平成十四年七月十八日 草思社
ISBN4-7942-1152-X C0022 税別千五百円
初めて公平な立場から書かれた日韓の歴史
韓国新世代の気鋭の評論家が、李氏朝鮮末期の歴史を公平な視点から検証し、抑圧的な旧体制の精算と朝鮮の近代化は日本の支援なくしてありえなかったとして日本統治を高く評価。韓国政府がおこなってきた反日教育をささえる歴史認識は誤っていると厳しく批判し、韓国で事実上の発禁処分となった革命的ともいうべき評論集である。近代史をめぐって日韓双方にわだかまる閉塞的な言論空間は、本書の出現によって間違いなく風穴があくだろう。
韓国で生まれ育った私にはかつて強い反日感情がありました。日本が嫌いで、日本語をまったく学びませんでしたし、日本語を使う人を見ると不愉快になりました。「気分が悪いから」日本を旅行したいとも思いませんでした。パソコン通信(いまのインターネット)の掲示板に「日本の没落」と題したシリーズを載せたこともあります。私自身の反日感情は、一九九五年の阪神大震災の頃がピークだったと思います。日本の被災額を推測し、当時半導体の分野で好況だった韓国が十年以内に日本を凌駕するという趣旨の文章を書いたりしていました。
二〇〇二年六月 ソウルにて
二〇〇二年二月 大韓民国 首都ソウルにて
和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを、子どもたちよ。
A :チョッパリ! 日本へ失せろ、失せちまえ。
和夫:(怒ったような声で)私が、お前たちにどんな間違いをしたというんだ。お前たち、みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり、お前たちの親だ。お前たちの祖国が解放されたことは、私もふだんから待ち望んできたことだ。踊りでも踊りたい気分の日に、なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。(涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。朝鮮の息子たちよ。私が愛を傾け、育ててきた結果は、つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。お前たちが望むなら、帰ってやるわ。
A :意味深長な目配せをBに送る(財産をすっかり処分して帰ったら、おれたちはどうやって食っていくんだ?)
B :死ね、チョッパリ、シッパルノマ。
歴史とは現代の問題の反映でもある
その後、私の対日観は大きく変化していきます。このことについては、いずれ詳しく書く機会もあるでしょうが、私の日本観において決定的な方向転換がなされたのは、海外旅行の結果であることはまちがいありません。一九九五年に書いた『娼婦論』がベストセラーとなったおかげで、私はオーストラリアやグアムを何度か旅行することができ、とくにオーストラリアには二年近く滞在しました。そして九七年に私はシドニーで「日本の朝鮮支配は結果的に良かった」という文章を書きました。本書の骨子はこのあたりでできあがりました。
私は海外に出て初めて「実物の日本人」と会い、かれらが予想外(?)に洗練された人たちであり、韓国人と比べて立派な点が多くあることを知りました。
ところで韓国人にはなぜ反日感情が強いのでしょう。私は韓国人、日本人、在日韓国人を問わず、機会があるたびにこの問いを発して話しあいましたが、満足すべき答えは得られませんでした。しかし、つい最近、私なりにあるひとつの仮定に達しました。つまり、今日の韓日関係は戦後日本と韓国を支配してきたアメリカの意図によってつくられた構図ではないかということです。終戦後、韓半島〔朝鮮半島〕を占領した米軍とソ連軍は、日本軍を武装解除し、朝鮮にいた日本人を着の身着のまま追放したのち、それぞれが自分の操り人形を前面に押しだして韓国と北朝鮮という国をつくりました。その後、韓国と北朝鮮を統治した李承晩と金日成は、ともに強烈な反日指向をもつ人物です。
