文藝春秋 平成十八年一月号

「女性天皇」愛子様の苦難

史上初「天皇陛下のお婿さん」になり手はいるのか

ノンフィクション作家・工藤美代子

 まずは朝刊を見て驚いた。各紙、女系天皇容認、第一子優先といった文字が躍っている。平成十七年十一月二十五日の新聞である。この前日に小泉首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」が報告書を首相に提出していた。その内容が明らかになったわけだ。これをもとに、来年の通常国会に改正案を提出すると首相は語っている。
 この内容の大きなポイントは二つある。まず、今までは男系で(明治以降は男系の男子)皇位が継承されてきたのに対し、これからは女性、女系の天皇を認めるということ。
 日本の歴史において女性の天皇はいたが、「女系」の天皇というものは存在したことがない。つまり、一千年をはるかにこえるわが国の皇室伝統においてはじめてのことなのである。日本の皇室伝統を表す言葉として「万世一系」があるが、女系の天皇を認めるということは、それを断絶させるということだ。
 次に男性でも女性でも、とにかく第一子が継承するのが適当だと判断している点である。
 つまるところ、この報告書は、「皇太子の次の天皇は愛子内親王(女性天皇)、その次は男女を問わず愛子内親王の産んだ子(女系天皇)」と書いてあるのだ。
 実際、有識者会議の吉川弘之座長は二十四日の記者会見で、「(今後)皇太子ご夫妻に男児が誕生されても愛子様が天皇にということか」と問われ、「結論はそういうことだ」と答えている。
 愛子内親王を天皇にするために、あらゆる伝統や常識を無視したもの、それがこの報告書である。
 男女平等の世の中なのだから、女性が天皇になっても良いではないかという声が多いのは私も知っている。しかし、実際に女性が天皇になったときに、どのようなことが起きるのか、果たして有識者と呼ばれる人たちはどのくらい真剣に考えたのだろうか。
 そもそもこの有識者なる人たちは、皇室伝統についてほんとうに見識を有する人たちなのか。ここでもう一度、会議のメンバーを見てみよう。
 座長の吉川氏は元東大総長で専門はロボット工学。岩男壽美子武蔵工業大学教授は社会心理学専攻で、元男女共同参画審議会会長。緒方貞子氏はもともと国際政治学者。国連畑で活躍し、現在は国際協力機構理事長。奥田碩氏はトヨタ会長で日本経団連会長という財界人だ。久保正彰東大名誉教授は西洋古典学、とくにギリシャ文学のホメロスの研究家。佐々木毅前東大総長は政治学者。佐藤幸治京大名誉教授は憲法学者。古川貞二郎前内閣官房副長官はただの厚生官僚……。
 かろうじて笹山晴生東大名誉教授が日本古代史専攻で律令制度の専門家、園部逸天元最高裁判事には『皇室法概論』の著作がある。
 つまり、十人中八人が「ずぶの素人」という、まことに奇怪な諮問会議であったのだ。
 この会議は、皇室伝統に対する知識だけでなく、人間に対する理解にも欠けている。吉川座長は理系の泰斗らしく、「出生率を一とすれば三代で後継者はいなくなる」などと確率論を振りかざして議論をリードしてきたが、人間はロボットと違って確率通りには行動しない。

