直球でばらす場合にも、相手の気が逸れている時は効果的であり、今はその時であった。無論アスカはその事など知らなかったが、ミサトの台詞に反応する余裕はなかったのだ。
「だ、だから何よ」
「普段の事だってそうだけど、アスカは一度もお礼言った事なんかないでしょ?それどころか、未だにほとんど下僕扱い。シンジ君はアスカの下僕だ、って言えばみんな納得すると思うけど、アスカがシンジ君の恋人だって言ったら誰も納得しないわよ」
「あ、あたしはシンジの恋人なんかじゃっ」
「たとえばよ」
 やんわりとかわして、
「あなたがシンジ君のこと全部世話して、でもシンジ君はアスカの事を、下僕位にしか思っていなかったとしたらどう?」
「あ、あたしっ」
 猛然と抗議しかけて、急速にしぼんだ。
 本来アスカは躁型である。
 乗ってる時は非常にいいが、一旦鬱に入ると止まらなくなる。本人も、無意識のうちにそれは分かっている。
 だからこそ、常に躁状態であろうとするのだ−本能的に。
 同年代、と言う枠はあるものの常に上であろうとするし、敗北を何よりも拒む。
 従って、一旦鬱状態に入ると底知れぬ穴に落ち込むのが特徴である。
 精神科医の分析で、既にそれを知っているミサトだったが、ここはあえて突き放す事にした。
「別に恩義もないし恋人でもない。そんな娘(こ)をずっと、下僕扱いされながらも支えてきたシンジ君の胸中は、私より遙かに辛抱強いわね」
 唇を噛んだアスカに、
「私がシンジ君だったら絶対に断るわ」
 完全に止めを刺した。
「あ、あたし…あたしどうしよう…どうしよう…」
 顔を手で覆ったアスカに、
「アスカ、はっきり言うわ。今のアスカには、帰国の道しか残っていないわ−今のままでは」
「…い、今のまま?」
 縋るような視線に、
「本当は好きなんでしょ、シンジ君のこと」
 こっくりと頷いたアスカに、
「心の底で想って言葉は罵倒する女より、想いを全面に出す女の方が遙かに得よ。後は自分で考えなさい」
 ミサトは席を立った−柄じゃないな、と自分でも思いながら。
 顔を両手で覆ったアスカの肩が震える。
 その顔が、ゆっくりと上がるには数分を要した。
 ぐい、と涙を拭った後、
「シンジの方からさらわせてやるわよ。あいつだって…き、きっとあたしの事好きに決まってるんだから」
 言葉の内容とは違い、妙に気弱な口調のアスカだったが、その顔は確かに脳のフル回転を示していた。
 
 
 
 
 で。
 
 
 
 
「根性が足りないのよね、まったく」
「はあ?」
 シンジが戸惑った顔を見せたのは、その晩の事である。
「何のこと?」
「王子様よ、王子様」
「王子様…」
 食事が終わり、二人でお茶など飲んでいる時間である。
 なお、ミサトは夕方から出かけていていない。
 その出かける直前、アスカを見てなぜかにっと笑ったが、当事者間では意志は通じているらしい。なかなかいい関係と言える。
 王子様、と鸚鵡返しに呟いたシンジだが、すぐにその情報源を知った。
(かぐや姫…)
 小学生向けの童話絵本を、アスカの後方に見たのである。
「王子様がどうしたの?」
「だからさ、帰る前にさらっちゃえば良かったのよ」
「かぐや姫を?」
「そうそう…え?」
「帰るって言ったらかぐや姫だろ、違うの?」
 情報源は洩らさずに訪ね返したシンジに、アスカも演技を見抜けず、
「そう、そのかぐや姫なのよ。わざわざ逃がすなんて勿体ないじゃない」
「でも結構やな人だよ」
「なんでよ」
「だって結納用に要求した物知ってるだろ。あれって羽みたいなもんだよ」
「羽?」
「あたし飛びたいのよ。シンジ、飛べるような羽探して持ってきて、ってそんな感じだよ。アスカそんな事言うの?」
「言わないわよ…って、そんな話してないのよ」
「何なの?」
「財産目当てじゃなかったのよ。だって持ってなかったんだから」
「はん?」
 とんでもない事を言いだしたアスカに、一体何事かとその顔を眺めたシンジ。
 まじまじとした視線をわずかに逸らしながら、
「だ、だからかぐや姫を好きだったはずなのよ。それなのにあっさり諦め過ぎじゃない。本当に好きだったら、月なんかに帰さないで、さらってでも連れて行くだと思わない?」
 訊かれたシンジ、一瞬考えてから、
「アスカはそう言うの好きなの?」
「だってそこまで思われるって、これ以上ない位に最高じゃない」
「そうかな」
「な、何でっ」
 出鼻を挫かれて気色ばんだアスカに、
「それはそうだけど、姫は嫌がってたよ」
「嫌がってた?」
「求婚者達に無謀な要求を出したのは、叶えられないと知っての事だよ。結婚したくない相手にさらわれても困るだけだと思うよ」
「…じゃああんたは諦めるのね」
「諦める?」
「姫が帰っても…ドイツに帰っても指をくわえて見てるんでしょっ!シンジなんか大嫌いよっ」
 がたっ、と椅子を蹴って立ち上がったアスカだが、その拍子に湯飲みが倒れて中身がこぼれる。
 シンジに飛沫がかかったが、だいぶ冷めていたのは幸運だったろう。
 拭き始めたシンジだったが、ふと首を傾げた。
「ドイツに帰る?ドイツに…何!?」
 一瞬ぎょっとした表情になったが、そんな話は聞いていない。それにミサトも、そんな事はまったく言っていないのだ。
 きっと極端な例えだろうと、染み落としにその意識は向いていた。
 
