「日本の息吹」平成十八年二月号

女神たちの饗宴

いかに日本の神々たちが天衣無縫、世界無比であるか。神話こそ愛国心の基である

  脚本家 林秀彦

 八百万の神々に引き寄せられ、私は豊葦原瑞穂の国に戻ってきた。
 帰国後の最初の旅の行き先は、宮崎の高千穂神社参拝だった。
 《カム》ながらの道とは神道のことであり、《惟神》と書くが、大分から阿蘇を越えて高千穂に向う道は形而下的にもまさに神の道を感じる。その美しさというか、神々しさというか、崇高さというか、なんとも言葉も出ない感動で、これも意味は違うが「言挙げせぬ国」を実感した。日本の神々の地は、終始、心に満ちる言の葉″を越えた美の中にあった。いかなる人為もその前では無力であり、神慮は水蒸気であり、香りであり、光であり、風であり、色彩なのだ。
 私が少年時代、日本にはそうした神々が満ち溢れていた。
 自宅に、近所に、学校に。それから約半世紀、かくも日の本が黄昏るとは、それこそ神ならぬ身、知る由もなかった。『雲にそびゆる高千穂の、高嶺おろしに草も木も、なびき伏しけんおお御世を……』、同行の若者はこの歌を聞いたこともないと言った。それでいて「祖国はイルミナティに完全にのっとられている」という私の嘆きも、同時に彼らにはチンプンカンなのである。何も考えようとせず、何も感じようとしない国語を失った若い世代の日本人は、「気高い」というものへの直感的な感受性を失い、黄泉の国で腐乱したイザナキよりも醜い死を迎えつつあるのだ。
 神話は人間生活の精神的可能性を探る鍵である──、とジョセフ・キヤンベルは彼の対談集『神話の力』(早川書房)の中で語っている。続けて彼はこう言う。「神話を読むことによって人間は自己の内面と向かい合うことができ、知的な経験を積むことができる。人生でもっとも大切なことは、この今″を自分が生きているということを、喜びの経験として実感することであり、人は神話を通じてそれを得ることができる──、と。
 確かにどの国の神話でも、それは人類がはじめて知性というもの(知識ではなく知性)を身につけたときに生み出したものである。この宇宙と大地の森羅万象を「知」という鏡に映したときに反射した光が神話になった。それらの物語に描かれる内容は、さらに時代が下ってから作り出されたたぶんに意図的で意識的な脚色を持つ宗教的物語(たとえば旧約聖書の物語)などより、ずっと純粋で、豪快率直である。
 その中でも日本神話はギリシャやローマの神話と比べ、ひときわ天衣無縫で(この言葉自体がすでに神の世界だが)、日本人の知性がいかに夷狄の神々と異質であり、好ましい神格を備えているか驚くばかりだ。神話の比較は愛国心涵養の基本なのだ。少なくとも私の子供の時代はそうだった。そして愛国心こそ、人間知性の第一の発露であり、知性の「チ」の字も失ってしまった現代日本の青少年から愛国の心など生まれるべくもない。第一神話を読むことによって自分の生きる喜びや、自己発見のカタルシスなどを持つ能力など皆無だろう。
 神話を読みこなす能力とは、神々と匹敵するほどの豊かな感性と、自由で奔放な空想力である。その両方を抹殺し尽くされたテレビ・ロボット人間には、たとえば古事記に登場する神々はあまりにも人間的で、理解の足がかりすら発見できまい。日本人は日本の神の持つ人間らしさを失うことによって、同時に神を失ってしまった。
 子供のころ、私は神と人間を区別していなかった。その第一の理由は、たとえば『講談社の絵本』という類まれなる上質の絵本に描かれた神々の姿が、あまりにも人間らしかったからだ。この絵本に筆を振るった日本画家は、いずれも当代一流の画家たちだった。相手が子供だからといって手加減するような芸術家たちではなかった。むしろ相手が子供であるがゆえに、いっそう真剣に絵筆を取ったに違いないと思わせる見事な挿絵が、厚さ一センチにも満たない大型両開きの叢書を飾っていた。
 因幡の白兎と大国主命の物語を始め、イザナキとイザナミ、アマテラスとスサノヲ、ヤマトタケルとオトタチバナヒメといった主要登場人物(いやいや、登場神物)はすべてそうした絢爛豪華な絵巻物とカタカナ文の解説で脳裏に叩き込んだものだった。いまでも目を瞑ると、その絵の数々が瞼に浮かぶ。よほど印象が強烈だったのだろう。現代で言えば幼稚園児のころの記憶である。神武天皇東征のお姿と、その手に握られた弓、その上にとまった金鵄の挿絵など、記憶をたどって模写できるほどに鮮明である。
 私はこの稿を書くにあたって、念のため町最大の本屋の児童書棚を見て回った。神話に関しての絵本はたった一冊、アマテラスの岩戸の物語が描かれていた。もっと都会の本屋に行けば、まさかたった一冊ということはあるまいが、神々のふるさと九州の本屋でこの有様だ。しかもその絵は漫画に近い表現で、アメノウズメとサザエさんの区別もつきかねるような描写だった。
 何たることだろう!
 アメノウズメは乳房を露出させ、ホトをもあけ広げて踊ったのである。それを見て神々は笑ったのだ。日本の神々ほどよく笑い、よく泣く神も世界の神話には見られない一大特徴だろう。特に男神が人の目(いや神の目)もはばからず泣きまくる。兄貴の海幸彦から借りた釣り針をなくしたといって、弟山幸彦は泣きくれる。毛唐の神は泣かない。彼らは信じられないほど残酷だ。サムソンに比べればスサノオの乱暴など児戯に等しい。やはり日本はイルミナティに征服されるべくして征服されたのだろう。
 私は日本神話の女神たちの誰とも恋をしたく思ったものだ。妖艶さもさることながら、気風のよさ、男勝りの勇気と決断力、爽やかさと清らかさ、そして何よりも現代人がすっかり失っている情熱の豊穣さは日本が女神の国であったことを納得させるのである。
 ヤマトタケルの命を救うために、自らパーフェクト・ストームの荒海に身を投じるオトタチバナヒメなど、夢にまで現れた私の女神で、その姿も『講談社の絵本』の挿絵による美しいイメージの女だった。何しろ彼女たちはみななんとも味のあるきれいな名前を持っていて、それらはやはりカタカナ書きでは理解できず、漢字の訓読みで見なければならない。弟橘比売命とか木花之佐久夜毘売とか、天宇受売といったものだが、こと名前の当て字表記は古事記より日本書紀のほうが私は好きだ。
 ああ、それにしても──!
 神よ、なぜ神は日本の女神たちを殺されたのですか?

はやし ひでひこ

昭和九年東京生まれ。昭和三十年〜三十六年、独・仏に学ぶ。帰国後、松山善三に師事。テレビ・映画脚本家として「東芝日曜劇場」「ただいま十一人」「若者たち」「七人の刑事」「鳩子の海」等作品多数。十数年のオーストラリア生活を経て昨年帰国。大分在住。著書に『ジャパン・ザ・ビューティフル』『みだらの構造』『海ゆかば山ゆかば』『悲しいときの勇気』など多数。

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