文藝春秋 平成十八年二月号

天皇さま その血の重み

 なぜ私は女系天皇に反対なのか

  わずか一年の議論で決定

  これは皇室伝統の破壊ではないか

寛仁親王ともひとしんのう殿下

 聞き手 櫻井さくらいよしこ(ジャーナリスト)

 櫻井 昨年一月の「皇室典範に関する有識者会議」の設置以来、皇室や皇族のあり方について盛んに議論されるようになりました。しかし、私たちは皇室伝統についても、皇族の方々がどのようにお暮らしになり、何をお考えになっているのかについても、ほとんど知るところがありません。
 そんな時、寛仁ともひと親王殿下は、ご自身が会長をおつとめになっている福祉団体「柏朋会」の会報のエッセイというプライヴェートな場所で、「有識者会議」の議論に異議を唱えられました。このエッセイは昨年十一月に読売新聞が掲載して世間にも知られることになったのですが、拝読して、有識者会議の議論の問題点を明解に指摘したものであると思いました。
 そこで今日は殿下に、皇室、皇族とは何か、皇室伝統とは何か、そして、十一月に出されました「有識者会議」報告書の議論、つまり女系天皇の容認や長子優先の問題点について広くお聞きしたいと思いまして、ここに参りました。

 寛仁親王 私は現職の皇族ですから、お話しできることとできないことがありますが、お話しできることは何でもお答えしますのでどんどん聞いてください。

 櫻井 ありがとうございます。さっそくの質問がお顔のことで畏れ入りますが(笑)、以前、雑誌で、殿下が明治天皇に生き写しであるという記事を読んだことがあります。今回、初めてお目にかかりますが、本当に曾祖父ひいおじい様である明治天皇の面影を色濃く残しておられますね。その印象はやはりおひげのせいでしょうか。

 寛仁親王 髭もそうですが、私の場合、この跳ね上がった眉毛なんです。とくに古い人たちからはよく似ていると言われますね。

 櫻井 そのことで何かお感じになることはありますか。

 寛仁親王 やはり、きちんと血がつながっている証拠だろうと(笑)。おかしなもので、父(三笠宮崇仁たかひと親王)とそのご兄弟(昭和天皇、故秩父宮薙仁やすひと親王、故高松宮宣仁のぶひと親王)や私の弟たち(桂宮宜仁よしひと親王、故高円宮憲仁のりひと親王)は、明治天皇とあまり似ていません。隔々世遺伝ということなのでしょうね。

皇族内の現場監督の役割

 櫻井 明治天皇にとくに親しみをお感じになるということはおありですか。

 寛仁親王 私が中学生の頃、よく学校をサボって映画館に行きました。当時、新東宝映画というのがあって、『明治天皇と日露大戦争』という作品でしたが、この時はクラスメイト二人と一緒で、私が明治天皇を指して、「あれは俺の曾祖父ひいじいさんだ」と言いましたら、隣に座った級友が、「その隣は俺の曾祖父さんだ」、すると、そのまた隣が、「こっちにいるのは俺の曾祖父さんだ」。つまり、明治天皇と伊藤博文と西郷隆盛の曾孫ひまごが三人サボって映画を観ていたわけです。しかも三人とも直系の子孫ではありませんでしたから、「俺たちは傍系だからいじけてサボっているわけだな」といって(笑)、「曾孫会」というのを作りまして、今でも彼らとはよく会います。
 そんな笑い話もありますが、やはり明治天皇が偉大な天皇でいらしたという気持ちは強くありますね。私は司馬遼太郎さんの本が好きでほとんど読んでいますが、明治天皇のエピソードがたびたび出てきます。私が好きな話のひとつに山岡鉄舟が天皇様を相撲で投げ飛ばしたというものがあります。山岡は賊軍である幕臣出身ですが、その人柄を見込まれて明治政府に侍従として取り立てられ、天皇様のご養育係をつとめました。そして天皇様がまだ少年の頃、山岡に相撲を挑んだところ、山岡はいとも簡単に転がしてしまう。わざと負けてあげて、「お強いですね」と持ち上げる手もあるのですが、山岡は将来、きちんとした君主に育っていただきたいという心を込めて、あえて投げ飛ばした。さすが剣と禅の達人であった山岡です。山岡のような家来がいたことで、明治天皇は偉大な君主になられた。お若き時のよき体験であっただろうと思います。
 とはいえ、明治天皇とは実際にお目にかかったことがあるという近さではありませんから、やはり先帝様(昭和天皇)や秩父宮様、高松宮様といった方々のほうに親しみを感じていますよ。

