妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第五十九話:水の行方に見る民族性の考察
 
 
 
 
 
「完全に砕けたか。ここまでされると見事としか言えんな」
 一撃で砕かれた鼻骨にガーゼを貼り、キサカは鏡を眺めていた。
 カガリが茶坊主扱いされ、対等にどころか幼児程度にしか見られていないのは、サイーブもキサカも分かっていた。そしてザフト軍を追っかけようとしたカガリに、足手まといになるから行くなと言っていた事も、無論キサカは知っている。
 だが、キサカを殴り飛ばしたシンジだが、サイーブは無論カガリにも何も言わなかった。無謀だとも気が済んだかとも言わず、黙って引き返していったのだ。
 出撃前、心情に理解を示すような事をシンジは言っていた。おそらく、追ってきたのはシンジの独断だろう。マリューが艦長権限で行かせたのなら、生身などでは行かせずMSを来させた筈だ。
 無駄と分かっていても、そのままでは退けぬプライドを理解したからそのまま行かせ――その思いが通じる男だからこそ生身でMSに立ち向かうという、一見すると暴挙に見える行動に出たのだ。
 だが結果的には、シンジのおかげで壊滅を免れた。シンジが来なかったら、あと五分で追っ手は全員地に躯を晒していたのは間違いない。
 ウズミからは少々危険な目に遭わせても良いから、世間という物を学ばせてやってくれと言われている。
 ただしそれを明かした場合、
「お前の少々は基準が間違ってる」
 と言われるのは確実なところだ。
 その正体は不明だが、素手ではないとは言え生身でバクゥを始末でき、しかも艦内では艦長と信頼関係にあるような青年が、ガイアを担いでオーブへ来るという。それはサイーブから聞かされた情報だが、キサカはこの時点でシュラク隊がオーブへ襲来した事を知らない。
 それが吉と出るのか凶と出るのか、宙を見上げて考え込んでいたキサカだが、シンジとシュラク隊にこれまた繋がりがあると知ったら、その懊悩は一層深くなったに違いない。
 
 
  
「……」
 息子の遺体の横にうずくまり、ただ顔を覆っている母親の横で、シンジは黙って立っていた。遺体はカガリ達が持ってきたのだが、帰らぬ人となった息子を見た母親は、何も言わずに遺体の横にかがみ込んだ。
 止めるべきであったのか、と言えば今でも答えはノー、だ。果たしうるだけの実力があろうとも、一番厄介なG機を討たぬシンジの精神(こころ)を、ナタルが決して理解できないのと同じである。雲南の地で主従二騎、降魔の大群に突っ込んだ時だってシンジに絶対の勝算があったわけではない。万一、と言う事は十分あり得るし、数だけ見れば無謀もいいところだ。
 数ではなく思いの為に、そして後に残る何かの為に挑む戦いがある事をシンジは十分承知していた。だからこそ勝手にしろとか、罵倒する事もなく彼らを見送ったのであり、その思いに今も変わりはない。
 ただ、息子を失った母の思いはまた別の話である。しかも、出て行った連中は壊滅的な打撃を受けたが、遺体が帰ってきたのはアフメドただ一人なのだ。
 少なくとも夫や息子を、或いは父親を亡くして遺体にも会えぬ他の者達の手前、声を上げて泣く事は出来ない。
「これを…」
 シンジの声に母親がゆっくりと振り返る。
 その双眸は――真っ赤になっていた。
「出撃前、アフメド少年から渡された。自分はきっと戦士になる、でもそれまではカガリを守ってほしいと私に」
「あの子が…これを…」
「戻って来れなかったら渡せないからと発つ前に渡していった。戦士の思いだが…ご母堂にはご子息の遺品だ。お返ししておく」
