恋人達の事件簿「黒レイ」
「あれ…朝?」
朝日が差し込む室内で、ゆっくりと青年が身を起こした所であった−ただし、上半身は裸のまま。
既に太陽が威張る時間になっており、どこか寝ぼけ眼の横顔に、容赦なく目覚めを促す光線を浴びせている。
どこかまだ焦点の定まらない視点で、左右を見まわした後うーんと伸びをした。
「こーら、馬鹿シンジ!」
部屋のドアが勢い良く開いたのは、その直後である。
だがしかし。
「あ、スケベ」
呟いたのは青年の方であった。
「な・に・がスケベよっ」
言うなりずかずかと入ってきたのは、綺麗な栗色の髪をした美女であり、既に外出着に着替えている。青年にまっすぐ歩み寄ると、勢い良く毛布を引っ剥がした。
「ね、姉さん止めてよっ」
口調からすると姉弟らしいが、シンジと呼ばれた青年は、折角の毛布を剥がされまいと断固として抵抗する。
しばらく無言の格闘が続いた後、女の方が諦めて手を離した。
「さ、さっさと起きなさいよね、全く何時になっても」
「もうアスカ姉はうるさ…いてっ!」
ひょいと掴んだ枕で、弟の後頭部を遠慮無しに一撃したのである。
「シンジあんた、マユミから連絡来てるわよ」
「何て?」
「あんたバカ?家賃の催促に決まってるでしょうが。あたしは口座からちゃんと落ちてるけど、愚弟の分が来てませんってクレーム付いたのよ」
「あー、そうだった。で、何ヶ月だっけ」
「三か月分よ、このバカシンジ。全くあたしの身にもなってよね。亀なんか弟に持ったせいで、いっつも皆からからかわれてるんだから」
「…自分はウサギの癖に」
「なんか言った?」
「いえ、別に」
出来の悪い弟に迷惑を掛けられている姉の図、なのだが実際は少々…いやだいぶ違う。
この姉弟が同居、つまり二人とも独身なのは基本的にアスカのせいだ。
学生時代、ややおっとりした性格と美貌から、圧倒的な人気をシンジが得ていたにも関わらず、寄って来る者を全てアスカが撃退していたのである。
本人曰く、
「こんな奴の毒牙に、女の子が犠牲になるのを黙視出来ない」
だそうだが、実際にはかなり自分本位の理由だった事を、アスカの親友にしてここの大家である山岸マユミは知っている。
中学校時代から、シンジの下駄箱を勝手にチェックし、中に入っている物は必ず自ら処分した。
「下駄箱に入れるなんて、ろくなモンじゃないわよ」
と言うある意味もっともな意見に、元からのんびりしているシンジも、さして抗しようとはしなかったのだ。
さて、その二人の現在の境遇だが、アスカの方は渚コンツェルンの会長秘書。なお会長は渚カヲル。落ちないと知りつつ、毎日のように秘書を口説き、その度に強烈な肘打ちを食っていると言う。渚コンツェルンは一大財閥だが、全企業内を見回しても、渚カヲルに逆らう事はおろか、肘鉄を入れるなどアスカ以外に一人もいない。
一方碇シンジはと言うと、妖撃師。
先祖のどこを探しても、どこにもそんなのはいないのだが、何をどう転んだか国家試験をあっさりパス。最難関と言われるSクラスの幽霊を、居並ぶ歴戦の猛者を尻目にあっさりと片付けた事で、一躍有名になった。
なお、その時の幽霊は“居酒屋の幽霊”であった。
シンジは別に怠惰な訳ではないのだが、のんびりした性格の上に好きな事は「昼寝」と来ている。誰かと同衾、という事ではなく文字通りの昼寝なのだ。
学生時代も天性の才能に任せ、暇さえあればどこでも居眠りしていた経歴を持つシンジは、青年となってもなおその癖は直らなかったのだ。
「で、どうするのよシンジ」
「んー、どうしよう」
鸚鵡返しに言ったものの、どこかのんびりとしている感のあるシンジに、姉は邪悪な笑みを見せた。
「あたしが出しといてあげようか?」
「ん?」
「一週間…いえ一晩、ううん二時間でいいわ」
がばっ。
言うなり、いきなり弟に襲い掛かったアスカ。一瞬の隙を突いてその白い肌を押さえつけ、紅い舌を這わせようとする。
が。
べちゃっ。
「別にいいや」