 櫻井 甥御さんから見た昭和天皇はどんなお方でしたか。

 寛仁親王 先帝様には逆立ちしても勝てない、という気持ちが強い。人格、人徳というもので、あれほど公平無私でいらした方はいらっしゃらないでしょう。
 人間というものの動き、生態というものが全部おわかりになっていた。私が若い頃、高松の伯父様が、「たまには若い者が陛下のところでお話しをしなさい」とおっしゃったので、私と弟(高円宮)が陛下のところに行きましてお話しをさせていただいたことがありました。その頃、私は青少年育成の仕事をしていて、「どうなっているか」とご下問がありました。 ちょうど二年くらいかけて日本中を駆け回ってきたばかりでしたから、私にしかわからないことが多いだろうと、滔々とまくし立てたのです。ところが、陛下から返ってくるご質問は、末端のことまでよくご存知でなければ出てこないものばかり。私たちはびっくりして、「その通りでございます」と言うしかありませんでした。
 帰りの車の中で弟と、「どうしてあそこまでおわかりになるのだろう」と話しをしましたが、結局、陛下は戦前、戦中、戦後と、日本のいい時も悪い時もすべてご存知で、その間、とてつもなく多くの人間と対話をしてこられた。だから、専門分野というものを超越して、すべてをわかってしまわれるのだと思いました。

 櫻井 戦後の政治家たちも、昭和天皇からご質問があると、誤魔化しは決して通用しないので、たいへん緊張したということを言っていますね。

 寛仁親王 陛下の場合、あらゆる分野の人たちがご進講をしていますから、勉強の深さが違うのでしょう。また、国民も陛下にご進講することを本当に喜んでいました。
 私は若い時、皇族のあり方について高松宮様とたびたび議論をして、その結果、私は現場監督をやります、と言いました。皇室を建設会社にたとえますと、会長が陛下(昭和天皇)で社長は皇太子様(今上陛下)、重役として秩父宮様、高松宮様、三笠宮様、常陸宮様(正仁まさひと親王)がいらっしゃる。その下の我々の世代が部長、課長ということになりますが、会社がうまく回っていくためには、本部の人だけではなく、現場監督が必要です。それに私がなると。たとえば札幌オリンピックの組織委員会の一員として札幌に住み、サラリーマンとして二年間、働いたりもしました。「皇族札幌出張所の所長」と称しましてね(笑)。

光明皇后が始めた福祉の伝統

 櫻井 現在は福祉にたいへん力をお人れになっておられますね。エッセイを載せられた「ざ・とど」も福祉団体、柏朋会の会報でした。皇族の方々と福祉事業はご嫁が深いですね。

 寛仁親王 たとえばハンセン病ですが、高松の伯父様はこの病気の大家でいらした。櫻井さんは藤楓協会というのをご存知ですか。

 櫻井 以前、ハンセン病患者と国との裁判を取材したことがありますが、その団体は存じ上げません。

 寛仁親王 藤というのは昭憲皇太后(明治天皇の皇后)のお印で楓は貞明皇后(大正天皇の皇后)のお印。それをとって名付けた財団法人です。ハンセン病について正しく啓蒙活動をするというのが設立の趣旨で、全国に十三の療養所がありました。
 日本の福祉は天平二年(七三〇年)に聖武天皇のお妃であった光明皇后が悲田院、施薬院をお作りになったことに始まるとされています。その時から、歴代の皇后様はハンセン病の面倒を見てこられた。それを昭憲様も貞明様も引き継がれたわけですが、とくに貞明様は積極的になさっておられました。 そこで貞明様が崩御あそばされた時、息子たち四兄弟が相談して、皇后様のご遺金の一部に四人それぞれがお金を足して、それを基本財産とした財団を作ったのです。それが藤楓協会。とても素敵な話でしょう。
 初代の総裁は高松の伯父様、次が高松宮妃殿下(故喜久子様)、最後は私がつとめましたが、今でもハンセン病の療養所に行くと、高松の伯父様、伯母様のことを神様のように思っている入所者がたくさんいます。

 櫻井 日本の場合、政治がハンセン病患者に対して必要以上に長い間、隔離政策をとってきたという悔いがあるわけですが、皇族の方々は政治の陰で、正しい知識を広めるための活動を、文字通り体を張ってなさっていたのですね。

 寛仁親王 十年ほど前のことになりますが、柏朋会が主催して武道館を借り切った大コンサートを開いたことがあります。そこに全国から障害を持った車椅子の人やハンセン病の患者をたくさん呼び寄せました。 そのコンサートに、当時のアルゼンチン大使のご夫人、ポーリー・フェルマンさんも来てくれたのです。彼女はプロのピアニストで、昔から自分のピアノを障害者福祉に生かしたいと考えていたそうです。しかし、日本に赴任して以来、一度も障害者を見たことがなかった。それが、武道館を埋め尽くす数の障害者を見たものですから、仰天して、私の活動をぜひサポートしたいと申し出てくれたのです。
 そこで、私がマネージャーとなって、北は北海道から南は奄美大島まで、身体障害や知的障害の施設、ハンセン病の療養所、老人ホームなどを回る全国縦断ピアノ・コンサートをしていただきました。奄美大島のハンセン病療養所に行った時、患者さんの一人は、音楽をライブで聴くのは七十年ぶりだと言った。八十歳を超えたご老人でしたが、十代で入所し、それからは外出することがなかったのでラジオ、テレビでしか音楽を聴いていない。そこにポーリーさんがピアノを持ち込み、素晴しい腕前を披露してくれたのですから、みなさん感動していました。これこそ外交の原点であると、私はポーリーさんにたいへん感謝しています。
 ポーリーさんはこの体験をもとに、帰国後、アルゼンチンでもハンセン病の患者たちをサポートしたいと思って調べたところ、患者たちが集まって住んでいる町があるというので、出かけたそうです。すると、街に住む人たちから、近づくなと追い返されてしまった。そこは、映画の『ベン・ハー』に出てくる、病の人たちだけが住む隠れ谷のような状況だったそうです。ポーリーさんはすっかりショックを受けてしまった。さまざまな問題があるとはいえ、日本には美しい敷地に素敵な療養所が建っています。まず、そのことを認識してはどうでしょうか。

