郎一桂堀小

うろちいいけりぼこ


東京裁判 日本の弁明

「却下未提出弁護側資料」抜粋

平成七年八月十日 講談社学術文庫
ISBN4-06-159189-4 C0121 税別千三百円

 東京裁判は、はたして公正な裁判だったのだろうか。法廷に提出すべく弁護側が作成、準備したにもかかわらず、裁判長によって却下され、または未提出に終わった厖大な資料が残された。本書は、戦後五十年を期してまとめられた、その『東京裁判却下未提出弁護側資料』のうち、もっとも重要な十八篇を抜粋したものである。東京裁判を正しく認識し、明日の日本の展望を拓く、現代史研究に必携の史料集。


  東京裁判 日本の弁明 解説
小堀桂一郎

   一 東京裁判の法的根拠

 本書は副題の示す通り『東京裁判却下未提出弁護側資料』といふ長い題名の資料集の抜粋版である。その資料集は題名が長いばかりでなく、全八巻総頁数五千五百頁という大部な文献であって、従って値段も高く、専門的な現代史研究者といふわけではない所謂一般読者に、是非一セットを座右に具へて御繙読を──と、お願ひできる様な気楽な出版物ではない。該資料集の編纂刊行者(この文庫本の編者もその一人であるが)一同は、これを現代史研究のためには必須不可欠の重要なる基礎資料であると信じてその刊行に従事してきたのではあるけれども、それでもなほ、万人必読の文献と言ひたてるのは稍憚られる。そこでこのような抜粋版の一書を編むことにした。それだけに本書の原本であるその大冊の資料集の性格とこれが出版されたことの意味について、一言御説明に及んでおくことが必要であらうかと思ふ。
 原本の表題の意味するところは、東京裁判(正式には「極東国際軍事裁判」と呼ぶ)の法廷に提出すべく作成し、準備しておいたのに、検察官の異議乃至裁判長の裁量によって却下処分に付され、法廷証として審理に供することを拒否された証拠資料、及び準備はしたものの却下処分にあふことを予想して法廷への提出を見合わせ、弁護団の文庫の中に埋もれたままになってしまつた資料、といつたことである。故に、改めて言ふまでもなく、この資料集が成立することになった大前提は東京裁判といふ敗戦国日本の体験した歴史的事件である。


 いつたい東京裁判とは如何なる裁判だつたのか? 本書を手にされるほどの方々に対しては、この様な初歩的な事項の説明は元来不要であらう。だがここでは謂はば形式上の首尾を整えるためといつた意味をこめて、敢へてこの基礎的な事項から解題を進めてみたい。
 ポツダム宣言受諾による終戦の閣議決定成立当時、やがて戦勝国による戦争犯罪裁判が行はれるのではないかといふ予想は既にあった。対日最後通牒たるポツダム宣言の第十項には〈吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ〉といふ一節があり、帝国政府はもちろんこの項あるを承知の上でこの最後通牒を受諾してゐるからである。この〈厳重ナル処罰〉の原語は stern justice で、〈厳重ナル裁判〉と訳す方が適当である。事実東京裁判開廷後間もない検察側冒頭陳述の段階でこの訳語の適否が法廷の問題となり、結局以後〈裁判〉に統一されるのだが、さうでなくとも、これが裁判を意味することは当初からわかってゐた。八月九日深夜から十日未明にかけての歴史的な御前会議の席上、参謀総長、軍令部総長、陸軍大臣の三人が、ポツダム宣言受諾に際しては、戦争犯罪人の裁判は日本側の手で行ふ、との条件を提示せんと主張したといふよく知られた事実にもそのことは読みとれる。しかし我が方からのこの条件提示は、保障占領の回避、武装解除は日本側の手で自主的に行ふ、といふ他の条件と共に結局抑制され、我が国の側からつける条件は国体護持の唯一項に絞られることになった。だから、占領直後に早くも開始された戦争犯罪容疑者逮捕の動きに対し、ポツダム宣言の延長上にある停戦協定に調印(九月二日)済の帝国政府は、何ら抗議をする権限を有さなかつた。


