「吉田茂とその時代」岡崎久彦
最終章 公正な日本近代史を阻むもの
─憲法第九条と東京裁判史観
占領史研究はやっと緒についたばかり
日本の敗戦は、一九四五年八月十五日のポツダム宣言受諾による降伏で終らなかった。
もちろん法的には、その七年後、平和条約が発効するまでは戦争状態は終結していない。ただ、それだけでなく、この七年間の事実上の主権喪失と外国による占領は、日本社会と日本人の精神構造に深甚な影響を及ぼした。
七年というのは恐るべき長い期間である。二〇〇〇年の時点で日本社会の指導層である六十歳代(昭和六〜十五年生れ)の人々は、ことごとくその少年期の人格形成期のなかに、この七年間を体験していることになる。
そのうえに、これがこの章のテーマの一つであるが、米軍による占領の後半期以降、そして占領終了後も長きにわたって冷戦時代の異常な国際環境のもとで、今度は米占領軍でなく、国際共産主義勢力や日本の国内左翼によって、占領初期時代の思想、教育が温存され、増幅されて、国民のあいだに深く浸透していったという二重の構造がある。
そして、この影響が現在日本社会の中堅である五十歳代を中心とする広い世代のなかにとくに著しい、という問題があるのである。
現代の日本の思想、政治、社会のルーツを探ろうとすると、もちろん過去千数百年の歴史と伝統、とくに明治、大正、昭和初期、軍国主義時代にそれぞれのルーツがあるのであるが、その後七年間の占領期が日本の政治、社会、国民の精神構造に及ぼした影響は、口惜しいことであるが、その前の日本のすべての歴史や伝統に勝るとも劣らない強烈なものがあったことを認めざるをえない。
したがって、現代の日本を理解するには占領時代の研究が不可欠であるが、それは日本国内ではやっとその緒についたばかりである。
それはここまでに引用してきた文献が出版された年を見れば分る。ほとんどが平成になってから、それも一九九〇年代半ば以降、つまり敗戦後半世紀たってからである。
故江藤淳氏による浩瀚な上下二巻の『占領史録』の文庫版が出版されたのは平成七年である。同じ年に小堀桂一郎氏が中心となって編纂された全八巻の『東京裁判却下未提出弁護側資料』が公刊された。
小堀氏は、平成四年に『さらば、敗戦国史観。』を出版されて以来、平成八年には『再検証東京裁判』、平成九年には『東京裁判の呪ひ』と相次いで所見を上梓しておられる。
ちなみに、東京裁判で少数意見を述べたオランダのレーリンク判事の『レーリンク判事の東京裁判』が翻訳出版されたのは平成八年であった。
占領期の言論統制の実態を解明した江藤淳氏の『閉された言語空間』が出版されたのは平成元年、占領期の公職追放についての増田弘氏の『公職追放』は平成八年の出版である。
翻訳者が泣きながら翻訳したという、米軍占領についての良心の書、ヘレン・ミアーズの『アメリカの鏡・日本』が再発見されて出版されたのは平成七年である。
五百旗頭真氏は、つとに米国の占領政策を研究され、すでに昭和六十年には、日本占領前の段階における占領政策の形成について、『米国の日本占領政策』を上梓されてサントリー学芸賞を受賞しておられるが、その後占領に入ってからの時期の研究をまとめられた『占領期』(吉野作造賞受賞)の出版は平成九年になってからである。
H・B・ショーンバーガーの『占領一九四五〜一九五二』が翻訳出版されたのは平成六年であり、ジョン・ダワーの "Embracing Defeat" は平成十一年、その邦訳『敗北を抱きしめて』は平成十三年の刊行である。さらに、その内容が占領期から現代につながる坂元一哉氏の『日米同盟の絆』は平成十二年の刊行で、同じ年にサントリー学芸賞を受賞している。
もちろん、いずれもその前の何年、十何年の研鑽と、論文発表の積み重ねの結果生れてきたものであろうが、そうした研究が総合的な形で世に問われるようになったのは、九〇年代半ば以降になってからである。
私がこれまで書いてきた敗戦までの四巻の政治外交史は、日本近代史の総まとめとして、いままで上梓された歴史書のなかから、これこそが真実と思われるものを物事の軽重のバランスを考えつつ、紹介してきたつもりである。しかし、今回の第五巻はおそらく、占領史観熟成の一過程として、歴史論争の一つの出発点となるのではないかと思う。とくに第三章の日本の自由化の淵源、第五章の憲法第九条の背景、第六章の吉田茂論、第八、九章の東京裁判論、第十二章の安保条約の起源などはいままでの諸研究のまとめとはとうていいいえない、筆者の独断というか、書き下ろしであり、これがそのまま無批判で通るとはとうてい考えられない。
護憲ではなく反安保、反自衛隊
占領時代の歴史が半世紀近くも十分に議論されず、日本人の記憶のなかで忘却の淵に沈んでいた理由は一つではないのであろう。