 櫻井 皇族の方々が自然とそういう役割を果たされてきたのは、やはり特別なご教育などがあったのでしょうか。

 寛仁親王 特別な教育などはありません。もちろん秩父様や高松様の感化を受けたということはありますが、私の場合、人間を相手にすることが大好きだというのが大きかったと思います。これにはきっかけがあって、高校生の頃、はたと気がついたら我々には同業者が十六人しかいなかった。

 櫻井 同業者?

 寛仁親王 皇族のことです(笑)。学習院のクラスメイトの父母の職業はさまざまでしたが、彼らは全国を見渡せば同業者が山のようにいる。ところが、我々は十六人しかいないわけですから、これは友人をたくさん作っておかなければ将来、大変なことになると考え込んでしまいました。私は小さい頃は虚弱体質の引っ込み思案で、自分から友だちを作るようなタイプではありませんでしたが、それからというもの、友だち獲得作戦をやりまして、それは今でも続いています。
 さらに自分が選んだ仕事というのが、青少年育成、スポーツ、福祉、それらに並行して国際親善もありますが、これはすべて「人」が対象です。
 ご存知のように私は癌で七回手術を受けましたが、最初の食道癌の手術がいちばん大きくて、体を大きく三カ所も切られました。しかし、入院中、お見舞い客と話をしている間だけは、痛みを忘れているんですよ。

 櫻井 人と会うことにまったく苦痛がないというのは、やはり、どこか皇族としての「帝王学」のようなものが殿下の身についていたからではありませんか。

 寛仁親王 みなさんはよく帝王学ということを言われますが、それはあまりに格好のいい言葉で、私に言わせると、商売上、当然のつとめだと思っていますね(笑)。わかりやすく言うと、政治とか行政が一所懸命やっても、なお及ばざる部分というものがありまして、皇族はそこに光をあてていかなければならない。先ほど光明皇后のお話しをしましたが、当時の律令国家もそれなりに一所懸命、いろんな政策をやっていたのでしょう。しかし、足りないから皇后様が多分お内帑ないど金を使われて悲田院や施薬院をお作りになったわけでしょう。ですから、皇族の仕事というのはニッチ(すき間)産業なんですよ。それを円滑にやっていく知恵を、みなさん帝王学などと大げさに言うわけです。

皇族であることは重荷か

 櫻井 こんなことをお聞きしましたのも、美智子様や雅子様を拝見していますと、やはり民間から皇族の中に入ると、難しい部分があるのかなと感じることがあるからです。

 寛仁親王 ある程度はあるでしょう。しかし、御所の中を知らない一般の人たちが思っているほど異様なことをやっているわけではないのですがね。
 もちろん、皇族の中にも、皇族であることを重荷であると考えて苦しんでいる人もいます。たとえば、私が結婚する時、弟(桂宮)がかみさん(信子妃)に、「どうしてあなたは兄貴と結婚するんだ」と聞いたそうです。弟は日頃から、皇族が結婚することは苦しむ人間を一人増やすことだから自分は結婚しないと述べていました。かみさんは、「私は皇族と結婚するのではなく、トモさんという一人の男と結婚するのだから」と答えたそうですが、これだけとっても皇族が重荷であると考える人と、そう考えない人がいる。
 私の姉妹弟たちも、それから二人の娘たち(彬子あきこ女王、瑶子ようこ女王)も経験しているはずですが、学習院の初等科時代、クラスメイトから、「お前たちは俺たちの税金で食わせてやっているんだ」という嫌味なことを言われるのですよ。今の私なら、「何言ってやんでい、おめえの税金じゃなくて、親父が払っている税金だろう」と言い返すこともできますが(笑)、小学生ではそうもいかず、ショックを受けて帰ってきました。私の場合、あまり仲の良くない相手でしたから、「バカヤロー」で済みましたが、弟は親友だと思っていた相手にそう言われたので、たいへんなショックだったことでしょう。
 そんなこともありますから、私も、皇族は大変でしょうねと言われたら、それは大変だと答えますよ。

 櫻井 先ほどご自身のご病気のお話が出ました。下世話なことをおうかがいしますが、皇族方には医療保険がないというのは本当ですか。

 寛仁親王 ありませんよ。

 櫻井 では、ご病気になられた時はどうされるのですか。

 寛仁親王 自腹を切るしかありません。

 櫻井 宮内庁病院は、皇族方の病院ではないのですか。

 寛仁親王 宮内庁病院は、基本的に宮内庁職員のために作った共済病院のようなものです。もちろん、病院の中には皇族病棟がありますが、これは両陛下を想定したもので、大きな部屋が二つ。私も一度入ったことがありますが、どうしても使わせていただくという感じがします。また、癌とか大きな病気の場合は、どうしても国立がんセンターなどの大病院に行かざるをえません。陛下が前立腺癌になられた時も、東大病院に行かれましたね。