   女性天皇に結婚相手はいるか

 まず、私が最初に考えたのは、まだ学齢期にも達していない愛子内親王の将来についてだった。
 今春より学習院幼稚園に通うことが決まり、いよいよ可愛い盛りを迎える愛子内親王に、女性誌を筆頭にマスコミは毎月、多大なべージを割いている。また、将来、天皇になるとしたら、三歳ぐらいから帝王学をスタートさせるべきだという声もあり、紀宮(黒田清子)様が最初、皇室とは縁のない柿の木坂幼稚園に通われたのと違って、最初から学習院を選ばれたのも、その一環ともいわれている。
 しかし、愛子様が成人したとき、はたして結婚相手はみつかるのだろうか。そういっては失礼だが、皇太子殿下のときでさえも、なかなかお妃が決まらずに難航した。
 つい最近、ようやく紀宮様がご結婚なさったが、これも適当なお相手がみつからず、ずいぶんとご苦労なさったと聞いている。私が個人的に知っている範囲でも、幾つかの縁談が浮上しては消えていった。
 先方が望む場合はその家柄に問題があり、実際、候補者と取りざたされた人物の父親が社会を震撼させる事件を起こした例もあった。だから、いくら裕福でも背景のしっかりとしたお家でなければ降嫁は不可能である。
 また、周囲が納得するようなお家であっても、なかなかすんなりとはいかないようである。ある古典芸能の家元のご子息がいった言葉がある。
 「紀宮様は、大変ご立派な女性だと思いますが、もしも私の家に来ていただいたとき、私の両親や姉妹の気遣いは並大抵のものではなくなるはずです。だから間に立つ方からお話をいただいたときに、もう、すぐにご辞退しました」
 にこやかに、彼がそう語ったのは、かれこれ十年ほど前である。もちろん、このお話は周囲の人たちがお世話を焼いて、内々に打診したものであり、正式なご縁談というまでにはいたっていないものであろう。しかし、この言葉こそが、内親王との縁談が持ち上がったときの、お相手の男性の偽らざる心境ではなかっただろうか。
 幸い、黒田慶樹氏は皇室とのご縁もあり、また秋篠宮さまとのおつきあいもあって、ごく自然に結婚へとゴールインなさった。しかし、これはあくまで降嫁の場合。愛子様のお相手は史上初の「女性天皇の配偶者」となるのだから、ハードルは比較にならないほど高い。
 いったい誰が、天皇の夫になろうと考えるだろうか。しかも、その夫となる男性の呼称さえも、まだ決まっていない。報告書にはとりあえず陛下とお呼びするなどとまことに曖昧なことしか言及していない。
 天皇の夫の役割とは、いったい何なのだろう。あのイギリスのエリザベス女王でさえも、夫君の存在はともすれば揶揄やゆの対象となった。夫君のエジンバラ公はデンマーク王室の血を引くギリシャ王家の王子という申し分のない血統だが、革命で王制が倒れ、王室一家はイギリスに亡命中であったこともあって、イギリスでは政府も国民もこの結婚を歓迎せず、エジンバラ公に明確な役割を与えることをしなかった。そのことで、エジンバラ公とイギリス国民との問にはつねに微妙な距離感があった。そのため、チャールズ皇太子をはじめエリザベス女王の王子、王女たちがスキャンダルを起こすたびに、父親としてのエジンバラ公の資質が問題視され、批判されることになったのである。
 また、オランダのベアトリクス女王はドイツの外交官、クラウス氏と結婚したが、婚約後、氏がかつてヒトラーユーゲントのメンバーであったことが明るみに出て、ナチスに蹂躙された記憶の新しいオランダでは猛烈な反対運動が起き、結婚式もデモ隊に囲まれた。女王の伝統のあるヨーロッパでもそうなのである。
 香淳皇后や美智子皇后の例をひくまでもなく、皇后ならば、そこに国民がすべての家庭の母親の原型を見出して、親しみを感じることはある。だが、天皇の夫に、私たちはどんなイメージを求めたらよいのだろう。
 そもそも、自身の役割もはっきりとしない立場になることがわかっていて、わざわざ天皇のお婿さんになろうなどと考える男性がいるとは到底思えない。
 これは、ごく普通の庶民の感覚である。こうした常識を無視してまで、やみくもに愛子内親王の即位を念頭に置いた報告書をこの会議は作成したのである。
 民間から皇室に入ることは、想像以上にたいへんなことなのだ。それは皇太子殿下と結婚された雅子妃が、その後、適応障害という病気に苦しんでおられることからもわかる。
 明治時代以降、皇后は天皇のご公務を常にサポートする立場にあった。特に、大正天皇の時代には、天皇が病弱だったこともあり貞明皇后がまるで影のごとくあらゆる場所に付き添って補佐した。昭和天皇の時代もまた、香淳皇后が国母陛下として国民の尊敬を一身に集めていた。美智子皇后が現在でも精力的に天皇と共にご公務をこなされているのは周知の事実だ。
 私は専門的なことはわからないが、もしも雅子妃のご病状が回復しないままで、将来、皇后となられたとしたら、さらに大きな精神的負担がかかるのは確かだろう。
 現在、皇太子妃でさえも、これだけの不安要素を持っている皇室に、さらに、史上初めての「女性天皇の配偶者」をもとめようなどというのは、机上の空論ではないのか。
 女系、女性天皇容認派のある論客は、「そのときになれば、立派な日本男児が名乗りを上げるにちがいない」という。だが、そんなことはあり得ないというのが世間の常識である。
 女性天皇の配偶者については、明治の旧典範を定めるときも問題になった。当時すでに、今と同じように女性天皇を認めるべきだという議論はあった。しかし、伊藤博文の知恵袋であった井上毅が強く反対し、結局、女性天皇は認められなかった。そのとき井上は、野心家が女性天皇の配偶者となった場合、国政が乱れることも反対の理由のひとつとしてあげている。もちろん、天皇の地位や皇室を取り巻く環境は、当時とは大きく変化している。しかし、女性天皇の配偶者という問題は、軽々しく決めることができないのは明らかだ。