あっさりとかわされて、布団に熱いキスをする破目になった。
「相変わらずつれない弟ね。何時になったら私の物になる気?」
「家賃で売るのはちょっと…」
ではそれ以外ならいいのかと言う感じだが、実際は決して頷かない事を、アスカとて良く知っている。
無駄と知りつつのアタックは、どこか彼女の雇用主のそれにも似た所がある。
「でも不況だしなあ」
女が見たらため息でも出そうな声で、しかも上半身は裸のまま、首をかしげて呟くものだから妖しい事この上ない。アスカでなくとも、忽ち色魔と化して襲い掛かりそうだ。
ちらりと向ける流し目に、はーあと大きくため息を付くと、アスカはショルダーバッグから封筒を取り出した。
「はいこれ」
「ん?」
「今回は女の子よ−生身の」
「新興宗教の生贄にでもなったの?」
普段アスカが持ってくる依頼は、その9割方が“川を渡った”人々であるだけに、珍しい事もあるもんだとシンジは微かに首を傾げていた。
「なんで姉さんがこんなのを持ってきたの?って、そう思ってるでしょ」
言い当てられたシンジは、別に否定もせずに頷いた。
「それはね」
言うが早いか、
「む…ん…こら」
弟の唇を奪い、その柔らかさを愉しむ間もなくすっと離れた。
「探すのに苦労したからよ…じゃ、行ってくるわね」
アスカがドアを開けた時、シンジは表で鳴り響くエンジンの重低音を耳にした。
「雇用主が迎えに来たな…早く貰われて上げればいいのに」
ある意味で正論、そしてある意味罰当たりな事を呟くと、ゆっくりとシンジは起き上がった。素肌にシャツを引っ掛けると、がさがさと封筒を開ける。
依頼人に関するデータに一通り目を通し、スリッパを履いて出て行き掛けたが、ふと途中でぽつりと言った。
「あー、犯されるかと思った。貞操が破られる所だったぞ」
唇に細い指を当て、ぶるぶると首を振ってから出て行った−さして嫌そうにも見えなかったが。
ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ。
「ぷはー、美味しかった」
どこかの中年親父のように、握りこぶしでぐいと口元を拭ったのは若い娘である。
それだけなら、単に“おっさんくさい”だけかもしれない。
ただ、彼女が飲んでいたのは紅い液体だったのだ−それも、鉄の臭いを強烈に放っている深紅の液体を。
まるで、水でも飲むように鮮血を飲み干した娘の足元には、特大のジョッキが転がっている。その数からして、既に数リットルは飲んでいるらしい。
鮮血を水のように飲む娘。それだけでも十分異様なのだが、外見はさしてそうでもないのだ−幾つかの点を別にすれば。
染めたとは到底思えぬ、根元から蒼い髪。綺麗だとは言え、蒼い髪の持ち主など余りいないだけに、やや違和感を感じさせる。
そして抜けるように白い肌。と言うよりも、色素を全て抜ききったような感じに見えるそれは、少し特異体質を知る者ならすぐ見抜く“アルピノ”である。
BMWのチューニングメーカーとして名を馳せる、ドイツの某メーカーに似た響きだが、一応特異体質の一種だ。
更に何よりもこの娘を際立たせているのは、その赤瞳であった。
単に充血した、とか言うのとは根本的に異なっているそれは、どこかウサギの瞳を思わせる。
その赤瞳で見つめられ、しかも手にしたグラスには鮮血が溢れていると来れば、その辺のホラーなど歯牙にも掛けぬ凄絶なヒロインが出来上がり、魅入られる者は後を絶たないだろう。
彼女の名は綾波レイ−元人間である。
ただ物事を正確に語るならば、彼女は今現在人間でない…訳ではないのだが。
町外れのとある家の前で、シンジは立ち止まった。
ふあ、とあくびを一つしてから表札を見る。「綾波」と書いてあるのを確認してから、インターホンを押すした。
「はい…」
なんとなく干からびたような声が返って来た。干からびたと言うより、生気の抜けきったような声だと思いながら、
「あの、碇と言います」
と言った途端、
