妖華−女神館の住人達外伝
 
 
 
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
 
 
 
第二十六話:やな女対決(激闘)
 
 
 
 
 
「ステラ様も出撃を?」
「うん、お兄ちゃんが言ってたから…」
 語尾がおかしいのは、気乗りしないせいではない――腰が抜けて立てないのだ。とろんと蕩けた瞳で宙を見上げており、その視線はぼんやりとして定まっていない。
 どこから見ても感じすぎた後遺症の風情である。
「さっきの口づけは…濃厚でしたわね」
 ミーアの言葉に、ステラの顔がかーっと赤くなる。
「すごく…気持ち良かった…」
「キスは初めてでしたの?」
「うん…」
 こくっと頷いたステラの双眸は、いつの間にかしっとりと濡れてきているが、依然として焦点が定まっていない。
「でもステラ様、ご自分では立てそうにありませんわね。出撃はなさらない方がよろしいのではありませんか?」
「そ、そんな事無いよ。ステラはちゃんと出られるもの」
「それならよろしいのですが…余計な事かも知れませんけれど、格納庫までご一緒させていただきますわ。お邪魔でしょうか?」
「ううん、一緒に来て」
「はい。では行きましょう」
 ミーアが手を差し伸べると、ステラはそれに掴まったが、ふらふらと蹌踉めいた。
「……」
「う、宇宙空間だから不安定なだけっ」
(まだ何も言ってないけど?それにここ、宇宙空間?)
 勝手に墓穴を掘るステラを見て、ミーアは内心で微笑した。
 がしかし。
 やはりまともに歩くことも出来ない。表情と同様、或いはそれ以上に肢体がふにゃふにゃしており、今のステラならミーアでもあっさりと組み伏せることが出来るだろう。言うまでもない事だが、腰に力が入っていない状態で普通に歩くことなど出来る訳もない。
「本当に…甘い毒の口づけでしたのね…」
「そ、そんな事ないもん」
 否定はするが、ぎゅっと握ったミーアの手を決して離そうとはしない。離せばろくに進めないと、自分でも分かっているのだ。
「ね、ステラ様」
「なに?」
「このままでは、もう戦闘が終わって碇様が戻ってこられてしまいますわ。さ、掴まって下さいな」
「え…ミーア?」
 屈み込んだミーアが、こちらに背を向けたのだ。
「可愛くてふにゃふにゃのステラ様は、世話が焼けるけれど…放っておけませんもの。私が背負ってさしあげますわ」
「で、でも…」
「遅れたくはないのでしょう?」
(ミーア?)
 無論ミーアの表情は見えないが、その時一瞬だけミーアが別人になったような気が、ステラにはした。
 気のせいだったろうか。
「じゃ、じゃあ…お願い」
「はい。どうぞ」
 振り向いてにこっと笑った顔は、もういつものものであった。
 中立国の機体を動かす為、中立国の少女兵が敵軍の歌姫に背負われて進んでいく。ある意味、かなりシュールな光景だが、見る者もいなければ止める者もいない。
 今は非常時なのだ。
 
 
 
「ヤマト、宇宙の塵と来たぞ」
「怖いよね?」
「まったくだ」
 うんうんと頷き合いながら、ストライクはイージスの攻撃を軽々とかわす。精一杯、どころか攻撃されている風情すら感じられぬ程だ。
「ね、シンジさんどうしよっか?」
 首筋を這った唇のせいか、その口調はひどく甘えたものになっている。戦闘中、と言うよりケーキに入れる砂糖の分量を恋人に訊く少女、と言った方が遙かに近い。
「後ろに回り込んで羽交い締め」
「はーい――行きます」
 一瞬だけキラの表情が真顔になった。赫怒したアスランが、ビームサーベルを抜いて斬りかかってきた腕を蹴り上げ、体勢を崩したところでいとも簡単に回り込む。
「シンジさん出来た」
「ん。ご褒美はこいつを追い返してからね」
「うん。それで、どうするの?」
「ちょっと待ってろ」
 回線を開き、
「アスラン・ズラ、いやアスラン・ザラ聞こえるか」
「どこまで…どこまで俺を侮辱する気だ、離せっ!」
「敵に捕まってから命乞いか?なかなか優秀な兵士だな」
「うるさいっ、殺すなら殺せ!」
 脳内の神経が数本切れたらしく、完全に逆ギレモードになっている。
「おまえなど殺しても意味がない。到底敵わぬと教える為に逃がす。何度でも向かってくるがいい。そう――決して敵わぬと身体と精神(こころ)に刻み込まれるまでな」
「…な、なんだと…」
(離したらサーベルで右腕を切り落とせ。それでいい)
(はいっ)
「じゃあね、アスラン。あのニコルって言う子の所に行って慰めてもらったら?」
 ちょっぴり意地悪く笑ったキラが、シンジの言う通りイージスを突き放した直後、電光石火でサーベルを抜き、その右腕を切り落とす。
「キ、キラっ…礼は…礼は言わないぞ」
「そんなもの期待していない。さっさと帰れ」
 ぎりっと歯を噛み鳴らしたアスランが、イージスを反転させていく。ただでさえあしらわれていたのに、片腕を落とされた状況では勝ち目などあったものではない。
 