    なぜ結論を急ぐのか

 かつて昭和天皇の時代に、皇后が内親王ばかりを立て続けに四人出産されたことがあった。昭和の初めのことであるから、今よりももっと男尊女卑の風潮は強かった。そこで、皇后はいわゆる「女腹」であり、皇子は誕生しないという噂が流れた。そのとき、明治維新で活躍し、その後、宮内大臣などを歴任して宮中で重きをなしていた田中光顕が、天皇に側室を持たせることを提案し、実際に、家柄もよく美しい三人の女性が選ばれた。
 ところが昭和天皇は「自分は人倫にもとる行為はしたくない」とおっしゃり、頑なに側室を拒否した。そして、同じように傷心の良子皇后に向かって、「男の子が生まれないのなら、それならそれでいいではないか。高松さんも秩父さんもいらっしゃるのだから」といって、優しくなぐさめたと伝えられる。
 現在の皇室をみても、皇太子にも秋篠宮様がいらっしゃる。しかも父陛下もまだお元気でご公務に取り組んでおられる。ところが、今回の有識者会議なるものは、まったく今までの歴史を無視し、一年の歳月もかけずに報告をまとめてしまった。これではもう初めから皇室に対するある先入観を持った人々の集まりなのではないかと思わざるを得ない。
 なぜ、そんなに結論を急ぐのか。皇室の存立基盤の最大の要素は伝統である。それをないがしろにしては、皇室の正統性や尊厳は失われてしまう。いま、女系天皇を容認することで、愛子内親王の次の代は皇室伝統と異なる女系の天皇となる。そうなったとき、皇室の尊厳は保たれるのか。おそろしい想像だが、そのときになって、「いまの皇室は伝統も何もない存在だ」という理屈で皇室廃止論者が勢いをつけることはないだろうか。かつて左翼が唱えていた皇室廃止が、こんなところから実現するかもしれない。
 私は皇室が現在の天皇まで百二十五代が一度の例外もなく男系によって続いてきた意味は大きいと考えている。したがって、今回の有識者会議の報告はいったん破棄し、もう一度、きちんとした知識と敬愛の念を皇室に対してもっている本当の意味での有識者によって、慎重に問題を論議するべきだと訴えたい。
 その理由はいたって明快である。皇室は日本人の精神的な支柱となっている。なぜかといえば、日本の独自の文化をしっかりと守り継承してきてくれたのが皇室なのである。逆にいうと、皇室を否定することは日本独自の文化を否定することになる。だからこそ皇室の存在は大切なのである。
 有識者会議は皇族方の意見も聞かなかったという。それはいかにも倣憤な態度ではないだろうか。寛仁親王がプライベートに書かれたエッセイで、女系容認に異議を唱えられたことが新聞にすっぱ抜かれたとき、吉川座長は、「どうってことない」と答えた。この無礼さは何であろうか。戦前は宮内省や侍従制度がしっかりしていたため、このようないい加減な議論がまかり通るようなことはなかっただろうが、戦後、宮内庁は総理府の一外局となり、事務を取り扱うだけの役所に成り下がってしまったから、声をあげることもない。
 少なくとも、あと十年、できれば二十年のうちに結論を出せばよいと私は思っている。まだ皇太子がお若いのだし弟宮もいらっしゃるのだから、今のところは事態をじっと静観してはどうだろうか。
 私はノンフィクションを書いていていつも感じることなのだが、事実が人間のちっぽけな想像力を常にしたたかに裏切るのが歴史である。
 これから先も、私たちの想像を凌駕する展開が皇室とその周辺において起り得ないと誰がいえるのだろう。
 四人の内親王を産まれた後に良子皇后は現在の明仁天皇を出産なさった。結婚して十年近い歳月が過ぎていた。その間には大正天皇の妃である貞明皇后が、密かに秩父宮を皇位に就けようと画策したという噂が流れた。当時、秩父宮はスポーツの宮様と呼ばれ、国民の間では圧倒的な人気があった。また、九条家、つまり臣下出身である貞明皇后は、宮家(久邇宮家)出身の王女であった良子皇后よりも、自分が気に入って秩父宮妃に選んだ、松平家出身の勢津子様を可愛がっていたという。
 そんな不安定な状況のなかでも、昭和天皇は粛々と政務を果たし、やがて皇子誕生の日を迎えた。それは、周囲の余計な小細工を泰然と受け流されたからこそ迎えられた良き日であり、皇統は守られたのである。
 余談ながら秩父宮夫妻はついにお子さんには恵まれなかった。
 だから私が繰り返し述べたいのは、なにも今、あわてて愛子様の将来を決めるようなことはせず、むしろ自然の流れに任せて経過を見て、それから結論を出しても遅くはないということである。

