「日本の息吹」平成十八年二月号

万世一系と国家の品格

  お茶の水女子大学教授 藤原正彦

万世一系の美しい形に手を加えるなど、数学者としての美感が耐えられない。

インタビュ─〈前編〉

◎世にも恐ろしいことを

─ はじめに、「皇室典範に関する有識者会議」(以下、有識者会議)の報告書についてのご感想は。

藤原 私は、最近の「改革」についてはほとんど全てに腹を立てております。日本の昔からあった国柄を片端から壊してしまう愚行がまかり通るようになってしまったと。ただ政治上経済上外交上の失敗は腹を立てても蒼ざめることなどあり得ません。しかし、女性女系の天皇を認めるという有識者会議の報告書には、驚愕して蒼ざめました、「世にも恐ろしいことを」と。
 日本の伝統中の伝統、皇統に手を入れ、国体を揺るがそうというのです。数学者は一匹狼です。私一人で世界中を相手に戦うという気持ちでいつも生きていますから、徒党を組むのは屈辱と思うくらいです。ただ、今回ばかりは生まれて初めて発起人というものに名を連ね(皇室典範を考える会)、あちこちで書いたり話したりしています。万世一系を毀損するとは、あまりにも恐ろしいことです。

─ 「万世一系」の意味とは。

藤原 そもそも伝統というものに意味を求めること自体が間違いなのです。伝統とは、定義からして論理とか合理とかいうものを超越したものだからです。
 伝統とは何か。例えば、私が英国のケンブリッジ大学で教えていた頃、印象深かったのはそこでの公式のディナー(夕食)の光景でした。三百五十年前ニュートンがそこでしたやり方とまったく同じやり方で食事しているんですね。黒いガウンを着て、薄暗いロウソクの下で、ドラの音と共に長老が神への祈りをラテン語で捧げて、それから食べ始める。デザートのメニューも一緒。アメリカから来た客員教授などは「飯ぐらい明るい電気の下で食いたいや」なんて言ってましたが、イギリスのノーベル賞受賞クラスの学者たちは、そういう習慣に従っていることが嬉しくて仕方がないという様子でした。伝統に跪く、額ずくということが嬉しくてそれを誇りにしているのです。成熟した国民とはかくのごとしです。
 去年、伊勢神宮に初めてお参りしました。昼下がり、外宮を歩いていたら、白装束に黒い木靴を履いた神官が、恭しく食膳を持って通りかかった。尋ねますと、「神様の食事を捧げてきました」と。雨の日も嵐の日も戦時中も一日も欠かすことなく、朝夕二度、六世紀に外宮ができた千四百年以上前から続けてきたというのです。私はいい国に生まれて良かったと思いました。

◎憲法と世論に依拠した「有識者会議」の不見識

藤原 このように日本にもすばらしい伝統がある。その伝統の前には、まず跪くべきである。にもかかわらず、伝統中の伝統である皇統、即ち国体に手を入れるという、世にも恐ろしいことをしようとする有識者会議は何に原点を置いているか。私は、これまで政府や審議会の答申を読んだことは一度もありませんでしたが、今回ばかりは、一体どんな理屈なのかと隅々まで熟読したところ、驚愕すべき軽薄な理屈でした。
 彼らは二つの原点に立っています。それは日本国憲法と国民世論です。報告書は論の途中で何度もこの二つの原点に戻っています。日本国憲法と国民世論を原点とするなら議論する必要はありません。直ちに結論は長子優先と出てきます。男女平等というわけですから。
 しかし、憲法とは時の流行りです。ましてや日本国憲法とは占領軍が作ったものに過ぎない。もしも憲法に依拠するというのなら、憲法改正のたび毎に皇室典範も見直さなければいけなくなる。こんなことをしていたら、伝統は何ひとつ無くなります。そもそも皇室は、憲法の外にあるのです。天皇、皇族方は憲法にいうところの日本国民ではない。選挙権も被選挙権も職業選択の自由も居住や移動の自由もない。納税の義務もない。つまり憲法のそういう規定とは関係ないところにおられる方々なのです。なのに、今回、男女同権だけを適用しようというのはご都合主義にすぎない。
 次に世論とは時の流行りどころではない、その日の流行りです。明日にはどう変わっているかわからない。例えば、イラク戦争について、開始時は、アメリカ国民の七十数パーセントが支持した。それがいまや三十数パーセント。たった三年でこうまで変わつている。たった一日で変わることもある。
 国民主権という。しかし私はこれに懐疑的です。国民主権は必然的にポピュリズムを生みます。いまや行政司法立法すべてが国民の顔色を伺っています。そしてその国民をマスコミが誤った方向へ導こうとします。ですから、政治家は国民のいうことに耳を傾けてはいけません。それは亡国への道です。真のエリートは、国民の深い気持ちを忖度することが重要なのです。
 このように、有識者会議は、移ろいやすい世論と占領軍の作った憲法という、最も不適切な原点を採用してしまったのです。

