輝登李

きうとり 生日五十月一年二十正大

「武士道」解題

平成十五年四月十日 小学館
ISBN4-09-387370-4 C0193 税別千七百円

「日本人よ、やまとごころを取り戻せ」新渡戸稲造の「武士道」を台湾前総統が諄々と説く、二十一世紀の日本人必読の書。新渡戸稲造と李登輝、二人の国際人が考えるノーブレス・オブリージュとは?


■ まえがき ■

 いま、私たちの住む人類社会は、未曾有の危機に直面しています。

 二十世紀に相次いで起こった地球規模の大戦や骨肉相食む血みどろの内戦や紛争も、一九九一年の湾岸戦争を最後にようやく終焉の時を迎え、平和と繁栄の「新世界秩序」の時代が到来したと安堵の胸を撫で下ろしたのも束の間、台湾海峡やパレスチナ、アフガニスタン、イラク、朝鮮半島など、世界各地でますます不穏で危険な動きが増大しつつあります。

 しかも、政治や軍事の面ばかりではなく、経済の面でも「大恐慌の再来か」と言われる世界同時不況の予兆が日増しに高まり、人々の不安や不満は募る一方です。

 そのような大状況の中にありながら、アメリカでは「一国主義」の風潮が強まり、冷戦終結後の唯一の指導国家としての権威と信頼に翳りが見え始めている一方、いわゆる「グローバリズム」に激しく反対する人々の抗議行動なども過激化の一途をたどりつつあり、まさに地球社会は「新世界非秩序」の嵐に翻弄されようとしています。

 二十一世紀の最初の年である二〇〇一年の九月十一日にニューヨークとワシントンDCを同時多発的に襲った未曾有のテロ事件など、その象徴的なものと言えましょう。


 人類社会全体がこのような危機竿頭の大変な状況に直面している時だけに、世界有数の経済大国であり平和主義国家でもある日本及び日本人に対する国際社会の期待と希望はますます大きなものとなりつつある、と断言せざるを得ません。

 数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、六十億人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです。

 私自身が日本の教育の中で豊富な知育と徳育を授けられ、それを通して知識や知恵に目ざめ、「人間いかに生くべきか」という根本的な哲学や理念を身につけてきたからこそ、なおのこと、この人類史的危局の中において必要とされている「日本の心」の大切さを、思い起こさずにはいられないのです。

敷島の大和心を人問わば

   朝日に匂ふ山桜花

これは、私が敬愛する新渡戸稲造先生の名著『武士道』の中で改めて紹介されている本居宣長の和歌ですが、この「大和心」こそ、日本人が最も誇りに思うべき普遍的心理であり、人類社会が今直面している危機状況を乗り切っていくために、絶対に必要不可欠な精神的指針なのではないでしょうか。


 しかるに、誠に残念なことには、一九四五年(昭和二十年)八月十五日以降の日本においては、そのような「大和魂」や「武士道」といった、日本、日本人特有の指導理念や道徳規範が、根底から否定され、足蹴にされ続けてきたのです。

 日本が驚異的な経済成長と繁栄の絶頂にあった頃なら、まだそれでも良かったのかも知れません。しかし、「十年不況」に打ちひしがれ、依然として前途に明るい曙光を見いだし得ぬ今日のような窮地にあって、そのような自虐的価値観は日本人ばかりでなく、世界の人々にも大きな打撃と失望を与えずにはおかないのです。

 何故なら、国際社会全体が不況と不安に晒されているときに、最も頼りになるべき国の一つ(日本及び日本人)まで混乱と混沌の中を漂流し続けていたら、人類社会そのものが羅針盤を失いかねないからです。

 今日本を震撼させつつある学校の荒廃や少年非行、凶悪犯罪の横行、官僚の腐敗、指導者層の責任回避と転嫁、失業率の増大、少子化など、これからの国家の存亡にも関わりかねない様々なネガティブな現象も、「過去を否定する」日本人の自虐的価値観と決して無縁ではない、と私は憂慮しています。

 そして、この傾向をこのまま放置しておけば、日本だけではなく世界全体が不幸になる、と心の底から危惧しているのです。


 もちろん、私のようなものが、今更ながらのように、

「日本人としての輝かしい歴史や伝統を、もっと大切にしましょう」

などと呼びかけても、かえって反発の方が強まるのかも知れないと云うことは、百も承知です。また、現在の私がクリスチャンであることを理由にして、

「仏教や儒教、神道などの倫理観とも密接に結びついている日本文化や日本精神のことが、外国のキリスト教徒などにわかるものか」

などという反感を持つ人も多いだろうと思います。しかし、それでもなお、ここで敢えて、「日本及び日本人の醇風美俗」や「敷島の大和心」、もっと単刀直入に言えば「武士道」について声を大にして大覚醒を呼びかけ、この書を世に問わねばならなかったのです。