米国の公文書の公表には三十年ほどの期限があるので、研究がその後になるのは当然であろう。しかし、それにしても遅すぎる。公表を待って研究者が飛びつくような雰囲気でなかったことだけは明らかである。占領中の言論統制の実相などは、一介の愛国的文芸評論家である江藤淳氏が手をつけなければ、永久に埋もれていたかもしれない。
占領期が長く顧みられなかったいちばんの原因は、一言でいえば戦後の左翼偏向であり、戦後日本の思想社会の抜本的見直しを拒否しようという精神的構造であったと思う。
アメリカの占領が及ぼした影響を、本来反米である左翼が温存、護持しようとしたというのは不思議な現象のように見える。この一見倒錯した構造こそ、戦後日本の社会、日本思潮の本質なのであるが、それは憲法の例を考えればすぐ分る。
憲法はアメリカがつくった。しかし、アメリカは冷戦が始まってすぐそれを後悔した。しかし、それを守ったのはその後半世紀にわたって一貫して左翼勢力であった。
冷戦のあいだ、共産主義勢力のおもな戦略的目標は、機会があれば日本を取りやすいようにしておくことである。少なくとも弱体化して、共産側が日本の力の圧力を感じなくてすむようにしておくことである。そのための具体的目標はほかにはない。日米同盟と日本自身の防衛力の弱体化である。
いまになって思えば、いわゆる護憲勢力というのは、反安保、反自衛隊勢力であると定義しても、その言動の実態を見れば、そのほうが正確であろう。
憲法について有権解釈ができるのは、憲法の規定のもとで裁判所しかない。かつて下級裁判所が自衛隊違憲の判決を下したことがあった。当時はこの判決を引用して、多くの大学、自治体等が自衛隊との交流を拒否し、小学校では左翼系の教師が自衛隊員の子弟を教室で批判させ、苛めさせたというような陰惨な事件もあったという。
ところがその後、すべての裁判所の判決は自衛権を合憲と認め、自衛隊を容認している。
もし護憲勢力が憲法の規定を尊重し、護ろうとするならば、そうなったならばこんどは皆で自衛隊を守り立てなければならないはずである。しかし、いわゆる護憲勢力は、依然として反安保、反自衛隊であった。その意味で護憲勢力なるものは存在せず、存在したのは、反安保、反自衛隊勢力でしかなかったといって過言でないのであろう。まして現在われわれが享受している自由が、新憲法と関係なく─新憲法の内容など誰も知る由もない時期に、明治憲法下の議会で実現されたものであることを考えると、護憲ということの実質的意味はなくなってしまう。
ところが、占領時代の歴史を精査して、憲法はアメリカの押し付けであったという、たんなる歴史的事実を指摘するだけでも、それは護憲、左翼勢力から見れば、憲法体制を覆そうとする保守、反動の企みということになる。
芦田修正があって、憲法は自衛権を認めているという、当時の占領側も容認している事実を指摘することは、平和憲法を否定しようとする試みということになる。
公職追放という脅迫のもとでは、政治家は言動に注意せざるをえず、占領軍による厳しい言論統制のもとでは、国民は自由な意思を表明できなかったという事実を指摘すれば、憲法について、その提案が日本側の発意でなかったことはともかく、その内容について、国民全部がそれを歓迎し、心から受け入れたという、占領当局およびその後の戦後左翼がつくりあげた公式論を否定することになる。
言論と結社の自由、婦人参政権、農地解放、労働関係法等が、日本側のイニシアティブで新憲法と無関係に、明治憲法のもとで行われたという客観的な歴史的事実を指摘することは、自衛隊が合憲となったのち、いわゆる護憲勢力の最後の拠りどころである、新憲法は国民の自由を保障しているという考え方を突き崩すことになってしまう。
憲法だけでなく、東京裁判についても同じようなことがいえる。
東京裁判史観は、満洲事変以降の日本の歴史のすべてについて、その善悪、是非の判断を束縛するものとなっているので、東京裁判の法的不公正を指摘するという純粋に法技術的問題を論ずるだけでも、戦後の新憲法下の平和主義の根幹を揺がす企図として非難されることとなる。こうした公正な占領史研究を許さない雰囲気はいまでも残っている。
戦後左翼の複雑な心理
このような数々の呪縛が解けて、やっと自由にものがいえるようになったのが、九〇年代半ば以降である。それが冷戦の終りと軌を一にしたのは偶然ではないのであろう。
それは、いわゆる護憲運動の背景に冷戦があり、左翼のプロパガンダがあったことを考えればきわめて当然のことである。しかし、それを実証することはなかなか難しい。
政治現象の裏には、時として、明らかな事実と思われても実証するのが難しい事象もある。
一九五〇年北朝鮮が突如韓国に侵入してきた原因は、その前の境界線における衝突事件、挑発事件などでなく、周到な作戦計画に基づく奇襲であったことは前後の状況から見て疑いないところであるが、その事実を立証することは、ソ連共産党政権の崩壊まで半世紀のあいだは不可能であった。また、一九九〇年イラクはクウェートに侵入し、アラブ全域のPLOはこれを支持した。併合後のクウェートの管理についてPLOに相当の譲許を与える黙約があったことは十分想像できるが、その証拠が歴史の史料として表に出ることは永久にないかもしれない。