「ああっ、お待ちしておりました。どうぞ」
弾むような声に、シンジは少し首を傾げながら中に入って行った。
「こちらです」
老婦人に出迎えられ、外見からは想像の付かない長い廊下をシンジは案内された。居間までは、外見と同じくそれなりに年式の経った造りだったのが、入ってきたのと反対側のドアを開け、ここの廊下に出た途端に、全く異質なほど厳重な構造になっていると、シンジは見抜いていた。
「血の臭いがしますね」
何気なく洩らしたシンジだったが、婦人の顔は曇った。
「吸血鬼ではない、とお聞きしていますが」
「違います」
あっさりと、だが断固として彼女は否定した。
しかし家の中には、血臭が漂いこそすれ何かの凶事の気は漂っていない。シンジはそれ以上聞かず、婦人の後を歩いて行った。
「こちらです」
彼女が立ち止まったのはある一室、部屋の表札には“レイのお部屋”と書いてある。
「これはまたファンシーなお部屋で」
と言う呟きを、無論シンジは口にはしなかった。
「どうか、宜しくお願い致します」
深々と腰を折った老婦人に、
「お任せを」
一言告げると、シンジは頷いて見せた。
さて、その頃とあるプレジデントの車内では−
「今日は少しご機嫌斜めかい?」
笑顔で訊ねたのは渚カヲル、アスカの上司である。
雇用主の分際で秘書を迎えに行ったのだが、会うなりいきなり無言で蹴り飛ばされたのだ。無論アスカも、第三者がいる時にそんな真似はしないのだが、今までになかった事だけにカヲルも首を捻っていたのだ。
「今日は90度曲がってるのよ」
ぶっきらぼうにアスカは言った。
「原因はシンジ君かい?」
「あそこまでしてやったのに、舌入れられなかったのよ…って、あんたに関係ないでしょ。ったくうるさいわね」
ブラコン癖は知っているが、いきなり失敗談を聞かされるとは思わなかったカヲル。
諦めて肩をすくめると、ハンドルに集中する事にした。
車内に奇妙な沈黙が漂った数秒後。
「渚」
いきなりアスカが呼んだ。
「……僕かい?」
「他に誰がいるのよ」
「経営陣には渚姓がうじゃうじゃと」
他の者が聞いたら、それだけで凍りつきそうな台詞だが、アスカは気にもせず、
「あんた今日暇?」
「予定は君が知っている筈だ」
とは、カヲルは言わなかった。
「多分ね」
「食事、あんたのおごりだからね」
一瞬車体がぐらりと揺れた。カヲルが助手席のアスカを見た時、ハンドルが揺れたのである。
本当に?と訊く代わりに、
「どこでも良いのかい?」
「門限は10時までよ」
「喜んで」
頷くと同時に6000CCに改造されたエンジンが唸りをあげ、
「こらっ、あんた飛ばしすぎよっ」
「高出力エンジンはいい。人類の生んだ文化の象徴だよ、そうは思わないかい?」
奇怪な事を呟くと、更にカヲルはアクセルを踏み込んで行き、当然のように赤色灯を積んだ車に停止命令を出されたのは数分後の事であり、そしていつものように名刺一つであっさりと見逃させたのは、その数秒後の事であった。
「綺麗な人だな」
シンジはレイの寝顔を見ながら呟いた。
年齢はシンジと変わらないはずだが、アニマル柄のパジャマで眠っている姿は、どこか高校生位にも見える。そして何よりも奇妙なのは、その全身からは全く邪気が感じられない事であろう。
さっき生き血をジョッキで傾けていた姿は、呑んでいる中身を別にしても、その全身からは妖気に近い物が漂っていたと言うのに。
「取り憑かれた娘。さっさとやっちゃおう」
レイが眠るベッドの周りに方陣を描くと、その八方向に呪符を置く。
懐から十字架を取り出した時、
「……誰?」
レイがぱちりと目を開けた。
シンジの黒瞳とレイの赤瞳が絡み合い…先に目を逸らしたのはレイの方であった−それも頬を薄っすらと染めて。
だが、シンジの手にある物に気付くとびくりと身を奮わせて、毛布をぎゅっと掴んで後ずさりした。
「わ、私を殺しに来たんですか…」
「いいえ」
「え?」
