恋人達の事件簿「桜の花の咲く頃に」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「アスカさん…少しだけシンジ借ります」
「ふんっ、好きにしなさいよ」
 死んだ物、もう二度と会えないと思っていた少女。彼女を前にして、シンジの瞳はみるみる潤んでいった−例え彼女が、最後に選んだのは自分ではないと知っていても。
「マナ…」
「シンジ…」
 嬉しさの反面、マナの本心を知った気がする今、どう声を掛けていいのか分からないシンジ。無論マナにはそんなシンジの胸中など、手に取るように見えている。
 だから。
「ごめんね」
 一言だけ言った。
「え…」
「やな女よね、あたし。結局最後は…“仲間”選んじゃったんだ…」
 仲間、の部分を強調して言ったマナに、シンジの表情が僅かに動く。
「マナ…」
 おそらくは本人も気付いてはいまい、だがかすかな笑みが浮かんだ顔を見て、マナの心がぐらりと揺れた。
 数メートル、いや数歩歩くだけでいい−最後にシンジに抱き付くには。
 だがマナは踏みとどまった。
(いい思い出になって欲しいなんて、虫がいいわよね)
 こみ上げてきた何かをぐっと抑え、マナはくるりと背を向けた。
 身を翻したマナを、一瞬唖然とした表情で眺めたシンジ。
 その耳に飛び込んできたのは、
「ずっと、大好きだったよ…ばいばい」
 大好き、と言う言葉に反応した途端、それが過去形だった事に気付いた。
「マ…」
 言い掛けたシンジに、もはやマナは振りかえろうとはせず足早に車に乗り込んだ。
「加持さん、出して下さい」
 幾ら何でもシンジの立場が無いが、加持は黙って頷いた。
 一際高く鳴り響いたエキゾーストは、どこか哀しみの色を乗せて。
 木陰から黙って覗いていたアスカ、何故かその晩だけハンバーグが焦げていても、バカシンジ!とは言わなかったというのだが。
 
 
 だがシンジは知らない。
 車のエンジンがもう、シンジには聞こえないと思われる位置まで来た時、マナがこう言ったことを。
「加持さん、この辺でもういいわ」
 と。
 そして、
「分かった」
 加持はさっきと同じように頷き−鈍い銃声が、青空に哀しく吸い込まれて行ったことを。
 しかし、その加持も自ら望んだ凶弾に倒れ、シンジがマナの行方を知る事は無かった。
 そして数年が経過した−
 
 
 
 
 
 
 
「ちょっとシンジ!このから揚げしょっぱいじゃないのよ、塩分間違えたでしょ」
「いや、そんな事…」
「アスカはわがまま過ぎるのよ。碇君のこれ美味しいもの」
「こらレイ、何シンジに抱き付いてるのよっ!離れ…なさいよっ」
 力任せに引き離そうとするアスカと、離れまいとするレイに挟まれて、シンジの服は限界まで伸びた。
「ちょっと二人とも…あっ」
 無論シンジに仲裁能力が有るはずもなくビリ、と音がした途端内側に倒れ込んできた二人の少女の下敷きになり、シンジは悲鳴を上げた。
 ただし。
 自分の下敷きにして睨み合っている少女達への物なのか、両頬へ感じるやわらかい弾力への物も含まれているのかは、よく分からない。
 が、触り慣れた感触に見える辺り、両方とも混ざっているのかも知れない−ほんの少しだけ前者の割合を高くして。
 
 
 