    旧宮家は一般市民ではない

 皇室典範の問題をあらたに考え直すとした場合、私はこのように考えている。
 私は基本的に、女系、女性天皇には反対だ。それは天皇が男性でなければ務まらない多くの神事が皇室にはあり、また、これまでの長い伝統が男系によって守られてきたという事実があるからだ。また、千年以上にわたって継承されてきた皇室にまつわる最重要課題を、自分たちの代で変えてしまおうなどという不遜な考えは、私にはない。
 さらに、愛子様が皇位に就くことに関しては、その前途はあまりに多くの苦難に満ちていると思う。その理由の一つはすでに述べたように、将来、愛子様が結婚するときに、必ず配偶者の問題が持ち上がるのと同時に、雅子妃のご病状も心配のひとつである。愛子様の将来について、今ここで結論を出すことは、母子ともに負担を増すだけではないだろうか。
 雅子妃のご病気と、愛子様の将来を切り離して考えられないのは、一般の家庭と同じことである。まずは母親の養生や今後の見通し、子供への影響などをじゅうぷんに考慮しながら、愛子様の将来を考えるのが、家族としては本当の愛情だろう。私たち国民も、すべての重荷が皇太子ご一家にかかるような決断は絶対にすべきではないと思う。
 では後継者が早晩いなくなるという現在の状況を打開するにはどうしたら良いのか。それはやはり、候補となり得る男性皇族を旧皇族の中から選んでおいてはどうだろうかと思う。
 考えてみれば、戦後になって、マッカーサーの支配のもとに直宮以外の皇族はすべて.臣籍降下された。これは強制的ではなかった。天皇をお守りするため、宮内省の加藤進次官の発案により、いわば他の十一宮家、五十一人は切り捨てられた形となったのである。
 昭和二十一年十一月二十九日、昭和天皇は、宮城に参内した皇族たちを前にして、これからも身を慎み、貴賓ある生活をして欲しい、できるだけの援助はするつもりだし、尋ねたい件があったら遠慮なく申し出るようにというお言葉をかけた。さぞや無念のお気持ちだったろう。陛下は心情的には、このときの皇族方に、強い同族意識を持っていた。そして皇族方も、それぞれ格式ある家門の長い歳月を背負って、特別な生活を送ってきたのである。
 それだけに、敗戦という事態で心ならずも皇籍を離れた十一宮家の方々に、もう一度復帰してもらうのは、それほど不自然なことではないと私は思うのである。有識者会議は、「六十年も前に一市民になられた方々が皇籍に復帰されるのは国民に違和感がある」とするが、旧皇族の方々の多くは現在でも皇室とは親戚関係にあり、交流は続いている。その意味でも、まったく伝統が途絶えてしまったわけではない。
 現存する旧皇族としては、伏見宮家、梨本宮家、久邇宮家、北白川宮家、賀陽宮家、朝香宮家、東久邇宮家、竹田宮家が挙げられる。その中には竹田恒和氏のように日本オリンピック委員会の会長を務める方もいれば、北白川道久氏や久邇邦昭氏のように伊勢神宮の大宮司だった方もいる。
 とくに大宮司については、旧宮家の方々につとめていただくほうが国民も納得がいくからこそそうなってきたわけで、そのことひとつをとっても、国民は旧皇族に対して一市民とは異なった思いを六十年問抱きつづけてきたといえる。
 いずれにせよ、こうして現在も皇室と親戚関係にある旧皇族方にもう一度宮家を創設して、そこに入っていただき、皇族全体の人数の増加を図ってはいかがだろうか。
 いっぺんに八つも宮家を増やすことに関して、予算の問題を挙げて難色を示す人もいる。その場合、戦後、廃絶してしまった宮家を再興するというのはどうであろうか。高松宮、秩父宮はともに今はない。また、お子様に恵まれず、いずれ廃絶される宮家もある。だから、そうした宮家の跡を継いでいただくというのも一案である。そして皇室本来の仕事である祭祀を継承していただきたい。