いわゆる護憲勢力、具体的には反安保、反自衛隊勢力の裏に共産主義勢力の組織的なプロパガンダがあったという事実も、常識では明々白々であっても、確たる証拠を示すことは困難である。
日教組や、新聞、出版関係の労連が、戦後五十年の歴史のなかで、共産党の強い影響下にあった時期がしばしばあったことは事実である。またげんに、これらの組織が国際共産主義の前線組織と呼ばれていた時期があったことも事実である。そして、国際共産主義のプロパガンダの最高目的が、安保と自衛隊を弱体化させて、いざという場合、共産国によって日本を取りやすくさせておくこと、あるいは共産革命をしやすくさせておくことにあったことは、共産主義陣営側に立ってみれば当然のことである。そして、共産側のプロパガンダの言説と、日本のいわゆる護憲勢力の言動が、しばしば符節を合わせるがごとくであったことも事実である。
ただ、具体的に国際共産主義勢力がどういう形で反安保、反自衛隊を日本の前線組織に指令し、それが実施され、日本のいわゆる護憲勢力がこれと協力したかを示す資料などはもとより秘密工作であり、永久に出てこないであろう。筆者自身、公安調査庁などにも問い合せたが、これといった資料は手に入らなかった。
ただ、日本共産党幹部が東京のソ連代表部に呼び出されて、一般的な活動の指示を受けた例があるとか、あるいは、ごく末端において、日教組など労組の運動方針を決めるに際して、共産党員中心の執行部によって急に会合が設定され、共産党員以外の出席者は急のことで数も少なく、外部との連絡もままならないうちに決定に参加させられた、というような事例があると教えられただけである。
いずれも決定的な証拠とはなりえない。ただ、反安保、反自衛隊の言論が力を失ってきたのは冷戦が終ったことと軌を一にしているという状況証拠があるだけである。「冷戦が終ったのだから、もう同盟などは不要だ」というのは、論理的には一つの命題たりうる(私自身はアングロ・アメリカン世界との同盟はもっと長期的な歴史的地理的必然と考えるが)のであるが、事実はこれと逆に、冷戦終了後、社民党(元社会党)の村山首相は「安保堅持」を表明し、その後日米両国は、「冷戦時代の同盟などはもう時代後れだ」という中国の主張を尻目に、台湾をも適用地域から除外しない防衛ガイドラインを成立させた。
この逆説的な事態を説明するには、少なくとも日本国内では、「冷戦が終って、安保と防衛に対する左翼の反対が弱くなったから」というのが自然な分析であろう。護憲勢力と称する人々はまだいるが、その多くは半世紀にわたって唱えてきたことを変えられないという惰性からであろう。「私が生きているあいだは憲法改正反対」などといって、個人のこだわりと国家百年の計を公私混同する言説も見られる。また、「冷戦が終って、巻き込まれる心配がなくなったから」安保支持に転向したという、同盟とは何を目的とするのかまるで分らない論もある。しかし、いずれにしても、いまでも安保反対をいう人はいても、その背後に国際共産主義勢力の冷酷な戦略的計算と支援が潜んでいるという凄みはもう感じられない。
それならば冷戦の終了で、もうこの問題はおのずから解決するのかというと、戦後日本の屈折した心理構造のなかで、問題はそれほど簡単ではなかった。
じつは思想的に冷戦の勝負がついたのは、ソ連邦の崩壊より十年早いといえる。共産主義がその影響力を失ったのは、じつは一九八〇年代に入るころからであった。
西欧で社会主義の思想が最も強かった英国では、サッチャーが産業の民営化など社会主義に逆行する政策を推進し、東南アジアなどでは経済発展による中産階級の興隆を背景に自由民主主義が時代の主流となり、日本でも中曽根内閣のもとに自由化、国鉄民営化などが進められた。
ところが、そういう流れの変化と時を同じくして起ったのが、教科書問題を発端とする歴史認識問題であり、それがその後二十年間にわたって、占領の影響を温存しようという方向に働くのである。
おそらく、その背景には日本の戦後左翼の複雑な心理があるのであろう。いわゆる七〇年安保は、政治思潮では左翼の敗退、政局では自民党の圧勝に終ったが、その挫折感、怨念が、十年たってこんどは政党ではなくマスコミを中心として、外国の力を借りる形で、新たに噴出したものであろう。
げんにそれは「過去の清算の問題」といわれながら、その実態は戦後五十年間続いてきた未解決の問題ではない。
通常、戦争の記憶というものは戦後一世代を経ると、恩讐を離れて歴史の問題となる。戦後一世代あまりを経た一九八〇年という年をみても、その一年間、日本、外国のあらゆるメディア、論説、公式、非公式の言明のなかに、この間題を取り上げたものを一つでも見出すことは不可能である。それはもう済んだ問題だった。