 
 
 
 
「イージス、帰還します!」
 通信兵の声に、ハマーンは綺麗な眉をわずかに寄せた。
「エネルギー切れか?」
「いえ、片腕を切り落とされています」
「帰された、か。キャラ!」
「はっ」
 恭しく一礼したのは、髪を半分から黄色と赤に染めたグラマーな女であった。戦艦に乗っているより、クラブハウスでギターをかき鳴らしている方が遙かに似合いそうだ。
「アスラン・ザラがあの為体では、他の坊や達も期待はできん。あのストライクは私が相手をする。後は頼むぞ」
「ハマーン様が打って出られるのですか」
「秘蔵っ子が腕を落とされて帰ってきては、クルーゼも余計な口は出さぬだろうよ。私でなければ、あの三機など束になっても敵わんのは目に見えている。アスラン・ザラは、血路を開いたのではなくてさっさと戻れと帰されたのだ」
「分かりました。お気を付けて」
 無論、クルーゼはアスランが帰された事を知っている。
「ハマーンが黙ってはいないだろうな。とはいえ、他の三機まで手足を落とされて帰されてはかなわんからな。やむを得まい。アデス、あのストライクはハマーンに任せる。ハマーンの事だ、他の三機は脚付きに取り付かせるだろう。我々はその間に残った連中を片づけるぞ。キュベレイが出次第、前に出る。主砲発射用意!」
「了解!」
 
 
 
 
 
「敵機は…片づいたの?」
「ジンは全滅、イージスは腕を落とされて逃げ帰りました」
「そう」
 報告に、マリューは軽く頷いた。
(シンジ君…逃がしたのね)
 討たなかったのか討てなかったのか位は分かる。大方、さっさと帰れと蹴り飛ばして追い払ったのだろう。
「フラガ大尉は?」
「メビウス帰還します。被弾有り!」
「ストライクの露払いにはなったみたいね。このままナスカ級を討ちます。アークエンジェル前へ!」
 とりあえず危機は去った。後は母艦を始末すれば終わる。一気に片をつけようとしたが、
「艦長!」
「どうしたの」
「後方よりローラシア級接近、モビルスーツ4!」
「何ですって!?」
 アルテミスで振り切った艦が、いつの間にやら合流していたのだろう。一転して追い立てられる立場になったのだ。
「ナスカ級ミサイル発射、ローへ向かって行きます!」
(シンジ君っ!)
 
 
 
