夫俊村松

おしとらむつま

「南京虐殺」への大疑問

大虐殺外国資料を徹底分析する

平成十年十二月十三日 展転社 税別千九百円
ISBN4-88656-155-1 C0021

 大虐殺を唱える人々が拠り所とする外国人が書いた資料を読めば読むほど、疑問は深くなる。略奪者は本当に日本兵だったのか、市民虐殺はあったのか、強姦で生まれた混血児は何人いたのか、被害者(自称)の証言はなぜころころ変わるのか等々。数々の疑問を解くべく精読して著者がたどりついた「南京の真実」。


はじめに

 私の父は、名古屋市の対米輸出を専門とする陶器製造会社に勤めていた。大正九年(一九二〇)に初めて渡米してから、昭和十六年(一九四一)十一月中旬、大東亜戦争勃発直前の龍田丸で帰国するまで、前後九回アメリカに出張し、ニューヨークを中心とするデパートなどと商売をしていた。
 そのような父が、珍しく三年有余の日本での生活をしていた昭和十三年正月四日、初出勤から帰宅するなり、家族を前にして、「召集令状が来た」と告げた。前年七月に勃発した支那事変のために、近所や知人の家からも出征する若者が増えていたが、五十歳を少し超えていた父が言った召集令状とは、アメリカへの緊急出張命令のことだったのである。
 前年の十二月十二日、アメリカ砲艦パネー号が南京付近の揚子江で日本海軍機によって撃沈された。そのためアメリカ世論が沸騰し、日本品ボイコットが激化したとの連絡がニューヨーク店から本社に入り、その対策を立てる責任者として父の派遣が決まったのだった。
 それ故に、当時小学校四年生というまだ父に甘えたい年頃の私の家庭から、またもや父が不在となる原因になったパネー号事件は、一般の人より以上に私の心の中に刻み込まれた。
『南京事件資料集』に、パナイ号(『資料集』での呼称)事件は、日本人の間ではこの問題に対する関心が希薄のままであるとあるが、私にとっては記憶から消えたことのない出来事であった。


 ところが、父の滞米はたいていの場合二、三年だったにもかかわらず、この時は約半年で帰ってきた。それは、日本品ボイコットが案外早く沈静化して、商売が平常に戻っていったことを示している。父の残した手紙によれば、早くも三月下旬には新規の受注があった。一般的には、民間人の対日意識の悪化の度合いは継続的なものではなかったのである。
 最近の定説では、パネー号事件の直後に起こった「南京大虐殺」事件は広く世界に伝えられて、日本に対する非難のために、在外日本人はいたたまれないような気持ちにさせられたとある。この『南京事件資料集』にも、その例として、当時、アメリカにいて反戦運動をしていた石垣綾子の思い出話を伝えている。
〈一九三七年十二月に南京事件のニュースを知り、そのときの衝撃は強く、南京で蛮行を働く日本兵とおなじ汚れた日本人の血が自分にも流れているのかと、わななく自分の手を凝視した〉(十三頁)
 しかし、サンフランシスコに上陸後、シカゴを経て一月末にニューヨークに着いた父の情報源は、すべて現地の新聞やラジオだったが、父の残した会社への報告、家族への私信は、盛んな日本品ボイコット運動について、昭和十二年(一九三七)以降の原因分析と状況を知らせながらも、南京大虐殺を思わせる記述は全くなかったのである。
 この差はいったい何から出て来たのだろうか。
 パネー号の誤爆・撃沈という事実に対しては、同時期に損傷を受けた英艦レディバード号事件とともに、状況のいかんを問わず日本側に非ありと認めた政府が、全面的に謝罪し、賠償金を支払うことで外交的な解決は早かった。

 しかし、もし南京事件が三十万人に及ぶ民間人を含む大虐殺として伝えられていたとすれば、アメリカの対日世論は簡単に収まるはずはなかった。
 私はこのように考えたが故に、昭和十二年暮れから翌年にかけて、南京でどのようなことがあったとアメリカで報道されていたのかを知るための多くの資料を、一つひとつ精読していったのである。
 私は調べるにあたり、日本側の資料はできるだけ避けた。従って、はじめに参照したのは南京大虐殺はあったとする人々が証拠としている外国人が書いた資料がほとんどだったから、そのまま読んでゆけば大虐殺を肯定する結果になるはずだった。ところが、これらの資料や本の中にも、三十万人大虐殺とか、それに伴う強姦・略奪・放火など、日本軍が行ったとされている暴虐行為の真相を示す記述が多く含まれていることを知ったのである。
 これまでの論議は、資料の二つの流れ、即ち、大虐殺はあったとする人々の用いる資料と、それはなかったとする人々の資料とは、それぞれの立場から別々のものが重要視されているために、論議は噛み合うことなく、平行線のまま過ぎている。
 しかし、私は大虐殺はあったと主張している人々が根拠としている資料を読みながら、数々の疑問を解くべく考察を進めていった結果、全く違う真相らしきものが見えてきたのである。いわゆる大虐殺肯定派の人々にとっても、資料的選択に誤りがあるとは指摘できにくいであろう本書に批判をいただければ幸いである。

