平成十二年十一月十日 明成社
ISBN4-944219-05-9 C0021 税別千九百円
南京にいた欧米人で「三十万人虐殺」を主張した人は皆無、日本軍にあった「国際法遵守」「不法行為禁止の命令」、大量殺害の証拠とされる「埋葬記録」の水増しなど、中国の「南京大虐殺論」を徹底批判。英文併記。
―― ロバート・A・タフト米国上院議員
一九四六年十月五日
戦争を交えている二国間においては、その戦闘員のいずれかが宣伝に訴えることによって、世論を自分に有利に仕向けようとする危険が必ず存在している。その宣伝において種々の事件 ― 悲しいかなこれはすべての戦争から分離することはできない ― は偏見と感情を激昂させ、戦いの係争点を曖昧にしてしまう特別の目的のために拡大され、曲解されるのである。
―― チャールス・アディス卿
一九三八年十一月十日、英国チャタムハウスにて
第二次世界大戦とレジスタンスは何よりも「反ファシズム闘争」であり、従って日本とヒットラー・ドイツは同日に見るべしとの妄論が日本内部にはびこっている状況は、実に耐えがたい。いまこそこれを撃破することは緊要なりとの信念から私は本書を執筆した。
―― アルフレッド・スムラー
『アウシュビッツ186416号日本に死す』
ところが、ここ数年来、これとは全く異質の、ある種の反日活動が米国を舞台に展開され、時とともにエスカレートする一方となった。ここから生ずる新たな、そして極めて深刻な日米摩擦の拡大に、我々は深い憂慮の念を抱かずにはいられないのである。なぜなら、これら反日活動は両国の国益に直接関わるものではなく、かつ、米国を舞台にしながら、その仕掛人の背後には第三国が存在するとみられるからである。
端的に言って、一九九七年七月に米国で発売された中国系米国人アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』の主張と、それに煽動された反日キャンペーンの渦が、この問題の中心に居座っている。同書の綯いようが「真実」から遠いどころか、「真実」のまさに正反対であることに、多くの日本人は激昂を抑えかねた。
アイリス・チャンの本は、標題に「レイプ」と冠し、サブタイトルに「第二次世界大戦の忘れられたホロコースト」と謳ったところから、一九三七年十二月に極東の一角で起こった遠い出来事に通じていない米国人大衆の耳をそばだたせ、巻を開けば、想像を絶する残虐行為の地獄図を執拗に繰り広げて見せることで、日本人に対する読者の憎悪を極限にまで高めることに成功した。いや、そればかりではない。ことは政治問題にまで発展し、ついにカリフォルニア州議会では、一九九九年八月、〈南京大虐殺〉を中心とする日本軍の「残虐非道な罪」に対して非を鳴らし、謝罪と賠償を求める決議を採択するに至ったのである。
なにしろ、「虐殺三十万、レイプ二万」と称しているのだから、人権尊重とフェアプレー精神をモットーとする米国国民の間に「日本憎し、厳罰を加えよ」との声が挙がったところで、無理からぬところであったろう。しかし、冷静に考えるならば、事態はこう問われてしかるべきなのである。すべてこれは、「南京大虐殺」が間違いなく存在したということをもって不可欠の前提としているが、はたしてそれは正しく立証された事実なのであろうか、と。
「わずか六週間で市民三十万人が殺され、死体の多くが石油で焼かれたなどというが、そのためにはアウシュビッツ並みの大火葬場が何十箇所も必要であろう。いったい誰があの密閉された城壁空間とその近郊でそんなものを見たのか」
「加えて、『レイプ二万人から八万』という。ソ連兵のベルリン攻略の後は大変な《ベビーブーム》だったと伝えられるが、南京戦後、同市内に日中混血児があふれたなどと誰が事実を記したか」
良識ある読者なら、こうした疑問は雲霞のごとく浮かび出て際限もあるまい。そこで、仮に〈南京大虐殺〉をある特定の殺人事件としてみよう。すると、いったい、死体は幾つあるのか、被害者は誰か、目撃者はあったのか、犯人の動機は何か――等々の基本的な質問について、当然のことながら、適正な刑事訴訟の手続きを通じて厳密に立証されなければならない道理となるであろう。
なるほど、【南京大虐殺】を告発する側では、一応は死体の数も特定され、目撃者の証言、また、犯人の動機らしいものもあると言い張っている。
そこで、我々は次のような作業に取り組んだのである。すなわち、一九三七年十二月十三日から約六週間にわたって日本軍によって行われたとされる〈南京大虐殺〉を仮に一つの「殺人事件」(ならびにそれに付随する掠奪・強姦事件を含む) としてとらえ、刑事訴訟の手法を用いて、告発した側に挙証責任があるという前提のもとに、「犯罪」としての立証がなされ得ているか否かを綿密に再検証し、これによって事の真相を客観的に究明しよう、と。
換言すれば、「大虐殺がなかった」ことを論証するのが目的なのではなく、「大虐殺があった」との立証が全然なされていないという事実を明示しよう、それで一切を明白にする上に十分であると思料する立場をとったのである。
ただし、我々の批判の対象とした「告発者」は、右に言及したアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』ではなく、中国政府の〈南京大虐殺〉論であるという点に注意を喚起したい。
とはいえ、反論というには、以下に呈するテキストは、むしろ地味すぎるトーンのものとして映るに違いない。けだし、能と茶道の serenity (静謐)を創造した日本文化には、中国のお祭騒ぎにはつきものの銅鑼や太鼓と爆竹の喧噪は似合わないからである。「白髪三千丈」式の中国人特有のファンタジアでプロデュースされた「ザ・レイプ・オブ・南京」とは正反対の、日本独自の簡潔かつ厳密な手法によって、以下、本論を展開していこう。