 無論、ストライクにいるシンジも後方の異変には気付いていた――キラと妖しく舌を絡め合いながら、だったが。
「残りはナスカ級だけだし…ね、シンジさんもういいでしょ?」
「そうだな。とりあえずアスラン・ザラは出て来られないだろうし、モビルスーツもない。じゃ、ヤマトにはご褒美を」
「うんっ」
 朱を掃いたような唇を可愛く開けてキラが待つ。そこへ唇を重ね、柔く啄んでいく。唇への未知の衝撃に、キラの肩がふるふると揺れる。
 たっぷりと啄んでから、もう一度唇を重ねた。舌を差し入れると、歯は噛み締められていなかった。口内に入ってきた異物に、キラがおずおずと舌を絡みつかせていく。
(なかなか上手だ)
(ほんとに?は、初めてだから…)
 くちゅくちゅと口内を嬲るシンジの舌を、キラは全身を弛緩させて受け入れた。
(くすぐったい感じ…でも何か気持ちいい。これが本当のキスなんだ…)
 少し違うような気もするが、とまれキラに取っては初体験であり、未知の感覚を敏感な全身で愉しんでいるところだ。
 と、シンジが舌を抜いた。
(あ…)
 残念そうな表情をみせたキラに、
「次はヤマトがやって。やり方は分かったろう?」
「え!?あ、あの…や、やってみます」
 小さく頷き、赤く柔らかい唇をシンジの唇に吸い付かせる。少し躊躇いがちにシンジの舌に触れ、もう少し大胆に舌を絡めてみた直後、シンジの肩がぴくっと揺れた。
「シンジさん?」
 キラが見たのは、一転して真顔になったシンジの表情であった。
「…来るな」
「え?」
 キラが小首を傾げるのと、アークエンジェルから通信が入るのとがほぼ同時であった。
「ハウ、何が来た?」
「え?」
「イージスの仲間などとは比較にならないのがいる。誰?」
「わ、分かりません。後方よりローラシア級が接近中、モビルスーツが四機です!」
「…すぐに戻る」
 通信を切ったシンジに、
「あの、何があったんですか?」
「妙に強いのが出てきた。ヤマト、油断しないで」
(シンジさん?)
 イージスどころか、奪われた新型全部を足しても大した事はないと言っていたシンジの顔に、明らかな緊張の色がある。
 キラはまだ何も感じ取っておらず、怪訝な表情で機体を反転させたそこへ、矢のように一機が飛来した。
「来たか」
 見るからに異様な風体の機体が、キラとシンジの前に悠然と立ち塞がった。カラーリングは普通だが、肩の所に大きな羽状の物がついており、それを見たシンジの表情が険しくなる――その場所に強い殺気を感じ取ったのだ。
 通信窓が開き、映し出されたのは一人の女であった。
「私はハマーン・カーン、初めてお目にかかる。うちの坊や達では荷が重いのでね、私がお相手させてもらう」
「ハウが四機出たと言っていたな。後の三機はアークエンジェルか。ち、厄介な」
 ハマーンと名乗った女の機体が、アスラン達などより遙かに上であると、シンジは瞬時に見抜いていた。おそらく、機体の性能をパイロットの腕が更に引き上げている。
 人間増幅器を積んだストライクやガイアと一緒だ。
「碇シンジだ。生憎あの艦は落とさせないと既に決定済でね。キラ、行くよ?」
 はふぅ、とキラの耳元に吐息をふきかけてシンジが囁く。無論、効果を考えてのことだ。
(シンジさん、今キラって呼んでくれた…)
 聞き間違いではあるまい、確かにキラと呼んだのだ。
「シンジさん、行きますっ」
 キラの乙女ゲージがみるみる満ちていき、ストライクが異様な気を帯びていくのをハマーンは眺めていた。
「なるほど、いるだけで同乗者の力を増幅させるのか。どこまでこのキュベレイに抗えるのか、見せてもらう!」
 
 
 
 既にイージス以下三機は、わらわらとアークエンジェルに群がっており、防御システムが懸命に応戦中だ。
 だが三機もいながら決定打を与えられないのは、ひとえにイザークとディアッカのやる気にある。
「おまえ達にストライクは無理だ。今はまだせいぜいあの脚付きレベル、まずは落として見せろ」
 仮にもザフトの赤服を自認する彼らであり、こんな事を言われてはやる気が出ない事夥しい。残るはニコルで、この娘はさほど気にしていないのだが、アークエンジェルなどより腕を落とされたイージスの方がよほど気になっており、結果やる気不足トリオのおかげで何とか防げている状態だ。
「まずいわね…」
 ストライクが足止めされているのを見たマリューは、唇を噛んだ。サーベルを抜いたストライクが猛虎のように襲いかかり、あっさりと敵のサーベルを叩き斬ったまではいいが、敵はサーベルを斬られて敵わぬと見るや後退し、肩口から多数の小型ミサイルを打ちだしたかに見えた直後、拡散したそれらが一斉にビームを吐き出したのだ。
「シンジ君っ!」
 思わず腰を浮かせたマリューだが、ストライクがぎりぎりのところで回避し、ふーっと安堵の息を吐いた。
 そこへ、
「艦長!」
 通信窓にムウの顔が映った。
「何?」
「駄目だ、退却するぞ。このままじゃこっちがやられる。ストライクは戻れん、俺もすぐには出られない。あの三機が本気で突っ込んできたらもたないぞ!」
「却下」
「艦長!」
「この艦の命運はもう、任せてあります。それとも――」
 マリューの目が据わった。
「ストライクが墜とされる事はありえないわ。帰る場所を失わせて、戦場の真ん中に置き去りにしようと言うの」
「それは……」
 ムウが言葉を喪ったところへ、
「パパの…パパの船はどうなっているの!?」
 蹌踉めきながら、フレイがブリッジへと入ってきた。
「今は戦闘中よ、お子様が見物に来る場所じゃないわ。サイ・アーガイル!」
「は、はいっ」
「連れて行って」
「すみませ…!?」
 今度はかわせなかったらしく、護衛艦の一隻が派手に炎上した。
「パパ!」
(あれはモントゴメリじゃなくてローよ。とはいえ…このままナスカ級に討たれた方が楽かもしれないけどね)
 物騒な事を呟いたマリューの脳裏に浮かんだのは、無論シンジを慕って一緒に乗っている少女の姿であった。
(わざわざ撃沈を助けるなど…キラさんの心には負担が大きすぎるわよシンジ君)
 