現在論じられているこの間題はすべて、一九八二年の教科書問題題を発端として、日本人の側から外国に問題を持ち込んで外国の否定的な反応を引き出し、それを日本の国内問題とさせ、さらにそれを改めて国際間題としてエスカレートさせたものである。
その後二十年間にわたって、南京事件、慰安婦問題など、歴史認識と謝罪の問題が荒れ狂う時代となる。全中国に、それまでなかった各種の反日記念碑、博物館が建てられ、日本の中学、高校の教科書にそれまでなかった従軍慰安婦の記述が載るなどという常識では考えられない事態が起るのも、戦後一世代以上が経過したこの時期以降の現象である。
こうして、東京裁判における南京事件の認識など、占領期に源を発する問題を正面から見直そうとする努力を阻害しようという雰囲気が、改めて人為的にすでに二十年間も続いて今日に至ることになるのである。
すべては歴史の大きな流れのなかに
ここまでは、日本の戦後左翼思想がいかに占領期の影響を温存してきたかを見てきた。それは巧みに無意識のうちに国民心理に浸透した。共産主義のプロパガンダが「日本を弱くし、いざというときに取りやすいようにするため」という、その本来の目的を明言するはずはない。戦争の悲惨さを繰り返し訴え、どうしてこんな無謀な戦争をしたのだろうかと問いかけ、それは戦前の日本の歴史と体制のなかに原因があり、とくに軍が諸悪の根源であるといって、反軍、反防衛の思想を植えつけ、それが国民のあいだに広く深く浸透したのである。
それが達成した効果は、百パーセント共産側の望む目的と合致していたが、日本人のなかには、それは他から押し付けられたものでなく、自分の真情であると思っている人が少なくなかった。
このあたりの判断は難しい。一般の日本国民が気づかないうちに左翼のプロパガンダが浸透していたという事実を指摘することは重要であるが、戦後半世紀間の日本の思想の偏向、混迷のすべてを、初期の占領政策とその後の左翼のプロパガンダに帰してよいのかと訊かれると、そう断定することにはまた別の問題があり、躊躇せざるをえない。
それは、戦後になってから、多くの反戦平和主義者と称する人々が、自分たちは本来平和愛好者であるが、戦時中は軍の宣伝にだまされていた、あるいは言論統制で反対を封じられていたと主張している、あの白々しさの裏返しを感じさせるからである。
こういう人々が戦時中軍国少年少女であったのは、むしろ自然な人間性のしからしめるところであろう。オリンピックで日本チームが勝って嬉しくない日本人はいない。どんな国の国民でも、自分の国の軍隊がどんどん勝って嬉しくないはずはない。それこそ国家、民族というものに根源的な素朴な感情であろう。支那事変初期の、それまでの反日、侮日運動への鬱憤を晴らす快進撃、大東亜戦争緒戦の勝利には、日本国民全員が陶酔した時期があったのである。
昭和史の節目節目において、日本の帝国主義的拡張に酔い、対外硬を主張する国民世論とそれを代表するマスコミが、軍よりも先を走っていた例は少なくない。それを、政府と軍の宣伝に踊らされていたからだというのは卑怯な史観である。
同様に、戦後日本の左翼思想は冷戦時代のプロパガンダの産物だけで日本人の自発的意志が入っていなかったとはいいきれないものがある。
その前からの歴史もある。戦後の左翼偏向史観は、近世といえば百姓一揆、近代では左翼運動弾圧の歴史を過大に取り扱い、かえって歴史の実体を見失わせているが、しかし限られた程度ではあったが、一八四八年の共産党宣言、一九一七年のロシア革命以来の社会主義の世界的潮流の一部は日本にもあった。
とくに、敗戦によってそれまでの価値観がすべて崩れ去ったのちの空白状況にマルクス思想が入ってきたのは自然の勢いであった。民主主義思想ももちろん入ったが、民主主義には元来安定した中産階級の存在が必要であり、国民の大多数が空爆で家財を失い、飢餓に曝されている状況では、滔々たるマルキシズムの勢いには抗しうべくもなかった。
こうしてマスコミの論調、大学の講義はマルクス主義一色となり、それが日教組を通じて、小、中、高校教育に及び、その強い影響を受けた世代が戦後長きにわたって日本社会の中核となった。
こう考えると、いまさら戦後日本の左翼偏向の源を、ケーディスなど社会主義かぶれの軽薄なニューディーラーたちの政策や、中国、ソ連のプロパガンダに求めることは、それが真実の一部であっても、歴史の流れの大勢とはいえないのかもしれない。
おそらくすべては、歴史の大きな流れの一部として捉えるのが正しいのであろう。
初期資本主義における無産階級の悲惨さは、ヨーロッパも日本も共通現象であった。そこに共産主義思想が生れ、その目標のために手段を選ばない残忍性に対する恐怖のもとにファシズムが生れた。そして、戦争によるファシズムの敗退と、戦後の窮乏のなかで民心が左傾化したのは、西は西欧、アルジェリアからインド、中国を通って日本まで、アメリカ以外の世界の共通現象だった。それが経済復興、生活水準の向上により、社会主義離れ、自由民主主義の定着となり、ソ連共産主義体制の崩壊によって決定的となった、という過程を日本も辿ったということなのであろう。百年後の史家は、おそらくそういう大局的な見方をするのであろうと思う。