今日年配の人たちの話を聞く限り、総督府時代の朝鮮人は日本人としてのアイデンティティーをもちながら、かなり満足して暮らしていたと考えられます。いまの基準でみれば、当時の暮らしが豊かであるとか満足すべき水準にあったとはいえないでしょうが、すくなくとも朝鮮人にとって、総督府は李王朝より一歩進んだ統治者でした。
韓国と日本はアメリカに占領された状態で、実質的にはアメリカの植民地として過ごし、一方アメリカは日本を再興させてはならないという意思を持って、韓国において強力な反日洗脳教育をおこなうと同時に、産業面においては韓国を、日本を牽制するための基地として育てました。その結果、韓国にIT産業、造船、鉄鋼、半導体など日本をコピーした今日の産業構造がつくられたといえます。そしてこうしたことの背後には、有色人種を分割したのちに征服するという「ディバイド・アンド・コンカー(divide and conquer)」の戦略があったと思われます。私は、戦後アメリカの東アジア政策は、さまざまな点で私たちに友好的とはいえなかったと考えています。
反日感情を意図的に作り出す上で基本となったのが、歪曲された、間違った歴史認識です。韓国人は幼いときから、学校や家庭で、あるいは社会を通じて、様々なやり方で捏造された歴史を学びます。これによって、ごくふつうの韓国人は「総督府時代とは、あらゆる朝鮮人が日本人の奴隷として往き、搾取されて死に、追い出された時代だった」という認識を持つに至ります。
韓国にこうした反日教育をおこなわせたアメリカは、韓国と日本の関係をユダヤ人とドイツの関係と同じものにしたかったのだと考えられます。しかし、かつてのナチスのように日本人が韓国人を苦しめたとは思えません。それどころか、実際はまったく反対だったようです。
反日教育によって作られた誤った歴史認識を持っている限り、韓国人が日本を好きになることは出来ないでしょう。
いまの私は、韓国人の誤った歴史認識は、なんとしてでも正さなければならないと考えています。韓国語版を出版したのち、私は何人かの学者から「誰かが、一度はすべき仕事だ」と言われました。つまり韓国でもこうした誤った歴史認識を正す作業の必要性は感じているということであり、しかしそれを表立っては口に出せないということです。韓国の歴史教育の誤りが深刻なものだという点については、すでに多くの専門家が承知していることですが、彼らには勇気が無いのでしょう。
本書を執筆していたとき、私はしばしば友人や家族から「そんなに危ない思いをしてまで本を出す必要があるのか」と言われました。テロにあう可能性すらあるというのです。実際、韓国政府から様々な圧力がかかりました。
本書が出版された今年の三月には、閔妃の末裔たちから「名誉毀損」と「外患煽動」で告訴され、逮捕されました。私は「こんなことで私を投獄するなら、日本大使館に亡命を求めざるを得ない」と言って抗議し、ようやく釈放されることが出来ました。
四月には、やはり政府の検閲機関である「刊行物倫理委員会」が本書を「青少年有害図書」に指定し、事実上書店での販売を禁止しました。「青少年有害図書」はビニールで包装して「十九歳未満購読不可」と表示しなければならず、書店では一般の書籍と一緒に販売できないという規制を受けます。
私は、歴史とは過去の分析ではあるが、現在の問題の反映でもあるとの思いを強くしました。百年前の日本統治時代を肯定的に評価したというだけで、一介の物書きが身の危険を感じなければならない現実は、いろいろな意味で慨嘆すべきものです。しかし、本書によって韓日関係の未来に新たな希望が生まれるなら、私は正しい仕事をしたという誇りを持てるでしょう。
日本語版の出版を決定してくださった草思社の加瀬昌男会長、出版契約から編集の課程でお世話になった増田敦子さんをはじめ、草思社のスタッフの皆さんに感謝申しあげます。
(メールアドレス pensacolla@hanmail.net)
伊藤博文(一八四一─一九〇九)
朝鮮の文明開化のために殉じた
二人の霊前に本書を捧げる