 この点にこそ、いま人類社会全体が直面している史上いまだかつて経験したこともないような危機的状況の深刻さがあると言えましょう。

 新渡戸稲造先生が『武士道、日本の魂』という本を英語で書き上げ、アメリカで公刊したのは一九〇〇年(明治三十三年)のことです。


 人類社会が二十世紀に突入する直前であり、明治維新以来の日本の「殖産興業・富国強兵」政策がようやく実を結び、国家としての近代化が完成しかけ、日清戦争を経て日英同盟、日露戦争へと向かい、「極東の島国・日本」もようやく列強の一員として国際舞台に華々しくデビューしようとしていたときでした。新渡戸稲造先生が、

「われ太平洋の橋とならん」

と言い放ち、困難山積する「国際連盟」の事務局次長の役を買ってでたのは、『武士道』の公刊から二十年後の一九二〇年のことですが、この十九世紀から二十世紀への過渡期にあたる時代は、今日の日本よりももっと極端に、日本人自身の価値観のみならず、世界の人々の日本人観も大きく変わりつつあったときでした。

 当時の新渡戸先生も、いまの私のよりももっと強く、激動の世界史的変容の中で日本古来の伝統や文化が消え去っていきつつあることを憂慮していたのです。

 先生は、早くから熱心なクリスチャンであったにもかかわらず、仏教や儒教、神道などとも深く関わっている「大和心」の大切さを日本人に想起させ、世界にアピールするために、全身全霊を込めて『武士道』という本を書き上げたのです。新渡戸稲造先生は喝破しました。


《我が国において駸々として進みつつある西洋文明は、すでに古来の訓練のあらゆる痕跡を拭い去ったであろうか。一国民の魂がかくのごとく早く死滅しうるものとせば、それは悲しむべきことである。外来の影響にかくもたやすく屈服するは貧弱なる魂である。(中略) 武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民及び個人を動かしてきた。新日本の最も輝かしき先駆者の一人たる吉田松陰が刑に就くの前夜詠じたる次の歌は、日本民族の偽らざる告白であった――

かくすればかくなるものと知りながら

   やむにやまれぬ大和魂

 形式こそ備えざれ、武士道は我が国の活動精神、運動力であったし、また現にそうである。(中略)日本の変貌は全世界周知の事実である。かかる大規模の事業には自ずから各種の動力が入り込んだが、しかしその主たるものを挙げんとせば、何人も武士道を挙ぐるに躊躇しないであろう。

 全国を外国貿易に開放した時、生活の各方面に最新の改良を輸入したる時、また西洋の政治および科学を学び始めた時において、吾人の指導的原動力は物質資源や富の増加ではなかった。況わんや西洋の習慣の盲目的なる模倣ではなかったのである》


 この一節だけ読んでも、新渡戸稲造先生がいかに深く「武士道」に心服していたか、痛いほどよくわかります。しかし、十九世紀から二十世紀への激動の時代にあって、日本および日本人にとって何ものにも替え難いほど大切な「武士道」そのものが急速に消え失せつつあるという、深刻な事実を誰よりも痛切に受け止めていたのも、また他ならぬ新渡戸先生自身だったのです。

 いまの私は、既に日本にとっては「外国人」であり、また、れっきとした「台湾人」でありますから、「日本人」である皆さま方にこのようなことを言う資格はないのかもしれません。しかし、たとえ第三者であっても、一人の「人間」として、あくまで良いものは良い、悪いものは悪い、と言うべきだと思っているのです。

 いや、二十二歳になるまでは私も生まれながらの「日本人」でしたし、また旧制の日本教育を受けた者の一人として、あくまでも日本の良いところや、精神的価値観の重要性を人一倍よく知っているつもりですから、この際はっきりと言っておくべきだと信じて疑わないのです。

 もちろん、こんなことを言えば、台湾の中にも怒り出す人がいるかもしれません。特に社会主義中国につながる左翼系の人々はそうでしょう。しかし、もはや私はそんなことなど全く気にしてはいません。まさに、「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ」気持ちで、日本の伝統的価値観の尊さを世に問いたいと思っているからです。


る還へ【書蔵蔵溜古雲】