「あ、自己紹介が遅れました。碇シンジ、妖撃師です」
「あ、あの綾波レイです」
「どうも」
「は、はい…」
どこか間抜けな会話の後、ふっと沈黙が漂った。何となく話が途切れたのである。
「『あ、あの』」
重なったのは数秒後の事。何故か二人揃って紅くなりながら、
「あなたから」
「い、いえあなたから」
状況的にはどう見ても変だが、二人揃ってもじもじしている姿は、二人の雰囲気のせいで絵にならない事もない。
「僕が始末するのは、貴女ではないですから」
先に口を開いたのはシンジの方であった。
「……」
どこか陶然とシンジを見ているレイに、
「妖魔ならそれごと片付けるんですけど、取りつかれている場合にはそっちだけを」
とシンジが言った時、レイの体がびくりと動いた。
「貴女に取り付いているのはサッキュバス、と訊きましたが」
こくりと頷いたレイに、
「でもこの邸内にはだいぶ血臭が漂っていますね」
「そ、それは…」
「それは?」
「こいつがカマトトぶってるからよっ」
いきなり凄まじい妖気を漂わせ、レイはシンジを捕まえてベッドの中に引きずり込んだ。
叫ぶ間もあればこそ、あっという間にシンジは引っ張り込まれると手首を掴まれていた。
「力比べで勝てるかい?このあたしに」
十字架(クロス)を手にした手首をぐいと掴まれ、しかももう片方の手首も掴まれている。若い娘の物とは到底思えない力に、みるみるシンジの手首は紫色に変わって行った。
「あ、あのっ」
うろたえるシンジに、
「あんたさっき、血の臭いがするとか言ってただろ」
掴まれた段階で、力で敵う相手ではないとシンジは悟り、諦めて頷いた。
「本当は血なんか欲しくないんだけど、レイ(こいつ)が嫌がるから、仕方なくさ」
「し、仕方なく?」
「そう、仕方なくよ。本当に欲しいのは…こっち」
どこか凶相と化したレイの顔が近づき、シンジの首筋に舌を這わせた瞬間、シンジは書いてあった資料が本物だった事を知った。
「いただきまーす♪」
嬉しそうに言ううのと、シンジの悲鳴にも似た声が室内から聞こえてくるのとが、ほぼ同時であった。
「ご馳走様でした」
レイが神妙な顔で丁寧に頭を下げたのは、約一時間余り後の事である。
「う、訴えてやる…」
白い肌のあちこちにキスマークを付けられ、しくしくと泣いている姿を見てレイはにやっと笑った。
「あんた、本当にプロなの?」
「え?」
「人様を退治しに来て、全員が素直にやられると思ったのかい?甘ちゃんだね、全く」
そう言うと、再度シンジを引き寄せた。それも軽々と。
どうやら単純な力では、シンジのそれを数倍上回っているらしい。
何をされたのか、すっかり怯えきっているシンジ。この分では、よほど美味しく頂かれてしまったと見える。
既にキスマークだらけの首筋へ、再度唇を押し付けようとして−固まったのは次の瞬間であった。
「う…ぐう…あ、あんた…」
押し殺すような声の後、ふっと変わった雰囲気にシンジが顔を上げると、そこには自分を見ているレイがいた。
同じ顔で。
だがどこか雰囲気の違う容貌で。
と、次の瞬間その顔がみるみる紅くなり、
「ご、ごめんなさいっ」
早口で言った時、シンジはそれが別人なのを知った。いや、最初に見た時のレイに戻った、と言うべきか。
いててて、と手首をさすっているシンジに、
「だ、大丈夫ですか」
とその手首をそっと包んだ仕種に、さっきまでの邪悪さは微塵もない。
だが自分の仕種に気が付いたのか、慌てて離そうとしたが
「あ…」
今度はシンジがその手首を捉えたのだ−そっと、やさしく。
「あの、話してもらえますか」
「は、はい」
綾波レイが降霊術に関心を持ったのは、高校一年の時であった。好奇心旺盛な年頃であり、ある程度は誰でもあるかもしれないが、レイの場合は少々異なっていた。彼女が最初に興味を持ったのはこっくりさん。自動筆記の初歩的な物だが、一つ問題が生じた。即ち、レイは以上に霊能力が高かったのだ。友人たちがいんちきな道具に頼る中、レイだけは次々と呼霊による答えを得て行った。