唯一、世界歴史の流れと関係がなく、またその発端の経緯からいってきわめて人為的なのは、最近二十年間の歴史認識、いわゆる自虐史観の問題ということになる。しかし、それは占領の直接の影響でなく、戦後の日本社会の特殊環境のなかで屈折に屈折を重ねて生れてきた問題である。
ちなみに、占領の後遺症のように見えるアメリカ崇拝もむしろ歴史の流れの一部であろう。
敗戦後の窮乏のなかで、誰もがアメリカ的生活の豊かさに憧れた。それは日本だけでなく、ヨーロッパでもアジアでも、世界中の人々の目標は、家庭に電気冷蔵庫と自家用車をもつアメリカ的生活に到達することであった。そしてそれが達成されたころから、東南アジアや中南米でも、デモクラシーの達成が諸民族の共通の目標となってきている。
このように、敗戦後の日本の左傾化、アメリカ的消費生活への憧れや追求などは世界的な傾向であり、占領時代の強制がなくてもいずれはそうなったものといえる。それはまた、戦後の言論と結社の自由、婦人参政権、農地解放などが、アメリカの占領がなくても、明治憲法のもとでも、平和の回復の当然の結果として自ずから生じたものであった、ということと表裏をなしている。畢竟は世界史の大きな流れのなかで捉えられるべきものなのであろう。
ダワーのいう「占領の改革は民衆の望んだもの」という歴史解釈もその意味では正しい。もっともダワーの解釈では、人民と支配層を区別して、保守的な支配階級の抵抗を占領軍の力で排除したという、社会主義思想の尻尾のようなものが残っているが、本書のなかに書いた東久邇宮や幣原喜重郎の政策意図を見れば、それは誤りであり、占領の改革は歴史の流れの必然として日本人がもともと望んだものであり、占領がなくても平和さえ回復されれば日本人の手で達成されたもの、と解するほうが正しいのであろう。
憲法第九条と東京裁判史観
それでは、何がほんとうの占領の後遺症なのであろうか。言葉を換えれば、あの七年間という異常に長い占領さえなければ、いまの日本はこんなことになっていない、といえるようなこととは何であったのだろうか。
それは結局、憲法第九条と東京裁判史観の二つに絞られてくる。
そのほかの種々の左翼偏向は、すでに述べたように、軍国主義時代の偏向と同じように多分に日本人自身の責任である面は避けがたく、日本人が歴史の流れによって自ら克服すべきものである。
しかし、憲法第九条と東京裁判の判決には日本国民の責任はない。国民の知らないところで決められたものである。前者においては幣原ただ一人だけしか知らないことであり、後者は、日本人の意思をまったく無視して戦勝国の判事だけで決めたものである。
その二つとも、その後日本国内の左翼の一貫した支持はあった。しかし、それは既成事実があったうえでの支持であり、占領さえなければ、戦後どの時点をとってみても、国民の自発的意思を問えば、そんなものがあらたに国民の選択となることは不可能なものであった。戦後半世紀を経て、この二つの問題の解決が、国民的課題として残っている理由はここにあろう。
憲法第九条は、いまからその経緯を考えれば、天皇制護持の代償以外の何ものでもない。
憲法制定の問題について、占領が終り独立を回復するまで憲法を制定しなかったドイツと、日本の違いがしばしば対比される。
しかし、当時の日本としては、天皇制を護持するという前提のもとでは他に選択の余地がなかった。米国内でも極東委員会でも天皇の責任を問う声が強く、絶対平和主義を表明すると同時に天皇の地位を確認する憲法を採択しないかぎり、天皇を護れなくなる恐れがあるというマッカーサーの意見は多分に事実の裏付けがあった。
そうしなくても天皇制を護れたかどうかは歴史の仮定の問題であり、答えの出しようもない。
しかし、少しでも天皇を護れなくなる可能性がある場合、その可能性をあえて冒すことは、東洋何千年の忠孝の倫理、そして明治以来の忠君愛国の教育を受けた世代の日本人としてはとうていできないことであった。また裁判の結果いかんとは関係なく、天皇に東京裁判出廷の辱めを受けさせることも、とうてい臣子として耐えられることではなかった。
当時としてはありえない仮定であるが、もし仮に、天皇制は事態のなりゆきに任せて、国家主権を守る立場から、GHQの手交した憲法案を拒否したらどうなっていたであろうか。
日本側にはすでに閣議で了承された憲法案があった。公式に拒否すれば占領軍といえども米国案を押し付けるわけにはいかない。のちにくる極東委員会の指示も、日本側の意見の尊重を指令している。