◎男系をいかにつなぐか

藤原 私から言わせれば、そもそも女性女系を認めるかどうかを議論することすらまかりならんのです。議論が許されるとすれば、男系をいかにつないでいくか、この一点のみです。
 万世一系の定義は、神武天皇以来、男系の天皇のみをつないできたということです。男系とは、父親、父親、父親…と辿っていくと神武天皇に辿りつくということです。愛子様も男系、歴史上十代八人の女性天皇も皆男系です。この男系をいかにつないでいくか、議論すべきはこの一点のみです。
 男系を変えるかどうかなどということは、有識者会議どころか、国会でも議論してはいけない。皇族ですら議論してはいけないのです。いまの天皇陛下が男系はやめるということになつたら、それは百二十四代の御歴代の天皇方の思いを無視することになる。国民ですらいけません。平成の国民が男系を捨てるとなれば、我々は飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和の全国民の思いを蹂躙することになる。
 男系をつなぐということは、ことに男系の男子をつなぐということは、綱渡りであることは承知の上でのことです。だから非嫡子まで認め、あるいは傍系を辿ってつないできた。第二十五代武烈天皇から第二十六代継体天皇のときのように十親等も離れた継承のときもありました。男系はそのように涙ぐましい努力でつないできたものなんです。そこまでして万世一系にこだわってきたからこそ、天皇の正統性が保たれ、世界唯一の皇帝として世界から一目置かれ、王や大統領とは別格の存在と見なされているのです。
 伝統とはただただそれにひれ伏すもので、そのような伝統をもった国家が品格ある国家なのです。

◎国家の品格

藤原 国家の品格とは何か。例えば天才を生み出すこともそのひとつです。ですから、政治家の皆さんには全く無駄とも思えるような学問、科学の発達にお金を費やしてほしい。ノーベル賞受賞者の数はアジアでは日本がダントツです。これに対して韓国は自然科学ではひとつも取れないし中国もいまだゼロです。これが国家の品格の差としてボディブローのように効いている。ある意味で、国家の品格は海外に対する威圧感になるのです。そしてそれは防衛力にもなる。
 たとえば、明治維新の頃、タイを除いてアジア中が全部欧米の植民地になっていた。しかしイギリス人の外交官たちが日本に来ると、江戸の人々が街で本を立ち読みしている。識字率五十パーセント。当時イギリスの識字率は高々二十パーセントでしたから彼らは驚愕した。のみならず礼節が行われ、道徳意識が高い。これを見てこのような品格の高い国家は植民地にはできないとあきらめてしまった。このように品格ある国家は防衛力にもなるのです。あるいは美しい田園や青々と木々が茂った山々を保っこと、これも国家の品格です。
 これら日本が持つ国家の品格の中枢に万世一系の天皇があるのです。天皇陛下は毎日、国家の平安と国民の安寧を祈っておられる。そのような方が厳然として日本の中枢に存在する。その重い存在感。これは国民にとっては大きな安らぎです。さきほど政治家は国民の深い心を忖度しなければならないと言いましたが、それはこの国民の深い安らぎの元に目を注ぐことなのです。日常に疲れ果てた人々がテレビ等で皇室の姿が見えると、ああ、と安らぐ。これは非常に大きなことです。
 大正十一年にアインシュタインが日本に来て、伊勢神宮に参拝してこう言いました。「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。万世一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめた。…我々は神に感謝する。日本という尊い国を造っておいてくれたことを」。万世一系の天皇を戴いていること、かくも崇高な国家の品格に対する世界の尊敬はかくのごとしです。

◎男系維持のため最大限の努力を

─ 今回の危機は二代ないし三代のちには、皇統を継ぐべき男子が現段階ではおられないという事態に発するものですが、具体的には、どう乗り切っていくべきだとお考えですか。

藤原 いま採るべき有力な方策のひとつは終戦直後、米占領軍によって皇籍離脱を余儀なくされた旧宮家の皇籍復帰ですね。ところが有識者会議は国民感情が許さないとしてこれをいとも簡単に切り捨てています。その理由は対象とされる旧宮家は六百年前の室町時代にまで遡らないと、今上陛下と共通の祖先につながらないというものです。しかしこれは実は真っ赤な嘘です。確かに男系の血筋でいくと六百年ですが、女系を辿ると今上陛下と共通の祖先はある旧宮家の場合は昭和天皇であり、また明治天皇でつながっている旧宮家もあります。昭和天皇の皇女、明治天皇の皇女とご結婚なされているからです。つまり今上陛下と濃厚な血のつながりがある。男系であり、かつ今の陛下とも血のつながりが濃い。こんな有力な候補はないわけです。

─ 有識者会議が掲げる旧宮家皇籍復帰反対のもうひとつの理由は、六十年もの間、民間にあられたから今から復帰されるのは無理があるというものですが。

藤原 そんなこと言ったら、十親等離れた継体天皇は、それまで地方で何をしておられたかという話になつてくる。それに比べたら六十年なんて短いものです。しかもその六十年の間、庶民と同じであられたかというと、少なくとも意識の上では全然違います。皇室の血を継ぐ者としての品位を保つように教育されてきているし、やんごとなき方々の間の交流も盛んです。