 B・C級の通例の戦争犯罪裁判と並んでA級被告を訴追した東京裁判も亦、その起源をポツダム宣言に有することは確かであるが、戦勝国が敗戦国の戦争犯罪容疑者に対して裁判の結果処罰を加へるといふ発想自体は、昭和二十年四月、サンフランシスコで開かれた米、英、仏、ソ四国外相会議への、米国の戦犯処理に関する議定書の提議の中に既に見られる。そしてこの思想は、更に溯れば昭和十八年十月三十日の、米、英、ソ三国外相会議での討議の結果としてのモスクワ宣言の中に現れてゐる。
 ポツダム宣言で謳はれてあつた「処罰」も前記の如く元来「裁判」の意味だつたが、これを裁判所設立といふ構想までに具体化してみせたのは、それより少し後の、二十年八月八日のロンドン協定である。これも米、英、仏、ソ四箇国の代表によつて構成された会議であり、そこで〈ヨーロッパ枢軸諸国の重大戦争犯罪人の審査および処罰のための裁判所を設置する〉との協定が締結され、そのための「国際軍事裁判所条例」を交付する旨が宣言されてゐる。
 ただし日本に於いて予想されるこの種の条例が如何なる形をとることになるのかは、占領開始当時、皆目見当がついてゐなかつたし、やがて日本の場合の前例となるものであることがわかつたニュルンベルグ国際軍事裁判も、その起訴状発布は二十年十月十九日のことだつたのだから、例へばその少し前九月十一日に東条英機元首相が戦争犯罪容疑によつて逮捕され、現場での自殺未遂事件を起こした際にも、東条氏の問はれる「罪状」とは如何なるものであるのか、具体的には是亦見当がつかなかつた。


ただ東条氏が米、英に対する戦争の開戦責任者であることだけは当時小児といへども知つてゐたのであるから、宣戦布告と緒戦の日本軍連勝情況の責任者・勲功者が第一次逮捕者の筆頭に上がつてゐたといふことは、これは中世風の野蛮なる「復讐」の開始ではないかと思はせるものがあり、有力な政治家・外交官・軍人といった、自ら「心当たり」のある人々のみならず、国民一般に鈍い、陰気な恐怖を感じさせる動向であった。ポツダム宣言に見る限り、〈吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人〉といふ表現が使はれてをり、それならばそこで問はれるべき戦争犯罪とは、戦時国際法違反といつた通例の戦争犯罪だらう、といふ推定になる。ところが、開戦と戦争遂行の責任者であることは確かだが、どうも「犯罪」とは関係の無ささうな東条大将が先づ逮捕される。いつたい連合国は戦争犯罪の概念をどの様に拡張し、どの様に恣意的に適用せんとしているのであるか、といふ不安が広がり始めた。
 所詮「事後法」といふ不条理な法規範であるにせよ「極東国際軍事裁判所条例」が交付された段階でならば、連合国が「戦争犯罪」の呼び方をどんな政治・外交・軍事的行為に適用せんとしてゐるものであるかの見当はつく。しかし昭和二十年秋の占領初期の段階では、それがわからなかつた。戦時中の日本に於いて誰がどの様な役割を果たしてゐたかといふ占領軍の側での事実調査は、それほど迅速に進捗してゆくはずがない、と思はれた。然るに容疑者の逮捕だけは第一次から第四次まで次々と拡大的に進展してゆく。俘虜虐待等の事実を踏まへたB・C級戦争犯罪の容疑ならともかくも、戦争遂行、指導の責任者たるA級犯罪容疑者の逮捕動機の曖昧、不可解さはやがて開かれるであらう裁判の性格にも深い疑惑を投げかけるものだつた。