これでマッカーサーの占領政策は大蹉跌を来すことになる。ここから先はもう分らない。冷戦が始まったと一般に認識されるまでいまだ一、二年はあり、ソ連などの発言力がまだ強い時期である。天皇制など日本が最低限それを守ろうとした国家体制、政治体制にどういう手を加えようとしたか分らない。また夏の米穀の端境期を控えて、占領軍に対して食糧放出を懇願しなければいけない時期である。日本にそうとうな苦難が訪れたことは予想しなければならない状況だった。
その是非は、いまとなってはなんとも分らない。ただいえることは、日本は、自主憲法を制定することを犠牲にしてまで天皇制を護持したということである。
天皇制護持がよかったかどうかを論じることこそ、戦後五十年を経ただけではとうていできることではない。千年単位の国家、民族のアイデンティティの問題である。
歴史上、天皇の出番はそう多くあるものではない。一九四五年に天皇制がなかったならば、日本はナチス・ドイツのように全土が焦土となるまで戦いつづけたかもしれない。明治維新のときに天皇制がなければ、徳川と薩長とのあいだの関ケ原の報復戦となり、英仏露などの帝国主義国家の好餌となっていたかもしれない。
既存の制度─維新のときの幕藩体制、戦時中の軍の専権体制など─のもとでは事態を収拾する方法がまったくなくなったときに、国家民族の分裂を避ける方法として、国民統合の象徴である天皇制がその存在価値を示したのである。
天皇を神聖と呼ぼうが象徴と呼ぼうが、それはその時々の憲法がつけた呼び名であって、天皇制そのものは、現行憲法どころか明治憲法以前から日本がもっている固有の制度である。
独自の憲法をとるか、天皇制をとるかの選択に際して、当時の日本人が迷わずとったのが天皇制である。つまり憲法より大事と思って護持した天皇制である。
それは当然であろう。憲法は失ってもいくらでもつくれるが、天皇制という民族の財産は一度失ったならばもう一度つくることは不可能であろう。
今後も天皇制は、百年に一度あるかどうか分らない国家と民族の危機に備えて、他の国が持っていない日本民族固有の財産として大切に保存すべきものである。
そして憲法第九条は、占領下の状況でその代償として目をつぶったものであり、幣原一人を除いて日本国民は誰も関知しない条項である。本来は占領が終った時点で廃棄すべきものであり、げんに自由民主党は党是としてその改廃を主張しているが、冷戦下の特殊な政治的状況でそれが後れていただけである。戦後半世紀を経て、二十一世紀を迎えた現在、当然に改廃されるべきものである。
歴史は善悪で裁けるものではない
東京裁判の判決こそ、日本国民の誰一人としてまったく関知しないことである。
それは日本国民をまったく除外して行われたものであったうえに、日本のためのひとかけらの善意も好意もなかった。日本に内心好意をもつパル判事の意見も、また必ずしも日本に好意を寄せなくても法的なスジを通そうとする少数のヨーロッパ系の他の判事の意見も、いずれも最終判決には反映されていない。
憲法の場合、天皇制を維持することが日本占領を成功させるカギであるというマッカーサーの判断は、それがマッカーサーの功名心あるいは政治的必要のゆえであったとしても、当時の日本国民の希求するものと一致していた。そして、マッカーサーはそれ以上に、個人的に天皇を敬愛し、吉田茂を愛し、日本国民に好意をもっていて、日本国民を飢えから救う意思もあった。
しかし東京裁判においては、日本側はおろか中立国も交えない、戦勝国だけの裁判官たちが、日本国民が家も食糧もない悲惨な状況のドン底にあった時期に、占領軍の絶対権力を背景に、敗戦国日本に屈辱を与える快感に酔い、戦時中のプロパガンダそのままの浅薄な歴史観によって敗戦国の歴史と伝統を凌辱し破壊する快を貪った一方的裁判であったと描写しても、あながち不正確ではないであろう。
裁判における法理と手続きの杜撰さ、粗雑さも、第八、九章に書いたように目を覆わしめるものがある。
そもそも平時の裁判ならば、一人の殺人犯を裁判するのに二年はかかり、まして死刑にまで到達するにはその何倍も時間がかかるものを、二十八名の被告の十五年間の行為を二年半で裁いて、そのうち七人を死刑にすることが疵疵のない裁判でできるはずもない。
それができる唯一の方法は、まず検察側がシナリオを書いて、それに口裏を合わせる証言だけを集め、弁護側の証言、証拠を却下して、当初のシナリオに沿った判決を下すほかはない。細かい点は別として、これが現実に行われた東京裁判であるといって、裁判の大筋については間違いないであろう。
こういう乱暴な裁判をすれば逆効果もある。「南京事件は存在しなかった」というのは奇矯な論のようであるが、日本では相当数の知識人から支持された。そしてそれは東京裁判の次元でいえばあながち不正確な議論でもなかった。