 
 
「何、この幸せボケでも起こしたような顔の子は?」
「その幸せボケですわ。綾香様、コーヒーを頂けます?」
「いいわよ。セリオすぐに用意して…紅茶でね」
「かしこまりました」
 一般人は部屋で待機している筈だが、綾香とセリオは食堂でのんびりと紅茶を飲んでいた。そこへ、ステラを背負ったミーアが入ってきたのである。
 まともに歩けないから背負って来たのだが、キスの後遺症から立ち直る節がない。これでは出撃しても標的になるだけだと、何か飲ませるべく食堂にやってきたのだ。
「紅茶にブランデー落として飲ませれば、その方が目は覚めるわよ。蕩けるようなキスでもされちゃったわけ…って、当たりみたいね」
「べ、別にいいでしょ」
「責めてはいないけどさ、この中では誰も彼氏がいないのに、一人のろけてるから突っ込みたくなっただけよ…あら?」
 壁のパネルに、ローの轟沈する様が映し出されていた。
「これって、碇の乗る機体はともかく先遣隊が危ないんじゃないの…何よ」
 不意にステラが綾香をを見た。
「…今何て言ったの」
「先遣隊が危ないって言ったのよ。誰が見たってそう思うでしょ、何を怒ってるのよ」
「そんな事はどうでもいい。今、碇って言った。どうして呼び捨てにするの」
「あたしの事だって来栖川って呼ぶんだし、別にいいじゃないの。それとも碇シンジ様、と呼べとか言うつもり?」
「……」
「何よ、言いたい事があるならはっきり言ったら」
 静まりかえった食堂内で、綾香とステラの視線がぶつかって火花を散らす。
「あの、碇様は気にしておられなかったようですし、お二人が争われるのは…」
「この子が勝手に言いがかりを――」「そっちが偉そうに呼び捨て――」
 言い合う二人を分けるように、セリオが静かにカップを置いた。
「紅茶にブランデーを落としたものです。お二人とも、少し落ち着いて下さい。ミーアさんが困っておられます」
 確かにミーアを見ると、困ったような表情で二人を見やっている。
「…ごめん、少し言い過ぎたわよ」
「私も…少し…」
 二人の少しを足すと半分位しかいかなさそうで、残りの半数はどこに原因があるのかと、ふと突っ込んでみたくなったミーアだが、勿論口にはしなかった。
「ところでミーア」
「はい?」
「何でこの子連れてきたの?あんたが部屋に持っていけば良かったんじゃないの?」
 綾香の言葉で、二人とも当初の目的を思い出した。綾香と諍いになりかけた事と――何よりもシンジを信頼しきっているせいで、ころっと忘れていたのだ。
「出撃…忘れてた。ミーア、ありがとうもう大丈夫」
(綾香さんと言い合いして治ったみたいね)
 ミーアは内心で微笑った。
「少し、急がないと…」
「そうですわね」
 頷いた時、入り口へ幽鬼のように現れた人影がある。
「どうかなさいましたの?」
 フレイの青ざめた顔色はどう見てもただ事ではなく、それを支えるサイもアワアワして、どうしていいのか分からないらしい。
 しかも、ミーアを見つけたフレイの目が、危険に光ったのだ。
「…つけた…見つけたわよラクス・クライン」
「『え?』」
 綾香もステラも、無論ミーアとラクスの区別は付く。
 だがフレイには付かない。と言うより、二人いる事すら知らないのだ。墓から甦ったばかりのゾンビみたいな足取りでやって来て、ミーアの手をがしっと掴む。
「あの…なんでしょうか」
 血走った目をした女に手を捕まれた時に人が示す、最低限の反応でミーアが訊いた瞬間その頬が鳴った。