降霊術は危険な火遊び。そうと知りながら、半分嫉妬も混ざっての仲間達の勧めで、レイは次々といろんな物に手を出して行き、行きついたのが文字通りの降霊術であった。
しかも、何故か呼び出してしまったのがサッキュバス。言わずと知れた淫乱な女妖魔である。
「私に何をさせたい?」
サッキュバスはレイに訊ねた。
だが、遊びで呼び出したレイにそんな用事があるわけもない。まして男の夢精を取りだす淫魔などに。
しかし、意味もなく霊を呼び出す事は、大抵の場合死に繋がる。低脳な人間に、それも無意味に呼び出される事など、霊達が最も嫌う事だからだ。無論レイとて例外ではなく、
「代償にお前の命を寄越せ」
と命令されたのだが、霊力の高い身体を気に入られたのか、
「とり憑かせるなら許してやる」
その代わり、その場に居合わせた仲間たちは、記憶を操作して置いてやる、と。
そしてその結果が、今のレイなのだ。
男の精を糧とするサッキュバス。だがレイがどうしても拒むので、やむなく鮮血を大量に摂取しているのだと、レイは俯きながら言った。
「じゃ、じゃあ…」
話を聞き終えたシンジが、少し躊躇いがちに言った時、数十秒が経っていた。
きゅっと自分の手首を持ったまま、何か言いよどんでいるシンジに、レイは怪訝そうな顔を向けた。
「僕が治して上げます」
「え?…」
「“彼女”は腕力が妙に強いから、ちょっとばかり手に余ってますが、隙を突けば何とかなります。だ、だから僕と…!?」
次の刹那、その顔が驚愕に彩られた。
にっとレイは笑ったのである。
「嬉しいねえ」
たっぷりと妖香を含んだ声でレイは言った。
「そんなにあたしの事が気に入ってくれたのかい」
別人に変わった事を知り、咄嗟にシンジの指が動いてレイの額に張り付いた。
「何の真似?」
無駄な事を、と嗤いかけたまま、こんどはレイが硬直した。
シンジの指が動いた途端、その身体は微動だに出来なくなっていたのだ。
青年が、すっと指を動かしただけで−それも単に縦横に。
「十字架を書いて見ました」
シンジは少し苦しげに笑った。
「あいにく、催眠術なんて言う高尚な物は知らないので、取り合えず指記などを」
「…やるねえ、あんた。で、なんで苦しそうなわけ?」
「変な人にキスされたもんで何となく」
それを聞いたレイは、目の中に一瞬疑問符を浮かべ、そしてすぐに笑った−目だけで。
「そうか、あんた聖職の者だね。」
「…一応」
「それで?あたしをどうしようってんだい?」
「綾波さんの体から出てもらう。その後は十字架で送って上げます」
だが、それを聞いたレイは哄笑した。
「あはははは、あんたバカねえ」
少しむっとした顔になると、
「今から試して見る、そこ動かないで下さい」
自分で硬直させた相手に、わざわざ断ったシンジに、
「止めときな」
ぞっとするような冷たい声で命じた。
シンジの手が止まったのは妖女の声に、その場しのぎ以外の何かを感じたせいかも知れない。
「なぜ」
「あんた、こいつの話を聞いてなかったのかい?自分で選んで取り憑かせた者は、その魂までも融合するんだよ」
「なっ!?」
「つまり、あたしを滅ぼせばこいつもただじゃ済まない、ってこと。あんたはそれでも良いのかい?」
「それは…」
「無理だよねえ」
からからと笑うと、
「あんたこの女に惚れたもんな?」
ほんのりと紅くなったシンジに、
「あんた、そんだけの顔とモノ持っていて、未だに女知らずとはねえ。信じられないわね」
「毎朝襲ってくる姉がいるもんで」
「ふーん、ブラコンの姉か」
数秒考えていたが、
「あたしと取引しないかい?」
不意に囁きかけた。
「取引?」
「出て行ってやってもいいよ、この中から」
「ほっ、本当に?」
「悪魔は嘘は言わないさ。ただし」
「ただし?」
「ただでって訳には行かないわねえ」
「じ、じゃあ何を」
一目でレイに惚れ込んだらしいシンジの顔を見て、悪魔の心に何が浮かんだのか、にっと笑った。