 シンジの言葉に、母親はとうとう泣き崩れた。死を覚悟して言った息子の言葉を聞かされ、必死に張りつめていた糸が切れてしまったのだ。母親を泣かせたと、シンジに非難めいた眼差しを向ける女達もいたが、男達は皆顔を背けていた。同じ男として少年の意気も、シンジの心も理解できる。
 ましてシンジは焼け出された者達に温泉を手配し、水の心配までもしてくれたのだ。感謝しこそすれ、恨みや非難の眼差しを向ける事は、男として彼らには出来なかった。
「ありが…ありがとうございます…」
 大粒の涙を流しながら石を受け取った母親に、シンジは黙礼して背を向けた。
「シンジ君…」
「ん、ああ」
 マリューの声に、シンジは軽く片手を挙げた。
「お疲れ様、シンジ君。怪我はない?」
「あの程度の相手に怪我などしたら経験が三百下がるよ。で、連中は?」
「お風呂で、だいぶ暖まったみたいよ。なんかね…」
 シンジの耳元に口を寄せて、
(ある意味燃えちゃった方が生活は向上したみたい)
「ほう…」
(だってほら、今までは水を買っていたみたいなのよ。少なくとも水を心配する必要は無くなって、それだけでも大きな発展でしょ)
「砂漠の子豚も、少しは良い事したという事か」
「『……』」
 シンジの言葉に何人かが反応してこちらを見たが、睨んではこなかった。
 そこへ、
「その通りだが、あまり大きな声で言ってくれるなイカリの大将」
「サイーブ、お前もボサボサの頭を何とかしてこい。住人達はおおかた入ったのだろう」
「まだ全員じゃないからな。俺だけが真っ先に湯へ飛び込む訳にもいくまい。だがおかげで助かった。重ね重ね世話になるな…すまない」
 頭を下げたサイーブだが、その表情がどこか硬く見えるとシンジも気付かなかった。単に、被害の大きさに今更ショックを受けたのだろうと思ったのみである。
「サイーブさん」
「ん?」
「シンジ君、そんなにすごかったの?」
「すごい、なんてもんじゃねーな。無論素手で殴った訳じゃねーが、砂を操ってバクゥを全く寄せ付けず、バクゥは砂の像に追い回されっぱなしだったんだ。武器を持たずにMSを倒した奴を見るのは、俺の人生でも初めてだ。あんたが惚れ惚れするのもよく分かるぜ」
「べっ、別に私はっ…」
 赤くなったマリューが、
「そ、そんな感情で接してる訳じゃないわ。私はその…た、ただ…」
「おいおい」
「…え?」
「イカリの大将の能力に惚れ込んだからMSを任せて、今日だってMS無しで行かせたんだろう?別に能力も買ってないし、死んだらそれまでと思って行かせたのか?だったら俺達がもらっとくが」
「そ、それは勿論シンジ君は信頼してるし…そ、そう言う意味では惚れてるわよ勿論っ!た、ただあなたが…」
「どういう意味だと思ったんだ?ああ…イテ!」
 怪しく笑ったサイーブが悲鳴を上げた。
 無論、マリューが思いきり踏んづけたのだ。踏んづけて、さらにぐりぐりと捻ってからシンジを見ると、久しぶりに風呂に入ったのかさっぱりした顔になっている幼女の頭を撫でている。
「お話は終わった?」
「え、ええ…お、終わったわ」
「そ。それでサイーブ、住民達の数が少し減ったようだが何処へ?温泉へ行ったにしては多すぎるように見えるが」
「ああ」
 サイーブは仲間達に視線を向け、
「本当の意味で住む家を失った連中ってのは、そう多くはない。それこそ、天涯孤独って奴らでな。後は、他の街に一応親戚や友人がいる。だからみんな、イカリの大将には感謝してるんだよ」
「何故?」
「水さ。見ての通りこの辺は砂漠地帯でな、水ってのは文字通り命に直結する。今までは、バナディーヤの悪徳商人から高値で買わされていた。そんなところへ家を失った親戚だの友人だのが転がり込んできたら、迷惑する事この上ない訳だが――」
 何故か言葉を切ったサイーブに、マリューとシンジは顔を見合わせた。
(?)