戦後半世紀余り、日本は、この問題で外から何を言われようとも、一貫して沈黙を守りつづけてきた。ここに初めて我々は沈黙を破る。ただし、中国式金切り声ではない。被告席に立たされた日本の、低音で立ち昇る、しかし清明公正なる陳述である。
―― リチャード・バーンスタイン、ロス・マンロー『やがて中国との闘いが始まる』
時が激昂と偏見を和らげ、《理性》が欺瞞の仮面を剥いだあかつきには、正義の女神は秤を公平に持ち上げ、過去の毀誉褒貶の多くを逆転せよと要請するであろう。
―― ラダビノット・パル『パル判決書』
今日、いわゆる【南京大虐殺】は、ナチス・ドイツによるユダヤ人を対象とした大量殺戮に匹敵するもう一つのホロコーストであるとさえ言われている。確かに、日本はドイツと軍事同盟を結んでいたために、両国はその政治体制から国家政策の遂行まですべて共通していたかのように誤解されることが多いが、決してそんな単純なものではない。それは、ドイツと戦っていたソ連を、そうであるが故にアメリカ・イギリスと同じ民主主義国であると看做すことと同じぐらい誤っている。
しかし、ドイツはユダヤ人と戦争していたわけではない。ドイツが行ったドイツ国籍を有する者をも含むすべてのユダヤ人を対象とした大量殺戮は、戦争とは直接関係のない特定の人種イデオロギーに基づいて組織的・計画的に実行された殺人であって、日本軍が犯したとされる「戦争犯罪」とは根底から異なる。これこそがまさに「人道に対する罪」なのである。
「国際軍事裁判」(ニュールンベルグ裁判) で裁かれたナチス・ドイツ戦犯の多くは「人道に対する罪」によっても有罪とされたが、「東京裁判」において〈南京大虐殺〉の責任を追及された広田弘毅元外相、松井石根元南京攻略軍司令官といえども「通例の戦争犯罪」で有罪とされたのであって、決して「人道に対する罪」で重刑に処せられたのではない。【南京大虐殺】がユダヤ人大量虐殺と同列視されるホロコーストではないことは、この二つの裁判の判決の相違からでも明白である。
そればかりではない。南京戦当時の日本はドイツと防共協定を結んで友好関係にあったが、ドイツのユダヤ人迫害政策については、断固として拒否していたという重大な事実があることを知らねばならない。
そもそも日本人がそのような、「ホロコースト」などと呼ばれる体系的残虐をやる民族かどうか、日本文化の片鱗を知る西欧人なら、夙に周知のはずであろうに。ナチス・ドイツと戦ったレジスタンス戦士としてフランスのド・ゴール大統領からあらゆる顕彰を受けたアルフレッド・スムラーは、その一人だった。アウシュビッツからブッヘンヴァルトに至る強制収容所に送られ、拷問に耐えて生還した、この偉大なるフランスのヒーローは、その回想録『アウシュビッツ186416号日本に死す』においてこう書いたのである。
翻って、ナチス・ドイツの犯したこの非人道的犯罪に類するものと言えば、ロシア革命以来、共産主義が世界各地で惹き起こしてきた数々の民族虐待・大量殺戮ではないか。冷戦の終焉を契機として、二十世紀の人類社会に大きな災厄と惨害をもたらした共産主義に対する総括が本格的になされつつあるが、その一つ、S・クルトワの『共産主義黒書』によれば、共産主義の「犯罪」による犠牲者は少なく見積もっても一億人に達するという。死者二〇〇〇万人を出したとされる本家のソ連では一九九一年に共産主義政権が崩壊したが、六五〇〇万人という飛び抜けた数の人々が犠牲となったと推定される中国では、なお、共産党の一党独裁政権が存続しており、さまざまな人種弾圧や少数民族の迫害が後を絶たない。
とりわけ、一九五五年の不当な併合以来、人口のほぼ二割に相当する一二〇万人以上の人民が虐殺され、現在も民族虐待や文化破壊が続けられているチベットの悲惨な状況は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナやコソボ以上に残酷な "民族浄化" として知られ、米国人の間でも強い関心を持たれていることは、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」や「クンドゥン」などの映画のヒットによっても明らかである。これを「人道に対する罪」たるホロコーストと言わずして何であろうか。
その滑稽さの極致と言っていいものが、中国共産党政府の強力な支援の元に、制作中の『ラーベ日記』の映画化である。もちろん、「虐殺三十万」を非難するキャンペーン映画である。『ラーベ日記』については既に詳しく言及したので、これ以上繰り返さないが、少なくともラーベ自身は「虐殺三十万」とは言っていなかったことを想起すれば、この映画が二重の意味で虚構であることは明白であろう。
中国共産党政府がしばしば〈南京大虐殺〉を引き合いにしつつ、日本に対し執拗に過去への「反省と謝罪」を求めるのは、米国議会調査局も分析しているように、「狙いは援助や譲歩を引き出すこと」にあることは間違いないが、もう一方には、冷戦終局後の東アジアに覇権を確保するために、その障害となる日米同盟に楔を打ち込む一つの手段として、旧連合国同士で共感を抱きやすい旧敵国日本の「悪行」の記憶を呼び起こそうとする意図があると見てよい。『ザ・レイプ・オブ・南京』の拡販活動の背後に中国系米国人や在米華僑団体を通して中国共産党政府の影が垣間見えるのもこのことを端的に物語っている。
【南京大虐殺】の存否をめぐる我々の主張は、いわれなき「冤罪」によってもたらされた日本の汚名を雪ぐということにとどまらず、二十一世紀に向けて日米の成熟した友好関係の形成と強化を視野に入れたものであることを強調しておきたい。