「来るのよっ!あんたを人質にしてパパを助けるんだからっ」
 その言葉に、綾香とステラが同時に反応した。立ち上がろうとしたステラをすっと制して、
「フレイって言ったわよね。この子を人質にして、ザフト軍が引かなかったらどうするの?」
「決まってるわ、奴らの前で殺してやるのよっ」
「フレイ!」
 サイが制した時にはもう、綾香の拳がフレイの顔面にのめりこんでいた。鼻血をまき散らして、フレイが背中からカウンターに激突する。
 呆然と立ち竦むミーアの手を取って引き寄せ、
「私に勝てなきゃこの子は人質に出来ないわよ。Camon Fuckin' Bitch
 拳から中指を突き立ててフレイに向け、冷たく笑った綾香が挑発する。
「うあああーっ!」
 半狂乱になったフレイが飛びかかってくるのを冷然とかわし、鍛え抜いた蹴りが狙い違わずそのボディに食い込んでいく。乳に、或いは腰に太股にと、もうサンドバッグ状態になっており、歩みが鈍くなったとみるやその顔面に叩き込む。
 先回はシンジが止めたが、今回はもう止める者もいない。しかも挑発に乗って飛びかかって来たとあって、綾香の攻撃にはまったく容赦がない。みるみるうちに顔の形が変わってきたフレイを見かねて、
「や、止めろよもういいだろっ」
 サイが綾香の肩に手を掛けた瞬間、綾香の身体がくるりと一回転し、腹部に踵を叩き込まれたサイが、声も上げずに吹っ飛んだ。
「もういいだろ?言う相手が違うでしょうがこのバカ。馬鹿女の一匹もろくに止められないくせに」
 失神したサイには目もくれず、フレイへ歩み寄るとその胸ぐらを掴んで持ち上げた。
「ほらどうしたのよ。私を叩きのめしてこの子を人質にするんじゃなかったの?」
 フレイの顔は朱に染まっており、もう攻撃どころか防御する力さえ残っていない。その胸元へ、弧を描いて拳が吸い込まれ、フレイはこれもサイの後を追った。
 逆ギレして掴みかかったはいいが、ただの一撃も入れる事はできなかった。冷酷なまでの力量の差であった。
「さて静かになったし、そろそろ行った方がいいんじゃない?」
「うん」
「このバカ二人はとりあえず抱き合わせで縛って――」
「もういいよ綾香さん」
「『ミーア?』」
 人間サンドバッグの成れの果てをちらっと見やり、
「そこまでして私を人質にしたいのならなってあげる。ジャンクの分際で私に抗った度胸に免じて、ね」
 フレイに近づいて蹴飛ばしたミーアを見て、綾香とステラが顔を見合わせた。
「ま、ミーアがそれでいいなら別に構わないけどね。セリオ、この生ゴミ片づけて」
「かしこまりました綾香様」
 並んで廊下を歩きながら、
「ミーアって、ネコかぶってたんだ?」
「そうじゃないけど…対外的には同一人物って言う事になってるから。ザフトの中では私は…ミーア・キャンベルじゃなくてラクス・クラインなのよ」
「ふーん…」
 ミーアの顔を覗き込んだステラが、
「ラクス・クラインが居なくなってくれたらって…思った事ある?いたた…」
「ステラ様ってば、いけない娘(こ)ですわ」
 ミーアが手を伸ばして、ステラの頬をむにっとつねったのである。
「ごめん…」
 いたたた、と頬をおさえていたせいで、ミーアの双眸に凄絶とも言える光が宿った事には気付かなかった。
(人知れず死ねば私がラクス・クラインにされる。公の死ならば…私は不要になるのよ)
 ミーアの哀しい心は、ステラに伝わる事はなかった。
 
 
 