 櫻井 保険なしでは費用が大変ですね。

 寛仁親王 最初に癌になった時は、自分で払っていました。すると、それを知った宮内庁長官が、「えっ?」とか言いまして(笑)、それは大変だろうと、癌に関してだけは宮内庁が負担してくれるようになりました。

 櫻井 しかし、ご病気は癌だけではありませんね。

 寛仁親王 私は昨年、心臓の不整脈を起こして慶応病院の循環器内科に通っていますし、娘たちも喘息の気味があって、これも慶応の小児科がいいというのでそこに通わせました。こういうのは全部、現金で払う。稼げども稼げどもわが暮らし楽にならざり、ですね(笑)。

 櫻井 皇族方は民間のように自由に働くわけにもいきませんし、失礼ですが、歳費も年三千万円程度と決して大きな金額ではありませんね。

 寛仁親王 たとえば、宮家にはお客さんが来た時にお茶やお菓子を運ぶ若い女性がいます。彼女たちを「侍女」と言いますが、私が歳費の中から雇っています。そういう人件費だけで歳費の半分は飛んでしまう。 幸い私には講演料や印税などがありますから、娘たちに栄耀栄華とまではいかなくても、それなりの生活を送らせることができますが、それがなければ本当にぎりぎりの生活でしょうね。

 櫻井 世間には皇族の方々は豊かで、ある意味で豪華な生活をされているというイメージがあります。

 寛仁親王 それは戦前の話ですよ。父は幼少の頃、澄宮御殿というところに四十人以上の使用人にかしづかれて育ったそうですし、先帝陛下は御料林などの皇室財産を一切合財計算すると、世界で何番目かのお金持ちでした。しかし、それらはすべて戦後、没収されましたから。

振り子の原点としての存在

 櫻井 決して多くない歳費に対して、国民からはご公務や暮らしぶりについて、こうあってほしいという非常に大きな期待がある。功利的に考えますと、皇族とは非常に損な役回りであると言ってもよいでしょうね。しかし、そういう中でも、皇族の方々は、自分たちはいかにあるべきかをお考えになってこられた。 殿下は、皇族の存在というものを突き詰めて考えると、何であるとお考えですか。

 寛仁親王 結局、突き詰めて考えると、存在していることが大切なのです。たとえば我々がどういう仕事をするのかは法律で決められているわけではありません。乱暴な言い方をすれば、何もしないで朝、昼、晩とご飯を食べ、好きなことだけやっていてもいい。私の場合、国民のためになる仕事をしようという気持ちがあるからワーカホリックになってしまうのですが、ずっとピュアに考えていけば、やはり血統を守るための血のスペアとして我々は存在していることに価値があると思います。ですから、皇位継承権については、小さな時から意識がありましたね。下手をすると自分のところに皇位が回ってくる、そうなればとんでもない話になってしまうぞ、という意識です。
 私は皇位継承順位が第七位(現在は五位)という時期があって、ラッキーセブンで気に入っていたのですが、ちょうど英国に留学していた時期に皇太子妃であった美智子様がご懐妊された。皇太子様と秋篠宮様はもうご誕生されていたので、私は、「ラッキーセブンから動きたくありきせんので、どうか内親王様にしてください」とお手紙を差し上げたのです(笑)。そうしましたら紀宮様がご誕生になって、皇位継承権は動かなかったんですね。

 櫻井 存在していることそのものが大切というお考えは、実は日本文明の核であるような気が私はしております。
 今回の「有識者会議」は天皇を戴く皇室をさまざまな理屈で解釈し、とうとう女系天皇容認という皇室の伝統を覆すような結論を出しました。女性天皇は歴史上存在しましたが、女系天皇はいなかった。有識の人々ヽヽヽヽヽはそれを認めるというのです。しかし、日本は半ば神話の時代から今日まで、神武天皇の血を引く天皇を戴いてきた、万世一系、つまり男系の血筋を重んじてずっと継承してきた。その事実自体が日本民族生成の物語なのです。その物語は、大切なものとして受けとめなければならない。