「そうねえ、あたしにしようかしら」
「え?」
「あたしをそう…五回いかせてくれたらね」
「ええー!?」
さっきあれだけしておいて、と言いかけたシンジの目の前で、ちっちっと2本の指を振って見せた。
何時の間にか、術が解かれた事にも気が付かず呆然としているシンジに、
「あんたはこの身体を抱けるし、それに依頼も出来て一石二鳥。こんな良い事はないじゃないの。ね?」
ね?の部分だけ、レイと同じ口調で呼びかけると、早速シンジの服に手を掛けた。
「じゃ、取り合えず一回目」
慌ててシンジが逃げようとした瞬間、
「やめてっ!」
同じ口から出た言葉に、思わずシンジが固まった。
「さっきから勝手な事ばっかり。私は、あなたの人形じゃないもの」
「あ、綾波さん!?」
「碇さん、ごめんなさい。今、この女を押し込めるから」
「はんっ、冗談じゃないわよっ。今までいい思いしてきたのに、今になってあんたの都合に左右されてたまるもんかっ」
「それは私の台詞よっ。あなたみたいな淫乱に碇さんを好きなようにはさせないわっ」
次の瞬間、甲高い平手打ちの音がした−レイの頬で、ただし打ったのもレイの手。
「たかが人間の分際で、このあたしに…いたっ」
今度は反対側の頬が鳴ったのだ。ただし、今度も打ったのはレイの手である。
レイの左右の手ががっしりと組み合い、力比べを始めたのを、シンジはやや呆然として見ていた。
(これはつまり)
内心で呟いたシンジは、現在の状況を計算していた。つまり、このままではレイの肢体が危ない、と。
どうやら身体を二分して争っているらしいが、どっちが勝っても身体に後遺が残る可能性がある。となれば、シンジの選択は一つ。
「ちょっと待って」
組み合っている手に、そっと触れたのだ。
「『何?』」
一つの口から出る不協和音は、まるでウーハーから出るかのように聞こえた。
「憑かれた綾波さんを助けるのは、僕の役目です。お二人で喧嘩されても困ります」
奇怪な事を言い出したシンジだが、さも困ったように言うのでレイも突っ込む気が失せたのか、組み合っていた手がすっと離れた。
「ふん、しょうがないわね」
出た言葉は魔の物であった。
「あんたを困らせても得しないし…いいわ、出てやるわよ」
「本当に?」
「本当よ。ただし、約束は守ってもらうわよ」
「はあ…」
「だ、駄目っ!」
今度はレイが叫びかけたが、
「あんたは黙ってな」
ついさっき、シンジに向けたのと同じような口調で言われ、一瞬レイも怯む。
「別にあたしはいいんだよ。あんたごと始末されてもね」
冷たい口調で言った後、にやっと笑い、
「でもこの子があんたに惚れてるらしいからねえ」
その言葉に、二人の頬がぽっと染まる。どうやら両想いだったらしい。
だが次の瞬間、シンジの目がかっと見開かれた。
レイは立ち上がると、はらりと衣服を落としたのだ。いや、それだけならシンジもさして驚きはしなかっただろう。一糸纏わぬ白い裸身を晒した、と思った刹那それは分離し始めたのだ。
まるで、コンピューターのエラーでキャラが二人できた。そんな感じであった。
本来のレイの顔が、苦痛のためか僅かに歪み、その顔がまるで裂けるように横に広がっていく。
綾波レイと同じ、だがどこか違う見事な裸身が横に並ぶのを、シンジは唖然として見ていた。分裂した後の方が、何となく邪悪な印象を受けるのだが、なんとなくシンジは違和感を感じていた。
「あ」
と呟いたシンジの視線は、その黒髪に向けられていた。プロポーションは同じ、そしてその赤瞳も。だが、分裂した後の方は、漆黒の髪だったのだ。
「“初めまして”、よねえ」
髪が黒いレイはにこりと笑った。何故か邪気のない笑みに、思わずシンジが引き込まれかけた時、その横の赤瞳が灼熱の視線で睨んでいるのに気付き、慌てて視線を逸らす。
分裂の影響なのか、全身が油でも塗ったように濡れ光っている女に、
「あの、名前は?」