朝鮮と台湾は一〇〇年前、近代化がはじまる重要な時期に日本に支配を受けたという共通点をもっているが、こんにち、ふたつの国の日本にたいする態度はまるでちがう。台湾は政府であれ民間であれ日本にたいしてきわめて友好的な態度を堅持しながらよい関係を保っている。かたや韓国は持続的な反日教育の影響で、政府から民間レベルにいたるまで日本にたいしてはきわめて敵対的な態度を堅持している。両国が同じ時代、同じ性格の日本の統治を経験しつつも、このような相違が生まれた理由を問うてみると、たいていは台湾にたいする日本統治が朝鮮に比べて一五年ほど長かったからではないか、台湾には日本統治以前に独裁的な王朝が存在しなかったためではないかという答えが返ってくる。
しかしこのような差異を勘案しても、南北朝鮮が見せている日本にたいする並はずれて敵対的な態度は簡単には説明できない。北朝鮮の場合、抗日独立運動の伝説で知られたパルチザン〔共産ゲリラ〕とその後継者たちが久しく政権をにぎっているため反日政策は当然といえる。しかし独立以降、日本時代にその統治に協力した勢力が政権の中心にいた韓国で、なぜこれほど反日感情が深刻なのか。普通の韓国人がもつ反日感情の根柢には、日本統治時代、朝鮮が多くの損害を受けたという被害者意識がひそんでいるようだが、日本人のほうは多くの恩恵を与えたと考えている。このようにおなじことについての認識がたがいに異なっているために、韓国と日本の間には深い感情の溝が生じることになった。
一九〇五年以降、日本にとっての朝鮮は植民地というより拡張された日本の領土という意味合いがより大きかったと思われる。当時、日本人は朝鮮と台湾を統治するにあたって、おおむね本土の人間とおなじ待遇を与えた。とくに朝鮮にたいしては、大陸への入口という地政学上の重要性のために、むしろ本土以上の投資をおこない、産業施設を誘致するなど破格のあつかいをしたと考えられるのである。
ヨーロッパ列強にとっての「植民地」が遠く離れたところにある農場を所有するようなものだったとするならば、日本にとって朝鮮と台湾の統治は、隣の店舖を買いとって店を拡張するような行為だったといえる。 韓国人の反日感情は、この点にたいする誤解からはじまっている。
ある人がソウルに住みながら、遠く離れたオーストラリアやニュージーランドに農場を所有していたとしてみよう。その人は現地に一定の投資をして収益をあげることだけに関心をもつだろう。しかし、自分の住まいであり職場でもある商店を経営する貧しい商人が、苦労して隣の店を購入することになったなら、その人は新しく手に入れた店を一所懸命改装し、すでにある店とあわせて相乗効果を得ようとするだろう。一九世紀末に台湾を、二十世紀初めに朝鮮を併合した日本の立場は、まさにこのクモンカゲ〔街角にある食品、飲料、日用品などを売る小さな個人商店。クモンは穴などの意〕の主人のようなものだった。
したがって、かつて日本が朝鮮に向けた善意をあるがままに受けとったなら、韓国人が日本にたいして悪い感情をもつことはなくなるだろう。すなわち韓国人のなかにある反日感情は、韓国政府の意図的な歴史の歪曲からはじまったものである。私は、歴史を歪曲しているのは日本ではなく韓国だと思う。これは国際社会の一般的な見方でもある。
私たちは歪曲された教育によって、日韓保護条約(一九〇五年)と日韓併合(一九一〇年)が日本の弾圧によって締結されたものであると信じているが、事実はまったくちがう。日本と合併することだけが、朝鮮の文明開化と近代化を達成できる唯一最善の道であった点については、当時朝鮮の志ある改革勢力のあいだに暗默の合意があったと思われる。この大韓帝国内部の強力な世論にしたがい、日本が合法的な手続きを経て統治権を接収したとみるのが妥当ではないだろうか。
そのもっとも有力な証拠が一九〇四年に結成された「一進会」である。
一九〇四年初めにおきた日露戦争で、東学教徒たちは教主孫ピヨンヒの指示により五万の兵士が日本とともに戦った。東学教徒とポ負商〔行商人。古くから組織化され、政治的・社会的に影響力があった〕たちは「進歩会」を結成し、最初の年だけで三八万人の人がこれに加わっていた。進歩会はその後名称を一進会と変え、独立協会系の開化派人士と手を結んで、日韓併合と開化啓蒙運動を展開したのである。一時期は一〇〇万を超える膨大な組織となったかれらは、黒い服を着て髪を短く刈る外見から、たやすく見分けがついたため、保守勢力の攻撃の対象となった。