「甘い!」
 初めこそ悩まされたものの、キラとシンジのコンビは徐々にファンネルの動きを見切り始めていた。有線ではないし、しかもムウのメビウスより遙かに数が多いのだが、思念で動かすタイプだから、敵との間にある程度の能力差がないと、余裕を持って扱う事は難しい。
 そしてストライクは――ハマーンのキュベレイと、互角以上に戦える敵であった。攻撃が時折歪になる事から、シンジは、ハマーンがまだファンネルに精通していないと読み、ファンネルの迎撃は最低限に留めて、キュベレイ本体に攻撃を集中させたのだ。
 結果、不慣れ同士の戦いは、キラ・シンジ組に軍配が上がり、徐々にキュベレイを追いつめ始めていた。
 が、シンジの目的はそんなところには無い。目の前の敵機から感じた威圧感は本物だったし、おそらくはシステムに慣れていないだけだろうと、ぼんやり感じ取っていたのだ。その証拠に、妙な遠隔システムを使わない戦いだと互角になるのだ。いずれにしてもこんな所でのんびりしている暇はない。
 理由は分からないが、アークエンジェルが何とか持ちこたえている今の内に、連中の目をこちらに向け、その上で緑の戦艦の攻撃をぎりぎりでかわしている先遣隊の艦も沈めねばならない。
「なかなかいい女であったろうがそろそろ…ん?」
「…いい女って誰の事ですか」
「あ、いやそれは…」
「…前の敵を片づければいいんですよね!」
「う、うん」
「キラ・ヤマト、行きます!」
 妙な所でスイッチの入ったキラのストライクが、キュベレイに猛然と肉薄する。
(動きが変わった?ちっ、訳の分からん奴だ)
 元々碇シンジ搭載型の為、火力はこちらの方が強い。それはさっき、イージスのビームサーベルをいとも簡単に断ち切った事が証明している。舌打ちしたハマーンが防戦一方に追い込まれ、一瞬後方を見やった直後――モントゴメリが爆炎と共に大炎上を起こした。
 ヴェサリウスの主砲が直撃したのである。
「シ、シンジさんっ!」
「何よ」
「…え?」
「ほらハマーンに集中して。こっちはまだ終わってないぞ」
「は、はい」
 表面は何の感慨も見せぬシンジだが、内心では慨嘆していたのだ――俺が炎上に導く筈だったのに、と。
 だが先遣隊の壊滅は、そのまま最悪のシナリオを意味する。
「クルーゼ、ヴェサリウスを反転させろ!ニコル、三機で一斉にかかれ。いつまで手こずっている!」
 クルーゼ隊が、一斉に牙をむいてきたのである。
 
 
 