と聞いてから、我ながら間抜けだと内心で笑った。
「瑠梨(るり)、でいいわ」
「はあ」
やや間抜けに頷いたシンジの腕を、瑠璃はねっとりと包んだ。
「私は約束を守ったわ」
甘ったるい声で言うと、全裸のまま熱い吐息をシンジに吹きかける。シンジの耳が赤くなるのを愉しむように見ながら、
「魔との約定、違えはしないだろうね」
急にドスの効いた声で、威嚇するように言った。
「はあ、一応…」
シンジに取ってはかなり屈辱なのだが、これも仕事の一環だと諦める事にした。
「じゃ、決まりね」
相好を崩したが、ふと周りを見回し、
「ここじゃ場所が悪いわね」
と呟いた。確かに瑠璃が言った通り、寝台の周りはぐるりと結界が囲んでおり、あまりムードがあるとは言えない。もっとも、この中でシンジは頂かれてしまったのだが。
「じゃ、行くよ」
レイを気にするシンジなど意識にないのか、さっさと服を身に着けると、シンジの腕を取って出て行こうとする後姿へ、
「ま、待って…」
か細い声で呼んだのは、無論レイである。
「あんたの望み通り出てやったんだ、文句ないだろ」
意地悪く言う瑠璃を他所に、
「い、碇さん私も…」
潤んだ瞳で見つめられどうして断れよう、シンジは一も二もなく頷いた。
無論瑠璃が頷く筈もなく、
「こら人間、あたしはどうするのよ」
「あなたとはその…ご、五回の約束です。その後は…」
言ってて恥ずかしいのか、顔を紅くしているシンジ。初心(うぶ)な感じのシンジなど、サッキュバスの瑠璃に取っては、文字通り子供のようであったろう。
だが、
「あなたは五回で用済み。その後は私が…た、沢山してもらうの」
レイの挑発するような言葉で、気が変わったらしい。
「ふん、いいよついてきな」
不敵な顔でにやりと笑う。
その反応が以外だったのか、え?と言うような顔のレイへ、
「体が同じでも、全然違うって事教えてやるよ。二度とあたしから離れられない身体にしてあげる」
最後の言葉はシンジに向けた物である。その証拠に瑠璃は剥き出しの腕を、一層強くシンジに絡めたのだ。レイの眉がきっと上がると、全裸のままシンジに駆け寄り、反対側の腕を強く胸に押し付ける。
「と、取り合えず着替えてもらえると、その…」
言われて自分の格好に気が付いたらしく、白磁のような顔がすうっと紅くなった。
慌てて服を着ると、まるでシンジが連れて行かれるかのように、ぎゅっとシンジの腕を取る。瑠璃とレイの視線が宙でぶつかり、その影響を受けるかのように両腕を強く掴まれたシンジは、内心で少しだけ顔をしかめた。
さてその晩の事。
「少し飲みすぎたかしら」
雇用主を付き合わせ、さんざんハシゴした後で帰宅したアスカが、依頼人(クライアント)である二人と部屋で会ったのは、夜11時を回った頃であった−ただし、シンジの体の上で。
少しだけ顔を向け、すぐまたシンジに甘え始めた二人を見て、アスカが爆発したのは言うまでもなく、そして何故か、大家であるマユミの元にクレームが殺到したのは、それから数十分後の事であった。
その数日後から、
「こらっシンジ、起きなさいよっ」
と今まで通りにすべく、アスカは少しだけ早く行く事になった。
なぜなら。
「ね、碇君起きて」
「さっさと起きないと食っちまうぞ」
少し様は異なるが、髪以外見分けの付かない二人が、ごろごろと甘えながらシンジを起こしに掛かっているから。
なお。
「綾波レイ?ああ、僕の母方の従妹だ。妾腹なんでうちの企業には入っていないけどね。たまに会うよ、食事もするし。結構仲良いのさ」
とある巨大財閥の会長は、その後二週間ほどの間、秘書と会う度に強烈な肘打ちを食らったと言うのだがさて。
(終)
R「碇君がこんなのって、珍しいわね」
U「G・Bとは別にしたかったし。で、お嫌?」
R「…別にいいわ、食べられたし」
U「それが基準なの?」
R「それ以外に何があるの?心とか言うつもり?」
U「あ、いえ…」
R「ならいいわ」
U「はい…」