 寛仁親王 天皇様というご存在は、神代の神武天皇から百二十五代、連綿として万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり、また神道の祭官長とでも言うべき伝統、さらに和歌などの文化的なものなど、さまざまなものが天皇様を通じて継承されてきたわけです。世界に類を見ない日本固有の伝統、それがまさに天皇の存在です。
 私は天皇制という言葉が好きではありませんから、仮に天子様を戴くシステムと言いますが、その最大の意味は、国にとっての振り子の原点のようなものではないかと考えています。国の形が右へ左へさまざまに揺れ動く、とくに大東亜戦争などでは一回転するほど大きく揺れましたが、いつもその原点に天子様がいてくださるから国が崩壊しないで、ここまで続いてきたのではないか。
 私の友人にマイヤースさんという米国人がいますが、戦後、日本に来て商売を始めた人で、日本文化に理解が深く、浅草のお酉様には必ず行って、商売繁盛のために熊手を買ってくるような人です。
 そんな彼でも、最初に日本に来て商売を始めた時は、いろいろな障壁にぶつかった。日本には派閥政治など外国人にはわからない根回しの文化があって、今、佐藤栄作さんとうまくやっても、次に誰が政権の座につくかわからないし、大臣にしてもコロコロ代わって、誰と約束していいのか皆目わからない。しかし、彼はその時、「天皇を担保と考えた」と言うのですよ。「天皇を担保と考えると、日本は絶対に変わらないのだから、自分は商売を続けられると考えた」と。陛下を担保にたとえるなどあまりにも畏れ多いことで、私は思わず、「お前はなんて失礼な奴だ」と文句を言いましたが、なるほど合理的な外国人はそう考えるのかとも思いました。これは、振り子の原点にいてくださるというのと同じ発想なのかもしれません。
 ただ、現在の問題というのは、最初に櫻井さんが言われたように、皇室とか皇族というものについて、くわしく知っている人が本当に少なくなったということですね。

傍系で血をつないできた歴史

 櫻井 有識者会議の十名にしても、天皇家のことや、日本の歴史や精神文明について深い知識と理解をお持ちの方は幾人いらしたのか。かろうじて最高裁判事だった園部逸夫さんに皇室法に関する著作があるというのと、東大名誉教授の笹山晴生さんが『日本書紀』など日本の古代を専攻されていたにすぎません。あとはロボット工学の専門家とか、国際人としてお顔が売れているとかいった方たちで、日本に軸足を置いた方というのがどれくらいいらしたかはなはだ疑問です。

 寛仁親王 会議の構成について私が口を挟むわけにはいきませんが、二千六百六十五年間も続いてきた世界でも類を見ない、まことに稀有な伝統と歴史を、一年、わずか十七回、三十数時間の会議で大改革してしまうということが、果たして認められるのでしょうか、あまりに拙速にすぎませんか、ということは強く申し上げたい。
 それから、憲法の第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と書いてあるわけですから、国民にじっくり考えてもらわなくてはなりませんが、考えるだけの情報があるのかというと、必ずしもそうではない。百二十五代の天子様のうち、何方をご存知でしょうか。
 たとえば、かつて十代八方の女帝がいらしたことが、女帝論議に火をつけているような部分があります。あの方たちはたしかに存在なさいましたが、そのほとんどは皇女、つまりお父様が天皇でいらした男系の女子です。また、もともと皇后でいらして、天皇が亡くなられたため即位された方も多く、ほとんどが御家系の中の適齢期の方が即位されるまでの中継ぎ役、ピンチヒッターとしての即位でした。また、独身で即位された方は終生、配偶者を求められていません。つまり結婚なさいませんでした。
 これらの女帝と、今、認められようとしている女系の天皇というのはまったく意味合いが違い、これからやろうとしていることは二千六百六十五年間つながってきた天皇家の系図を吹き飛ばしてしまうことだという事実を、国民にきちんと認識してもらいたい。

 櫻井 「有識者会議」の報告書が、「(歴史上の女帝の)性格や位置付けについては、一括りにすることは必ずしもできない」と曖昧にしているのも、非常に意図的なものを感じます。
 また、今、もっとも誤解されているのは女性天皇と女系天皇の違いではないでしょうか。「女系」「男系」というのは普段滅多に使わない言葉ですから、みなさんよくわからないまま、「とにかく愛子様が天皇になることだろう。それはいいことではないか」というほどの認識でしょう。
 これまでの女帝は皇極こうぎょく天皇を除いてすべて天皇の皇女ひめみこです。皇極天皇も、敏達びだつ天皇─押坂おしさかの彦人ひこひとの大兄おおえの皇子みこ茅淳ちぬ王─皇極天皇というふうに、父方の血統が天皇につながる男系の女子であることには変わりがありません。ですから、日本の歴史において女性天皇はいても、女系天皇はいなかったわけです。
 愛子様は皇太子様の皇女ですから、当然、男系の女子であり、愛子様が即位されることは女帝の伝統からしてあり得ることです。しかし、もし愛子様が天皇家と関係のないお家の方と結婚され、お子様が誕生された場合、そのお子様は男女に関係なく、女系ということになります。つまり、愛子様という母方を経由しなければ天皇にたどりつかないわけです。愛子様のお子様が次の天皇に即位した場合、ここで日本の歴史上初めて、女系の天皇が生まれることになる。今回の報告書は、それを認めるべきだと書いたところがもっとも皇室伝統と異なる部分であるわけです。

 寛仁親王 皇室の伝統を破壊するような女系天皇という結論をひねり出さなくても、皇統を絶やさない方法はあると思うのです。たとえば、継体天皇、後花園天皇、それから光格天皇のお三方は、それぞれ十親等、八親等、七親等という、もはや親戚とは言えないような遠い傍系から天皇となられています。光格天皇の場合は、前の天皇の内親王様のところに婿入りされて、内親王様は皇后となられている。そんなに古い時代のことではありません。光格天皇という方は孝明天皇のお祖父様ですから、明治天皇から見ると曾祖父様で、我々からもすごく近いところにいらっしゃる方です。
 また、宇多天皇という方は一度、臣籍降下なさって、臣下でいらっしゃった間にお子様も儲けられているのに、その後、皇室に適格者がいなくなったのか、皇族に復帰されて、皇太子になられ、天皇に即位されています。お子様も一緒に皇族になられて、その後、醍醐天皇になられています。
 こういった事実はいくつもあり、選択肢もたくさんあることをメディアはもっと発表すべきです。そうすることで国民が事実をよく理解し、選択肢の中のどれかをやってみて、それでもどうしようもなくなった時、初めて女性、女系の議論に入るという方法もあるではないですか。「有識者会議」では、そういった議論をしていなかったように思います。