一進会は結成以来、日本との合併を推進し、それによって反革命勢力との内戦で多くの一進会員が殺され、一進会関係の建物が破壊されるなどの犠牲を払わなければならなかった。今日韓国で一進会を「親日団体」だと非難し、彼らに危害を加えた反動暴徒を義兵と褒めたたえることは、歴史を逆さまに解釈する過ちといえる。
みずから日韓保護協約締結を主導し、朝鮮の初代統監となった伊藤博文は、政治的、財政的に日本に負担になる朝鮮合併を望んでいなかった。合併は一進会など朝鮮の革命勢力が要請したことであった。
日本の統治により朝鮮は多大なる発展をとげた。三〇年余りのあいだに一〇〇〇万足らずだった人口が二五〇〇万人にふえ、平均寿命は二四歳から四五歳にのび、未開の農業社会だった朝鮮は短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌した。本土からは優秀な教師が赴任して朝鮮人を教育し、日本政府から莫大な資金が流入し、各種インフラが建設された。一九二〇年代には日本への米輸出で財をなした大金持ちがつぎつぎとあらわれ、その基礎の上に民族資本が成立することになった。
一九二〇年代の朝鮮の文芸復興は、日本と同じ時期におきたものであり、こんにち、李光洙と崔南善にはじまり、金東仁、李孝石、金永カ、尹東柱、洪蘭坡など私たちの記憶に残る多くの作家と芸術家は、大部分がこの時期に登場した人たちだ。
韓国人はこうした日本の貢献を認めようとせず、かりに認める人であっても、それが日本という外国の勢力によって他律的に生じた成果だという理由で、その意味を過小評価している。しかし、ふりかえってみると朝鮮は、人類の歴史上唯一無二の儒教原理主義社会であり、その戒律は、こんにちのイスラーム原理主義がイスラーム社会に与えている悪しき影響についてすこしでも考えがおよぶ人であれば、朝鮮の儒教原理主義が、外国の影響が排除された状態で自発的に消滅したとはいえないはずだ。
私たちは戦後、朝鮮半島はふたつに分断されたが、日本は運よく分断をまぬがれたと考えてきた。統一を語るときも南北朝鮮の統一をいうだけで、日本や台湾との統一をいう人はいなかった。しかし、敗戦によって日本帝国は五つの地域に分割・占領されたのであり、朝鮮が南北に分断されたのではない。戦勝国にとって朝鮮半島は日本の領土のひとつにすぎず、かれらは日本帝国を韓国、北朝鮮、台湾、サハリン、日本の五つに分離し、それぞれ占領したのである。このなかでサハリンだけがいまだにロシアの領土になっていて、残りの四つは独立国となった。日本帝国が明治維新以後に獲得した領土を分離するということは戦勝国の論理であり、私たちが選択したのではない。もちろん日本が望んだのでもないから、これは明らかに強制的な分断といえよう。
日本は朝鮮との分断を望まなかった。戦後の独立の課程で、最低限、朝鮮半島とは統一国家を維持するべく努力したが、力のない敗戦国の主張は聞き入れられず、分断は固定化されてしまった。アメリカとソ連はそれぞれ南北朝鮮を分割・占領したのち、みずからの傀儡を統治者として座らせ、衛星国とした。したがって朝鮮半島分断の元兇、より正確に言えば旧日本の分断の元兇は、敗戦国だからといって、もともとひとつだった国を強制的にわけてしまったアメリカとソ連であり、分断を防ごうと努力した日本ではない。
歳月が流れ、最近『パール・ハーバー』という映画をみながら、私は日本軍を応援している自分を発見した。六〇年も前に大規模な空母艦隊を率い、地球の反対側まで出征して、アメリカの太平洋艦隊を叩きつぶした日本という国の偉大さに、私は感動し驚きを覚えた。
その時は私たちも日本人であったし、私たちの父祖は日本人として戦争に参加した。当時は韓国人も日本を応援したのはまちがいないのに、なぜいまになってアメリカを応援しているのだろう。このような現実は、日本帝国の領土だった韓国と日本が今日までアメリカに支配され、首枷をはめられてきた結果にすぎない。だから望ましいとか、当然のことだと考えるべきではない。
韓国政府によっておこなわれている体系的な反日教育と、その結果生じた反日感情は、韓国社会においてもっとも重要な政治的イデオロギーとして機能している。分断いらい、韓国の政権を掌握した政治集団は体制維持のために、北朝鮮と日本というふたつの憎悪の対象をつくりだした。北朝鮮にたいする憎悪がある程度やわらいだいま、日本にたいするイデオロギー操作と反日策動は、これを利用する勢力の立場から、その必要性がより高まっている。