「あ、あのさ…そろそろ降りてくれないかな」
 よほど分厚い格好をしていても、自分の体がどこかに当たれば分かるものである。まして性感帯でもある胸が、きゅっと当たっている事に気が付かぬ筈はない。
 だが、まるで量感を競うかのように押しつけてくる二人に、とうとうシンジは音を上げた。羨望、と言うより撲殺に価するよう悩みだが、そう感じるのは決して少なくはなかったらしい。
 桜→宴会→泥酔・酩酊…と言うわけで、シンジ達の周辺とて無論例外ではなく、特に男だけで飲んでいるグループからは、目を背けたくなるような殺気が飛んできていたのだ。
(あんにゃろ…コロス!)
 危険な意味を含んだ視線を全身に受けて、シンジは覚悟を決めた。いかにシンジでもこんな所で乱闘騒ぎはごめんだからだ。
 むにむに、と両手にずしりと乗る感触を手のひらに載せ、一気にどける。
「あぁんっ」
「もうシンジったらぁ」
 舌足らずな声に、周囲からの殺気がひときわ高くなったような気がしたが、この際気にしない事にして、
「二人とも、そこ座って」
 珍しく怒っているシンジの声に、二人とも神妙に従った。
「いい?こんなとこで喧嘩したら…う」
 言い終わらぬ内に、二人がずいと顔を寄せてきたのだ。
「大体シンジがはっきりしないからいけないんでしょ」
「碇君がアスカを甘やかすから」
「何ですってー!」
「本当の事よ。碇君にお似合いなのはこの私だけなのに」
 また口論を始めた二人を見て、シンジはため息を吐いた。確かに選んでいないのは事実だが掬い上げ、要するにサルベージされたユイではなく、シンジと生活する事を選んだレイ。
 方や私の家はここだけ、と言い切ってシンジとの同居を選択したアスカ。
 だが、それと家事能力は別であり、今のシンジは心身共に彼らの面倒を見ていると言っても過言ではない。別に出来ない訳では無いらしいが、やってくれる人がいるとどうしても甘えてしまう物らしく、ミサトのいない碇邸では、今や三人の下着までが並んで干されている状態にある。
 しかも食事はシンジの選んだ物、或いは作った物しか二人は口にしない。
 喧嘩する二人を見て、怒ったシンジが一晩家を開けた事がある。帰って来たシンジが見たのは、抱き合ったまま泣きつかれて眠っているアスカとレイの姿であり、水も食事も口にしていなかった彼等は、その後二日ほど寝込んだ。シンジが一人で家を開けられなくなったのは、それ以降の話である。
(選ばせないくせに…)
 これを口にしないのは成長の証か…それとも魂の牢獄の象徴か。
「じゃあこうしよう」
 頬を引っ張り合っている二人を見ながら、シンジはため息混じりに言った。
「『え?』」
「そこに一升瓶がある」
 シンジが指差した先には、ミサトの持たせた一升瓶が二本置かれている。既に1児の母であり、既に臨月に近い彼女が泣く泣く手放した品だ。
「レイと飲み比べでもさせようっての?」
「違う、僕と」
 『「ええ?」』
「どっちか、僕よりも潰れないで持った方の言う事訊いてあげる…今日一日」
「ほんとに?」
 頷いたシンジに、レイが手を上げた。
「何?」
「アスカと私、どっちも残ったら?」
「今後一切二人の事には口出さない。誰の物でもいいや」
 どこか投げやりな言い方だったが、アスカとレイは互いをじろりと見た。
「負けないわ」
「ふんっ、望むところよ」
 だがしかし。
 結果はやる前から既に知れてあったのだ。別名八岐大蛇の名を持つミサトに、散々鍛えられてきたシンジである、所詮二人が敵う筈は無かったのだ。
 陶磁器のような肌を、ほんのり染めて先にダウンしたのはレイ。しかしこの勝負はあくまでも対シンジ戦であり、互いに勝っても意味はない。
 アスカもまた茹蛸と化して、大の字に倒れたのは数杯を傾けた後であった。
 スカートから白い脚をのぞかせ、だらりと寝ている二人を見ながら、シンジはゆっくりとコップを傾けた。
「二人とも…僕が絡まなければ仲いいんだけどね」
 自分で言ってる所を見ると、状況の把握は出来ているらしい。
 スカートを引っ張ろうにも、脚が錘になって思うように行かない。やむなく二人を並べて寝かせると、持ってきたタオルケットをその上に掛けた。
 と、何を思ったかシンジがにやっと笑った。丁度向き合う格好になっている二人を、更にくっつけたのだ。殆ど顔と顔がくっつかんばかりの距離まで引っ張ると、その手をそっと取る。
 唇が触れ合うような位置、しかも手を絡めている美少女二人を見ながら、シンジは一升瓶を手に取った。
「ん?」
 その表情が動いたのは、次の瞬間であった。寝ている二人の唇が動いたのである。
「碇…く…」
「シンジぃ…」
 寝言だろうが、呟くと同時に互いに握っている手が、きゅっと動いた。無論シンジが相手の夢を見ているのだろうが、手に力が加わったのだ。
(起きたら楽しみだな)
 邪悪に笑ったシンジだが、
「あれ?」
 手にした瓶に殆ど入っていない事に気が付いた。継ぎ足しにしてはつまらないと、捨てようとした手が止まる。
 何を考えたのか、ふと上を見上げると一瞬考えてから頷いた。三人が陣取っていたのは、園内でもひときわ大きな桜の木の下だったが、その根本に残った酒を掛けたのだ。
 木に酒が肥料になるのかは不明だが、コップに三分の一程残ったそれは、すうっと木に吸い込まれていった。
「一緒に…酔ってみる?」
 ほんの少しだけふらついた口調で言うと、シンジは満足げに次の瓶に手を伸ばした。
 