 櫻井 座長の吉川弘之元東大総長自ら、「(この報告書は)歴史観や国家観で案を作ったのではない」と公言していますからね。
 報告書の中で非常に面白いのは、今、皇族のうち男系男子が五人いらっしゃるとして、出生率が一・二九である、男女半々で生まれるとすると子の世代には男系男子は三・二三人、孫の世代にほ二・〇八人、曾孫の世代では一・三四人と急速な減少が見込まれる、などと、すべて計算で理屈付けを行っているのです。吉川座長はロボット工学の権威で、まさにその発想を天皇家の問題にも適用しているのですが、人間も歴史も、ロボットのように計算どおりにはいきません。
 歴史観や国家観がないだけでなく、傲岸不遜でもあります。殿下が「ざ・とど」に書かれたエッセイについて新聞記者から質問を受けた吉川座長は、「どうということはない」と答えています。この無礼さは何なのでしょう。

 寛仁親王 私は構いませんが(笑)、「ありがたく拝聴させていただきます」くらい言っておけば角は立たないのですから、非常識だとは思いますね。

 櫻井 過去の日本においては、男系のお世継ぎが眼の前にいない時、先人たちは大変な苦労と工夫をして、女系をとらずに男系の継承をつないできました。殿下がおっしゃったように、十親等も離れていれば、赤の他人かもしれませんが、あえてそれでいい、それでも男系を守ることが大事なんだと考えた。その祖先の心というものを大切にしなくてはいけないと思います。

旧皇族復帰に違和感はない

 寛仁親王 戦後、GHQの圧力で皇室弱体化のために皇籍を離脱させられた十一の宮家もあります。その後、後継者がなく絶家になってしまったところもありますが、今でも少なくとも八つの旧宮家には男系男子がいるのですから、宇多天皇のようにその方々にカムバックしていただくという手もあります。
 これらの方々が昭和二十二年に皇籍離脱される時、当時の加藤進宮内府次長が、「万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎しみになっていただきたい」と言っています。当時の人たちもそういうことは考えていた。しかし、GHQが睨みをきかせているし、その時は六人もの若い男系男子がいましたから、きっと大丈夫だろうという発想があった。しかし、今、それが危うくなってきたのです。
 今、旧宮家には八方くらいの独身男子がいらっしゃるそうですから、全員というわけにはいかなくても、当主のご長男とか、何人かには皇籍に戻っていただいてもいいのではありませんか。これらの方々と今の天皇家との共通の祖先は南北朝時代の崇光天皇まで、六百年もさかのぼらなくてはならないと反対する人もいますが、二千六百六十五年の歴史からしますと、六百年くらいは十分に許容範囲です。
 また、これらの宮様たちが六十年間も一般人の生活をなさってきたのだから、皇族に復帰することには違和感が国民にあるだろうとおっしゃる方がいます。しかし、「有識者会議」の結論では、女性天皇のお婿さんは皇族にするということです。まったく一般の方が天皇の夫になるほうが、よほど違和感があるのではないでしょうか。報告書は女性天皇の配偶者を「陛下」とお呼びするとしていますが、いくら立派で優秀な男性でも、ある日、突然、鈴木さんや山本さんや田中さんが陛下になったら、皆さん方も呼びづらいでしょうし、違和感も極め付きで大きいでしょう。
 みなさんが意外とご存知ないのは、我々現職の皇族と旧宮家の方々はすごく近しく付き合ってきたことです。それは先帝様のご親戚の集まりである「菊栄親睦会」をベースとして、たとえばゴルフ好きが集まって会を作ったりしています。また、お正月や天皇誕生日には、皇族と旧皇族が全員、皇居に集まって両陛下に拝賀というご挨拶をします。最初に我々皇族がお辞儀をして、その後、旧皇族の方々が順番にご挨拶をしていく。ですから、我々にはまったく違和感などありません。

 櫻井 庶民の言い方をしますと、ずっと親戚付き合いを続けてこられて、お身内の感覚が強いわけですね。

 寛仁親王 たとえば私の姉は近衛家に降嫁して、忠大ただひろという一人っ子がいますが、最近、彼が結婚しまして、子どももできて、父もとうとう曾祖父さんになりました。そのお相手というのが神社本庁の統理をなさっている旧久邇宮家の当主、邦昭さんの弟さんのお嬢さんです。ですから、旧皇族さんたちとは文字通り親戚です。
 それから、もうひとつの方策として、秩父宮家、高松宮家という由緒ある宮家が今、絶家となっているわけですが、ここに旧皇族さんたちに入っていただき、祭祀のお祭りをしていただくという手もあります。
 これは前例もあって、高松の伯父様は有栖川宮家の祭祀をお祭りになっていました。有栖川宮威仁たけひと親王は大正天皇の皇太子時代、お側にあって教育や健康の管理にあたられ、大正天皇はそのことを大変恩義に感じておられましたが、残念なことに威仁親王には後継者がいらっしゃらず、宮家は廃絶になりそうでした。そこで大正天皇は、「その祭祀をうちの三男坊に継がせよう」と仰せになりました。今でも高松宮御殿の中には有栖川様をお祭りしたおやしろがあります。