「水を街の…タッシルの連中が掘り出した事にしたんだ。すまん!」
「何ですって?シンジ君が苦労して…もご?」
 シンジがマリューの唇に、そっと指で触れた。
「姉御、まーた人の話聞いてなかったろ。水がない時は掘るか造るか、そのどちらかだと――」
 耳元に口を寄せ、
(一緒に入った時に教えたろ)
「!!」
 かーっと、マリューが首筋まで赤く染め、急にもじもじし始めた女艦長を、周囲の女達が怪訝な視線で眺める。
「別に苦労した訳じゃないが、お前に掘削許可を願い出て了承された訳ではない。住人が掘った事にした、と事後承諾で言われてもちと首を傾げる訳だが」
「!?」
 お尻を抉られ、あまつさえミルクさえ噴いて失神してしまった事を思い出し、赤面しながら指先を絡めていたマリューがふと気付くと、住民達に囲まれているのに気が付いた。マリューの手が反射的に懐中へ伸びたのだが、輪の向こうではまりなが機銃を構えていた事にマリューは気付いていない。
 暴動でも起きるのかと思われた次の瞬間、住民達は一斉に頭を下げた。老若男女を問わず、シンジに向かって同時に深々と頭を下げる姿は異様に見える。
「……」
 シンジは表情を変える事無く彼らを眺めていたが、
「そう言う事か、読めた」
 とそれだけ呟いた。
「えーと…シンジ君?」
「水は相当高値らしい。そんな中で焼け出された連中が転がり込んでくれば、食い扶持と水を減らす荷物にしかならん。だが喉から出た手が、わきわきと勝手に動きそうな位に欲しい水をもたらしたらどうなる?ふらっとやって来た客人が掘ったと言えば、なら共有だから大きな顔をするな、と言われるだろうが、この街の住人が掘った事にすれば、嫌がられるどころか諸手を挙げて歓迎されよう。了解?」
「あっ…り、了解…」
 確かに好きなように使える水というのは、砂漠の民に取ってある意味黄金よりも大きな財産だろう。それを手みやげにすれば、焼け出された者達が、何処かへ身を寄せるのに不利な立場にはなるまいと、おそらくは苦渋の決断だったのだろう。
 宇宙で、水を得る為に死人を乗せた沈没船を漁る事を余儀なくされたマリューには、彼らの気持ちがよく分かる。とは言えシンジに相談もなく、しかも事後通告のようなやり方であり、そんなにシンジが信頼できないのかと、マリューの視線が少々きつくなったのはやむを得まい。
「ボス、いわゆる親玉はサイーブだが」
 シンジはゆっくりとした口調で言った。
「そのサイーブが出てから水の事は伝えた。それに帰投はほぼ同じ時刻だったから、サイーブが一存で決めたという事は有り得ない」
「……」
「シンジ君どういう事なの?」
「誰かは知らんが少し知恵の回る奴が決めたのだろう。何処の誰だか知らないが地球軍の奴に遠慮など要らん、俺達が掘った事にしてしまおうぜ、と。戻ってきてそれを知らされたサイーブは仰天した。だが既にそれを手土産にして発った者が居る以上、打ち消して回る訳にもいかん。だから自分がかぶった――私に討たれる事も覚悟して」
「そんな…」
「私も随分と甘く見られたものだ。砂漠では時に命以上の価値を持つ水を、一言の断りもなく所有権移動され、その上何も出来まいとたかをくくられるとは」
 まるで掌を指すように的確に分析され、住民達の顔から血の気が引いていく。タッシルの住民以外は自分の街に戻った事をこれ幸いと、掘削した水を自分達の手柄にしようと企んだのだ。焼け出された者しかいないから、真実をばらして墓穴を掘る者はいるまいと――打ち合わせたのは何れもシンジの実力を知らぬ者達であった。
 戻ってきたサイーブはそれを聞いて蒼白になったが、どうせバクゥに一度は討たれたような身だし、自分の命と引き替えになるならと悲壮な決意を固めたのだが、そんな事までシンジはぴたりと言い当てていた。
「ち、違うっ!!街の連中は関係ない。これは、これは俺が一人で勝手に決めた事だ!帰る途中でイカリの大将が水を掘ってくれたと連絡を受け、これは使えると…俺が独断で決めたんだ!」