おそらく韓国は、世界のなかで反日感情が存在する唯一の国であろう。日本との戦争を経験したアメリカ人は、日本をアジアでもっとも友好的な国であると同時に経済の重要なパートナーと見なしている。政治、経済、文化の面で日本の影響下にある東南アジアの国々も、日本に非常に好意的だ。また五一年間の日本時代を経験した台湾でも、反日感情のようなものは存在しない。ときに韓国とおなじ声をあげる中国の場合、その公式の態度は共産党の立場を表明しているにすぎず、中国人に韓国人とおなじ反日感情をみつけるのはむずかしい。多くの中国人は日本という国が存在することさえ知らず、韓国や日本を中国のひとつの省ぐらいに考えているのが現実だ。
二〇〇二年の年明けを迎え、韓国の『東亜日報』と日本の『朝日新聞』は、合同世論調査の結果を発表した。その結果をみると、韓国人では日本を嫌っている人が好きな人の三倍をこえている。一方、日本人は韓国が好きという答えのほうが多い。部外者がこのような両国間の感情のいきちがいをみれば、日本が韓国にたいして大きな過失を犯したか、あるいは韓国人が異常な反日感情をもっていると解釈するだろう。おそらく後者の評価を下す者が多いのではないか。韓国人が日本にたいして無礼にふるまうということは、すでに国際社会で知られた事実であるから、韓国の桁はずれの反日感情は、国際社会における韓国のイメージを損ねることになるだろう。
私たちは韓日関係、とくに私たちの日本にたいする態度について、根本から考え直してみる必要がある。そしてこの作業をするためには、過去の歴史への冷徹な評価を避けてとおることはできない。本書で私は開国以降、日韓併合までの時期を朝鮮のブルジョア革命期と設定し、近代史についての新しい解釈を試みた。開国いらい朝鮮の当面の課題がブルジョア革命だったとするなら、日本は頼もしい援軍であり、ときには主導権をにぎって介入し、朝鮮の改革を推進した友好的な外部勢力だと思う。
朝鮮のブルジョア革命は、朝鮮に進出した日本人、「開化党」と「独立協会」を創設した知識人グループ、そして東学党の民衆勢力の三つの軸を中心に遂行された。この三大勢力は、時代とともに対立したり連携したりしながら朝鮮革命を導いてきた。日韓併合はその革命のあるべき帰結だったと考えられる。
このような視点から開国期の朝鮮の歴史を眺めれば、朝鮮革命は多少外部の力を借りたといっても、決して外部勢力のなすがままにふりまわされた被侵略の歴史ではなく、朝鮮内部の革命勢力がみずからの意志で遂行した、主体的な変革の過程であったことがわかる。日本と朝鮮の革命家たちは、朝鮮王室とそれにとりいって革命を妨害する外部勢力と対抗しながら、三〇年のあいだねばり強くブルジョア革命を推しすすめた。朝鮮の文明開化は、かれらの血と汗の成果なのだ。
何年か前に、私はソウルで日本の若者と会ったことがあるが、かれらは韓国人に殴られても当然だと信じこんでいた。いつまでたっても韓国人が殴ろうとしないので不思議に思い、いつ殴るのかと尋ねたほどだ。輝かしく偉大な歴史をもち、こんにち世界第二位の経済大国である日本の国民が、なぜ隣国へきて、しかも少し前まで日本の土地だったところにきて、こんなに情けない立場におかれなければならないのか。おそらくかれらは歴史の教科書で日本が犯した罪悪の数々を教えられ、敗戦記念日ごとに默祷して、日本によって被害を受けた人びとにたいして反省の意を表してきたのだ。
こんにちの日本の問題は反省と謝罪がないということにあるのではなく、過去にたいする精算があまりにいきすぎたことにある。日本は戦後独立し、新しい国家を建設して経済大国になったが、その精神においては、依然アメリカの植民地の立場を拔け出せずにいる。私は以前ある日本人の友人から、「大国」の日本人は口癖のように「こんなに小さな国で・・・・・・」と語るという話を聞いてほんとうにびっくりした。かれらはアメリカや中国、ロシアのような国にくらべると日本は国土も狭く人口もすくなく、さまざまな点でちっぽけな国であるかのように考えているのだ。