 櫻井 皇族にはご養子が認められていませんが、そこを改正して、絶家となった宮家を復活させるという案ですね。

女系天皇は日本国終わりの始まり

 寛仁親王 孝明天皇まで天皇様は御簾みすの向こうにおわしました。明治、大正、昭和、今上という四代の方たちだけが外に出て、国民の目にふれるようになったわけです。ですから昔は今以上に、皇族のことを知らない人たちがたくさんいたはずです。しかし、この国にはみかどという方がいらっしゃる、天子様という方がいらっしゃる、それが日本の伝統的権威なんだということは、隅々まで知れ渡っていたはずです。ですから足利、織田、豊臣、徳川といった天下をとった武家たちも、つねにナンバー・ツーの存在であり、ナンバー・ワンには天子様がおわした。
 当時の国民は、京都には都があって、そこには天子様がいらっしゃるということを暗黙のうちに知っていて、心の支え、置き所として尊崇の念で見てきた。その尊崇の念の根本は、繰り返しになりますが、二千六百六十五年の間、神話の時代から延々と男系、父方の血統で続いてきたという稀有な伝統であり、この血の重みには誰も逆らえなかったということだと思います。血統に対する暗黙の了解、尊崇の念を国民が持っていてくださるから、私のように仕事はするけど毒舌の乱暴者であるとか、弟のような車椅子の重度障害者であっても、みなさんがきちんと扱ってくださるわけです。
 それが、畏れ多いたとえですが、愛子様がたとえば鈴木さんという男性と結婚されて、そこから玉のようなお子様が生まれれば、その方が次の天皇様になられるわけです。そのお子様が女のお子様でいらした場合、さらに、たとえば佐藤さんという方と結婚されて──というふうに繰り返していけば、百年も経たないうちに天皇家の家系というのは、一般の家と変わらなくなってしまいます。その時、はたして国民の多くが、天皇というものを尊崇の念で見てくれるのでしょうか。「私の家系とどこが違うの」という人が出てこないとは限らないわけです。天子様を戴くシステムを突き詰めて考えれば、先ほども言いましたように連綿と続く男系による血のつながりそのものなのですから。

 櫻井 それは理屈を超えたひとつの「かたち」ということが言えますね。理屈ではないからこそ二千六百六十五年ものあいだ続き、日本という国の安定装置、振り子の原点として働いたわけですね。

 寛仁親王 私に言わせると振り子の原点、アメリカ人は担保と考えるくらい、日本の歴史に根ざしているこの天皇制度というものが崩れたら、日本は四分五裂してしまうかもしれません。そう考えると、この女系天皇容認という方向は、日本という国の終わりの始まりではないかと、私は深く心配するのです。

 櫻井 女系天皇を認め、長子を優先するという報告書の方針は、GHQでさえ手を付けなかった皇室のお血筋、本質論に手を突っ込むことを意味します。もし、報告書の通りにことが進めば、殿下のご心配のように、日本の皇室は消滅してしまうかもしれません。その場合、日本はどうなるのか。日本民族を日本民族たらしめてきた精神文明の核とも言える皇室がなくなれば、私たちは無国籍の民のような、どこの誰ともわからない民族になりかねない。

 寛仁親王 それこそアメリカの五十一番日の州とか、中国の属領になるかも知れない。せっかくサミュエル・ハンチントン教授が『文明の衝突』で、日本は世界の中でも独自の文明を持つひとつだと書いてくれたのに、それを台無しにしてしまうのは、いかにも残念なことです。

 櫻井 ヨーロッパには女王がいらっしゃるから日本にいてもいいではないか、という議論がありますが、ヨーロッパの王室は武力、権力に基づく王権ですがたとえばスウェーデンのベルナドッテ王家の祖はナポレオンの部下の将軍です。ナポレオンがヨーロッパを席巻したとき、スウェーデンの国王にはたまたま後継者がいませんでしたから、いっそナボレオンの部下を迎えたら、国土を荒らされなくて済むだろうというので、シャルル・ベルナドッテ将軍が国王に迎えられた。彼は生涯、フランス語しか話せなかったそうです。力の論理でいくと、そういうことが起きます。しかし、日本の場合、先ほどの武家政治のお話でも明らかなように、権力は将軍が握り、皇室は権威として君臨した。権力と権威の分離を、日本人は民族の知恵としてずっと続けてきたのです。