一 拙速は避けるべきですが、一方では、いまこそ打つべき手を打たないといけないこともあるわけですね。

藤原 この間題を考えるときにどこにシフトを置くかということが重要ですね。有識者会議では、「存続」にウエイトを置いている。皇室の存続に最もウエイトを置くのであれば、あの結論は筋は通つています。しかし、私は今はまだその前の段階だという認識です。まず男系をつなぐ、即ち万世一系を絶やさない最大限の努力をして、それで矢つき刀折れて万策尽きてしまったという段階に立ち至ったとき初めて、いかにして「存続」させるか、にシフトする。しかし、その前の段階、「男系をいかにして継ぐか」ということを無視していきなり「存続」を目的とするから、ああいう報告書になった。私はぎりぎり女性天皇までは認めたいと思います。しかし「女系」天皇は絶対に許さない。とにかく拙速が一番怖い。まだ十分時間はあります。
 その十分な時間をかけて先般のような「有識者」ではなくて、真の有識者による会議をやるべきです。ごく少数でよいから日本で最も聡明で最も祖国愛に燃え専門的知識も備えた人を集めて、その人たちに「いかにして男系をつなぐか」ということのみを徹底的に討議させる。三年でも四年でも考えれば、いいアイディアはいくらでも沸いてきます。私は数学者ですが、良いアイディアが生まれるのは常に一人です。一人が苦吟呻吟しない限り画期的なアイディアは生まれない。明治の皇室典範もそうやってつくったんですね。それで智恵を絞る形がいい。

◎万世一系の美しい形

─ しっかりした判断力のある方になっていただきたいですね。

藤原 それには論理力ではなく、情緒力をもった人がそれに当たらなければなりません。ものごとが正しいかそうでないかということについて、論理的に筋が通っているということ自体はまったく意味がありません。一般に世の中には論理的に筋が通ったことはゴロゴロある。その中からどれを選ぶかというのが総合判断刀です。どれを選ぶかはどの出発点を選ぶかということです。出発点が間達っていれば、いくら論理的に正しくても、いえ論理的に正しければ正しいほど結論は絶対的に誤りになってしまいます。つまり、出発点を正しく選ぶということが何よりも大切なのであって、いくら頭がよくても出発点Aの選び方が駄目な人は使い物になりません。出発点AからBへは矢印が向かっているけれども、Aにはどこからも矢印は来ない。つまり出発点Aは論理的帰結ではない。出発点は論理では選ぶことができない。これを選ぶのは情緒力なんです。
 情緒力とは何か。その人のもって生まれた美的感受性、あるいはどういう親に育てられたか、どのような先生や友達に出会ってきたか。どのような叙情小説を読んで涙を流したか。どのような恋愛、失恋、片思いを経験してきたか。どのような悲しい別れに遭ってきたか、こういう諸々のことがすべて合わさって、その人の情緒力となって、論理の出発点Aを瞬時に選ばせているのです。
 論理的な筋が通っているからいいというのは欧米の浅智恵に過ぎません。産業革命以来、この二百年は科学技術の時代でした。その発達が目覚しかったものですから、その下にある論理、合理というものが至上のものと世界中が勘違いしてしまった。しかし、論理、合理に頼りすぎたがゆえに現在、世界中で荒廃が生まれている。絶え間ない軍拡、行過ぎた市場主義、環境問題、犯罪の増加、家庭崩壊、教育崩壊など論理、合理に頼った世界は行き詰まっています。
 論理、合理はもちろん重要です。しかしそれだけだと人類は道を誤り地球は破滅されてしまいます。これに加えて論理の出発点を正しく選ぶために、私は日本人の持つ美しい情緒や形がより求められていると思うのです。
 日本人は最も美感の鋭い国民です。例えば、ラフカディオ・ハーンは、虫の音を音楽と聞くのはヨーロッパでは類い稀な詩人だけだと書いている。日本人ならごく当たり前です。あるいは、紅葉なんて欧米人にとっては死にかかった葉っぱに過ぎない。一方日本人は紅葉狩りを楽しみます。このような日本人の繊細な美的感受性、もののあはれ、あるいは武士道精神、とくに側隠、つまり不幸な人、敗者、弱者への涙。こういう情緒が最も重要なことが、いまや世界的にもはっきり見えてきました。そういう日本的情緒が万世一系の天皇を生み出したのです。万世一系という美しい形を保持しなければならない。これに手を加えるというのは、私の数学者としての美感が耐えられないのです。(次号につづく。平成十七年十二月八日インタビュー)

ふじわら まさひこ

昭和十八年満州生まれ。数学者、エッセイスト。父は作家の新田次郎氏、母は戦後の大ベストセラー『流れる星は生きている』の著者、藤原てい氏。東京大学理学部数学科卒業。コロラド大学助教授などを経て現職。数学者でありながら国語教育の重要性を訴えている。著書に『数学者の言葉では』『若き数学者のアメリカ』『遥かなるケンブリッジ』『祖国とは国語』など。近刊の『国家の品格』がベストセラーに。

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