韓国は日本がこのような無礼な言動に正面きって対応しないからといって、これを根拠に自分たちが正しいと信じる愚を犯してはならない。日本の柔軟な対応は、正面から相手と対立することを避ける日本の文化から出たものであり、また長きにわたって凝りかたまった敗戦国としての自己卑下の習性によるものである。かれらの意思の表現が西洋スタイルだったなら、いまごろは韓日関係の葛藤がはっきりあらわれているだろう。
一九世紀初め、ナポレオンの軍隊がドイツに侵攻したとき、哲学者フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」という演説で、ナポレオンを侵略者と規定しドイツ国民の団結を訴えた。おなじ時期、ドイツの哲学者ヘーゲルは、ナポレオンの軍隊がプロイセンの古い官僚体制を徹底して精算し革命精神を伝播すると考えた。彼はナポレオンこそ生きている世界精神であり、ドイツ国民はむしろフランス革命軍の側に立って旧体制と戦わなければならないと主張した。フィヒテは中身のない民族主義を重視したが、ヘーゲルはその侵略のなかでくりひろげられていることの内容に注目したのである。
ナポレオンはクーデターで政権を掌握し皇帝になったが、フランス国民は彼を革命の真正な守護者と崇めてやまず、国民投票をとおして絶対多数がナポレオンの皇帝即位に贊成した。ナポレオンはフランス民衆の期待を裏切らず、征服戦争をつうじて全ヨーロッパにフランス革命を伝播することに一生を捧げた。
征服戦争がなんでもかんでも正当だということはできない。だが、ナポレオンやチンギス・ハーンの征服戦争は、ヘーゲルの表現どおり、生きている世界精神の躍動であり、かれらの征服戦争により、人類の歴史は一次元高い段階へとすすむことができた。したがって、私たちが侵略と征服の歴史を考えるにあたっては、ある民族がべつの民族を侵略し征服することは悪だという一面的な見方を捨て、果たしてその征服の本質はなんであったのかに注目する必要がある。民族という概念は、それが発明されて二〇〇年しかたたない政治的なイデオロギーにすぎず、現代社会では徐々に捨てられつつある旧時代の遺物である。民族ごとに独立するのが当然だという論理も近年流行の、民族国家の自己合理化にすぎず、それが歴史を評価する基準になることはない。
本書〔韓国語版〕の責了まぎわに、シンガポールと日本が自由貿易協定を結んだというニュースが入ってきた。日本の小泉純一郎首相は「拡大東アジア共栄圏」を提唱したというニュースも聞いた。ふたつとも、まさに東アジアに協力と共存の新しい時代が開かれていることを示唆する重要な意味をもつ出来事だと思う。
おなじころ韓国では、世界的なソプラノ歌手の美しい歌声とみごとな映像によるミュージカル『明成皇后〔閔妃〕』のビデオが飛ぶように売れ、極右ショービニズム〔狂信的愛国主義〕の狂風を実感させてくれる。
和夫氏は、日帝時代によく見られた、慶尚道地方の日本人地主だった。地主とはいうものの、和夫の家族は日本政府の朝鮮移住政策にしたがって、乗り気ではなかった朝鮮生活を始めたものだ。公務員だった和夫は、政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。そのころの日本は、一種の軍事独裁体制で、政府の命令に従わなければすぐに売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。
また、和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたが、その数は、一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。しかし、彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした一九四五年八月十五日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害されたのだ。
その日、まさに万歳の声とともに、太極旗が波のように風になびきつつ、朝鮮人の世がやって来た。神は、自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫君に嫉妬したのか?