 寛仁親王 民族の知恵ということで言えば、今回の議論では、男女平等とか、男女共同参画といった考え方もあるようですが、それは日本国民が守っていかなくてはならない民主主義の中のひとつの規律です。しかし、そもそも皇室というものは、そうした民主主義の規範内にぴたりとおさまる存在ではないということも忘れてはなりません。たとえば我々皇族は選挙権もなければ被選挙権もありません。また、医療保険もなければ、営利事業に関与することもできない。つまり基本的人権をまったく無視されていて、日本国民と言えるかどうか難しい存在であるわけです。 そこに国民の規範を適用するというのはナンセンスですし、そうするのであれば、まず天皇様から選挙権をお持ちいただいて、政治的発言もしていただかなくてはなりません。しかし、皇室というものはそういった国民の規範からわざと外して、別格としてある。これまた大和民族の知恵だろうと思います。

 櫻井 男女平等や民主主義は大切なことで、私はそのような価値観を守るために言論活動をしているようなものです。そのことと皇室およびその伝統を守りたいと思うことはまったく矛盾しません。皇室は民族生成の物語、「この国のかたち」なのであり、そうしたものを踏まえての男女平等や民主主義は十分ありうると思うからです。
 ところで、拙速であっても、今、女系天皇容認という結論を急いで出さなくてはならないという根拠の一つとして、天皇になる方の帝王学は三歳くらいから始めなくてはならないと言う人もいます。

 寛仁親王 それもナンセンスです。たとえば先帝様のように、幼い頃からご学友が決められ、東宮御所に御学問所が建てられるといった時代には、帝王学というものがあったかもしれません。とくに先帝様の場合、東郷平八郎を総裁として、杉浦重剛が倫理学をご進講されるとか、錚々たる方たちが教育にあたられたわけですから、それは帝王学と言っていい。しかし、今の皇太子様からは、まったく私と変わらない教育を受けてこられたわけです。学習院で一般の生徒に交じり、一般の生徒と同じ授業を受けられてきたのですから。したがって、お父様やお母様の背中を見て、あるいはお祖父様やお祖母様の背中を見ながらお育ちになることが、結果として帝王学になるということであり、それならば、とくに焦る必要はないと思いますが……。

本当に「陛下のご意思」か

 櫻井 最後に皇室典範を改正しようという一連の流れの中で、非常に気になるのは、拙速な議論に反対する勢力に対して、まことしやかに「これは陛下のご意思です」と言って、反対論を封じ込めようとする動きがあることです。

 寛仁親王 一昨年の十一月に陛下が宮内庁長官と侍従長をお呼びになったという事実があるそうですね。そこから「有識者会議」の設置などがばたばた決まったので、そういう話も出てきているのかもしれません。

 櫻井 以前も似たケースがありました。平成四年の天皇陛下の中国御訪問でした。この時も強い反対論があったのですが、推進派であった当時の柿沢弘治外務政務次官や橋本ひろし中国大使らが、「これは陛下のご意思である」と言って、反対論は消えていきました。私はこれを大変不審に思いまして、取材して『文藝春秋』にレポートしたのですが、陛下がいつ、どこで、誰に対してご意思を洩らされたのか、柿沢さんはもとより、誰一人答えることが出来ませんでした。つまり実体のない話だったのです。
 しかし、結局、陛下はご訪問を余儀なくされました。政府は、困っている時に手を差し伸べれば中国は必ず恩義に感じ、日中関係はよくなると言っていたにもかかわらず、日中関係はその後、最悪になっています。この過ちが繰り返されてはならないと強く思うのですが、本当に女系容認とか、長子優先といった今回の報告書は陛下のご意思に沿ったものである可能性があるのでしょうか。

 寛仁親王 今の典範のままですと、いずれ先細りになって皇位継承者がいなくなるという可能性はありますから、ご自分の御世のうちにしかるべき確かな方法を考えてほしいというくらいのことをおっしゃった可能性はあるかもしれません。しかし、具体的に、女系を容認せよ、とか、長子優先とか、そうおっしゃる可能性は、間違ってもありません。陛下はそういうことをおっしゃる立場にありませんし、なにより非常に真面目なご性格からしても、そのような不規則発言をなさることはあり得ないでしょう。

 櫻井 ならば、陛下のご本心は、「有識者会議」の報告書と同じなのか、それとも反対でいらっしゃるのか。私には二千六百六十五年続いた伝統をご自分の代で変えてしまうことを陛下はお望みではないと思えてならないのですが。

 寛仁親王 あれだけ神道の祭事を生真面目にこなされている天皇様も珍しいですからね。

 櫻井 やはり私たちは声を大にして、拙速な議論を戒めていかなければなりませんね。

 寛仁親王 私が国民にお願いしたいのは、愛子様が即位されるにしても、それまで少なく見積もっても三十年から四十年はあるわけです。その間にこれまで皇統を維持するために先人たちがどのような方策をとってきたかの事実をよく考え、さまざまな選択肢があることを認識した上で、ものごとを決めてほしいということです。それでも国民の大多数が女系天皇でいいと言うのでしたら、そこで大転換すればいいのであって、今すぐ決めるという必要はありません。そして、ほかになし得る方法があるのなら、まず、そちらをやってみて、それでも打つ手がなくなった時に初めて変更を認めるやり方のほうが、よりよいのではないかと考えています。

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