 容疑者の逮捕のみならず、検察団の日本入国も公布に先立つてゐた。ジョセフ・キーナンを首席検察官とする四十人に近いアメリカの検事達・書記官・事務官から成る一行は二十年の十二月六日に日本に到着し、直ちに検察側証拠書類の蒐集、整理、分析の作業を開始した。条例はまだ出てゐないのだが、ニュルンベルク裁判のときの条例といふ前例があるため、裁判開始のための準備としてどの様な作業をすればよいかはよく承知してゐたのである。
 年が明けて昭和二十一年の一月十九日付で〈連合国軍最高司令官 陸軍元帥 ダグラス・マッカーサー〉の署名を有する特別宣言書を以て先づ「極東国際軍事裁判所」の設立が発令され、その裁判所が依拠し、適用する法としての、問題の「条例」(憲章といふ訳語も行はれたことがある。原語は Charter)が制定・公布された。この宣言の前文に当たる部分で、予想通り、この裁判所の設置が七月二十六日のポツダム宣言、九月二日に調印された降伏文書に根拠を有するものであること、そして更に十二月二十六日のモスクワ会議に於いて、この裁判に関しては連合国軍最高司令官としてのマッカーサー元帥が全的に権限を付与されることが決定されたものである旨が明言されてゐた。そしてこの決定に基づいて、マッカーサーは〈降伏条項遂行ノタメ〉次の三条の基本的命令を発した、といふのである。これによつて初めて、日本人はこの裁判所が敗戦国の政治指導者達を復讐的に断罪するために振りかざすであらう口実が〈平和に対する罪〉といふものであることを知つた。なるほどこれならば、戦争を遂行すること自体を犯罪だと決めつけることも可能になるわけである。


第一条 平和二対スル罪又ハ平和二対スル罪ヲ含ム犯罪ニ付キ訴追セラレタル個人又ハ団体員又ハ其ノ双方ノ資格ニ於ケル人々ノ審理ノタメ、極東国際軍事裁判所ヲ設置ス

第二条 本裁判所ノ構成、管轄及ビ任務ハ本官ニヨリ本日承認セラレタル極東国際軍事裁判所条例中ニ規定セラレタル所ニ依ルモノトス

第三条 本命令中ノ如何ナル事項モ戦争犯罪人ノ審理ノタメ日本又ハ日本ガ戦争状態ニアリタル連合国ノ如何ナル領土内ニ設置セラレ又ハ設置セラルベキ他ノ如何ナル国際、国内若クハ占領地法廷、委員会又ハ其ノ他ノ裁判所ノ管轄ヲモ妨グルコトナキモノトス

 第一章は〈裁判所ノ構成〉と題し、第一条から第四条までに裁判所を構成する裁判官及び書記局についての人事上の規則を提示してゐる。
 第二章は〈管轄及ビ一般規定〉とし、第五条から第八条までの計四箇条で、裁かるべき犯罪の定義、被告人の責任、検察官の職責等を定義的に述べてゐる。
 第三章は〈被告人ニ対スル公正ナル審理〉と題し、即ちこの裁判が適法にして公正な司法裁判であるかのごときが意見を取り繕ふため、審理の手続きについて具体的に詳述した第九、第十の二箇条から成る。
 第四章〈裁判所ノ権限及ビ審理ノ執行〉は第十一条から第十五条までの四箇条に題名通り審理の実際の運営上の技術につき詳述してゐるが、就中第十三条「証拠」についての規定は注目に値する。


 第五章〈有罪無罪ノ判決及ビ刑ノ宣告〉は第十六、第十七の二箇条でこの裁判所及び裁判所の設立責任者である連合国軍最高司令官に刑の宣告と執行の権限があることを宣言したものである。
 この条例に基づいて、昭和二十一年二月十五日付で、連合国軍最高司令官マッカーサーはこの裁判所の裁判官となる連合十一箇国(その内九箇国)が派遣する判事の人選の結果と、かつ裁判長の任命を発表、これで人事面での極東国際軍事裁判所は成立したと見られる。
 四月下旬に入るとこの裁判所は実質的に活動を開始し、弁護団の結成、手続規定公布、判事二名の追加公認等の事があり(これによりフィリピン判事と共に、インド代表のパル判事の着任が決まるといふ、この裁判にとつての実に不思議な運命の転回が準備された)、そして四月二十九日(天長節)といふ日を卜して「起訴状」の公布に至るわけである。


る還へ【書蔵蔵溜古雲】