 
 
 
 
 
「シンジ、ねえ起きて」
 肩を揺すられる感触に、シンジはゆっくりと目を開けた。
  「アスカ…綾波…?」
 二人にしては妙な口調だと、本能がどこかで察していたのかも知れない。あの二人なら、こんな風には起こさないからだ。
「母さん?」
 今だ寝ぼけ眼のシンジの頬を、白い指が引っ張ったのは次の瞬間であった。
「恋人と母親を間違えるなんて失礼よ」
「…恋人と…え!?」
 がばと起きたシンジを、あの懐かしい笑顔が迎えた。
「久しぶりね、シンジ」
 と、前よりは幾分色っぽく、そして懐かしげな口調で。
「マナ!?…久しぶりだね…」
「…うん…」
 懐旧と、ほんの少しの間の悪さの含んだ視線が交差する。
 だが、既にマナの頬が幾分赤いことに、シンジが気づくことはなかった。
「あれ、あの二人は?」
 横を見ると、まだ手を握ったままぐっすりと眠っている。
「あの二人、ああゆう趣味があったのね」
 くすっと笑ったマナに、
「僕の代用品だよ」
「男のいない空閨を、女同士でいやしてる訳ね」
「あの…マナ?」
 ちらりと向けた視線に、
「百合の世界に男は無用じゃない?」
 薄く笑うと、
「ね、少し歩かない?」
 シンジの返事も待たずに、腕を絡めて来た。
「で、でも…」
「アスカさん達なら大丈夫よ。当分は起きないから…ね?いいでしょう」
「わ、分かった」
 久しぶりに見るマナに気を取られたシンジは、後ろの光景に気が付く事は無かった。
 すなわち、ゆっくりと垂れ下がってきた桜の枝に。
 そしてそれが、二人を守るかのように彼等を覆ったことを。
 何よりも、シンジはマナが来たのに気付かなかったのではない、ということを。
 −マナは忽然と湧いて出たのだ−
 
 
 
 
 