虐殺の現場など自分の目で見ている人はほとんどありえない。証拠はほとんどが伝聞であり、証人は、パル判事も指摘しているように、あやしげな証人ばかりであり、もし東京裁判が少なくとも手続きとして公正に行われ、現在アメリカで活躍しているような有能な弁護士がいたならば、南京事件はすべて証拠不十分としてその存在を否定することは十分可能であったからである。そして、裁判という次元においてはそれが正しい裁判であろう。
しかし、歴史と裁判とは違う。時の外務省石射東亜局長が「鳴呼これが皇軍か!」と歎き、現地の松井石根司令官が「お前たちは何ということをしてくれたのか!」といったのは、裁判の場では「伝聞」として扱われるのが正しいかもしれないが、歴史的証言である。
東京裁判の判決は歴史を論ずるに際して無視すればよく、一顧だにする価値がないということが、日本の政治、言論、一般国民の常識として定着するまでは、この種の不毛な法技術的論争が歴史判断のなかに持ち込まれることとなろう。
そもそも歴史というものは裁判で裁けるはずがないものであるのに、それを裁いたためにあらゆる弊害が生じる。その一つは歴史をすべて善悪で見ようとする態度である。
最近は左翼偏向を克服しようとする歴史の見直しが数多く行われている。しかしそれでもそのテーマは十年一日のごとく、誰があの無謀な戦争を始めたのだろう、誰が悪かったのか、何が悪かったのかということを論じている。そして戦争を進めた人はすべて悪、反対した人はすべて善、というテーマの繰り返しである。
歴史というものは、人間のすべての営みを包摂した流れであり、そのなかで戦争も平和も生じる。善悪などで裁けるものではない。戦前の史論で、関ケ原や川中島の合戦についてそのいずれの側が善であり悪であるか、また誰が好戦的で、誰が平和的であったかを論じたであろうか。
また、どうして日本がああいう失敗を犯したのだろうかという問題意識から発して、戦前の日本の組織の欠点、政策決定過程の欠陥、あるいは遡って教育の問題点を論じる試みもなされている。それ自体は悪いことではない。あれだけの失敗はそうしばしば起きるものでもないし、また起すべきものでもないのだから、その貴重な経験を反省の糧とすることは正しいことであり、今後もそれを真剣に行えば、日本は他の民族よりもう一回り成長するチャンスを掴めるかもしれないのであるから、この努力は続けるべきものと思う。
ただ、何が「失敗」だったかということ自体、簡単な問題ではない。日本の近代史を振り返ってみて、取り返しのつかない決定的な失敗というのは何だろうかと考えると、結局は日英同盟の廃棄と真珠湾奇襲の二つだけだったといえる。その他のことは、すべて挽回する方策を考えることが可能だった。戦後史観では日本を破滅に追いやった発端のようにいわれている対支二十一ヵ条要求などは、大隈重信の無定見に帰することは可能であるが、それはその後、何回でも挽回のチャンスはあった。
しかし、日英同盟の廃棄は取り返しがつかなかった。日英同盟が続いていれば、親英的な昭和天皇と重臣たちの影響力のもとに、同盟国の意向尊重ということで陸軍の力を十分抑ええたであろうし、たとえ満洲事変が起っても、英国苦心の好意的提案であるリットン報告書の線で収まったであろう。その後の三国同盟などではできうべくもなかった。
真珠湾攻撃は、その後の政戦略を全部不可能にしてしまった。アメリカに勝つ唯一の方法は、米国政府を国内世論と戦争相手との二正面作戦に追い込むことであるのに、その可能性をゼロにしてしまった。
しかもこの二つのケースとも幣原喜重郎と山本五十六という、戦前の日本が生んだもっとも傑出した人物が個人的能力を発揮した結果である。この二人の意思と能力、判断力がなかったならば、実施されていないケースである。せめて、それが憎むべきとまでいわないが、凡庸な大勢順応型の人物の失敗であってほしかったと思うが、現実はそうではない。この二人を育てた戦前のシステムが悪かったのだろうか。そう思うと、歴史の判断の難しさをあらためて感じさせられる。
後遺症の払拭にはまだ五十年はかかる
東京裁判の最悪の後遺症は、やはり偏向史観を遺したことであろう。
もちろん日本の近代史における偏向史観は、東京裁判史観だけではない。
まず薩長史観という偏向があった。旧幕時代の停滞と因習を一挙に打ち破って近代化させたのは明治維新だという史観であり、それは明治日本の興隆によって実証された分だけ説得力があったが、それ以前千年間の日本の歴史の継続性、とくに徳川二百五十年の平和における民度の向上と充実を軽視する弊害もあった。
明治が終って昭和初期まで、広い意味における大正デモクラシーの時代には、右から左まですべての史観が自由聞達に論じられる時期が訪れたが、その二十年ほどの期間が過ぎると、十数年間の皇国史観、軍国主義史観の時代となる。それが敗戦で終り、もう一度自由な史観に戻るべきであったチャンスに占領があり、東京裁判史観が追放と言論統制によって強制され、戦後の思想の空自時代に国民のあいだに定着し、それがその後の冷戦期における左翼のプロパガンダによって維持、補強され、さらにそれが一九八二年の教科書問題以降のいわゆる自虐史観となり、半世紀以上の偏向が続いてきた。