 
 一方部屋に籠城したアスカはドアを閉め切ると、ベッドにその体を投げ出していた。
「シンジの馬鹿…計画が…計画が台無しじゃない…」
 が、自分がドイツと口走った事には気が付いていない。単にシンジの反応にがっかりしているだけである。
 ただ、そのせいでアスカの気が重くなる事はなかった。
 もし気が付いていれば、拒絶に対する精神的ダメージは計り知れなかったに違いないのだから。
 
 
 次の日の朝早く帰宅したミサトは、眠っているアスカの顔を見て不首尾を知った−その顔に流れる涙の痕を見て。
「絶縁宣言したわけではなさそうね」
 部屋の中を見回すと、
「ただ…選ぶ材料を間違えたわね」
 山と積まれて童話の本は、どうやらアスカが知恵を借りた元となったらしい。
「どうせなら『泣いた赤鬼』を使って泣き落とし…は無理か、アスカには」
 アスカが赤鬼かは不明だが、
「でもこれで万事休す−少年は騎士(ナイト)に変身出来なかった。アスカの両親の来日まで−後六時間」
 泣き疲れて眠ったらしいアスカの髪を、ミサトはそっと撫でた。
「私の妹は肝心な所で使えないのよね、まったく。ま、安心しなさい、切り札は用意してあげたから」
 頼りになる姉、のように婉然と微笑んだが、
「でも…発動するかは不明なのよね」
 急に語尾がトーンダウンする。やっぱり完全には頼り切れない。
 
 
 
 
「と言うわけで食事行きましょ、碇君」
「え?」
 シンジが首を捻ったのも当然で、朝早くいきなり実家に呼び出されたのだ。
 母親から、有無を言わさず事務の手伝いを命じられたシンジ。
 ユイのその辺は夫のゲンドウとよく似ており、夫婦だなと妙に納得させる所を持っていた。
 シンジも別に逆らわず書類を整理していたのだが、昼になっていきなりレイがやってきた。
 戸籍上、一応シンジの妹になるのだが、決してお兄ちゃんとは呼ばない。
 碇君、と呼び続ける理由がどこにあるのかは不明だが、シンジはミサトに訊いた事がある。
「若いわね」
 てい、と額を弾かれたのを今でもシンジは憶えている。
 そのレイが、クレジットカードを見せて、いきなり食事に誘ったのだ。
「そう言う訳って…どういうわけなの?」
「行くの?行かないの?」
 だいぶ性格は変わってきたが、赤瞳の奇妙な威力は健在であり、それを撃退出来るほどシンジの戦力は上がっていない。
「い…行きます」
「じゃ、行きましょ」
 手を引かれるようにして向かった先は、ゴールドカードの割にはファミリーレストラン。
「あれ?」
「なに?」
「何でもないよ」
 だが、レイはすぐにシンジの思考を読みとったらしい。
「満漢全席がいい?それともフランスのフルコースが良かった?」
「そ、そんなこと無いよ。ここで充分だから」
 無論フォローである
 だが、
「そう、私とはこれで十分なのね」
 今日はこの子、妙に絡みたがると思いながらも、
「あ、綾波とだったら何でもおいしいよ」
「綾波?」
 じろりと見られて慌てて、
「レ、レイとだったらね」
 言い直した。
「当然ね」
 ようやくにこりとしてみせたが、今日のレイはどう見てもおかしい。
 ただし、母の影響で色々と仕組まれている気配があり、最近は大分性格も変わってきた。一応いい傾向なのだろうと、シンジはあまり気にしない事にしているのだが。
「で…なに?レイ」
 訊いたシンジの声には、幾分呆れと言うか驚きが混じっている。
 それもその筈で、ランチを四人分平らげると、パフェを三つ、更にはケーキまで六つ平らげてみせたのだ。
 シンジはおろか、周囲まで唖然として見守る中、
「ごちそうさまでした」
 楚々として口許を拭った顔には、食べ過ぎの感じは見られない。
「やけ食い」
「は?」
「いやな事があったら、思い切り食べるといいってお母さんに言われたわ」
「嫌なこと?」
 聞き返された時、一瞬しまったと思ったのか、
「な、何でもないわ。それより」
 ずい、と顔を寄せてきた。
「な、何?」
 今日のレイには−今日に限った事ではないが−付いていけそうにない。
 シンジは諦めて、レイのペースに合わせる事に決めた。
「お礼に何をくれるの?」
「お、お礼?」
「情報料よ。く付くわ」
 さすがのシンジも呆れて、席を立とうとした瞬間。
 何かが背中を走り抜けた−死線をかいくぐってきた本能に触れる何かが。
 (情報…冗談じゃないな)
 何かが囁く声に従い、
「何がいいの?」
 シンジは逆に聞き返した。
「え…」
「レイの好きな物何でもあげる」
 レイの顔が一瞬赤くなったが、すぐにその表情が険しくなり、
「じゃあ碇君」
「は?」
「ずっと…ずっと…」
 何を言いかけたのか、すっと俯いたレイ。
 その顔が上がるのに要したのは、数秒だったろうか。
「何でもないわ」
 笑みを見せたその口許に、僅かに違う色が漂っているのには、シンジは気が付かなかった。
「十四時二十分」
「え?」
 時計を見たシンジだが、既に二時半を回っている。
「何のこと?」
「十四時二十分、ドイツからアスカの両親が来日。娘をドイツへ連れて帰る筈よ」
「ふーん」
「え?」
 一瞬その場に沈黙が流れた。
 別にシンジに興味が無かった、訳ではない。
 単に事情が飲み込めなかったのだ。
 数秒経ってから、
「何!?」
 シンジが気が付いたのは、
「い、碇君、苦しい…」
 襟を掴まれているレイが、苦しげにあえいだ時である。
 どうやら、無意識の行動だったらしい。
 店員が血相変えてすっ飛んでくるのを、
「邪魔よ」
 一転したレイの声が、あっさりと追い払った。
「ご、ごめんレイ…」
「いいのよ」
 レイは口元だけ笑みの形を作った−どこか哀しげに。
「席を蹴って立っていたら、アスカは強制的にドイツに帰したわ。でも…これだけ想ってるのなら、私が心配する事はなかったわ」
 出る幕はないのね、そう言いたくなるのをレイは抑えた。そして自嘲気味な笑みも。
「碇君、ほら…行きなさいよ」
 レイの珍しい言葉に、一瞬戸惑ったシンジだが、
「あ、ありがとう…レイ」
 走りだした後ろ姿を見て、レイはふうとため息をついた。
「良かった」
 誰にも聞こえないような声で呟く。 
 レイだけは知っていたから−ごめん、と言われたらきっと、泣いてしまったにちがいない、と。
 