 平成十年十月十八日

著者識

あとがき

 戦後、捕虜虐待の罪によって戦犯として捕らえられ、絞首台の露と消えた軍人を主人公とした映画『私は貝になりたい』は、生まれ変わったら海底に住む貝となって平和に暮らしたいという「反戦思想」の象徴として、世間にもてはやされた。
 しかし、放映されたテレビによれば、そのモデルとなった人物が獄中から肉親に当てた遺書には、「私はカキ(牡蛎)になりたい」と書かれていたという(日本テレビ系「知ってるつもり?」)。
 そこで私は、初めて本当の意味を知った。「カキ」といえば、堅く口をつぐんで何もしゃべらないことを意味している。主人公は、はじめから有罪・処刑という結末しか考えられていない極東軍事裁判(東京裁判)の、B・C級戦犯裁判の法廷で、いくら無実を訴えても全くとり合おうとしない検事や裁判官に抗議の意味を込めて、
「もう何をいっても無駄ならば、海底のカキのように、ただ黙って暮らしたい」
と考え、それを表現したのがこの言葉ではなかっただろうか。米軍の検閲を恐れて、言外に含ませた意思表示だったに違いない。
 しかし、肉親たちの奔走によって助命が実現してからは、米軍への怨嗟の声は影をひそめ、攻撃の的は日本軍国主義となって、平和運動家のような受け止められ方をするように変わっていった。そこで、平和な海底で暮らしたいとの意味の「私は貝になりたい」との名文句が生まれて映画が作られたことになる。


 ここにこの例を持ち出したのは、『国史大辞典』などの著名な辞典類や教科書にまで記載されているように、「南京大虐殺」という言葉がすでに広く市民権を得て、その成立の過程や内容がほとんど知られることもないまま、言葉の独り歩きが世界中で始まっているから、もう何をいっても無駄だとあきらめて、カキのように押し黙っていてはいけないといいたいがためである。
 ところで、東京裁判を主題とした映画「プライド」の上映を機に、洞富雄著『日中戦争史資料集八南京事件I』に依り、改めて南京事件関係の裁判記録を精読してみた。それでわかったことは、私が本書で疑問を呈してきたことの多くは、すでに法廷において弁護人が指摘し、それによって検察側証人の旗色が悪くなると、ウェッブ裁判長が助け舟を出して証言の危機を救っていることだった。
 ウィルソン証言にある強姦被害者の黴毒感染時期の問題は、伊藤弁護人が鋭く衝いていた。マギーが拾ったという日本兵の銃剣については、ブルックス弁護人が追求していた。マッカラムの手紙の赤ん坊出産などの部分は、サトン検察官が読み飛ばしたことに抗議して、ブルックス弁護人がこの部分を公表していた。
 また、国民政府軍の梁廷芳が便服に着替え難民区に入ったときの証言中に、難民区で軍服から着替えた人は自分以外に見なかったし、自分は便服を平常から持っていたと強弁したことに対して、伊藤弁護人が追いつめていったところ、ウェッブ裁判長は「答える必要はない」と、この明らかな偽証をそのまま受け入れている。

 かかる具体例のみならず、昭和二十三年四月九日にマタイス弁護人が朗読した最終弁論では、本書で「大虐殺論」に対して提起した数々の疑問のほとんどすべてが網羅されている。特に、次に示す意味は重大である。
〈由来、中国人は宣伝上手であり、その方法は極めて巧妙である。排日宣伝の最初は、米英の在華学校・教会・病院等の職員によって指導され、南京における不祥事件も、日本軍に対する真偽取りまぜた針小棒大の悪宣伝がいち早く内外に流布されたのである〉(前掲書三百六十三頁)
 ウェッブ裁判長はこのような弁論を無視し、検察側証人の証言だけを採用したのであった。
南京大虐殺を主張している勢力は、当時のウェッブ裁判長の起訴指揮と全く変わらない立場をとっている。今の社会でかかる裁判が行われたら、いったい何と論評するつもりなのだろうか。いわゆる「人権派」と称される彼らこそ、裁判長や検察の横暴を最も声高に非難する人々ではないのか。
 この現実を踏まえて、今後、「南京大虐殺」という言葉を口にしたり文章にする場合は、せめてここに挙げたような疑問が未解決であることを知っていて欲しいと願っている。そうなれば、子供たちに教える教科書も、いかにあるべきかの答えがおのずから出てくると信じている。
 また、中国としても、『南京事件資料集』の中国関係資料編に見えるようなことを国民に教えていては、決して日中両国民が尊敬しあえる友好国になることは難しいとの理解をもって、南京事件に象徴される歴史認識を再度検討するようにと心から祈るものである。

 最後に、「本を書く」ことには全くの素人だった私の原稿を出版にまで漕ぎつけて頂いた、展転社の相澤宏明社長、柚原正敬編集長、そのきっかけを作って頂いた石垣食品の石垣敬義氏を始め、関係者の皆様に厚く御礼を申し上げて擱筆する。

 平成十年十一月三日

松村 俊夫

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