「サイーブ、必死だな。必死に庇うのは構わんが、私が全員始末する気になったらどうするつもりだ?」
「!!」
 住人達の顔が一斉に強張る。一発も浴びることなくバクゥを、それも生身で倒した壮絶な戦い方を直接見て、或いは聞かされてしまった今、銃やナイフに手を伸ばす気力は残っていなかった。
 その光景を見て駆け出そうとしたカガリだが、キサカに襟首を掴まれて激しく咳き込んだ。
「おやめなさい。あなたが行けば事態は悪化するだけです」
 その通りだ。カガリの呼称は、未だに茶坊主から昇格してはいないのだ。
「まあいい」
 シンジの口調はどこか冷たいものが混ざっていた。
「テロ集団を皆殺しにしたところで、別にどうなるものでもない。元より手柄などと思っていないものを、勝手に持って行かれたとて影響はない。とはいえ――」
 住民達を見回し、
「怪我人を癒し、湯や水を供給しても自分達の手柄にされ、あまつさえ何ら一言の相談も無しとは…随分と義理人情に厚い戦士達だ。さすがに砂漠のレジスタンスは人間味が違うと見える。碇シンジの湯、と立て札をせねば使用を許可せぬような、そんな狭量で嫌味な男に見えたらしい。別に今更返せとも言わないし、親玉を炎上させる事もしなから好きにするといい」
 シンジの口から、初めてレジスタンスという呼称が出た――この上ない皮肉を乗せて。
「『……』」
 国民が、水と平和は無料(タダ)だと思っているようなオーブならいざ知らず、砂漠に於ける水というのは血で血を洗う抗争を容易く引き起こすものだし、だからこそ焼け出された者達も大きな顔で知り合いの家に身を寄せられたのだ。
 アークエンジェルが去った、乃至はシンジが行方不明にでもなったのならまだしも、バクゥに自走砲で立ち向かった仲間達を回収しに行った最中にその仕打ちとは、恩を仇で返したついでにヘドロを顔にぶつけるに等しい。
 その帰りを待つ、というだけの事が何故出来なかったのか。
 悪いが俺達の手柄にと頼めば、シンジは二つ返事で快諾したろう。嫌がらせで拒むようなら、どうして温泉や水などを供給したりするものか。
「艦長、帰ろっか」
「…ええ、そうね」
 シンジの声はもういつもの物に戻っていたが、それに反比例するかのように、マリューの声は凍てついた冷気さえ帯びていた。
 ただ、それ以上言葉を投げつける事はせず、肩を並べたシンジと肩を並べて歩き出した。
 無言で歩いていたシンジだが、機銃を手にしているまりなを見てその表情がふっと緩んだ。
「法条」
「はい?」
「機銃は止せ。ゾンビに襲われた場合はナイフか拳銃がいい。機銃じゃ接近戦には向かないぞ」
「でもあ――」
「私と艦長なら心配要らん。指一本触れられぬよ。それと、法条は自分の身よりも亀頭を守っていてくれ。こんな所で逆上したテロリスト共に傷など負わされたら、どこぞで無事らしい親御さんに合わせる顔がない」
「碇さん…」
 自分を優先にと言われ、ちょっと感動した面持ちのカズィと、
(自分の身よりも…ん!?)
 十秒程経ってから、ろくでもない事を言われたと気付いたまりながいた。
「バスカーク二等兵」
「…え、あ、はいっ」
 目の前にいながら反応が遅れたのは、マリューを無視した訳ではない。一瞬他人の事かと思ったのだ。
 無論――亀頭とばかり呼ばれていたせいである。
「帰艦の用意を」
「はっ!」
 バーディ達にも、
「あなた達も戻るわよ。物資をまとめて引き上げる用意を」
「『了解』」
 マリュー程冷たい怒りに覆われてはいなかったが、こんな事されたら多分引き上げるわねと、ヒソヒソと話し合っていたところである。そこへもってきての命令だったから、手際よくさっさと荷物をとりまとめ、スカイグラスパーとジープに分乗し、痕跡を全く残さずに引き上げていった。
 
 
 
「えー?それで温泉も水もあんな奴らにあげて帰って来ちゃったの!?」
「まあ早く言えばそうなる」
「遅く言っても同じよ!私もレコアさんもまだ入っていないのにどうしてくれるの!」
