小堀桂一郎
(こぼり けいいちろう 東京大学名誉教授)
■ 教材は古典文学の中に無限にある
《ゆとり教育の罪は明らか》
首相直属の諮問機関としての「教育再生会議」が、一部の人選に疑問を抱かせながらもとにかく発足した。民間でも「新しい歴史教科書をつくる会」の運動で経験を積んだ後、そこから離れた有志の人々が「日本教育再生機構」を設立して此度活動の開始を宣言した。この両者への支援協力なのか牽制的意図があるのか、その点はなほ不明であるが、政界では「与党教育再生協議会」なる組織も出来たと聞いてゐる。
この三者が目指してゐる目標とその構想にどの程度の共通性があるのかとの問ひはさて措いて、それぞれがその掲げる旗印に「再生」の二字を謳つてゐることが注意を惹く。それは、今や日本の教育は死に体の症状を呈してゐるといふ判断だけは、この人々の共通した認識となつてゐる故であらう。
教育を瀕死の状態に陥れた加害犯人は、遠く遡れば日教組の革命準備路線であること衆目の一致する所であるが、近い所では「ゆとり教育」の仕掛人達がその罪の責任を負ふものである。既にこれらの思想の陰湿な犯罪性は完全に見抜かれてゐるのだから、学校教育の現場から一日も早くこの思想を根絶することが、教育再生のための必須の条件である。
《努力こそ人生の質高める》
そのための思想的武器として今改めて推奨したいのが福澤諭吉の『学問のすゝめ』といふ古典的教育論である。これは教員養成課程での必読の教科書として採用を要請したい。その心は、児童の知育・徳育の達成度を測るに際しては誰憚ることなく競争原理を取入れよ、といふにある。努力する者のみが自分の人生の質を高めることができるのだ、との道理を子供の脳裡に叩き込むこと。それが畢竟生徒達の将来の生の充実を約束する指針たり得るのである。
古典的名著の名を挙げたついでに言ふ。教育には目標の手近なる具体性が実に重要である。「人格の完成」とか「個性の尊重」とか、況してや「真理と平和の希求」などといふ雲をつかむ様な観念的な謳ひ文句は教育上明らかに有害である。折から10月30日といふ奉戴記念日を迎へて、「教育勅語」の説く如き〈父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己を持し…〉の格率の持つ具体性がどんなに教育的に有効であつたか、痛切に思ひ起される。
この意味で、人生の価値の最高の範疇を説くに際しても、それを「真・善・美」といつた西洋渡りの抽象的で定義困難な観念に求めるのではなく、「正直・仁慈・勇気」といつた具体性を以て示す方が有効である。これは実は「鏡・勾玉・剣」といふ三種の神宝に象徴される日本民族の蒼古の昔からの徳の範疇なのだが、神宝は所詮象徴なのだから、これらは「正義・柔和・決断」とも、或いは「無私・敬虔・英知」等と適宜幅を持たせて読み替へることができる。いづれにせよこの神宝の教へを奉ずることによつて、我が民族が如何に美しく又内容豊富な歴史を形成することができたか、その事を子供に向つて説くによろしき教材は古典文学の遺産の中に無限に豊富に蔵されてある。
《石井勲式漢字教育を採用》
教育に於ける具体性原理の実践として、初等・中等教育では昔ながらの「読み・書き・そろばん」(算盤は基礎的計算力の比喩である)を最重要視すること。国語では、初等段階に平易な纂訳を用ゐることは構はないが、必ず古典に典拠を有する教材(例へば昔話)を以て読本を編むこととし、現代作家の作品や評論の類は心して避け、なるべく人物の伝記を多く取入れることである。それが又間接的に道徳教育の役割を果す。総じて子供には国語力さへ十分につけてやれば、基礎教育の九割は成就したと見てよい。国語の文章を自在に読みこなす力さへあれば、算数・理科・地理・歴史のいづれも、然るべき教科書を与へてやるだけで、子供はそれらを各自の興味に応じて自分で読みこなしてしまふであらう。教室での教師の負担はその分だけ軽減されるのである。
最後に更に具体的な提言をしよう。小学校の国語教育に石井勲式漢字教育を取入れることである。石井氏の多年の実験によれば、子供にはかなの抽象的記号性よりも漢字の具象性の方が、理解も記憶もはるかに容易なのだ。石井氏の方法に基づいた教科書の制作には少々時間がかかるかもしれないが、少くとも個々の教員が石井式方法を自ら実践することを妨げないだけの、学習指導要領の自由化を断行することくらゐはすぐにもできる。「教育再生」の鍵はこんな手近にある。