「ね、シンジ」
「なに?」
「シンジは今何してるの?」
「何って…普通の高校生だよ。ちゃんと学校も行ってるし」
「アスカさんも?」
「一応ね」
「やっぱり暇なんでしょ?」
「もう終わった所みたいだし、専攻はドイツにいた時のと同じだから。日本語さえマスターすれば、後はもうつまらないと思うよ」
「じゃ、何で行ってるのかな〜?」
 腕を絡めたまま、マナは横からシンジを覗きこんだ。
「何って…その…」
 ぽっと紅くなったシンジを見て、マナは柔らかく微笑んだ。
「綾波さんも、でしょ?」
 それだけで、シンジにはマナが何を言わんとしているのかは分かった。
「うん」
「何か両手に花って感じよねえ、シンジなのに」
「そ、そんな事言わなくたっていいじゃないか」
「あら、前に私とキスしたの、ばれて大変だったんじゃないの?」
「な、何でマナが知ってるんだよっ」
 うろたえたシンジの腕を、マナはぎゅっと胸に押し付けた。
「だって…ずっと見ていたもの」
「ずっとお?」
 声が上擦ったシンジを見て、マナは楽しそうに笑った。
「そう…ずっとよ…」
「マナ…」
 一瞬凝固した空気を振り切るように、
「で?どっちを選ぶの?」
 少し冷やかすように訊いた。
「なっ、何を!?」
「お。よ・め・さ・ん」
「そっ、そんなんじゃっ」
「そう?」
「え?」
「あの二人、結構ウェディング雑誌とか見てたよ」
(ん?)
 ほんの少し、ほんの少しだけシンジの心に疑念が浮かんだ。
 −なぜマナがそんな事を知っている?−
 だがそう思った瞬間マナは、にぱっと笑った。
「びっくりした?」
「へ?」
「冗談よ」
「な、何だ…」
「あ、安心してる、ひどいんだ」
「もう…いじめないでよ」
 マナの手の平で遊ばれて、とうとうシンジも降参した。
「参った?」
「うん、降参する」
「よろしい」
 偉そうに言うと、マナはちらりと周囲を見た。
 既に辺りは宴会の宝庫となり、あちこちで喧騒が起きている。別に、そばに人がいる訳でもないのだが、マナは声を潜めるようにして、
「シンジ、あの時の続きしよ?」
「続き?」
「うんっ」
 
 
 
 
 
 魔が差したのだ、とは思わない。
 ただ、普段のシンジからは考えられないような大胆な行動であった。
 見守るのは木々と、燦燦と光を送る太陽のみ。
 うっすらと立ちのぼる湯気の中に、白い裸身が二つ背中合わせに座っている。
 女かと見紛う色の白さだが、良く見れば違うのが分かる筈だ。
 背中をくっつけて座っているのは、一組の少年少女。無論予定には無かった物を、女が押しきったか男が受けたか。
 二人の手が伸び、丁度中間地点で触れ合おうかと言う瞬間。
「あー、ここだここだ。やっと着いたぞ」
「全くあの地図偽物かと思ったぜ」
 と、こちらは男二人組。純粋に露天風呂を楽しみに来たらしいが、その声を遠くに聞いた二人は瞬時に立ち上がっていた。
「もう、いいとこだったのに」
 残念そうに呟いた少女に対し、こちらは我に帰ったのか、そそくさと衣類を身に着ける少年。
 だが彼を見て、少女が嘆息した事を無論少年は知らない。 
 
 
 
 
 