こうした各種偏向史観のなかで、戦後の偏向史観が日本人に影響を与えた期間が、他と較べて圧倒的に長く、かつ深いことは、この年数の比較から見ても明らかであり、それが問題なのである。
半世紀のあいだに日本国民のなかに深く浸透した思想─これはその発端は何であっても、現在は一つの国民感情となっているものであり、それは今後の国民感情の流れのなかで日本人自身が克服していかねばならないことである。
ただ、国民感情の自由な流れを阻害する人工的な障害を取り除くことはできる。それは憲法第九条と東京裁判の判決である。
憲法第九条はこれを改正するしかるべき手続きがあるから、それに従えばよい。また憲法自体よりも、その後の国会答弁などで、その解釈が複雑混迷を極めているので、その解釈を正すほうが手っ取り早い。それは、国益、国家戦略を忘れて、三百代言的な国会対策で、国策をねじ曲げてしまった戦後日本の知的頽廃を正す意味でも必要である。
憲法と同時に教育基本法を改正すべしとの論もある。たしかに教育基本法は、その前文を読んでも憲法と一体をなしている。そして抽象的普遍的な価値観を述べているだけで、日本の文化、伝統に対する顧慮は全くない。占領中でなければ、とうていこのような内容空疎なものは作り得べくもなかったであろう。民族の伝統的な教育の中には、当然保存されてしかるべきものがあったはずであり、またそれを失った結果生まれた世代の人心の頽廃を考えると、新しい教育基本法の制定は必要であろう。
そして東京裁判史観はそれがもはや日本を拘束するものでないことを、何らかの機会にはっきりさせておく必要はあろう。
サンフランシスコ平和条約で裁判を受諾したのだから、その背景となった歴史的解釈も受け入れたという論は法律論的に一顧だに値しない。
日本は平和条約を守って、占領終了後も受刑者の刑期満了まで判決を執行したし、早期釈放にあたっても、戦勝国とのあいだに条約上の義務に基づく手続きを尽している。明らかに誤審である判決の犠牲者についても損害賠償請求をしていない。それが裁判受諾の意味である。それで日本の義務は終ったのであり、平和条約はそれ以上に日本を拘束するものではない。
しかし、そんな細かい法律論は無用であろう。条約や法律が特定国の歴史観を未来永劫縛るというようなことは常識で考えてもありえようがないということさえ分ればよいのである。ソクラテスは、たしかに法技術的には遵守義務のある判決を受講して死んだ。しかし、歴史家は誰一人として、その判決が正当なものだといわねばならない義務を負っていない。ソクラテスはいまでも人類の尊崇の対象である。
具体的には、今後、総理、天皇の靖国神社参拝問題に関連して、いわゆるA級戦犯合祀問題に決着をつける形で、東京裁判の判決がもはや日本を拘束していないことを明らかにすることができよう。
戦争の後遺症から脱するということ、これは現在の日本に限った問題ではないようである。
私はかつて『悔恨の世紀から希望の世紀へ』(PHP研究所刊、一九九四年)のなかで指摘したことがあるが、戦乱の時代から文化の絶頂期まではどうしても百年かかるもののようである。
垓下の一戦から武帝の前漢の絶頂期まで、唐の建国から玄宗の開元の治まで、関ケ原から元禄まで、ワーテルローから第一次世界大戦直前のヨーロッパの爛熟期まで、みなほぼ百年である。宋、明、清の各帝国の場合も同じであり、フローレンスの文化の最盛期までも百年かかっている。
どうして百年もかかるのかと思ったが、戦後五十年経ったいま考えてみると、戦後五十年ではまだ戦争の後遺症が残っているようである。いまの日本人すべては、自分か自分の親が、戦争の惨害か戦後の窮乏を経験している。戦争の後遺症である戦後教育の影響を考えると、日本の場合は、それは五十年以上続くのであろう。関ケ原の戦いの半世紀後といえば、まだ由比正雪の時代である。それに関与した人物は関ケ原の戦後生まれの人々であるが、まだ戦乱の影を濃くひきずっている。どうも五十年ではまだ戦争の尻尾が残っているようである。現に、いまの日本のマスコミ、国会で議論されている靖国、教科書、憲法などはまさに戦争の後遺症の問題である。元禄の文化の興隆をになった西鶴、近松、芭蕉、関孝和など、戦争の影響がかけらもない世代は、関ケ原後、四、五十年経ってから生れた人々である。時代も条件も違うが、同じ時間の物差しをあてはめれば、紀元二〇〇〇年の時点で十代の少年以降の世代となる。
この戦争と戦後の記憶が全くない新しい世代こそ、コンプレックスも何もない、真っ白なキャンパスに新しい鮮烈な線が引けるのだろうと思う。
二十一世紀の日本の将来のためにも、われわれの世代が生きているうちに戦争の後遺症をことごとく払拭して、次の世代のために、新しい真っさらなキャンパスを提供したいと思う。それが本書を書いた筆者の願いである。