 腰に手を当ててぷりぷりしているミーアに、
「まあそう怒るな。また考えるよ」
「まったくもう…碇様はお人好し過ぎますわ」
「本当にそう思うか?」
「え?」
「ミーアは素直な良い子だな」
 うっすらと笑ってミーアの頭を撫でたシンジだが、それはどう見ても子供にするようなものであり、
「もー、私の事子供扱いしてるでしょ!」
 ミーアがすぐに気付いた。
「流れを考えてみれば分かる事だ。元々タッシルは何故焼かれた」
「それは…先回の戦闘でテロ集団がザフトを攻撃したからでしょ?」
「その通り。戦果はヘリ一機だったにもかかわらず、街が丸ごと焼かれたのだ。今回バクゥを始末したのは私だが、原因は連中がザフトを襲った事にある。つまり――」
 言葉を切ったシンジがミーアをじっと見る。答えが分かるかと訊いているのだ。
「えーとあの…ちょ、ちょっと待ってね」
 可愛い顔をちょこんと傾げてミーアが考え込む。
「またザフトが仕返しに来るっていう事?」
「つまり?」
「え?」
 それだけでは足りないらしい。
「分からない?」
「う、うん…」
 ミーアの頬を軽くつつき、
「あのテロ集団は、幾つかの街から来ているらしい。だが、ザフトの連中からすれば他の街を焼いた場合、テロ集団はあしらってもまた私にMSを破壊されてはかなわんから、迂闊に街焼きにも来れまい。だが、アークエンジェルがここから離脱したらどうなる?縁が切れた、と知ってなお仕返しを諦めると思うか?」
「!!」
 今回の戦闘で、アークエンジェルと<明けの砂漠>が組んでいる、或いはそれに近い関係と言うことは敵も知ったろう。無論両方とも敵だが、まとめて相手にするのは分が悪い。
 さてどっちから片付けるか、と考えている所にアークエンジェルがここを離脱すれば、砂漠の虎が――やっと虎になって猛然と牙をむいてこよう。自分達を救い、命の水まで供給したシンジを出し抜いてまで、身を寄せる先は確保した。
 だがそれは、天秤の片方に街そのものを載せたも同然の行為だ、とシンジは言っているのだ。
「碇様って…」
「何?」
「怖い方ですのね」
「知らなかったのか?さてと、艦長にさっさと移動するように進言してくるか」
 がしかし。
「まだ怒ってるの?姉御らしくもない」
 マリューの部屋に押し入り、最初に出た台詞はそれであった。
「私の事じゃないからよ。確かに自信はあったかもしれないけれど、MSにも乗らず生身の人間が助けに行って、しかも水源まであげてこのやり口は…また姉御って言わなかった?」
「そう?」
 ひょいとマリューを抱き上げて、ベッドの上に軽く投げ出す。
「あんっ、ご、誤魔化されないんだからっ」
「特殊なんだよ」
「え?」
 マリューの横に腰を下ろしたシンジが、その髪に指をかけて軽く梳く。
「確かに私は、姉と声が瓜二つというだけの理由でマリューを救った。とは言え、その時点で私が異世界の者だという証明は何もなく、単に私がそう言っていたに過ぎない。しかも、もう少しで私に討たれるところだった」
「……」
 キラ達に銃を向けたマリューは、ステラが止めなければ間違いなくこの世の者ではなくなっていた。
 あの時の事を思い出したのか、マリューが唇を噛んだ。
「最初からずっと良好だった訳ではない――こんな風には」
 シンジの指がマリューの髪を軽くかき回すと、漸くその表情が緩んだ。
「だがマリューは常に私を信じてくれた。私に任せてくれた。それも、素性すら分からぬ私とコーディネーターであるヤマトに。そんな度量をたかがテロリスト風情に求めるのは、やはり高望みだろう。無理なことを期待しても所詮は…なに?」
 マリューが緩く首を振った。
「信じても大丈夫、と私の勘が告げたからそうしたのよ。単に度量だけじゃないわ。私の勘は、ちゃんと当たったでしょ?」
「マリューのくせに生意気」
 頬に一つ口づけして、シンジがゆっくりと立ち上がった。