「きつい…わね」
 モントゴメリが撃沈された時、ブリッジ内は静まりかえったが、マリューは内心で安堵していた。少なくとも、キラの心に余計な傷を残さずに済んだのだから。
 助けられなかった事の後悔くらいは、一緒にいるシンジが癒してくれよう。それよりも、問題はここからだ。
 既にムウも、そしてナタルも撤退を進言しているが、マリューは断固として受け入れなかった。確かに、全速で逃げれば振り切れるかもしれないが、ハマーンと戦っているシンジ達を、敵の真ん中に置いていく事になるのだ。ハマーンの武勇を知らぬ程、マリューは無知ではない。
 アークエンジェルだけ退けば、戦艦二機とモビルスーツ四機がストライクに殺到する。
 撤退を勧める連中は、何を考えているのか。
 刹那脳裏に浮かんだのはガイアの事だったが、すぐに首を振った。シンジとて、無論この状況は分かっていよう。それでも、ステラを出すようにとは言ってきていないのだ。
「バリアント一番沈黙、ブリッツ本艦へ取り付きますっ!」
 一瞬宙を睨んだマリューが、
「仕方ないわ、ガイ――え?」
 言いかけた時、ドアが入ってふわふわと少女が入ってきた。
(ラクス…じゃなくてミーアさんよね?一体…!?)
「戦況の方はいかがですの?あらあら、大苦戦ですわね」
 ピキ。
 ミーアの言葉に、マリューを除いたクルー達の眉が上がる。どうしてザフトの関係者が艦内をウロウロと、いやそれどころかブリッジに入って来れるのだ!?
 中でも、一際強い視線でミーアを見たのは、ナタルであった。ナタルには、シンジに全てを賭しているマリューの信条など分からないし、無論ガイアにこっそりと出撃命令を出していった事も知らない。
 マリューの無謀とも思える現状維持に、ナタルの苛立ちは最高潮に達しており、ミーアを見た瞬間、その脳裏で小さな電球が点灯した。
 席を蹴ったナタルがミーアの腕を掴み、座っていたカズイからマイクをひったくる。
「ザフト軍に告げる。こちらは地球連合軍所属艦アークエンジェル。当艦は現在、シーゲル・クラインの令嬢、ラクス・クラインを保護している!」
(私ラクスじゃないけどね。一応予定通りかな)
「偶発的に救命ポッドを発見し、人道的立場からこれを――」
(人道的〜?)
 キラとステラの微妙な物が混ざった優しさから、と言うのが正解のような気もしたのだが、ナタルの声がそれ以上続く事はなかった。
 ナタルの手からマイクが奪われて床に叩き付けられ、次の瞬間その頬が甲高い音を立てたのだ。無論、叩いたのはミーアではない。
「バジルール!」
 鬼子母神もかくや、と思うような相好でナタルを睨んでいるマリューであった。
「あなたは…あなたはそれでも指揮官なのかっ!ここでみすみす死を待つのが指揮官のするこ――」
 言い終わらぬ内に、反対側の頬が鳴った。しかも今度は思い切り張り飛ばしたのである。二度も平手打ちされ、ナタルの中で何かが弾けた。頬をおさえて起きあがり、座席に掴まって戻ると、マリューの頬を叩き返したのだ。
 マリューは避けなかった。わずかに顔が横を向いた状態で、ナタルの頬をひっぱたく。マリューが叩き、ナタルが叩き返す。壮絶な争いに誰も割って入れぬまま、みるみる二人の頬が赤くなっていく。
 とうとうマリューがナタルの手を掴み、ナタルが反対の手でマリューの手を掴んだ。互いにきつく手を掴み合い、頬を赤くした女同士が睨み合う。
 時間にして、おそらく三十秒も無かったろう。
 だがクルー達に取っては、まるで時間が凍り付いたかにも思えた数十秒であった。二人の力比べはマリューの方がやや勝っており、ナタルの顔が苦痛で歪んだ直後、
「艦長」
 シンジの静かな声がした。顔は見えていない。
「今から戻ります。ナタル・バジルールに死化粧をしておいて下さい」
「『!?』」
 女同士の争いに続き、飛び込んできた声にブリッジ内が凍り付く。シンジの声は、今までに聞いた事のないものだったのだ。
 と、何故かマリューがナタルの手を離した。
「シンジ君、あーその…」
 深呼吸した息はさすがに荒い。
「私が今ひっぱたいておいたから、それで許してくれない?」
(え…?)
 まさか、シンジの反応を読んでいたというのか!?
 シンジが何か言いかけたそこへ、
「あの、マリュー艦長…」
 声はステラのものであった。
「とりあえずブリッツを一匹捕らえました。敵モビルスーツ、離れていきます」
「い、いつの間に…」
「お兄ちゃんにアークエンジェルの護衛を頼まれましたから。ちょっと遅れちゃったけど、何とか間に合ったでしょう?」
 少し照れたような、だが誇らしげなステラの声であった。
 
 
 
「数はこちらが優勢だ。だが…イージスは中破、ブリッツは捕らえられ、あまつさえラクス嬢はむこうか…。完敗だな」
 死の匂いを漂わせたストライクは、キュベレイの事など忘れたかのように身を翻したが、ハマーンはその背後に一撃を加えるすらできなかったのだ。
 しかもその直後、アークエンジェルから出てきた獣型のMAが、あっという間にバスターとデュエルを蹴散らし、ブリッツをいとも簡単に捕獲するのを、ただ見るしか出来なかった。
 いくらニコルといえども、銃撃をくらって態勢を崩したところへ、コックピットのすぐ前にサーベルを突きつけられては、降伏するしかなかったろう。敵にまともなパイロットがいないのは分かっているし、生きてさえいてくれればいくらでもやりようはあるというものだ。
「あの異世界人への認識…やや改めねばならんな」
 呟いた声は、ひどく重いものであった。
 艦内で何が起きたのか、無論ハマーンは知らないが、ブリッツが捕らえられては、ラクスの事など無関係に撤退するしかなかったのだ。強行してニコルに万一の事でもあれば、戦力は忽ち逆転する。
「さっさとアークエンジェルを沈めておけば良かったものを…使えない坊や達だな。ニコル…無事でいろよ。必ず助け出してやるからな」
 
 ハマーン・カーンに取って、プラント最高評議会議長の娘より、幼なじみの娘の方が優先順位は高いらしかった。
 
 
 
 
 
(第二十六話 了)

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