    皇族に養子を認めよ

 その前提として提案したいのは、皇室典範を改正し、養子に入る方が旧皇族出身である場合に限って皇族が養子を迎えられるようにしてはどうかということだ。明治の旧典範の段階で、皇族は養子を取ることを禁じられていた。そのため、由緒ある有栖川宮家や小松宮家も、継承者がいないという理由で戦前に断絶している。当時は宮家が数多くあったため、養子を認めて血統が乱れるおそれのほうが重視されたのだろう。また、養子縁組に政治的な思惑が介入するのを避けるといった意味もあったと思う。
 また、養子を禁じる余裕があったのは、側室制度があったことも大きい。明治、大正の時代は天皇に側室がいるのが当然だった。だから大正天皇も皇后の実子ではない。言葉は悪いが、将来の天皇候補となる男児を確保するファームが側室という制度だったのである。それが消滅した現在、養子を取ることで、男系を確保する以外に方法はないのではないだろうか。
 いずれにせよ、男系でない天皇家の誕生は「万世一系の天皇家」の断絶を意味している。それを、わずか一年にも満たない論議で決めてしまってよいものかを、もう一度、冷静に原点に立ち返って考えてみたい。
 昭和六十四年一月七日、昭和天皇が崩御されたとき、日本中が働突し、その死を悼んだ。なぜ、あれほどまでに、昭和天皇は国民に敬愛されたのだろうか。この前年の九月に陛下御不例のニュースが伝わると一週間の間に快癒を祈るため二百三十四万八千人の人が日本各地の記帳所に足を運んだという。まさに驚異的な数字だ。あのときほど、日本人のこころが一つとなり、ひたすらに陛下の病状を見守ったことは、かつてなかったのではないか。
 なぜ、昭和天皇が国民に愛され信頼されたかといえば、その理由はたった一つであると私は考える。
 昭和天皇は六十三年の在位の間、常に国民と苦楽を共にした。先の大戦で日本が惨めな敗北を喫したときに、自らアメリカ大使館に赴き、マッカーサーと面会した。その詳細はいまだ明らかではなく、マッカーサーの証言と日本側に残された資料とは食い違う部分もある。しかし、それでも、はっきりと記録に残っているのは、天皇が連合軍の最高司令官に対して、どうか私の国民を飢えさせないでくれと頼んだことである。命乞いに来ると予想していたマッカーサーは天皇のこの態度に深く感銘を受け、天皇を通して、日本を統治する方法を思いついた。
 それほど昭和天皇とは、私心がなく、戦前も戦中も戦後も国民と苦楽を共にした方だったのである。それは在位五十年のときに詠んだ次の歌からも伝わってくる。 「喜びも悲しみも皆国民とともにすぐしきぬこの五十年を」
 香淳皇后もまた、天皇が皇室の財産はすべてGHQに差出し日本の復興に役立てたいといったところ、「ご安心あそばしまし」と答えて、快諾したという。
 偉大なる昭和天皇の足跡に思いをいたすとき、私は皇室の将来を国民全体が、もっと慎重に考えて欲しいと願う。皇室は私たち日本人にとっては、そのアイデンティティの根幹に位置するものである。
 あまりに拙速な結論は天皇制そのものを脅かすことになろう。

還る