「おそらく連中は、まず人を疑うことから始めて…そうやって自分達を守ってきたのだろう。私の気が変わり、自分達の手柄にしたいと言った途端地中深く沈めないとも限らない――バクゥのように。だが先にやってしまえば、仮に後から告げた時に赫怒するような事があっても、既に発った連中は少なくとも救われる。連中なりの保険のつもりだったのだろう」
「…ずるい事に掛けてはプロ級ね」
「気に入らぬ政府に対しては刃向かう、それを理念としてきた連中並みの生き残り策だよ。ろくでもない、と蔑んでも始まらない」
「シンジ君がそれでいいならいいけど…」
「いいよ、別に。何よりも、連中には現在の状態で我々に去られては困る理由がある。そのままにも出来ないから、向こうからやって来る」
「そうなの?」
「そう」
 短いがはっきりと断言して、
「今日は子守や現場の指揮で疲れたでしょ、ゆっくり休んで?俺のトラップは相変わらず動作中だし、特に心配は要らないから」
「いいの?」
「大丈夫」
「じゃあお言葉に甘えて、と言いたいけど…」
「けど?」
「ひ、一人じゃ眠れない気がするんだけどな〜…誰か一緒にいてくれないかな〜」
 妖しい視線をシンジにちらちらと向ける。
「はいはい。フラガがバジルールをたたき起こしたから、今日は艦橋にいた筈だ。報告だけ聞いたらまた来てあげるから」
「…ほんとに?」
「ん」
「じゃ…待ってる」
 部屋を出たシンジが艦橋に入ろうとした寸前、左右からぎゅっと抱きつかれた。
「『おかえりっ』」
 抱きついてきたキラとステラの頭を撫でて、
「ん。二人とも良い子にしていた?」
「『勿論!』」
「それは何よりだ。じゃ、ご褒美あげないとね。明日、一緒に買い物へ行くか?」
「お兄ちゃん…」「行くっ!」
「ミーアはもう出たくないだろうし、ミーア一人で留守番していてもらうとしよう。バジルールに話があるから、二人は待っていて」
「『一緒に行く』」
「邪魔はするなよ?」
 親にしがみつくほ乳類みたいにくっついてくる二人をぶら下げたまま、シンジが艦橋に入るといたのはナタル一人で、何やら書類を読んでいた。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
 立ち上がって敬礼したナタルにシンジも返す。
 が、ナタルと二人の間で一瞬火花が散ったことに、シンジは気づかなかった。
「今日艦内に異常は?」
「いえ、ありません」
「物好きな敵が罠に掛かりに来てくれたりは?」
「いえ」
「そうか。試す機会は無かったか。明日はミーアとレコアを艦内に置いておくから、バジルールも街へ行ってくるといい。こもってばかりだと、身体にもあまり良くはあるまい」
「いえ私は…」
「無理にとは言わぬから、気が向いたら行くがいい。ところでバジルール、一つ訊きたい事がある」
「何でしょうか」
「私が今日、物好きなテロ集団を回収に行った情報は入っていたな?」
「ええ」
「スカイグラスパーは一機を使用したが、もう一機は残っていた。まさかとは思うが、私の救援などと称して出撃を願い出た者は居なかったろうな」
 びくうっ!
 キラとステラの肩が一瞬激しく揺れたが、幸いシンジの後ろにいたおかげでシンジには気づかれなかった。
「出撃志願…でありますか」
「そうだ。全て、と言うわけにはいかないが、この砂漠ではMSに乗るより単身の方が遙かに有利で楽だ。ヤマトとステラは問題ないだろうが、或いは他の連中の中に現状を理解できずに出撃を願い出た者がいなかったか、と思ってな」
 ナタルが視線の端に小娘達を捉えるが、さっきとは違いもうこちらを見ることも出来ずにいる。
「それでしたら――」
 ガクガクガタガタブルブル。
 途中で言葉を切ったナタルに、二人はもう生きた心地もしなかった。ここで自分達の名前が出たら、シンジがどんな反応をするかなど怖くて想像も出来ずにいる。
 がしかし。
「一応フラガ少佐にもお尋ねになって下さい」
「フラガに?」
「私は一日中いたわけではありませんから。ただ、私のいる間に志願者はありませんでした」
(えっ…!?)