和夫には、一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは、放課後、家に帰ってきて、両親の身に起こった惨状を見、気が触れてしまった。ヒミコが何日間も慟哭する声に、近隣住民たちは眠れなかったそうだ。その後、孤児になったヒミコは、食べ物を乞おうと、その付近をさまよったが、朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず、知らないふりをした。結局、彼女は九日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。当時、ヒミコは小学校六年生の幼子だった。和夫の財産は、勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り、この事件は村人たちの沈黙の中、しだいに忘れられて行った。
振り返って考えてみれば、日本の敗戦後朝鮮半島では、このような殺害劇がたくさん発生しただろうと思われる。日本の無条件降伏以後、北韓地域にはソ連軍がすばやく進駐し、軍政を敷いたが、南韓に米軍が上陸したのは九月中旬だった。したがって、約一ヶ月程度、南韓地域には無政府状態が続いた期間があった。韓半島には、さまざまな理由で日本人とそれに加担した者たちに恨みを抱く朝鮮人たちが多かったろうし、彼らは日本人を殺し、財産を強奪し、日本女性を強姦しただろうと思われる。
そして、朝鮮人たちが八月十五日、日本の降伏を喜んだいちばん大きな理由は、おそらく、日本の一部として敗戦国の暗澹たる未来をともにするのが嫌だったためではなかろうか。日本統治の最後の期間、特に大東亜戦争が始まった、最後の四年間は、日本人はもちろん、日本の統治を受けていた地域の住民たちも、大きな苦痛に見舞われた時期だ。
問題は、韓国社会において、朝鮮人によってほしいままにされたこのような虐殺と残酷な行為はまったく知られておらず、また調査されたこともなく、われわれが受けた被害だけは、繰り返し強調されているという点だ。そして日帝統治の期間に受けたとされる被害なるものも、事実よりずっと膨らまされているだろうことは、容易に想像がつく。
朝鮮は日本の統治を受け、未開な農業社会から短期間に資本主義工業国へ発展し、高い生活水準を享受してきた。しかし、日本が戦争に負けるやいなや、素知らぬ顔で、まるで自分たちが戦勝国にでもなったかのごとく、日本を呪詛し、彼らの財産を奪い、虐殺した行為は、明らかに人倫に悖る犯罪行為にほかならない。このようにして日本人をすべて追放したあと、南韓国と北韓国の政府は、強奪した日本人の土地と工場を「敵産」と呼び、堂々と山分けした。
もし日本が戦争で勝利したり、少なくとも領土を保全され、休戦にでもなったなら、はたして朝鮮人たちはこのように振る舞えただろうか。おそらく、前よりもっと自発的に日本人であることを主張しつつ、忠誠を尽くしただろう。ところが、戦争に負け、くっついていても別にいいことがないと判断した瞬間、彼らは態度を急変させ、日本に仇として接し始めたのだ。