 
 そして三十分後。
「どういうことですか」
「ちょっとした試験ですよ」
 執拗に帰国を迫る両親と、はっきりした根拠に基づく反論が出来ず、感情的に叫ぶアスカ。
 アスカがドアを蹴って出ていくのは、見ていたミサトには簡単に予想できた。
 だがなぜか、二人ともその後を追うどころか、呼び止めようともしなかったのだ。
 端から、単なる傍観者として見ていても、二人のそれはあまりにも一方的であった。
 さすがにミサトも怒りをあらわにして、二人に詰め寄ったのだが、返ってきた答えはあまりにも意外だった。
「試験?」
「私たちが、あの子の事を何も知らない、などとはまさかお思いではないでしょう。生活環境の事も、そして友人の事もちゃんと調べてあります。無論」
 じろりとミサトを見たのは父親だったが、
「家事無能ながさつ女と一緒だと言うことも」
 たっぷりと嫌みを含んだウインクで言ったのは、アスカの義母であった。
「な、なっ!?」
 一瞬険悪になった空気を和らげるかのように、
「友人も知っている、そう申し上げた筈です。そう−騎士(ナイト)さんのことも」
 その指さす先には、息せき切って帰って来たらしいシンジの姿があった。
 そして…それへ抱きついたアスカの姿が。
(レイ、ありがと…)
 ふーう、と安堵の息をついたミサトへ、
「成熟した女性がいながら、この家の家事は全て彼がやっていると訊きました。幸い彼らが帰って来るにはまだ間があります、ゆっくりとお話を伺いましょう」
 ぎくり、となったミサトを、彼らは息の揃った仕草で、さあ中へ、と促した。完全に主客転倒である。
 
 
 その中で何があったのか、逃走した二人が何をしていたのかは、一切明らかになっていない。
 だが数時間後、誰に説得されたのか手に手を取った二人が、真っ赤な顔をして帰って来たとき、既にドイツからの使者は帰途に付いており、彼らの監督者が悔し涙を滂沱と流していたという。
 更に数時間後、レイからぶっきらぼうにカードを返された時、無論心から礼を言ったのだが、宝石店やブランドショップで彼女の年収を超える金額が使われたことを知り、違う意味で涙を流すのは月末の事である。
 
 
 教えなくてもいいのよ、ミサトはそう言った。
 既に万事は窮しており、二人がくっつくのを歓迎しない娘に頼むしか、手は無くなっていたのだから。
 だがレイは、あえてシンジに教えた。
 
 
「女の子はみんな、王子様にさらって欲しいものなのよ」
 戻ってきた女にそれを聞かされた時、彼女もまた確かに…さらわれたいヒトだったから。
 
 
 
 
 
(終)