 信じられない言葉に二人は耳を疑った。
 だが、
「そうか、バジルールのいる時はいなかったか」
 やはり空耳ではなかった。
(でもどうして…)
「邪魔したな。バジルール、一人で不寝番はするなよ」
「ええ、分かっています」
「さて行く…ん?」
 ふと妙な気配に後ろを見ると、キラとステラの足が止まっている。
「どうかしたか?」
「い、いえあの…」「ちょ、ちょっと点検…すぐに行きますからっ」
「分かった」
 シンジの姿が消えてから、
「『あ、あの…』」
「何だ」
「『あ、ありがとうございましたっ』」
 勢いよく頭を下げた二人に、
「勘違いするな。お前達の為にしたわけではない」
「え?」
「あの反応は、最初からある程度予測できていた。生身で行くというのはそれなりに根拠があっての事、となればそれに反した行動を取る愚か者を決して褒めはしないだろう。あそこまでの反応をされるとは思わなかったがな」
「『……』」
「冷たくされでもしたら、またお前達の精神に悪影響が出て機体の操縦に支障が出るだろうが。お前達に教えておいてやる。お前達はまだ子供だ、想いというものが分かっていない。少なくとも、想い人の思考くらいは知る努力をしておけ。特にキラ・ヤマト」
 お前が言うな、とシンジが聞いたら間違いなくツッコミを入れるだろう。
「は、はいっ」
「いい加減にその甘い思考は捨てろ。お前は自分の弱さの為に、想い人に死を強いる気か?」
 えらい言われようだが、最大の危機を庇われてしまっただけに何も言えない。
 しかも正論である。
「……」
 キラが俯いたところへ、
「…よりによってお前達だったか」
 ドアが開き、にゅうとシンジの顔が伸びてきた。
「おっ、お兄ちゃんっ!?」「シ、シ、シンジさんこっ、これはそのっちがっ…」
「二人ともお仕置き」
「『はうぅっ…』」
 一瞬でどん底に突き落としてから、
「バジルールに想いを解説される、とは。医者が標榜科目以外を偉そうに診察するのとえらくかわらん。想いよりも先に雰囲気と危険を察知する事を学んでおかないと、寿命がざくざく縮んでいくぞ?」
 伸びた首はさっと引っ込み、追いすがろうとした二人の前で無情にも閉じてしまった。
 その晩一部――急転直下淋しい一日が決定したとある二人――を除き、艦内は平和な夜を過ごしていた。
 マリューは、約束通り戻ってきたシンジの胸元に顔を寄せてすやすやと寝息を立てていたし、その他の者も久方ぶりにのんびりした日が二日続き、それぞれの部屋で安眠を貪っていた。タッシルが焼かれようと、この艦への実質的影響は無かったのだ。
 だが夜の一時を回った頃、人影が一つマリューの部屋の前に立った。
 何やら思い詰めた様子で鍵を開け、するりと中に忍び込む。ベッドにシンジの姿はない。寝付いたマリューの髪を弄っていたのだが、自分に睡魔が寄ってこないので月光を浴びに行ったのだ。
 枕元に立ち、マリューの顔を見下ろした双眸には危険な光が宿っていた。躊躇うことなくマリューの胸元へ手を突っ込んだ。
「無い…」
 昏い声で呟き、更に身体をまさぐろうとしたその手が掴まれ、次の瞬間頬が鳴った。
「…どういう事かしらナタル」
 それには答えず、
「返して頂きます。あれはどこにあるのです」
「あれ?返せ?人の部屋に侵入して身体を触っておいてその言いぐ…あっ」
 言いかけた身体がベッドから落ちた。
 ナタルが飛びかかったのだ。
「力ずくでも白状させるっ」
「つっ、やってみなさいよっ」
 何をしに来たのかなど知らないが、シンジと添い寝して良い夢を見ていたのにいきなり身体をまさぐられ、マリューの機嫌は一気に悪化していた。真夜中の部屋で、マリューとナタルが上下になって取っ組み合う。
 暗い室内に女二人の荒い吐息とつかみ合う物音だけが響き、二人は取っ組み合ったまま声も出さずに転がり回ったが、とうとうナタルが上になった。寝込みを襲われた為、どうしてもマリューの方が分が悪い。
「言いなさい、あれはどこにあるっ?」
「あれって何の事よっ」
「未だしらを切って…そっちがその気ならっ…!」
 振り上げた手が、宙でがっしりと掴まれた。
「艦長に夜ばい?でもちょっと荒っぽいんじゃないかしら」
 立っていたのは呆れ顔のレコアと――死の鎌を振り上げた死神を背後に控えたシンジであった。
「その首落とす前に聞いておいてやる。どういうつも――」
 シンジの言葉は最後まで続かなかった。
「私が言った事、本気にしちゃったんだ?」
 ひょっこりと顔を出したミーアに三人の――ナタル除く――目が点になった。
「だってこの人いきなり銃向けるんだもの、怖いじゃない?」
「『……』」
 
 
 
 
 
(第五十九話 了)

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