「だ、だけどマナこんなとこに…」
 シンジが言う通り、ここは街外れの公園でこそあれ、湯などが湧いている場所ではない。まさか今から家に行って入るのかと、怪訝な顔になったシンジに、
「あれ、ここちゃんとあるよ?知らなかったの」
「嘘…」
「私がシンジに嘘言うと思う?」
「そんな事は思ってないよ」
「そうよね、シンジと私の仲だもんね」
 勝手に納得すると、マナはシンジを引っ張って歩き始めた。
「ちょ、ちょっと」
 いきなり混浴を提案され、さすがのシンジも一瞬引いたが、
「今は自信あるんだもん、いいじゃない」
「自信?」
「あの時は私、洗濯板だったのよ」
「え?…ああ…いてっ」
 洗濯板→平ら→貧乳、と繋がって頷いた途端、マナが腕をきゅっとつねった。
「納得する事ないじゃない。第一シンジなんかあの時、私をろくに見ようともしなかったし…分かるわけ無いじゃない」
 怒ったように言い掛けたが、何かを思いついたのかその口許が僅かに歪んだ。
「嫌ならいいよ、シンジ」
「え?」
「あの時もシンジは私の身体なんか見られなかったし、どうせ今も怖いんでしょ。貧相な二人しか見ていないシンジ君には無理よねえ?」
 戦国などを舞台にしたSLGでは、これを挑発と言う。
 そしてこれに掛かるのは大抵、知力という能力が低い者と決まっているのだが。
「いっ、いいよ、見てやるよ」
 あっさり引っかかった。
「いいわよ、無理しなくて。どうせシンジには…いたっ」
「平気だよそんなのっ、ちゃんと触ってやるよっ」
 半ばやけになったのか、今度はシンジがマナの手を逆に引っ張った。
「シ、シンジ…」
「何だよ」
「道、知ってるの?」
「あ…」
 むしろ冷たいとさえ言えるマナの声で、シンジも冷静さを取り戻したのか、幾分恥ずかしそうにマナの手を離した。
「ごめん…」
「いいのよ」
 マナは首を振って微笑むと、
「私も…少しシンジ試したから。ごめんね」
「試した?」
「アスカさんと綾波さんだけしか、もうシンジの心にはいないのかなって…ちょっと不安だったんだ」
「マナ…」
「でも安心したわ」
「え?」
「シンジ、私の事ちゃんと憶えていてくれたもの」
「忘れたりなんかしないよ」
「ほんとに?」
「うん」
「約束だからね」
 手を繋いだまま、公園を後にした二人。未だ夢の国にいる彼女たちが見たら、さぞかし面白い光景が浮かびそうだが、生憎と彼等はそれを知る立場にはいなかった。
 
 
 
 
 
「お?何だ何だ?いい女が二人寂しく寝ちゃって。不貞寝かあ?」
「男にすっぽかされたんだろ、きっと」
「馬鹿良く見ろ」
「あ?」
「手え繋いで寝てるじゃねえか、これモンだぜ」
 どれどれと覗きこんだ男が、イヒヒと笑った。野卑なのは、出来上がっているのに加えて本性が現れたのだろう。
「こんないい身体してんのに勿体無いよなあ」
 うんうんと頷き合うと、
「ここは一つ、お兄さん達が教えてやろうぜ」
「そりゃいいや」
 げらげらと、品性など欠片も無く笑った瞬間、その全身は凍りついた。眠り姫達はそのままに、その身体に蔓と化した枝が巻き着いたのだ。
「な、何だこれ…ぐああっ」
 悲鳴を上げる事も許されず、愚かな男たちは全身を絡め取られて、つぎつぎと失神して行った。
 酔客が圧倒的に多い中で、異様な出来事に気付いた者は他に数人いたが、起きた事を信じられる筈も無く、彼等も自分の見た物を忘れるようにして、また喧騒の中へと身を投じて行った。
 
 
 
 
 
 公園を出るとそこは大通りである−筈だった。
 だがシンジは、どこをどう歩いたのかも分からぬまま何時の間にか、うっそうとした森の中にいた。
「マナここは?」
「もう少しだから待ってね」
 その言葉に無言の拒否を感じ、シンジはそれ以上訊くのを諦めた。
 数分、或いは数十分も歩いたのだろうか、シンジの視界を占めたのは湯煙であった。
 温泉のそれと一目で分かったが、自分の知っている場所にこんな所は無い。シンジの顔に疑念の色が浮かんだ。
 だがマナに訊いても教えてくれそうにもない。一体ここはどこだと、シンジが首を捻った時、
「シンジ、早くう」
 甘ったるい声がシンジの意識を引っ張った。
 さっきまではすぐ前にいたはずだが、何時の間にやら声は湯煙の向こうから聞こえてきた。声に引かれるように近づいたシンジの目が、マナの姿を認めた刹那大きく見開かれた。
「マ、マナ…」
 呆然と立ち尽くしたシンジの前で、前を隠そうともしないマナが、婉然と微笑んでいたのだ。
「どう、きれい?」
 帯びすぎるほどに丸みを帯びた胸は、声高にその存在を主張して大きく突き出しており、先端で息づく鴇色の果実だけがむしろ、どこか恥じ入るようにちょこんと端座している。元々細身のマナではあったが、胸が圧倒的なボリュームだけに、引き締まった腰へと流れるラインは、むしろ陶芸家の渾身の作品を思わせる。
 すらりと、と言うより野性味すら感じさせる脚は、欧米系でもあるかのようにぐっと直線を描き、そしてその先は腰と同じように引き締まっている。
 そしてその秘所も、真っ白な肌には淫靡さを感じさせるはずなのに、淫らさは微塵も無く、ただ身体の一部として当然の位置を占めている。
 全裸の美神に見とれていたシンジは、最近アスカとレイを見ていないからだと気が付いた。
 不謹慎な事を考えたのが伝わったのか、
「シンジも…来て」
 艶のある声ながら、それはどこか尖って聞こえた。
 シンジがまるで取り憑かれたかのように、のろのろと服を脱いでいく様を、マナはじっと見ていた。
 これもマナに劣らず、白く線の細い肢体が現れた時、じゅるっという音がしたのは気のせいだろう…多分。
 
 
 
 
「ほんとはね、あの時もこうやって見せたかったんだ…ちゃんと」
 二人が目にしているのは異性の裸体−の筈なのだが、何故かその顔はいずれも染まっていなかった。
 裸体を見た時、頬を染める以外の反応もあるのだろう…多分。
 シンジの黒瞳はマナの瞳を吸い込み、マナの黒瞳はシンジの上半身を映していた。
 お互いに避けていたかのような視線が、合流するには数十秒の時を要した。
「入ろう?」
 促したマナに誘われるようにして、ゆっくりとシンジは湯の中に身を沈めて行った。
 あの時と同じなのに。
 それなのにどこかが違う。
「どうしたの?シンジ」
 あ、とシンジが洩らしたのは声と同時に主が振り返ったから。
 そして、その次の瞬間背中にとてつもない感触が伝わったから。
「マ、マナっ」
「動かないで」
 懇願ではなく、明らかな命令口調にシンジの身体は硬直した。
「ごめん、少しだけ…このままいさせて」
 口調よりもむしろ、マナから感じた気がシンジに胸の感触を忘れさせた。
 後ろから回された手は、シンジの鎖骨の辺りで結ばれて、シンジを緩く抱きしめた。
 おずおずと伸びた手が重なったのは数秒後、そしてマナが口を開いたのは数分後であった。
「私には、余り時間が無いの…明日になれば終わってしまうから」
 その言葉に何かを思い出したのか、振り向こうとするシンジをマナの手が止めた。
「分かっていたの、会わない方がいいんだって。もう…私はここにいないんだって事も」
「いない?」
 マナの意図とシンジの意図が違う事−すなわち“この街にはもういない”のだと、シンジが読んだ事をマナは知った。
 その顔が少し、ほんの少しだけ哀しげに歪むと、
「シンジ、触って」
 シンジを振り向かせ、その手を自分の乳房に押し当てる。抗う間もあればこそ、あっと言う間にシンジの手は、マナの胸を掴んでいた。
 そして。
「こ…これは…」
 羞恥に顔を染めるかと思われた刹那、シンジの顔は蒼白になっていた。マナの胸は、明らかに無機物の硬さを伝えてきたのである。
「う、嘘だっ…嘘だ、嘘だ!」
 愕然と手を振り解こうとするシンジを、マナは止めなかった。だが、外れない。
 無論マナの画策ではなく、シンジの手が嫌がっているのだ…手を離す事を。まるで板を掴んでいるような感触に、みるみるシンジの目から涙が溢れてきた。
 最初マナと知り合った時、彼女が人間だったと言う観点からすれば、目の前のマナは明らかに偽物である。
 だがシンジの本能が告げていたのだ−これは偽者ではない、これは本物の霧島マナなのだ、と。
 思わずシンジの指に力が加わっても、マナは顔をしかめはしなかった。
 痛くないからではなく…痛みを感じないから。
「ごつごつしてるでしょ」
 マナは微笑んで、だがどこか自嘲気味に言った。
「あ…」
 それを聞いた時、なぜだかシンジの手はそっと離れたのだ。
 自分の双眸から涙がこぼれた事にシンジは気付かず、ましてそれが止まった事にも。
 ただ、マナだけがそれを見つめていた。
「ゆうれい…なの?」
 涙の溜まった眼で訊ねたシンジが急に愛しくなり、マナはシンジを引き寄せるとぐっと抱きしめた。
「ちゃんと脚あるじゃない…ほら」
 言うなりシンジに抱き付くと、両足を絡めたマナにやっとシンジの顔が紅くなった。
「マナ…一体…」
「ねえシンジ、桜の花がどうして紅いか知ってる?」
「え?」
「その根元には死体が埋まっているからよ…私の」
「…な?」
「シンジ達が陣取った木、特に花が紅かったでしょう」
 それを聞いた瞬間、シンジは唐突に理解した。いや、本能はどこか察していた物を、意識においても知ったと言う方が正解だろう。
「僕が飲ませたから?」
 と訊ねた声は、自分でも不思議なほどに落ち着いていた。
「うん…」
 頷いたが背けようとする顔を、シンジは挟んで止めた。
「シ、シンジ…」
「調理実習で手を切った時、マナの血は紅かったよね」
「あ…」
「マナ」
 シンジが優しげな声で呼んだ。
 その顔が近づいて来た時、マナの目はゆっくりと閉じられた。
 二度目のキスは湯煙の中で。そして今度は…シンジから。
 離れたシンジの顔を、今度はマナが手を伸ばしてそっと挟んだ。
 互いの顔を手で挟んでいる二人の視線は、限りなく一つに近く、そして少しだけ哀しげに見えた。
「また…会えるかな」
「…来年も待ってるから」
「来るよ、必ず」
「うん…」
 抱き合った影は、遠目には一つに見えた。そしてそのまま、ゆっくりと倒れこんでいく。
 
 
 
 
「ん…ん?」
 シンジが我に帰った時、桜の木の根元に身をもたせかけているのに気が付いた。
 見るとまだ、アスカとレイはくっついて眠っている。
「夢、だったのかな?」
 ぽつりと呟いてふと頭に触れた時、髪が塗れているのに気が付いた。
「濡れてる…夢じゃなかったんだ」
 軽く木の根元に触れた時、その肩にひらひらと花びらが舞い降りた。
「また来るよ…マナ」
 そっと呟いた時、木が僅かに揺れたように感じたのは、シンジの気のせいだったろうか。
 何かを噛み締めるように、少しの間木により掛かっていたシンジだが、やがて二人を起こすべく声を掛けた。
「二人とも、ほら起きて」
 
 
 
 
 
 余談だがその後数日間、アスカとレイ彼らの共通の想い人は、何故か普段比140%ほど優しかったと言う。
 何があったのかと首を傾げる二人に、シンジは笑って言った。
「桜の花が赤いのはどうしてか知ってる?」
「ううん、知らない」
「色々な思い出が詰まっているからだよ…色んなね」
 狐につままれたような顔の二人に、シンジの笑みは更に深くなり、
「来年もまた、行けるといいね。三人であの場所に」
 と、二人に囁いた。
 
 
  
 
 
(終)